刹那「曇る心と雨の空」

 雨雲に覆われた暗い空。目の前には荒波。足元の数センチ向こうには切り立った崖。少し目線を下げると、ほとんど垂直と言ってもいいほどの断崖絶壁だとわかります。
 世間では自殺の名所と言われているこの場所は、その呼称に相応しく、どこか死に逝くのを誘うような雰囲気が漂っています。
どうしてそんな場所にいるのかというと、ここが死んだ場所だからです。死んだ時と違うのは、せいぜい小雨が降っていることぐらいでしょうか。
 どんよりとした重たそうな暗い空を見上げます。雨を視覚的に認識してもさほど冷たさは感じませんが、匂いが少し鼻につきました。毎年この時期になると雨が降るような気がしますが、気象学的にはどうなのでしょう。
 どうでもいいことを考えている内に、人が来ました。赤いマフラーを巻いた女性が、独りごちながら歩いていきます。こちらからは見えないだけで携帯で電話しているのかもしれませんが。
 よくバラ色の人生だとか灰色の生活だとか言いますが、わたしの短かった生涯はある時まで無色で一貫されていました。通り過ぎていくあの女性の後姿を見ていると、そんな生涯の最後を良い色にも悪い色にも彩色してくれた彼女への感情が、ふつふつと湧き上がってきます。
 ふと思い立って、わたしは足元に置いた紙を読み始めました。



「昨夜未明、……区の高校生が飛び降り自殺しました……」
 またか。天気予報を見ようと思って点けたテレビのニュースでは、いつものように鬱陶しい情報を垂れ流していた。
「せっかく今朝は気分が良かったのに」
 思わずそう呟くと、キッチンから母親が顔を出してきた。
「由紀、何か言った?」
「何でもない、独り言」
 だと思う。自覚するのに時間がかかったのだが、私には独り言を言ってしまうきらいがあるらしい。指摘される度に直そうとは思うのだけど、意識すればするほどそれは難しく感じられ、半ば諦めかけている。いやいや、まだ大丈夫だ。成せば成る。
「……区役所近くの岩場で発見されたようです」
 垂れ流されるニュースを説教宜しく聞き流していたら、やっと天気予報の時間になった。
「今日の天気は、昨日までに引き続き、一日中雨が降るでしょう」
 さっきのニュースの時よりも深い溜息をついて、テレビの電源を落とした。
 今日も雨か。本当に憂鬱。
 時計を見ると、八時になっていた。やれやれ、と重い腰を上げて通学鞄に手を伸ばす。
「寒いんだから、暖かくして行きなさいよ」
 はーい、と生返事をして、お気に入りの赤いマフラーを巻く。
「いってきます」
 玄関のドアを開けると、小雨が降っていた。



 今思えば全ての始まりは、いじめられたことだったような気もします。
 いじめが起こる原因などケースバイケースですので一概には言えませんが、わたしの場合、余りにも身勝手な行動が過ぎたことが原因だったように思います。
 授業でペアを作っても、無視して一人で作業を進める。泣いている仲良くもないクラスメートに声をかけなければならないという暗黙の了解なんて無視。数え上げたらきりがありませんので省略しますが、わたしは常にマイペースに行動し、尽くクラスの和を乱してきました。周囲と足並みを合わせない。どこかで周囲を見下している。この辺りがフラストレーションを高める要因だったのでしょう。
それらがいかに傲慢であったか。それは自覚していました。ですが、改めようとは思いませんでした。それで誰も近寄ってこなければいい、そう思っていましたから。そんな自分勝手な理由で、人を不快にさせていたと言うのか? その通りです。返す言葉もありません。何様だと思われるでしょうが、好きになることもできない人たちに近寄ってきて欲しくありませんでした。
 仲間外れにされる。やがてそんないじめが始まりました。願ったり叶ったりです。感謝の一つもしたいぐらいでした。ですが暫くした後、余計なオプションが付いてきました。そう、物理的ないじめです。
 誰も関わって来なくなったと思ったら、物が無くなったり、さらし者にするためにわざわざ話しかけてきたり、積極的に関わってくるではありませんか。内心舌打ちしたい気分でした。程度の低い嫌がらせに対してではありません。わたしに接触してくることに対してです。それが鬱陶しくて仕方ありませんでした。
 そんな時、転機が訪れました。わたしをかばおうとする物好きな方が現れたのです。その方はわたしの考えをいとも簡単に変えました。
 わたしは平穏な心を手に入れたのです。
 彼女の平穏な生活と引き換えに。



 教室に入ると、歓声が上がっていた。
「おはよー、由紀。随分ギリギリだね」
 騒ぎの中心にいた女子が、教室のドアを開けた私に気付いて声をかけてくる。彼女の方を見ると、いつもの光景が目に入ってきた。自分の席に素知らぬ顔で座っている神崎さん。その周りできゃはは、と下品な笑い声を上げているその他大勢のクラスメート。いつもと変わらない、あまりにワンパターンすぎて下らないほどの、いじめという日常。
 でも、今日の私はどこかしらのネジが飛んでいたらしい。
「いい加減にしたら?」
 そう言うと、それまでの歓声が嘘のように教室中が静まり返った。満面の笑顔で話しかけてきたクラスメートが、若干表情を硬くして詰め寄ってくる。
「あんた、あいつの味方するつもり?」
 あまりにも下衆い笑みを浮かべたので、心の底から軽蔑した。周囲に視線を走らせる。皆一様に好奇とからかいの混じった汚れた目でこちらを見ていた。知らん顔しているくせにどこかで見世物と化したそれを楽しんでいる。静かになった教室の中に、彼女らの忍び笑いが響く。
 そんな集団の真ん中に鎮座している神崎さんの表情を盗み見る。周囲に何の興味もないのか、「お前が勝手にやったことだ」と言わんばかりに我関せずな態度で、完全に無視して本を読み始めている。どんな時でも自分を貫ける神崎さんらしい行動だと思う。それが皆に疎ましがられる原因だけど。
 誰もがそうやって好きに生きたいのだけれど、生きられない。だから、それができる人間に無意識の内に嫉妬する。存在に気付いてすらいないそれが膨らんでいくと、解消しようして極端な行動に走る。それがいじめのメカニズムの一つだ。
 自分の行動の理由さえ理解していない人たちに与して、したくもないことをするのは疲れる。飛んでいたと思っていたネジは、摩耗して転がり落ちていただけだった。もう、つけ直すことはできない。
「馬鹿じゃないの? 何をするのもあんたらの勝手だけどさ、人を巻き込まないでくれるかな」
 嫌悪感を隠そうともせずに吐き捨てると、よくもまあそんな気持ち悪い顔ができるな、と感心するほどのいやらしい顔で彼女は頷いた。そのくせ、眼はきらきらと輝いている。まるで、新しいおもちゃを見つけた子供のような無邪気さを湛えた目。そのアンバランスさが気持ち悪くて吐き気がした。
「いいの? そんなこと言っちゃって」
 なおもへらへらと軽薄な笑みを浮かべて話しかけてくる。しつこい。
「何か不都合でもあるの?」
 あえてとぼけると、ゆっくりと近づいてきて、耳打ちをしてきた。
「あんたも、あいつみたいな扱いになるよ?」



 その後程なくして、彼女もいじめられ始めました。これで責められようものなら、勝手なことをした挙句逆ギレですか、とほとほと呆れる所でしたが、彼女は何も言ってきませんでした。わたしはそんな彼女に好感を覚えました。その行動原理に、自分と似て非なるものがあるように感じたからでしょうか。
 だから彼女を、ほんの少しの期待と、並々ならぬ好奇心を持って呼び出したのです。
 今となっては、それが間違いだったのだと思います。どうして彼女はあの日の呼び出しに応じてくれたのでしょうか。わたしならば、「こんな遅い時間に往来のほとんど無いような縁起の悪い場所に呼び出すなんて、何様だ」とでも考えて、すっぽかすところでしたのに。
 あの日、彼女が来さえしなければ、わたしは死ぬことはなかったのですから。



「今日は不躾な願いにもかかわらず、わざわざ来てくださってありがとうございます」
 まず初めに、神崎さんはそう言って丁寧に一礼した。
 他人と関わることをよしとしない神崎さんが、私に聞きたいことがあると言う。あれこれ考えてはみたものの、欠片も想像がつかない。内容が気になりすぎて、時間とか寒さとか色々言いたい事はあったけれども、何も言わずに承諾してしまった。
「ああうん、別にいいよ。聞きたいことって、何かな?」
 そう言うと、神崎さんは私の目を見つめた。
 吸い込まれそうな黒い瞳。何の感情も籠っていない空々しい言葉とは違って、何か一つ、てこでも動かないような力強い意志が見え隠れしている。
「春日野さん。あなたは、どうして――」
 動き出した神崎さんの薄い唇を注視する。
「わたしを庇うような真似をしてくれたのですか?」
 迷惑だ、というニュアンスで神崎さんは言った。意外と普通だったというか、これだけ聞くためにわざわざ呼び出したのかと思うと少し拍子抜けしたが、素直に答える。
「何で、って。イラついたから」
「馬鹿ですか?」
 間をおかずに飛び出た、率直すぎる感想。思わず苦笑する。
「うん、あの日は確かに馬鹿だったね」
 あっさりと認めると、神崎さんの瞳が僅かに揺れた気がした。もしかしたら神崎さんなりに負い目を感じていたのかもしれない。だったら、そんな必要はないと伝えておかなければ。
「その結果いじめられることになった訳だけど、別にいいかな、と思ってる」
「何故です? 今まで仲良くしていた人たちではないですか」
「そうだね。でも、今は仲良くない。それどころか、いじめに加担してる」
 神崎さんは言葉に詰まった。構わず私は続ける。
「上辺だけの関係だったんだと思ったら、誰かに好きになって欲しいなんて微塵も思わなくなったの。そしたら気にならなくなった。結果オーライってやつ?」
 私もどうしたって好きになれなくなったしね、と口の中で言って、海の方を向く。月の光は雨雲に遮られていて、黒々とした海には光というものが一切感じられない。しかし海面だけは強風によって大きく波立っている。まるで神崎さんの瞳みたいだと思った。
「まあ傲慢な話だよね。自分でない他人に、『いつまでも私を好きでいろ、それが当たり前だ』なんて言えるはずがないじゃない。そんなの何も失ったことのない幸せな人しか考えない」
 そこで一息ついて、再び神崎さんの目を見つめた。
「そうだよね、神崎さん」
 神崎さんの目が見開かれた。何故自分に同意を求めるのか。何もかもが不可解で、思考が感情に追い付かなくて、頭の中がごちゃごちゃになっているのだろう。そのような感情の機微を、たいして話したことのない私でも容易く読み取れるぐらい、神崎さんの目ははっきりと宿す。
「いつも思ってた。何でそこまで他人を拒絶できるのかな、って。寂しくないのかな、って」
 芝居がかった口調でゆっくりと、反応を窺いながら喋る。神崎さんは混乱しつつも、何を言いたいのか、と若干構えながら押し黙って聞いている。
「何かを失って傷つくのが、嫌なんだよね」
 抑えめな声で、静かに言った。
「だからどこまでも自分本位で、一番簡単な方法を使って、自分の心を守ってる」
 違う? なおもまっすぐに神崎さんの瞳を見据えて、そう目で訴えてみる。核心を突いたのだろうか、目に見えて神崎さんは狼狽し始めた。信じたくない。瞳がそう言っている。
「何でそんなことを確認するのですか」
 耐え切れなくなったのか、神崎さんは目をそらして否定も肯定もせずに強引に話を変えてきた。
「ただの気紛れ、って言ったら信じてくれる?」
 にっこりと、自分でも胡散臭いだろうな、と客観的に思える笑顔で言った。神崎さんは少し眉間を寄せて、やや間をおいて答える。
「わたしは、誰も信じません。あなたが指摘した通り」
「そっか」
 苦笑、と言うよりは嘲笑に近い笑みを浮かべて、言う。
「疑い深いね、やっぱり」
「傷つくのは嫌ですからね」
 嫌みたっぷり、という口調と笑顔。そんなに気にするほどのことなのか。私もこのままいくと、こんな風になってしまうのかもしれない。
 それだけは、嫌だ。
「うん。分かるよ」
 気持ちだけは痛いほどね。
 だけど。
「私は、そんな生き方しない」
 これで話は終わり。そんなニュアンスを込めて、言い放った。



 はっとして顔を上げると、雨に加えて強い風が吹いています。寒いことこの上ありません。
 手元の紙に再び目を落とします。できるだけ濡れないように、と気を配ったつもりでしたが、所々文字が滲んでしまいました。
 しかし、こうして読み返してみると、飛ばし飛ばし読んでいるのにもかかわらず長いですね。遺しておくつもりでしたが、わざわざ遺しておくほどのものでもないと思い直しました。よくよく考えれば、遺した所で誰かに読んでもらいたいという訳でもなく、わたしの考えを理解されたいとも思いません。よりセンセーショナルな話題を欲するマスコミに利用されるのも癪に障りますし。
 最後まで読むのもかったるいですし、もう捨ててしまいましょう。
 そう思って、手にしている紙を破き始めました。本来ならばシュレッダーにでもかけたい所ではありますが、仕方ありません。可能な限り細かくちぎり、捨てていきます。雨を吸って重くなったその欠片が、次々と強い風に流されていく。まるでわたしの心が流されていく様で、なんだか清々しい気分になりました。
 最後の欠片を風に乗せます。思ったより風の影響を受けず、静かに真下の海へと落ちていきました。
 それは、かつての彼女――春日野さんの姿を想起させました。



 神崎さんの反応も確かめず、再び体ごと海の方を向いた。冷たい潮風を肌で感じながら、はためくマフラーを押さえる。
 空を仰げば、今にも雨の降りそうな暗い空。目線を落とせば切り立った垂直の断崖があって、数十メートルも辿れば黒々とした海。風が強いからか、今日は随分と波が荒い。どこぞのサスペンス劇場の謎解きの場面――いや、人が死ぬ場面に似ている。
 ぼんやりとそんなことを考えていたら、背中に何かが当たった。
 一瞬服越しに伝わった、温かな体温。当たったものが人間の手であると気付いた時、体のバランスが崩れ、足が地面を離れた。周りの景色がスローモーションで変わっていく。最初は曇り空。次いで海、断崖。水を打ったように静まり返った世界に、何の感情も籠っていない声が響いた。
「あなたさえ、いなければ……」
 その声と同時に、世界が反転し切った。気持ち悪い浮遊感が全身を包みこむ。
 落ちている。何が? 私が、だ。
 体がバラバラになるような衝撃の後、気泡を纏いながら面白いくらい海に沈んだ。暫くしてから浮かび上がった体に、大嫌いな雨が降り注ぎ始めた。



 わたしは春日野さんを突き落としました。それは変えようのない事実であり、誤魔化すつもりはありません。罪悪感がある訳でもないので謝罪する気もありません。強いて彼女への感情を述べるなら、まず、感謝が挙げられるでしょうか。
 春日野さんの死は事故として処理されました。クラスメートはその死に激震を受けたようで、それこそ死人のような顔つきで暫く過ごしていました。
 もし、本当は自殺だったなら。どこからか、恨みつらみを記した遺書が出てきたとしたら。臆病な彼女らは、そんなことで毎日びくびくしていたようです。自業自得でしょう。
 それで懲りたのでしょうか、それからわたしへのいじめはピタリとやみ、わたしは腫れ物に触れるかのような扱いを受けるようになりました。
誰も関わって来ないその状況は、私の理想そのものでした。だから、深く感謝しています。
 ですが、それと同時に、恨んでもいます。彼女のせいで、知らなくても良かったものを知ってしまったからです。
 何故、あんなに動揺してしまったのか。突き落とすことなんてなかったのではないか。自分でもそう思います。
 結論から言えば、春日野さんに嫉妬したからです。
 私の生き方、すなわち自分の生きたいように生きること。さすがにそれを手放しで肯定できるほどメンタルは強くありません。周りの事を考えろ。空気を読め。この日本で暮らしている限り、こういった思考は幼児教育の時点で脳に刷り込まれます。
 この生き方に満足しながらも、わたしは心のどこかで否定もしていたのです。しかし行動を改められるほどの力はなく、そうした矛盾に気付かないふりを決め込んでいました。
 だから、わたしの生き方をはっきりと否定することのできる春日野さんに激しく嫉妬しました。自分のできないことをできる彼女にどうしようもない羨望の念を抱いたのです。
 ですが、あの時はそれに気付くことができなかったために、極端な行動に走ってしまいました。彼女の言葉を借りれば、どこまでも自分本位かつ一番簡単な方法を使ったのです。自分を守るために、自分を惑わす元凶を手っ取り早く消そうとして。
 春日野さんに嫉妬したと気付いてしまった時、全てが根底から覆されたかのような気持ちになりました。春日野さんの言う通りです。自分を失うという恐怖にわたしは勝てそうもありませんでした。恐らく、自分で無意識の内にそれが分かっていたのだと思います。だから、わたしは誰とも交わらなかった。寂しさより何より、何かを、自分を失うことの方が怖かったから。
 そして、わたしは自分の中の矛盾に気付くことで、みっともないほどにしがみ付いていたはずの自分をあっさりと失いました。
 だからわたしは、今からここで死のうと思います。春日野さんを殺してまで守ったはずの自分が壊れてしまっては、彼女に申し訳が立ちません。どうせ死ぬのなら、初めに自分を失うこととなったこの場所しかないと思いました。
 遠くの水平線を見つめながら、目の前の海に向かって軽やかに一歩を踏み出しました。人間の生存本能でしょうか、無意識に足は地面を探します。しかし、地面など存在するはずがありません。すぐに体がフリーフォールに乗ったかのような浮遊感に包まれます。空っぽの頭の中には走馬灯さえも映りません。
 ややあって、体が水面に叩きつけられました。痛いはずですが、もはや感覚などありません。沢山のあぶくに包まれながら、どんどん水底に近づいていきます。願わくは、このまま沈んで誰にも見つからないまま白骨化したいものです。
 ただひたすら自己中心的に自分を守ってきたわたしには、お似合いの結末だと思いませんか? ……そう、やはり思いませんか、残念です。