刹那「ルーティン・ワーク」

 私は『黒くて重いもの』を握りしめていました。
 ゆっくりとそれを持ち上げ、先を前に向けます。その動作に合わせて視線を上げると、驚いた顔の少年がいました。その少年を見た瞬間、何故だか胸が高鳴ったような気がします。
「ケイくん、わたしとケッコンしよう?」
 私にしては舌足らずな声で語りかけて、指先に力を込めました。とても力が要りました。どうしてだろう? 疑問に思って手元を見ます。それを持つには似つかわしくない、驚くほど小さな手。その時初めて、自分が幼い少女であると気付きました。


 夢を見ていたらしいです。
 起き上がってすぐに、自分の手を見ました。いつもと同じ、大人の手。安堵の息が漏れました。
 隣で寝ている夫に視線を移しました。布団が少しめくれています。パジャマの隙間からちらりと覗く素肌に、古い傷が見て取れました。寒そうだったので、静かに布団を掛け直してあげることにします。
 時計を確認しました。午前五時五十分。後十分で夫の目覚まし時計が鳴る時間です。


 思えば夫婦とは不思議なものです。何億という人間の中からたった一人と人生を共にする契約を結ぶ。何億分の一の確率は単なる妥協にすぎないのでしょうか? それとも、やはり運命なのでしょうか?
 私は毎朝、確かめています。
 私たち夫婦は偶然なのか、必然なのかを。
 すっかり持ち慣れたそれは、カーテンの隙間から漏れてくる朝日を受けて、黒く光っています。ずっしりとした重みが少々腕を引きつらせるのも、ほんの僅かに違う左右のバランスもいつも通り。ゆっくりと、しかし確かな軌跡を描いて照準を合わせ、それ越しに夫の寝顔を眺めます。そして――


 カチリ、と音が鳴りました。
 穏やかな寝息を立てている夫に、言いようのない嬉しさを噛みしめながら囁きました。
「おはよう、啓一さん」
 私たちは、今日もまた共に生きる運命のようです。