刹那「桜舞い散る出会いと別れ」

 春は出会いの季節である、とは誰が提唱した説なのでありましょうか。わかるのであれば、早急にそのお方の元へ馳せ参じ、両手をがっしりと掴んで共感の意を示しとうございます。
 と言うのは少々大袈裟ではありますが。桜舞い踊る四月の中旬、突然の別れに涙して、春は別れの季節なんだわ、と周囲がドン引きするくらい悲嘆していたわたしは、この運命的な出会いにそれぐらい衝撃を受けました。
 今もなお視線の先にいる愛らしい姿の彼を、てっぺんからつま先までねめまわすように凝視してしまいます。思わずぐしゃぐしゃと掻き回したくなるごわごわの髪。ぱっちりと見開かれた、瞬き一つしない目。縫製の雑さが散見する、足形で汚れた服。如何にもつるつるです、と自己主張しているかのような光沢のある肌。襟元から覗く関節部分なんて、実に自然で――
「おいてめえ、何ジロジロ見てやがんだ! まず謝れ!」
 とても、人形とは思えません。本当に。



 わたしがこの喋る奇怪な人形との出会いを果たしたのは、つい数分前のことです。学生であるわたしは、無事に進級を果たした四月、新たな学年にドキドキわくわくするでもなく、通い慣れた道を陰鬱な気分でのろのろ歩いておりました。
 学年が上がった所で何一つ変わり映えのしないこの身の環境を思うと、どうにも気分が塞ぎこんでしまいます。もっとこう、ぽっかりと空いた心を満たしてくれるようなものはないでしょうか。大きなため息をひとつついて、それからふるふると頭を振ります。
 いけない、ため息なんてついていては、幸せが逃げてしまいます。今のわたしの中に幸せなんて残っているのかは疑問の余地が残りますが、そこはそれ、ポジティブシンキングです。逃げられるだけの幸せが自分では気付かないどこかに潜んでいるのでしょう。見つからないのであれば、探し出せばいいのです。そう思うとなんだか気分が晴れてきました。ポジティブシンキング万歳。
 俄然希望がわいてきた単純なわたしは、高揚してきた気分に合わせて顔をあげました。見渡すと、何とさわやかな青空が広がっていることでしょうか。足取りが何だか軽くなった気がします。
 進行方向に、大きな桜の木がそびえたっているのが見えます。気付けば、校門まであと少しの所まで来ていました。
 学内に足を踏み入れた時、春一番と言うには少し遅い突風が吹き荒れました。あっちへふらふら、こっちへよろよろ、舞い踊る桜の花びらのごとくいいようにもてあそばれます。
 ようやっと風が収まり、まっすぐ進めるようになりました。どこかにびっくりするような楽しいサプライズが転がっていないかしら、と目立たない程度に周囲をきょろきょろ見回しながら歩いていると、なにかぶにゅっとしたものを踏みつける感触がしました。
「おい、何踏んでんだ、早く足どけろ!」
 足下から響く怒号に、一瞬遅れて足を上げます。聞くからに大変な怒りよう、どんな大切なものを踏みつけてしまったのかしら申し訳ない、と思いながら目線を下げると、
「足元はちゃんと見て歩けよ、カス」
 くっきりと足形のついた、愛らしい姿で罵声を浴びせかけてくる人形と目が合いました。



 ぞっとするような衝撃が走った。
 先程までやけにうるさく感じられていたはずの心臓の鼓動が、段々小さくなっていく。今、自分はどういう状況なのか。それすら忘れてしまいそうになるくらい、意識が安定しない。俺のものであるはずなのに、俺から離れていこうとするそれを必死に引き寄せる。
 ああ、俺はここで死ぬのか。死んでしまうのなら、一言、彼女に礼を言ってから死にたい。必死にそう願うが、無情にも心臓の鼓動は小さくなっていくばかりだ。
 世界が徐々に無音に近づいていく中で、ふと聞き慣れた声が聞こえた気がした。その声の主を認識すると、堰を切ったように彼女の記憶が頭の中を駆け巡る。俺にしか見せない穏やかな笑顔、俺にしか使わないくだけた口調――最期になって思い出すのは、自分の事ではなく彼女の事ばかり。後から後から湧き出る彼女との思い出に包まれ、顔が自然と綻んだ。俺らしくもない、と苦笑が漏れる。
 俺は脳裏に浮かんでは消えていく彼女の姿をただ追い続けた。
「何してんの。ほら、早くおいで」
 彼女の声が響く。
 だが、俺はもう答えることが出来なかった。



 そうして、冒頭に続きます。この恍惚と言ってもいいほどの感慨はご理解いただけましたでしょうか。あまりの感激に、自分の肩がふるふると震えているのがはっきりと自覚できます。
「あれほど待ち望んだサプライズが今目の前に」
「踏んづけといて自分の世界に浸るな!」
「あなたはわたしがどんな気分でいたか知らないからそのようなことをおっしゃるのです」
「お前のことなんて知るわけねえだろ」
 彼はぶつぶつと口の中で何か続けて言っていたようですが、やがてはーっと息を吐きだす音がしました。
「もういい。気付いたら知らない所にいるし、突風のせいで元いた場所から吹き飛ばされるし、変な女に思いっきり踏みつけられるし。こっちはサプライズとやらが渋滞してて混乱してるんだよ、放っといてくれ」
「なんて羨ましい」
「羨ましいって、お前……うわっ」
 わたしは手を伸ばして彼を持ち上げ、先ほど付けてしまった足形を消そうと服をはたきました。
「おい、降ろせよ!」
 近づけてまじまじと全身を見ると、腕に大きな亀裂が走っていました。
「腕が傷ついてしまっているではないですか」
 さすってやると、ぼろぼろと表皮がささくれ立ってきました。このままではいけません。
「あいにく包帯は持っていないのでこれで我慢してくださいな」
 わたしは鞄に付いている飾りの白いリボンをしゅるりとほどき、彼の腕に巻いてあげました。
「お前、本当に変な奴だな」
「どうしてですか?」
「普通、こんな喋る人形、相手にしないだろ」
「わたしにとっては願ったり叶ったりでして」
 退屈な日常の前に現れた、めくるめくファンタジー。今までの日常など忘れてしまって、夢のようなその世界に足を踏み入れることができたなら――。前のめり気味に興奮しながら語ると、彼は何かを諦めたようなニュアンスで呟きました。
「訂正。お前は気持ち悪い」



 俺の主人という位置づけらしい彼女は、いつも我儘ばかり言う。
 あっちに行けと追い払われたかと思えば、寂しいからおいで、などと真逆の事を言って抱き寄せてくる。本当に人間というのは不可解千万、俺のような元捨て猫には到底理解できない生き物だ。
 せめて、振り回されては一喜一憂している俺の声が、彼女に届いてくれたなら。彼女と会話ができるのであれば、俺はどんな仕打ちにも耐えるというのに。
 だがしかし、現実にそんなことは不可能なのであって、毎日毎日もどかしい思いに押し潰されそうになる。ん? にゃうりんがるでも使え? ……言っとくが、あんなもん猫の観点からすれば嘘っぱちだからな。試したのか、って? ……放っとけよ。
 とにかく、俺は彼女に好きなように振り回されるこの生活を何とかしたい。気が向いた時にだけ愛でられ、不必要な時には存在を抹消しているかの如き勢いで無視される。それは飼い猫の宿命なのかもしれないが、納得はできない。じれったくて、甘えたい。悲しいけれど、壊すことはできない。
 俺の声は、届かないから。



 それから、わたしは授業があることも忘れて彼の話に耳を傾けました。どうやら彼は、気付いたら桜の木の下にいて呆然としていた所、先程の強風で吹き飛ばされて、道のど真ん中に落っこちたそうです。確かに軽いですものね。ちなみに、体感で言えばペットを抱えている様な心地がします。
「それでは、あなたは何故話せるのですか?」
「さあ。なんか、気付いたら」
「なるほどなるほど」
 つまるところ、彼はつい先程意識が芽生えたばかりということになるでしょうか。ううん、しかし他人事であることが口惜しい。わたしは思わずぎゅっと体に力をこめます。
「おい」
 わたしが彼の立場であれば、どうしたでしょう。人と意思疎通できる輝かしい人形ライフ。想像するだけでこの上なくわくわくします。
「……おいってば」
 どこの誰とも知れないステキな殿方に拾ってもらって、徐々に心を通わせていく、一大メロドラマ。残念ながらわたしごときでは絵にならないおそまつな展開になるでしょうが、そういったものにもひっそりと憧れがあったりなかったり。なんと、こんな思考に辿りつくだなんて、今までのわたしでは考えられません。ちょっと恥ずかしいですが、新しい自分、発見です。
「無視するな!」
 突然の大声に思わずびくりとし、わたしの腕の中に収まっている彼の顔をのぞき込みます。
「なんですか」
「なんですかじゃねえよ! 何回も呼んだぞ!」
 それはすみません、と素直に謝ります。
「それで、どうかしたのですか?」
「もういい。勝手に妄想にでもなんでも耽ってろ」



 今日も朝から、そんな俺の気持ちなんてつゆ知らず、彼女は俺に見向きもしない。今日は友だちが遊びに来たとかで、二人でずっと実のないことを話し込んでいる。
 邪魔をしたら怒られる。そんなことは百も承知だが、彼女に笑いかけて欲しくて、かまって欲しくて、繋ぎとめておきたくて、ついつい悪戯してしまう。彼女の膝の上に潜り込んだり、「遊んで」と呼びかけたり。まあ、彼女にはにゃーにゃー鳴いているようにしか聞こえないのだろうが。
 そんな風にアピールして注意を引こうとしたが、今日の彼女は動じなかった。完全に無視。これ以上は何をやっても無駄だろうな。棚の上で昼寝でもするか。
 そう思って乱雑に積まれた本の山に飛び乗る。
「ワタヌキ!」
 彼女の悲鳴のような呼びかけが聞こえ、はっと気付くと俺は本に埋もれていた。どうやら棚の上への足がかりにしようとした本の山が崩れたらしい。
 本の山から頭を出すと、俺が無事であると確認した彼女は「もう、びっくりさせないでよ」と口をとがらせて、また友達とのおしゃべりに戻った。ちょっと薄情じゃねえか、とも思ったが、まあ無事なのは確か――
「いってえ!」
 本の山から抜け出そうとしたら、右前足に激痛が走った。一度意識したら、どんどん痛くなる。
 これ、まずいんじゃないのか。友だちと話している彼女の顔を見やる。楽しそうな笑顔。邪魔するのは憚られる。どうする。試しに、三本の足で歩いてみた。少しふらつくが、まあ歩ける。
 色々と考えてから、俺は外に出ることにした。普段は外に出ることなんてめったにないが、何故だかそんな気分になった。



「くるみ!」
 特徴的なハスキーボイスに呼ばれて振り返ると、同じ授業を受けている友人のまりさんがこちらに小走りで駆けよって来ました。
「どしたの、こんなとこで。授業も出てなかったけど」
 彼のことをどう説明しようかと考えながら、もごもごとしているわたしに、彼女は先程なかったことにした授業のレジュメを手渡してくれました。なんと心優しい。
「まだ落ち込んでるかと思ってたけど、元気そうで何より。あの子は?」
「いいえ、まだ……」
「そっか。ところで、その人形は何?」
「拾いました。今、落とし主を探していまして」
「ふうん。ま、授業も忘れないようにね」
 彼女は頑張って、と手を振りながら踵を返して去って行きました。小さくなっていくその背中を何とはなしにぼんやりと眺めていると、突然彼が言いました。
「なあ。今の女――」
「え、まりさんがなにか?」
「なんか、知ってる気がする」



 暖かな春の陽気に包まれて、何にも考えずにふらふらとさまよっていると、急に突風が吹いた。すると、はらはらと大量に桜の花びらが降ってきた。はっとして周囲を見渡すと、彼女が通っているという学校まで来ていた。校門の前にある大きな桜の木。俺が捨てられていた場所だ。
 彼女に拾われたあの日の事は、いつだって鮮明に思い出せる。
 今と同じ、桜の季節。でも、今みたいにぽかぽかした気持ちのいい陽気ではなくて、どこかうすら寒かった。
 六つ子の末っ子として生まれた俺は、お世辞にも可愛い猫とは言えなかった。だからだろうが、兄弟たちはすぐに色んな所へ貰われて行ったのに、俺だけ引き取り手が現れず。結局、捨てられてしまった。
 そんな時に、俺の目の前に現れたのが彼女だった。
 薄汚れた俺を見て、愛らしいと言った。素直に信じることができなくて、こいつはどんな神経をしているのか、と散々心の中で毒づいたものだ。
 ひとしきり俺を愛でたあと、彼女は俺に背を向けた。
 どこかへ行くのか。中途半端に希望を持たせるくらいなら、いっそ最初から無視しろよ。そんなことを考えながら彼女の背を眺めていると、彼女は突然振り向いて言った。
「何してんの。ほら、早くおいで」
 一瞬、何を言われているのか把握できなかった。若干の間をおいて理解した俺は、届かないとは分かっていながら必死に鳴き声を上げる。
「俺なんかを、連れて帰っていいのか?」
「可愛げの欠片もない、薄汚れた捨て猫なのに?」
 後を追いかけもせずに、ただその場で喚いているだけの俺に、彼女は屈んで優しく手を伸ばした。
「大丈夫。わたしが居るから、もう寂しくないよ」
 その時の彼女の声は、とても美しかった。



「まりさんを御存じなのですか?」
「よくわかんねえけど……あの声、聞いたことある気がする」
「特徴的な声ですものね」
 今さっき聞いたばかりのまりさんの声を思い返します。女性にしては低めのよく通る綺麗な声。
「まりさんが、あなたの持ち主なのでしょうか」
 その割には、先程の反応はとてもあっさりしていたような気がします。しばし返答を待ってみましたが、考え事をしているのでしょうか、彼は何も答えてくれません。
「まあとりあえず、聞きに行きましょう」
 まりさんは確か、校門近くの校舎で授業だったはず。わたしは彼を抱えて、目的の校舎まで歩きはじめました。
「なあ」
「なんでしょうか?」
「なんでお前、そんなに行動的なんだ?」
「と、言いますと?」
「俺なんて、別に放っときゃいいじゃないか」
「急にしおらしくなられましたね」
 彼に視線を落して、にっこりとほほ笑みます。それからまた顔をあげて、質問に答えます。
「自己満足です。あなたの落とし主は、きっと悲しんでいらっしゃるでしょうから」
 わたしも、少なからず覚えがありますしね。
 それに、と表情の変わらない彼の顔を見つめ直し、もうひとつ理由を付け加えます。
「あなたも、ひとりでは寂しいでしょう?」
「……ありがとう、な」
 彼の言葉に、わたしは面喰いました。口汚くわたしを罵ってばかりであった彼の口から、感謝の言葉を頂けるなんて。なんだかとても嬉しくて、それを噛みしめながら返事をします。
「どういたしまして」
 校門前に到着しました。ここに来るとどうしても目につく桜の木を尻目に、まりさんの元へいざ行かん、と校舎の方に体を向けると、また突風が吹き荒れました。
 不意打ちのごとく突然のことだったので、わたしは思わず彼を手放してしまいました。どこかへ飛んでいってしまう前に、拾わなければ。しかし目を開けることもままなりません。
 強風がやんで目を開けると、風で舞い上がった桜の花びらが、視界を遮るようにひらひらと周囲を覆っていました。普段ならば「なんて美しい!」と言いながら一瞬のアウラの輝きに感動する所ですが、今はそれどころではありません。
 桜色に染まった視界の中、彼を探して見回すと、桜の木の真下あたりに桜とも地面とも違う色を発見しました。
 ああ、あんな所まで飛んで行っていたのですね。すぐに見つかって本当に良かった。そう思って駆け寄ったわたしの目に映ったのは、先程まで抱いていた人形の彼ではなく、
「……ワタヌキ!」
 右前足に白いリボンを結んだ猫――ワタヌキの、死骸でした。



 春特有の冷たい風が吹きつけて来て、身震いした。
 気付けばあたりはかなり薄暗くなっていて、夜が来ようとしている。
 もうこんな時間か。早く帰らないと、いらない心配をさせてしまうな。
 帰ろうとして向きを変えると、右前足に鋭い痛みが走った。一度崩れ落ちてから、再度起き上がろうとしたが、もはや力が入らなかった。動けない。
 後悔の念がぐるぐると脳内を駆け廻る。どうして外に出て来てしまったのか、どうしてこんな――
 その時、急に現れた眩しい光が俺の視界を奪った。今もなお体を包んでいるその光源は、こちらにまっすぐ向かってくる車のヘッドライト。ぶおおおお、と鉄の塊が風を切って進む音が段々と近付いてくる。
 息が苦しい。心臓はどくどくと早鐘のように脈打っている。うるさいぐらいだ。
 それ以降の記憶は、特にない。



 春は出会いの季節であり、別れの季節です。
 わたしはワタヌキと出会ったこの季節に、いなくなってしまった彼と再会し、そして別れてしまいました。
 あれほど待ち望んでいたサプライズでしたが、どうしてでしょうか、あまり嬉しくありません。
 消えてしまった人形の彼に思いを馳せます。朝彼を見た時、どうしてあんなにもはしゃいでしまったのでしょうか。今冷静になって振り返ると、かなり恥ずかしい言動をしていたように思います。猛省しなくてはなりません。
 もしかしたら、彼はワタヌキだったのかもしれません。わたしのワタヌキは、あんなに口が悪いはずはないと思うのですが。にゃうりんがるによると、いつも愛らしく甘えてくれているようでしたし。
 まさかとは思いますが、仮に彼が本当にワタヌキだったなら。ひとつだけ、彼に聞きたかったことがあります。
 聞くとはいっても、確認程度のものなのですが。せっかく直接お話することができたのだから、聞いておけばよかった。残念です。



 俺は脳裏に浮かんでは消えていく彼女の姿をただ追い続けた。
「ほらね、わたしが居たから寂しくなかったでしょう?」
 最期に聞こえた彼女の声は、いつもより弱々しかった。
 しかし俺は、もう答えることが出来ない。