来八「竹取作家」

 ――それでは早速インタビューの方、始めさせて頂きます。よろしくお願いします。
「よろしくお願いします」
 ――この度、『海から来た彼女』が賞に輝いたということですが、どんなお気持ちですか?
「そうですね。自分が書いた小説はどれも我が子のように愛おしいものなんですが、この小説は特別思い入れの強いものだったので、何と言いますか、感慨無量です」
 ――前作『フルーツナイフと呼ばないで』から五年を経て、去年の冬に『海から来た彼女』が出来上がったそうですが、五年の間に今作の構想を練っていたということでしょうか?
「いえ、この作品を書き始めたのは去年の春からなんですが、その時は構想も何も練ってなくて、半年間必死に悶え苦しんで書き上げたのがこの作品です」
 ――前作『フルーツナイフと呼ばないで』とは大分と作風が変わっていますが、どういった心境の変化が?
「そうですね。今まで自分は、そのー、恋愛小説というのは読むのも書くのも苦手で、ほとんど憎悪していたのですが、何となく書いてみたくなったんですよ」
 ――何かきっかけというものがあったのでしょうか?
「ええ、まぁきっかけというほどのことではありませんが、ちょっと色々ありまして」              

           ○

 坂木圭介は絵に描いたような冴えない男である。
 もう二十八にもなるというのに定職にもついておらず、知り合いのつてで翻訳の仕事を回してもらい、また日雇いのバイトもしながら糊口をしのいでいた。
 大学生の頃、圭介は執筆を趣味としていて、無闇やたらに長編小説を書いてはあらゆる新人賞に応募した。万が一、賞を貰えたら嬉しいなぁ程度の気持ちでいたずらに応募を続けた。
 就職活動を間近に控えて、不安やストレスに起因する吐き気を日夜催していた大学三回生の頃、誰が何を間違ったのか圭介はある新人賞を受賞した。そうして圭介自身何やら良く分からないままに、まんまと作家としてデビューすることに成功した。
 受賞の知らせを聞いた時、圭介は呆然とした様子で、「現実、甘い」と呟いた。
 その後、圭介はしばらく夢見心地な日々を送り、気がつけば就職活動の面接に片っ端から落っこちていた。
「こうなれば、これはもう専業作家として生きていくしかない。読者を増やし、彼ら彼女らに養ってもらおう。目指せ、印税生活。ロイヤリティ万歳!」
 そう心に決めた圭介は創作活動を続けたものの、鳴かず飛ばずだった。圭介はやっきになって三文小説を量産し続けたが、そのいずれも当然三文程度の価値しかなかった。
「現実、甘くない。創作意欲と野心に才能が追いつかない」
 自分には作家としての才能が欠如している、そう圭介は悟った。
 その後、圭介は作家として大成することを諦めて、様々な何やかんやを経て年季の入った六畳一間のアパートに居を構え、その場しのぎの生活を続けていた。
 生活も安定し始めた同年代の友人達が幸せそうな家庭を築いていくさまを見るにつけ、圭介の心はひりひりと傷んだ。ふとした拍子に裂けそうになる心を縫い繋げるのに尽力した。
「なにかと八方塞がりの現状を打開せねばならない。どうにかならんものか。このままでは人生の敗者になるべくしてなってしまう。逆転ホームランを打つ方法はないか。でもしんどいのはやだな。なるべく簡単で疲れない素敵な逆転劇を考えよう。しかし、そうなると益々難しい」
 圭介はそんなことを呟きながらも、自室で胡坐をかいて、テレビをぼうっと眺めていることが多かった。
 つまるところ圭介はそこそこ自堕落な日々を過ごしていた。

           ○
 
 夕方の五時頃、圭介は毛布にくるまってノートパソコンを通して電子の海を飛び交っていた。食指の動く方へあちらへこちらへ移動していた。彼がどんなサイトを見ているのかについてはこの場にそぐわない上に誰も得しないので、言及しないことにする。
 気になるものを一通り見終わった後、暇潰し程度に色々なサイトを巡っていると、圭介は何だか妙な場所に辿り着いた。どのようにしてここに行き着いたのか、圭介自身分からなかった。
 画面一杯を青々とした竹が覆っていて、何となく異様な、鬼気迫るような雰囲気が漂っていた。竹は太いものから細いものまであり、いずれも画面下部から上部まで凛とした様相で、すらっと伸びていた。
 このサイトは何だろう、と圭介は不思議に思い、まじまじと画面を眺めていた。
 すると突如、画面上に臨場感溢れるぎざぎざの線が斜めにずばりと走って、それに驚いた圭介はびくりと身体を震わせた。
 続いてすこっと変な音がしたかと思うと、画面上にそそり立っていた取り分け太い竹が斜めに切れ、切れ目から怪しげな光が覗いた。その光は徐々に強くなり、その眩しさに圭介は目を覆った。
「何これは!」
 次第に強くなっていく眩しさに、圭介はノートパソコンに背を向けた。壁に自分の影がくっきりと映っているのが見えた。
「怪奇怪奇、怪奇怪奇!」
 圭介はたまらず叫んだ。
 光は一向に納まらなかった。圭介はこのままではノートパソコンが爆発するのではないかと不安に駆られ、毛布を放り投げて壁際まで這った。
 圭介が壁に寄り添って「わああ」やら「ひぎい」やら「生まれて来てごめんなさい」やらをしきりに繰り返していると、不意に背中越しにノートパソコンの動作音が聞こえ、後を追うように光が消えた。
「お、終わった?」
 振り向くとノートパソコンの電源が消えていた。そしてノートパソコンの前に驚くべきものが落ちていることに気がついた。
 圭介は自分の目を疑った。目をこすって、もう一度見直してもやはりそれは消えなかった。
「事実は小説よりも奇なり」
 圭介は呆然とした様子で呟いた。
 ノートパソコンの前には小学一年生ぐらいかと思われる幼女が仰向けに寝転んでいた。穏やかな寝息を立てて。
「竹が切れたかと思うと、目の前に年端も行かない女性が現れた。まるで竹取物語!」
 圭介はとりあえず落ちていた毛布を拾い、幼女にかけてやった。

           ○

 およそ二時間後に目を覚ました幼女は外見に似合わない大人びた言葉遣いで喋った。真面目な顔をして自分は電子の海からやって来たなどと言う。
「私は海の精ですが、何の因果か電子の海に生まれ落ちてしまいました。不運です」
「はぁ、それはそれは」
「電子の海には教育に悪いグロテスクなあれこれや、ぴんく色のあれこれがあちこちに飛散していて、私はそれらにすっかり辟易してしまい生い茂った竹林へ逃げ込みました」
「はぁ、竹林に」
「そして竹林に囲まれて眠っているうちに、気がつけば竹の中に閉じ込められていました。奇っ怪なことです。八方塞がりで身動きも取れませんでした。私はすっかり参ってしまいました。そんな私を竹の中から解放してくれたのがあなたです」
「はぁ。僕は別に何もしてないけれど、お役に立てたのなら光栄です」
「差し当たってはしばらく私をあずかって頂きたい」
「はぁ。あずかる、あずかる? あずかるとは保護する的な意味で?」
「ええ、その通り。いえ、大丈夫です。心配せずともしち面倒くさい手続きが終わると迎えが来ます。それまで保護して頂きたい。宜しくお願いします。お礼はちゃんといたします」
「はぁ。じゃあ、まぁ」と圭介は気の抜けた表情で呟いた。
 こうして良く分からないまま、圭介は自称『海の精』と共に暮らすことになった。
 圭介が名前をたずねたところ、幼女は名前を持っていないと言う。名前がなくては不便なので、圭介は彼女を『かぐや』と名付けた。
 勿論、かぐや姫から借りてきた名前だ。

           ○

 夜も更けてきたので、圭介は冷蔵庫に入っていたきのこを使って、かぐやにきのこ炒飯を作ってやった。
 かぐやは毛布にくるまって本棚にあったミステリ小説を難しそうな表情で読んでいた。圭介がきのこ炒飯を持っていくと、かぐやは申し訳なさそうに「いりません」と言った。
「言い忘れてましたが、私はご飯は食べなくてもいいのです。水さえあれば十分です。お気遣い申し訳ない」
「便利な身体だなぁ。羨ましい」
 何やら保護することになってしまったが、食費に関してはあまり心配せずに済むな、と圭介は胸を撫で下ろした。
 さて折角作ったきのこ炒飯をどう処理しようか、と圭介は悩んだ。きのこ炒飯は知人や親類からは老若男女問わずすこぶる評判が良かったが、圭介自身は好きではなかった。不味いとさえ思う。
 学生時代、部屋に泊まりに来た友人が「何か喰わせろ何か喰わせろ何か喰わせろ」とうるさかったので、仕方なく作ったのが処女きのこ炒飯だった。何の嫌がらせか実家から大量に送られてきて持て余していたきのこ、なけなしの米、萎びた野菜。それらを適当に炒め、調味料を大雑把に加えたものが、最初のきのこ炒飯であった。
「質素な食材ばかり使っている割に、なかなかどうしてすごく美味しい。お前にはきのこ炒飯を作る才能がある。眠っている才能ってのはあるものだなぁ」
 きのこ炒飯を喰った友人は圭介を称えた。
 それから多少の改良を加えたものの、どう工夫してもきのこ炒飯は圭介の口に合う料理にはならなかった。そもそも圭介はきのこがあまり好きではないのだ。
 圭介はしばらく考えた後、適当な容器に詰めて、隣の部屋の住人の元へ持って行くことにした。
「ちょっと出かけてくる。五分程度で戻るから」
「はい、いってらっしゃい」
 夢中になって本を読むかぐやをちらと見た後、圭介は自室を出た。

           ○

 隣の部屋には山崎という名前の女性が住んでいる。二十代後半ぐらいかと圭介はふんでいた。山崎さんはなかなかの頻度で、作り過ぎて余ったからと言っておでんを分けてくれた。真夏におでんをくれたこともあり、よっぽどおでんが好きなんだろうと思われる。頂いたおでんの中にはいつも妙に柔らかい正体不明の物体が入っていて、それが妙に口に合い、圭介は山崎さんがくれるおでんが好きだった。
 圭介が呼び鈴を鳴らすと、部屋の中からどたどたと音が聞こえてきた。そして鈍い音をたててドアが開き、疲れた顔をした山崎さんの顔が覗いた。手には妙ちくりんなペンを持っていた。
「こんばんは」
「ああ、坂木さん。こんばんは」
「えっと、夕食作り過ぎたんで、これ良かったら食べて下さい」
 圭介がそう言って容器を入れた袋を差し出すと、山崎さんは「ありがとうございます」と恭しく頭を下げ、それを受け取った。
「さっき部屋で何か叫んでたようですが、何かあったのですか?」
「あー、すいません。ちょっと色々ありまして」
 その後、ぽつぽつと取るに足らない会話を交わし、圭介は自分の部屋に帰った。
 部屋に戻ると、さっきまで本を読んでいたかぐやが敷きっぱなしの布団の上で安らかに眠っていた。

            ○

 諸々の不安はあったものの、一週間もするとそれなりに同居人がいるという現状に馴染んできた。そもそもかぐやは外出せず大人しく本を読んでいるだけだったので、全く手がかからなかった。
 ある日、圭介が翻訳の仕事をこなしていると、かぐやが圭介に「坂木さんは何の仕事をしていらっしゃるのですか?」とたずねてきた。
「翻訳とかしてるけど、実際はフリーターみたいなもんかな」
 圭介がそう答えると、かぐやは何か考えるように視線を斜めに向けた。
「つまり就職出来ない若者って奴ですね」
「まぁ、そうなるかな」
「配偶者もいないようですし、恋人もいませんよね?」
「まぁ、うん」
「生きてて楽しいですか?」
「あー、ひとえに楽しいとは言えないけど、満更でもないと言えなくもないような気がしなくもない」
「何だか大変ですね、人生」
「まぁ、割とね」
 共に暮らしていくうち、圭介はかぐやが案外毒を吐く傾向にあることに気付いた。毎日圭介の心はえぐられがちであったが、本人に悪気があるように見えなかったので、圭介はあまり気にしないことにした

 平穏な日々が一ヶ月ほど過ぎた。
 圭介とかぐやの暮らしは順調だったし、よそよそしさやぎこちなさも少しずつ取れてきた。
 驚くべきことにかぐやはすくすくと成長し、中学生ぐらいの背丈になった。一片のあどけなさとどこか刹那的な美しさを併せ持つ顔になった。
 圭介は次第かぐやに親愛の情を抱き始めた。それは恋情や愛情の類ではなく、家族に対するものとしての感情だった。さてはこれが噂の父性という奴か、と圭介は初めて抱く自分の感情に何となく気恥ずかしいものを感じた。
 かぐやは圭介の部屋にある本をほとんど読んでしまい、毎日図書館に通うようになった。補導されはしまいかと圭介は不安だったが、際立った問題は何一つ起きなかった。

            ○

 ある土曜日の夕方、図書館から帰って来たかぐやと一緒に見知らぬ青年が家に来た。かぐやを迎えに来たのか、と圭介は直感した。悲しいが、こればかりは仕方がないと自分に言い聞かせた。
 圭介はとりあえず青年を家に迎え入れた。青年は部屋の真ん中で背中に一本定規が入ったように姿勢よく胡坐をかいた。
 かぐやは隅で黙って本を読んでいた。
「かぐやさんのお父さんでしょうか?」
 青年は一つ咳払いをした後、話を切り出した。
「精神的には父親ですが、戸籍上は父親ではありません。でも保護者ではありますし、まぁ父親みたいなものです」
「何やら複雑な家庭なのですね。いえ、詮索する気はありません」
 向かい合って見ると青年は整った顔立ちをしていた。服装も清潔感のあるもので、爽やかな印象を覚えた。
「僕は石川といいます」
 石川青年は小さく頭を下げた。
「坂木圭介です」
 何やら妙だなと圭介は思い始めた。迎えというならただ連れ帰れば良いのではないか。
「単刀直入に言います」
 石川青年はしばし迷ったような表情を見せ、一通りもじもじした後、畏まった様子で言った。
「何ですか?」
「かぐやさんを僕に下さい」
 圭介は僅かな間絶句した。
「勿論直ちにとは言いません。見たところかぐやさんはまだ若い。五年後、いえ十年後に」
 石川青年はセールスマンのような口調でそう言った。
「君はかぐやとはどういった関係なのかな?」
「目下、他人です」
 石川青年は図書館で河童について調べていたところ、悩ましげにエラリー・クイーンを読むかぐやに一目惚れしてしまった、と熱っぽく語った。
「別にすぐ返事をして頂けるとは思っておりません。ただ挨拶をしたく思いまして、それに自分の気持ちを知って欲しかったので、お宅にお邪魔しました。それでは今日のところは失礼します」
 それだけ言うと、石川青年は立ち上がって玄関の方へ向かっていった。圭介は彼の後を追った。 
 石川青年は玄関で圭介にぺこりと頭を下げ、「また今度お邪魔します」と言い残して、颯爽と帰っていった。
 圭介は自室の座椅子に腰を掛け、隅に座っているかぐやをちらりと見た。彼女は相変わらず超然とした様子で、本を読んでいた。
「さっきの石川青年とは本当に他人なのか?」
 圭介がたずねると、かぐやは本から視線を上げて、頷いた。
「先週から図書館で見かけることはありましたが、今日図書館から帰ってくる時に初めて話しかけられました」
「それでいきなり家に挨拶って順序がおかしくないかな?」
「まぁおかしいですね。普通は私と仲良くなってからなんですけど。何だか愚直な青年でしたね。馬鹿正直で大分変わってる人でした」
「まぁ大体そんな感じだったね。けど、なかなかの好青年だった気がする」
 圭介は台風のように去っていった石川青年を思い返してみたが、確かに愚直という形容が的確だった。
「それより」
「ん?」
「精神的には父親なんですね」
「ああ、ごめん。つい勢いで言っちゃった」
 かぐやは再び手の中の本に視線を落とした。そして「さして不愉快ではありませんので、謝る必要もないのですが」と呟いた。圭介には彼女の顔が心無しか赤らんで見えた。
 圭介はこの時から一層かぐやのことを愛おしく思い始めた。自分の本当の娘のように見え始めたのだ。圭介の中の父性がもの凄い勢いで育ち出した。
 竹取の翁もこんな気持ちだったのだろうかと、狭いベランダでタバコの煙をくゆらせながら、物語の人物に思いを馳せてみたりした。

            ○

 その晩山崎さんが作り過ぎて余ってしまったと言っておでんを分けてくれた。圭介は丁寧にお礼を言って、それを受け取った。
「知り合いでも来てるのですか? 最近中学生ぐらいの子を良く見ますけど」
「あー、ちょっと色々ありまして」
 そう言ってから圭介はこの誤魔化し方はちょっとまずいかな、と思った。たびたび援助交際をしているとか曲解されてはなにかと都合が悪い。
「ちょっと色々あって、今親戚の子をあずかっているんですよ」
「ああ、そうなんですか」
 山崎さんは納得したように頷いた。
 それから少し世間話をした後、山崎さんは帰っていった。
 部屋に引き返した後、圭介はおでんを暖めて食べた。例の正体不明の柔らかい物体も入っていた。それは少し甘くて、やはり美味しかった。
 今度話をする機会があったら、この食物の正体を聞こう、と圭介は思った。

 圭介はそれから二週間ほどよく眠れない夜を過ごした。かぐやがいつか帰ることを考えると心が傷んだし、精神的な疲労からか生え際が少し後退した気がしたし、実際かぐやにそれを指摘された。
 精神的に疲労はしていても任されていた翻訳作業はすらすらと進んだ。かぐやが家に住み始めてから仕事が随分と捗るようになった。
 石川青年は三日に一度ほどのペースで顔を出すようになった。どうやら民俗学を学んでいる大学生であるらしい。
 圭介は愚直で誠実でどこかずれている石川青年のことを気に入り、一度彼にきのこ炒飯を作ってやった。よほど気に入ったのか彼は口一杯に詰め込み、喉を詰まらせた。あやうくきのこ炒飯に前科がつくところだった。
 石川青年も読書好きであったので、三人で本についてよく話した。それは圭介にとって有意義な時間であった。
 ふとした拍子に圭介は数年前まで作家として活動していたことを二人に明かした。全く売れなくて頓挫したことも話したが、それでも石川青年は尊敬の眼差しを向けてくれた。
 不安はあったものの、圭介は以前とは比べものにならないほど充実した日々を過ごしていた。

 そしてある晩、とうとうかぐやが「今週出て行く」と言った。
「随分と時間がかかりましたが、一通り手続きが済み、段取りがついたので土曜日の夜に迎えが来ます。お世話になりました」
 そう言ってかぐやは圭介に頭を下げた。

            ○

 土曜日の晩、圭介は必死にかぐやを引き止めていた。もう少しゆっくりしていけば良いと何度も言った。圭介の隣には石川青年もいて、彼もしきりにかぐやを引き止めていた。
 前日、圭介は石川青年に事情を全て話した。終始愚直で誠実で、そしてひたすらにかぐやのことを好いていた彼には教えてやらねばならないと思った。
 全てを打ち明けても、石川青年は最初信じなかった。現実は三文小説じゃないんだから、と笑っていた。しかし圭介の真剣な表情を見て、三文小説のような話を真剣に聞いてくれるようになった。
 そうして圭介と石川青年は土曜日の昼間からかぐやに留まるよう頼み続けたが、かぐやは一向に首を縦に振らなかった。
 時計が十時を指した頃、かぐやが「もうすぐ迎えが来ます」と言った。
 この際手荒だが迎えを追い払ってしまおう、と圭介は考えた。それしかかぐやに残ってもらえる方法はないだろうと思った。
 にわかに外が騒がしくなった。窓を開くと遠くから人の悲鳴のようなものが聞こえた。
「何だ何だ」
「僕ちょっと外見てきます」
 そう言い残して、石川青年は慌しく玄関に駆けて行った。
「この本、記念に貰っていいですか?」
 そういってかぐやは随分前に書籍化された圭介の小説を指差した。
「そんなもんいくらでもあげるから、行かないでくれ」
 圭介はなおも食い下がったが、かぐやは何一つ反応しなかった。
「ひいいいい」
 唐突に玄関の方から間の抜けた声が聞こえたと思うと、どたどたと石川青年が靴も脱がずに部屋に上がり込んで来た。
「多分アパート、囲まれてます。一杯います」 
 石川青年は引きつった顔で言った。
「何に囲まれているんだ?」
 圭介はちらりとかぐやを見たが、彼女は無表情だった。
「亀です!」
「亀?」
 驚きで圭介の声はひっくり返った。
「ええ、どこから集めたんだってくらい山ほどいます」
「亀亀亀亀亀」
 圭介が呆けたように「亀」と呟き続けていると、玄関の方からごとりと鈍い音が聞こえてきた。その音はずるりずるりと這うようにして近づいてくる。
 そして部屋に入ってきたのが、随分と大きい一匹の亀であった。横幅は一メートル位ありそうだった。
「お迎えに上がりました」
 部屋の中に甲高い声が響いた。甲羅の上に乗っていたらしい小さい緑色の蛙が飛び跳ねていることに圭介は気が付いた。
「あなたが太平洋の付属海であるフィリピン海を治めることになった方ですね」
 蛙はかぐやの方を向いて言った。
 石川青年は驚いたように目を見開いて「蛙が喋った!」と相当大きな声で叫んだ。
「はい。私がそうです」
 かぐやは石川青年の叫びを全く気にしない様子で言った。
「随分とお待たせしました。さぁお乗り下さい」
 蛙はそう言うと、甲羅から飛び降りた。
「それではお世話になりました」
 かぐやは圭介にぺこりと頭を下げると、たどたどしく亀の甲羅に跨った。
「待って。行かないでくれ」
 かぐやは圭介の言葉を意に介さず、「今までありがとう。さようなら」と言って玄関の方に身を向けた。
「せめて、せめて琵琶湖、あるいは瀬戸内海くらいに。そこならまだ会いに行ける気がする。っていうかフィリピン海ってどこ。遠そう、多分。お父さんはそんなの認めないぞ」
 圭介は無我夢中で、自分が何を言っているのかほとんど分からなかった。
 かぐやは最後に圭介の方を振り向いてにっこりと笑った後、亀を走らせて行ってしまった。
「君が彼女を保護してくれていた人だな。お礼は後日届けるよ。なに、悪いものではない。楽しみにしておくといい」
 そう言い残して、蛙は去っていった。
 六畳の部屋に、放心状態の男が二人取り残された。

           ○

 十分ほど経って石川青年はとぼとぼと部屋を去っていったが、圭介はまだ放心していた。かぐやがいなくなったという実感が湧かず、今でも部屋の隅で本を読んでいるような気がした。
 それから何分か経って、部屋のチャイムが鳴った。
 圭介はゆっくりと立ち上がり、玄関の方へ向かった。
 来客は山崎さんであった。
 山崎さんは作り過ぎてしまったから、と言い、また圭介におでんを分けてくれた。
「さっき叫び声がしたようですが、何かあったんですか?」
「あー、ちょっと色々とありまして」
 山崎さんは圭介の様子が少しおかしいことに気付いたからか、それ以上何も聞かなかった。
「それでは失礼します」
 山崎さんがそう言い残して去っていこうとした時、圭介は何となく彼女を引きとめた。
「その、いつもおでんに入っている柔らかい物体は何なのですか?」
 圭介は山崎さんにたずねた。
「ああ、多分バナナのことですね」
「バナナ? バナナがおでんに?」
「ええ、地元ではおでんにバナナ入れるんですよ。もしかしてお口にあいませんでした?」
「いえ、そんなことは。ただ何となく気になっていたんで。くだらないことで引きとめてしまってすいませんでした」
 そういって圭介が自室に引っ込もうとすると、「ちょっと待ってて下さい」と今度は山崎さんが圭介を引きとめた。
 山崎さんは慌ただしげに圭介の眼前から去っていき、バナナを一房持って戻ってきた。
「これ、安かったから二房買ったんですけど、よく考えるとそんなに食べれないんで、どうぞ」
「あー、どうも」
 圭介は両手でバナナを受け取った。
「いえ、それでは」
 山崎さんは小さく頭を下げて、去っていった。
 圭介は自室に引き返して、おでんを暖めて食べた。やはりバナナが美味しかった。
 座椅子に座って部屋を見回してみると、六畳の自室が妙に広くなったような気がして、圭介は並々ならぬ寂しさを感じた。心中に喪失感がどっかりと居座っていて、どうにもどいてくれそうになかった。
「嗚呼、うら寂しい。うら寂しい。うら寂しい」
 圭介は気を紛らわせようと、食べる当てもないのにバナナを剥いた。房からちぎっては剥き、房からちぎっては剥きを機械のように繰り返した。中身は何となく広げたティッシュの上に並べた。
 圭介は淡々と不毛な作業を続け、バナナは残すところ一本となった。それを剥こうとした時、圭介は値札シールが貼られていることに気が付いた。
 成る程、確かにバナナの値段は安かった。値札シールには値段の他に原産国が小さな文字で表記されていた。
 そのバナナはフィリピン産であった。
「フィリピン、フィリピン。フィリピン」
 圭介は写真ですら見たこともないフィリピンを思い描いてみたが、どうにも想像出来なかった。
 かぐやはもう圭介が想像も出来ないような場所に行ってしまったのだ、と圭介は不意に悟った。
 圭介はやたらと悲しくなって、手に持っていたバナナを放り投げ、ここ数ヶ月枕代わりにしていた座布団に顔を埋めた。
 その後、明け方近くまで圭介は泣いた。

 二ヶ月後、圭介の下に速達で荷物が届いた。
 小さめのダンボールの中に入っていたのは、丁寧に折り畳まれたまだら模様の怪しげな風呂敷であった。あの晩、蛙が言っていたお礼という奴だろうか、と圭介は思った。
 圭介が注意深く風呂敷を広げると、一枚の紙と三つの飴玉らしきものが出てきた。
 紙には飴玉のことが長々と書かれていた。圭介は適当に流し読みした。
「要は、これを舐めると自分に足りない才能が芽生えるということか」
 圭介は飴玉を一つ取ってみた。
「何と素敵で御都合主義的なアイテムだろう。ドーピング的で些か卑怯な気がすることは否めないが、これで作家として大成してやろう。人生の逆転ホームラン、ここにあり!」
 圭介は嬉々として飴玉を一つ口に入れた。それはほんの少しだけ磯の香りがした。
 圭介はふと数ヶ月前のことを思い出した。まだ数ヶ月しか経っていないというのに、心中では悲しさより懐かしさの方が勝っていた。あの時感じていた父性やその他一切合財は所詮一過性の感情に過ぎなかったのだろう。
「海の精と名乗る奇妙なあの娘は今頃どこで何をやっているのだろうか。元気にしていると良いけど」
 

 ――結局、この作品のヒロインは一体何だったんでしょうか。人間ではないようですが。
「その辺は書いている僕もいまいち分かってないんですよ。一体何か分からない奇妙な存在、みたいなのを書いてみたかったんですが、随分変なコになってしまいました。一体彼女は何だったんだろう」
 ――作者が分からなければ、彼女の正体はもう迷宮入りですね。
不本意ながら、そうなりますね」
 ――ところで次作の構想というのはもう練っていらっしゃるのですか?
「そうですね。まだ漠然としてますが、次は『妖怪』とかを出していく話にしたいですね。そういうことに詳しい知人がいるんで、彼から色々と聞きながら書こうと思ってます」
 ――次回作も楽しみにしていますよ。
「ああ、どうもありがとうございます」
 ――そういえば先日結婚されたそうですね?
「ええ、恥ずかしながら」
 ――お相手の漫画家さんも、こう言うと少し俗っぽい言い方になりますが、最近売れているそうですね?
「今まではお互い鳴かず飛ばずだったんですけどね。最近は驚くぐらい順調ですね」
 ――公私共に充実していらっしゃるんですね。
「まぁ、そうですね」
 ――では最後に、読者の皆さんにメッセージをお願いします。
「そうですね。下らないかも知れませんが、これからも僕の小説をどうぞよろしくお願いします」
 ――それでは今日はありがとうございました。
「こちらこそ、ありがとうございました」