「打てるだけジャブを打とう」と、その猫は言った。赤茶けた座布団の上で丸くなっている彼は、連日連夜ぼくの夢に出て来る。
今日、ぼくは夢の中で炬燵に入って鍋焼きうどんを食べていた。傍らでは扇風機が寿命の末期を思わせるほどやかましい音を立てて回っている。寒いのか、はたまた暑いのか、自分にも分からない状態であると言えた。
「ジャブって、ボクシングのですか?」
ぼくは彼に尋ねた。
「そう、ボクシングのジャブ。力を抜いた軽めのパンチ」
そう言ってから、彼は気だるい様子で欠伸をした。
果たして何のメリットがあるのか分からないが、とりあえず中空に向けてそれらしくジャブを打ってみた。しかし当然のことだが、ぼくの力一杯のジャブは空を切るばかりで、虚しさ以外の何を生み出すこともなかった。
ぼくはしばらく無意味にジャブを繰り出し続けたが、やがて手を止めて彼に尋ねた。
「こんなもの打って、一体何になるんです?」
ぼくはもう一度ジャブを打ってみた。
「私が言いたかったのはだね、そんな意味も無く空中にジャブを放てということじゃないんだよ、君」
彼は呆れたように言った。
「じゃあ、何に打てば良いのですか?」とぼくは尋ねた。
彼は「ふふん」と鼻で笑った。
「夢とか目標にだよ」
彼の言うことがいまいち理解出来なかったので、ぼくは首を傾げて見せた。すると、彼はくつくつと笑った。
「君、将来の夢はあるかい?」
「将来の夢、ですか」
ぼくは人差し指を顎に当てて色々考えてみたが、「これがぼくの夢です」と言えるようなことは見当たらなかった。
「強いて言うなら、公務員になることですかね」
目下のところ、ぼくが目標に据えているのは公務員になることだ。しかしそれは夢ではないような気がした。
「全くもって地味な夢だね」
彼はまたくつくつと笑った。全くだ、とぼくも思う。
「公務員になるために、何かしていることはあるかな?」
「勉強はちょいちょいしてますよ」
「それだよ」と彼は言った。「それがジャブだ」
ぼくはまた首を傾げた。
「勉強がジャブですか?」
「そうだよ」
いよいよ彼が何を言っているか分からなくなり、とうとうぼくは考えることを放棄して、「なるほど。まぁ多面的に見ればそういう考え方も出来ますね」とお茶を濁した。
そんなぼくを見透かしているかのように「今、君は理解することを諦めたね」と彼は言った。
彼に視線をくれてやると、彼のつぶらな瞳がぼくを見据えていた。ぼくは黙ったまま、ぐつぐつと茹った鍋焼きうどんを一本啜った。熱さは微塵も感じなかった。
「仕方がないので噛んで含めてあげよう。君は公務員になりたいというけれど、公務員って簡単になれるわけじゃないだろう。公務員試験は範囲が広くて大変だって言うじゃないか」
ぼくは頷いた。
「さて、手強い公務員試験を倒すには一体どうしたらいいか。残念なことに奴は渾身の右ストレートやアッパーで倒せるほど弱くはないんだよ、多分。そもそもそんな大振りなパンチは当たりもしないだろうね。そこでジャブだよ。ぺちぺちと打てるだけのジャブを打って公務員試験を弱らせるんだよ」
「ははぁ」
ぼくはまずまず得心した。
「つまり万事大技一発で上手くいくほど甘くないから、打てるだけジャブを打っておけと、公務員試験を相手にするぼくの場合はやれるだけ勉強しておけと、そういうことですね」
「簡単に言うとそういうことかな。どんなことにも手を打っておいて損することはないからね。目標に向けてやれるだけのことはやっておこう。ステップアップに大事なのはジャブだよ、君」
「ステップアップのジャブ」とぼくは呟いた。
ぼくは両腕を組んで小さな唸り声をあげた。それから腕を解いて尋ねた。
「でもわざわざ、ジャブを打て、なんて今一つピンと来ないことを言わなくても良かったんじゃないですか。もっと簡潔に言えたのでは?」
「私はね、死ぬまでに格言を残したいんだよ」
彼はあっけらかんとした口調で言った。
「どんなことでも遠回しに言うとそれっぽくなりそうじゃないかな?」
それはあるかも、とぼくは思った。
そこではっと目が覚めた。
十時前だった。外からキジバトの鳴き声が聞こえた。
「ステップアップのジャブ」
ぼくは夢の中で猫が言っていたことをぼんやりと思い出した。目標に向けてやれるだけのことはやっておこう、彼はそう言っていた。
「目標かぁ」と頭を掻きながら、ぼくは呟いた。
充電していた携帯電話を手に取り、「昼飯を一緒に食べよう」という内容を上品な包装紙で包んだような、折目正しいメールを後輩に送った。送った後に「はて、これはジャブになるのだろうか」と首を傾げた。
それから、携帯電話をジャージのポケットに入れ、きしきしと悲鳴を上げる窓をこじ開けた。外から日の光と共に新鮮な空気が入り込んで来た気がした。
不意にポケットの中の携帯電話が振動し始めたので、確認して見ると、先ほどメールを送った後輩からの返事がもう届いていた。
おそるおそるメールの中身を見たぼくは拳を握りしめて拳の外に向けてジャブを放ってみた。
陽光を浴びるぼくのジャブは、何だか黄金色に輝いていた。