郁也門「傘の町で、日の明かりと影」

 ねじ巻きの人形はおもむろに立ち上がって言いました。「ねえ、お日様を見ようよ」
 フランス人形は、ゆっくりと顔を持ち上げて、そんな彼を見上げました。

1.

 ある日のこと、路地裏に子供が二人いました。二人は木箱の上に座り込んでいます。どうやらここまで、思いっきり走ってきたようです。今は息を整えている途中です。
「僕はね、こんなでっかい傘の下じゃあ退屈なんだ!」両手をうんと広げて、ねじ巻きの少年は語りかけます。
「だってさ、ごらんよ。この街全部が日かげになっちゃってるんだもんな。じめじめしててさ、陰気でさ、こんなんじゃ病気になっちゃうよ。だから僕は、日なたで暮らしたいんだ!」
 ブリキの腕を振り回して力説する少年は、どこか楽しそうです。
 フランス人形の少女は、まだ息が弾んでいて、「それで」と一言いうのも精一杯なようです。「私を、巻き込んで、どういう、おつもり、かしら?」一言一言を区切って、彼女はようやく言葉にしました。
「そりゃあね!」少年は、嬉しそうに、まるで悪戯が成功したかのように笑います。「君が退屈そうだったからさ! 毎日毎日ダンスのお稽古ばっかりでさ、僕たちみたいなのを三階から見下してるんだもんな。お高く止まってくれちゃってさ。僕はぴんと来たね、そうやって人を見下す奴は大体つまんないからそんなことしちゃうんだ」
あけすけで遠慮のない少年の言葉は、彼女のどこかを刺激したようです。きっ、と少年をにらむと、彼女は強い口調で言い返します。「あら、そんなこと、ないわ! もし、そうだったとして、お節介よ!」
「だってさ、考えてごらんよ」だけども、少年はまったく少女に取り合いません。「自分と他人をさ、比較するのってさ、無意味なことだと思うんだな。なーんにも一致してないんだもん。しかもだよ、自分の人生と無関係なやつ相手だったらなおさらさ。そんな無意味な事をやってさ、暇つぶししてるのってさ、実は退屈な人間だけなのさ、大人とか」
 少年は、後半につれて口調が、すねた子供のようになっていきました。それを何となく嗅ぎとったのか少女は、得意そうに言い返します。「あら貴方、お子様なのね」
「何でさ」
「何でも何も」少女の息は、そろそろ整ってきたようです。はっきりと少年を見据えて、彼女は言い聞かせます。「貴方ね。他人を評価しないとだめなのよ、大人は。……いいかしら。大人はね、失敗できないのよ。そして大人はね、社会の一員なの、貴方みたいな木偶の坊の子供と違ってね! だからね、どうしても社会生活の上で人付き合いしなきゃいけないの。そんなときにね、相手の人が一体どんな人なのかってしっかり見定めないといけないのよ、自分より偉いか、偉くないかって」
「そんなのどうでもいいじゃんか、人に偉いも偉くないもないよ」少年は、彼女の言葉がいったん途切れたのを見計らって、口を挟みました。「だいたいさ、人間は失敗する生き物だよ。大人だって失敗するじゃんか。何で失敗できないのさ」
「当然よ!」少女は胸を張ります。まるで少女が大人の立場であるかのようです。「背負ってるものが違うのよ! 貴方みたいに、自分が失敗するだけなんだったらまだいいわ。でもね、大人は責任が伴うの! 失敗したら、失敗した分だけごめんなさいをしなきゃいけないのよ、偉い人に! 偉い人はそれを、上手い具合に許す責任があるのよ。そうやって社会は回ってるんだわ」
 当たり前といわんばかりの口調の彼女に対して、少年は、どことなく腑に落ちない表情をしています。「責任って何さ」
「そんなこといってるうちは、子供だわ」少女は、そういってそっぽを向きます。「いつの間にか背負わされているの。そして、それを背負ってなきゃ一人前になれないわ。お買い物することも、お洗濯することも、お料理することも、お仕事することも、全部ね」
「よく分かんないや」少年も、同じようにそっぽを向きます。「それってさ、多分たいした事ないよ。責任って多分さ、社会の中で生活する人が守んなきゃいけない義務ってことだよ。社会ってのは結構、持ちつ持たれつだもんな。弱いやつは生きていくために、社会が必要なんだよ。一人じゃ何にもできないからさ、社会の仕組みに助けられているってわけ。一人前ってそういうことだろ?
良い環境で働いて、お(・)給料もらって、そのお(・)金でお(・)服を買って、お(・)ご飯を買って、お(・)家を買って、んで、お(・)あったかいお(・)風呂に浸かって、お(・)布団で寝るんだ」
「貴方さっきから何様のつもり?」からかうような言葉に、少女はとうとうしびれを切らしたようです。少年の方に向き直って、声を張り上げます。
「君みたいに裕福じゃないんだ」少年は、ちらりと冷ややかな目線を投げかけます。見れば少女は、少年の言葉に刺されたような顔をしていました。
(僕の身なりを見て同情でもしたのか)
 それでも構わず少年はたたみかけます。「僕は、服もご飯も拾わなきゃいけないし、家はないし、お風呂は水だし、布団はビニールだし。それにさ、責任なんて聞いた事もないや。だけども僕は一人前さ。社会なんてなくったって生きていけるよ」
「……貴方は社会の鼻摘みものよ!」ようやく少女は、それだけを言い返しました。
「そうさ!」少年も声を荒げます。「社会のヤローは何でもかんでも要求してきやがる。頭に来たよ! 何かにつけて、やれ責任、それ責任! でもさ、社会のヤローは僕たちに責任なんて取ってくれはしないじゃんか! 社会の言う事へこへこ聞いてさ、そしたら幸せな人生送れるのかよ! 僕たちみたいな路上の人たちにはね、そんな真面目だった人間がいっぱい居るんだ!」でも、と少年はいったん言葉を切りました。「社会のヤローは簡単に彼らをクビにしたんだ」
「……それは」
「これでも僕が何様かわからないかよ。人間様さ。人間様なんだ。一人前に扱ってくれよ」
 少年は、少女の言葉に覆いかぶせるように、そして投げやりに吐き捨てました。言葉の後ろの方からは、もはや悲鳴のような、そんな痛みがもれ出ていました。
 少女は何かを言いかけて、そしてそれを胸につっかからせたかのように黙り込んでしまいました。ようやく、搾り出すように言葉が出てきました。「……でもね、きっと自己責任よ」
「自己責任!」それだけ言って、少年は小馬鹿にしたように鼻で笑いました。それでも少女は、言葉をゆっくり続けました。
「あのね、理想を言うのは簡単なのよ。理想を言えば、社会は皆を助けるべきだし、皆は助かるべきよ。でもね、現実はそう上手くいかないものなのよ。上手くいかないと知りながら、皆それでも責任を果たすのよ。上手くいかないものを上手くいかないと割り切ることも、きっと、大人なの……」
 少女の言葉は、だんだん尻すぼみになっていきました。言い終わるころには、少女は俯いていました。その姿は何かをこらえているようにも見えましたし、あるいは自分に言い聞かせているようにも見えました。
「ますます分からないよ」少年は、どこを見ればいいのか分からなくなりました。ただ、少女を見るのはいたたまれないような気がしたので、もう一回そっぽを向くことにしたのでした。「そんなの、やせ我慢してるだけさ。いつか耐え切れなくなっちゃうよ」
 そして、そのまま二人は黙ってしまいました。一言だけ、少女が「ごめんなさい」と呟きました。少年も「こっちもごめん」とだけ呟きました。それっきり、また沈黙がやって来ました。

 しばらくして、少年はゆっくり立ち上がりました。
 少しだけ少女を振り返ると、明らかに元気がない様子でした。
 少年は言いました。
「ねえ、お日様を見ようよ」
 そして、そのまま動かないで少女を眺めていました。
 少女は、今まで俯かせていた顔を持ち上げます。沈んだ顔。その瞳はどこか遠くを見るようにぼんやりとしていました。
(この子は、お日様を知らない)
 少年は考えます。
(そうさ、知らなかったらきっと、一生この瞳にはお日様は映らないんだ)

2.

 高い塔を取り巻くらせん階段の途中。
「もう少しで昇りきれるから」
 少年の言葉は、しかし少女にはなに一つ励ましになっていませんでした。彼女の足はもう悲鳴をあげています。足だけではありません、わき腹もきりきり痛むし、息苦しさも相まってもう休みたいほどです。
(こんなこと何年ぶりかしら)
 息を切らしながら、でもあきらめずに少女は駆け上がって行きます。
(こうやって走りつかれたら、泥のように眠るの。本当に子供のころみたい)
 石の階段の上で二人は、果てしない上を見上げて足を動かします。少年の言葉が事実だとしても、まだまだ石段がうんと高くそびえています。
 階段の途中で上を見上げると、傘のようなものが見えます。あれが町を覆いつくす屋根なのです。
「ほら、あんなに、近く見える」
 近く? と少女は思いましたが、口には出しません。それほどの余裕がないからです。さすがに少年も息が上がってきたようで、ペースが少しばかり落ちています。でも、二人とも足を止めません。
(なんで私たち、走っているのかしらね。走る必要なんてないのに)
 それでも、走るのがふさわしいような気がして、彼女は歯を食いしばります。長い長い上を見て彼女は一人、思いました。(きっと走るのをやめたら、上ろうと思わなくなるわ。だって上が果てしないんですもの。足をとめてしまったら、もう上ろうという勇気が生まれない。きっとそれぐらい高いんだわ、この塔は)
 冷たい、そしてざらりとした材質の塔は、どうにもなかなか重厚そうな見た目で、時おり芸術的な模様が彫られていました。少女はそれをぼんやりと視界の端に映しながら、上に上にと進んで行きます。
「高いだろ」不意に少年の声が聞こえました。「多分僕は、この塔が、人生を、あらわしているような、そんな気が、するんだ」
「どう、して?」と彼女は返事しました。人生、という言葉は、彼女の中の塔へのイメージを端的に表現していました。
「一度、あきらめたら、もっと、勇気が、必要に、なるからさ」
 このとき少年は、どこか不敵な笑みを浮かべていました。
(似ている)
 少女はこのとき、ようやく少年と共通するものを見つけたような気がしました。今あきらめると、もう一度再開するときに同じようにはいかない。だから今がんばるんだ、ということ。
 しかし同時に、心のどこかにとげが刺さったような気持ちになりました。
(似ている、けど違う)
 私には再び勇気を搾り出すなんて、無理。
 そんな言葉が、心の中でリフレインします。
「ほら、つかまって」
 不意に、少年の手が少女に差し伸べられました。一瞬少女はなんだかわからずに、しばらく少年の手を見ていました。しかし、少年が怪訝な表情で「大丈夫か」と覗き込んできたとき、ようやく意味がわかりました。
(ああ、私は心配されているのね)
 気が付いたら、少女はもう走るのをやめていました。いえ、到底走っているとは思えない速度で足を動かしていました。そんな様子に気が付いた少年が、少女を心配したということだったのです。
(彼は気づいているのかしら)
 ふと、少女は考えました。
(人生にたとえたこの塔で、途中で異性に手を差し伸べるその意味を)
 でも、躊躇したのは一瞬のことで、彼女はとりあえず、彼の手をとるのでした。

3.

「ほら、遠くが見える」
 少年はそういって少女に話しかけました。少女は、一言「うん」とだけ返事しました。
 二人は、とっくに走ることをあきらめていました。こうして二人で、ゆっくりと景色を楽しみながら上ることに決めたのです。
「あれが時計屋さ。そしてあれが君のダンス教室。こうしてみると、ちっぽけなもんだ」
「そう」
「……怒ってる?」
「いいえ、まさか。ちっぽけだと思うわ、人間って」
 不意に。少年は少女の方を向き直りました。彼女がらしからぬ言葉をいったような気がしたのです。でも少女は本心からそう思っているらしかったのです。
「ちっぽけ、って?」
 だからでしょうか、少年は確認せずにはいられませんでした。
「……私。私、流されるだけなんだもの」
「どうしてさ」
「……」
「……」
「……あのね。私結婚しなきゃいけないの。身分のしっかりした人と」
 少年は足を止めませんでした。でも、一瞬だけ虚を突かれて、少年はどきりとしてしまいました。
「ダンスも、お勉強も、そのためのものなの」
 ごめんなさい。
 彼女の言葉は、そんな言葉が聞こえてくるような独白でした。
「……」
 少年は、それでも足を止めないで進みます。足を止めないままに、でも頭の中は彼女の言葉でいっぱいでした。思い返せば、いままでの彼女のセリフは、彼女の現状を訴えたものだったのです。そう思うと、どのセリフもすんなりと理解できるものでした。

 あのね、理想を言うのは簡単なのよ。

(このままじゃ本当に、彼女は、お日様を知らないことになる)
 少年の胸の中に言い知れぬ感情が沸きました。
(あれを目にして、おんなじ言葉なんていってられるものか。僕たちはまだ若いんだから)
 そのときのことです。二人はようやく、天井に扉を見つけました。

4.

「開けてもいいかい?」
「……」
「……ん」
「……いいよ。開けて」

 少女がうなずいて。彼は扉を開けて。
 二人に飛び込んできたのはまぶしい日差しでした。あたり一面を白く塗りつけるかのように、太陽が強く輝くのです。
 扉をくぐれば、目に映ったのは、無造作に生えている植物の数々でした。一つ一つ形が奇抜で、そして、どれも力強く上に伸びています。
 周囲は、込み合った街中よりも遥かに広く、そして視界がとおって見えました。

(本当に、明るい)
 少女はそう思いました。日陰で暮らす毎日に慣れきっていた彼女には、目の前の光景は新鮮で、そしてひどく不思議でした。見渡すばかりにひとつ、またひとつの露の照り返しがきらめきます。
「ね、綺麗じゃない?」
 少年の声が聞こえます。
「これを目の当たりにして、何も感じない人間なんているものか」
 少年は笑顔で、それもしてやったりという様で少女の方に向き直りました。
「僕は君に、これを見せてあげたかったんだ」

 少女は、そのとき突然、彼との距離を悟りました。

 今までにこの景色を見てきた彼と、これを見てこなかった彼女との間には、確かに、目に見えないながらも大きな違いが、溝がありました。
 彼の宝だったこの景色は、同時に、彼の朗らかで力強いような、そんな性格の理由でも、また彼の心の故郷でもあったようです。
 自分の心は、どうにも彼にはつりあわないことがはっきりとわかりました。
(太陽に照らされて、影がわかる)
 どうあがいてもちっぽけな、そして弱い彼女は、自分の役回りを痛感していました。
 ……。光のそばには影はいない。ただ、主体性が無い影というものは、光がないと形が明確にはわからない、そして影の形は影自身ではなく、影を作っているものによって決まる。光を避けるように存在しながら、ともすればすぐに、自分の形をあいまいなもののままにしようとする。
 周りが暗いことに慣れ親しんで、周りに溶け込んで、そうやって影は、求められる役割だけを演じていく。
(彼のように、自分だけで完結して生きていくことは、できない)
 それに、影はすでに自分の立ち位置を甘受している。自分にはこういう生き方しかできない、いままでそうやって生きてきたし、これからもそうやって生きていくのだろう。
 それに、光と影には優劣なんてない。自分は世間体を守るために、望まない結婚をしなくちゃいけない。でも、家族が喜ぶのなら、納得してもいい。
 それに、すぐに周りの影に溶け込める自分と違って、光は、自分の色を明確に持っていて、ほかの何とも交わらないで生きている。彼は、ほかのものの助けなどもなく、一人で生きている。
 結局、生き方の違いなのだ。不器用な私には、この生き方しかできないし、この人生観は間違ってなんかないと思う。社会に対して責任をもって生き、多少の理不尽は仕方ないと思って、それでもなお生きるしかない。同じように不器用な彼には、自分を助け自分で生きる、その生き方しかできない。理不尽を不自由と感じて、自由を求めて社会の外で生きるしかない。

 でも、彼は私にこの景色を見せてくれた。社会の鼻摘みもの呼ばわりして、自己責任だの、理想をいうのは簡単だの、大それたことを言う私に。
 彼の理想はシンプルで、この不自由な世の中から出て、日なたで暮らしたいというものだった。
 この光景は、彼の宝なのだ。誰かにとってはどうでもいいような、見ようとも思わないような、そんな遥か高い塔の上にある、彼のお気に入りなのだ。……。

 これを目の当たりにして、何も感じない人間なんているものか。
 僕は君に、これを見せてあげたかったんだ。

 彼の言葉は、彼女の心のどこかを揺さぶりました。
 それは、理想を知らない自分に、自分の理想をもって答えてくれた彼への気持ちでした。
(まったく、もしこれで私が感動しなかったらどうするつもりだったのかしら)
 くすくすと、小さな笑いがこみ上げてきます。少年が怪訝そうな顔をしてないかが心配です。案の定彼は不思議そうにこちらを見ています。でも、その様子を見た時、いろんな想いが沸きあがりました。
「……ありがとう」
 少女は、静かにつぶやきました。そしてそのまま、涙を少しこぼしました。
 理由は彼女にもわかりませんでした。ただ、体の疲れも、そしていろいろな感情も、全部が一度に押し寄せてきて、彼女のなかで抑えがつかなくなったのでした。
 隣で見ていた少年は、いよいよ慌てました。ただただ、それを戸惑いながらも慰めるしかありませんでした。

5.

 あれから。少年は少しだけ考えました。少年はただ、自分のお気に入りの、それも飛び切りの宝物を見せてあげたかったのです。それを知らないで生きてきただろうから、きっと何か変わると思ったのです。
 少年の予感は正しいものでした。あのときの経験は、彼女を少しだけ変え、少しだけ大人にしました。少なくとも少年には、そう見えました。
 あの日の会話のおかげで、少年も、少しだけ大人になるということを知りました。あのころのような、鋭く、力強く、わんぱくで、でもまっすぐな生き方だけじゃない。彼はもっと不器用な生き方を知ったのでした。彼は、時計屋の見習いとして働くことに決めました。理由は、彼女のダンスが見えるからです。
 彼のようなはぐれ者が見習いになるには、ひたすら頭を下げ、ひたむきにお願いするしかありませんでした。そうしてようやく、彼は周りと溶け込んで生きることになりました。

(思うに僕は、理不尽にたいして妥協を知らな過ぎたのかもしれない)
 少年はふと、そう考えます。今の自分は妥協を知って、いささかあのころのようには、まっすぐは生きられないと、たいした訳もなく思うのです。歯車の心は、今は少し丸くなったようです。
 それでも、まっすぐ生きたなりにいろんなことが彼の思い出として残っています。今でも傘の上の眩しい光景は、彼のとびきりの宝物で、秘密の場所です。
(果たして僕は、少しは成長しただろうか)
 ふと、少し昔に彼女と言い合った、大人の論争が脳裏に浮かびました。責任が云々だなんて肩肘張ったのに、なんだか肩透かしのような、それでも疲れるような、そんな毎日です。

 ひとつ、彼にうれしいような、そうでもないような、そんなことがありました。
 フランス人形の彼女は、すこしわんぱくを覚えて、今も結婚せずダンス教室に通っているのでした。結婚の話は、どうやら相談の結果、延期になった様子です。
 もはや彼女は、お飾りさんじゃないのです。
 今でも時々、ダンス教室から彼女の姿が見えます。彼女は時々、目線が会うと微笑んでくれるようになったのです。
 少年に残された時間はあまり長くはありません。でも、もしそれまでの間に一人前に、立派になることができれば、そのとき。
 少年は、彼女にまたお誘いをかけることができるかもしれません。
「ねえ、お日様を見ようよ」と。