沖野きお「わが宿敵Kについて」

 肩にくい込む鞄を下げて三階まで階段を上り、やっと着いたわが家の扉を開いた。肩からずれ落ちた鞄は大きな音を立てて玄関へと落下する。あきらかに重そうな音。これを自分が一日肩にかけていたと思うとぞっとする。ため息をついて、ロングブーツを脱ぎ捨てた。
 今日も、疲れたなあ。
 鞄を引きずりながら廊下のスイッチを押すと、部屋の中が明るくなる。白と薄いピンクで統一された部屋の真ん中に彼はいた。
 冬の寒い中自転車を漕いだせいで体中冷えている。心身共に疲れ切ったその隙をついて、彼はそっと私に寄り添ってくるのだ。おかえりなさい。僕の隣あいてますよ、なんて。そんな甘言に踊らされ、陥没する毎日を私は送っている。なにせ彼は今まで多くの老若男女を落としてきた強者である。その伝説は数え切れず、どれほど切羽詰まった状況であれ、どんなに甘い状況であれ、全てをぶち壊し絶望へと陥れる。彼と過ごす時間ほど至福な時はない。だが時が経ち彼がそのぬくもりを失ったとき、私たちは絶望を知るのだ。ああ、やってしまった。こうなると分かっていたのに。そんな言葉は後の祭りでしかない。それでも私たちは彼から逃れることなどできないのだ。すっぱりと彼との縁を切らない限りは。もう彼はホストにでもなればいい。きっとぼろ儲けに違いないから。
 私の肩を圧迫し続けた鞄の中には今週締切の課題たちが詰まっている。時間はあったはずなのに、いつの間にか提出期限は目の前だった。いつもいつも帰って来る度に私は彼の隣に座ってパソコンに向かっていたのだ。しかしそのうちだんだん気持ちよくなってきて、色んなことがどうでもよくなって、そして目が覚めれば朝、その繰り返しであった。そうして気が付けばほとんどが手付かずのまま、明日締切のレポートが二つ。明後日締切のものが一つ。明々後日はなくて、その次の日に二つの課題が残っている。なんだかもう見るからに絶望的だった。
 鞄を彼の傍に置いてやかんを火にかけ、洗濯物を取り込んだ。その間にコンビニで買ってきたお弁当を温め、お湯が沸けば麦茶のティーパックをそのままやかんに放り込み、お茶を淹れて、晩御飯になる。テレビをつければだらだらしてしまうことは分かりきっていたから沈黙のまま、彼の隣で食事をした。彼の隣は危ういことこの上ないが、食事をする以上他に場所などない。とは言え、沈黙したままの彼はまだ無害だ。寒くない? なんて問いかけてくる、そんなのは幻聴に違いない。早々に食事を終え、空の容器はゴミ箱に、食器は水につけて、やかんの中のティーパックを捨てる。それから私は彼の傍で今週提出しなければならない課題の資料を積んでみた。彼の半分よりほんの少し高い歪な山ができた。ため息をついてその一番上の本をとれば、無造作に積みあげたせいで山はほんの少し揺れて、それでもバランスをうまくとれたようで安定した形に戻った。それを見届けてから彼の隣でパソコンを立ち上げて、私は課題に取り掛かることにした。


寒くない?
寒くない。
本当に?
本当に。
うそだろ? 手、震えてるよ。
パソコン打ってるんだから手が冷えるのは当たり前。
手だけじゃないだろ? 今日の最低気温知ってるか?
一℃でしょ、それがなに。
寒くない? エアコン壊したくせに。
直さなかったのは後悔してる。けど寒くなんかない。
うそつき。僕が暖めてあげるよ?
いらない。あとで後悔するって知ってるから。
寒い中やったってどうせ集中できないよ。
そんなことない。
やせ我慢もいい加減やめたら?
うるさい。


 課題をしている間、彼は常に私に語りかけてきて邪魔をしてくる。本当に腹が立つ。鬱陶しいことこの上ないが、実際寒いことは事実ではある。立ち上がってやかんを触るとまだ温かかった。お茶を淹れてほっと一息。
 やはりこの前エアコンを壊したのは痛かった。私には彼がいるから冬は大丈夫なんて高を括っていたのが間違いだったのだ。彼は冬の味方なんてものではない。敵だ。それも最大の、ゲームならラスボスというやつである。敵をわが家にいれてしまうとはなんたる不覚。一度招き入れてしまえば追い出すことなどできない。先輩から彼を紹介されて歓喜喝采だったあの頃が懐かしい。今の私はもう彼を恨めしい顔でしか見ることができないのだから。
 お茶を淹れたマグカップをパソコンの隣において、もう一度彼の隣に座る。ぶるりと私の体が震えた。最低気温一℃の夜である。彼に強がりを言ったって暖房のない家で寒いのは当たり前。三分の二まで書いたレポートを一度保存して、彼の中に体を沈めた。少しだけ暖かくなった気がする。それでも、まだ寒い。
 ……ほんの少しだけ、暖かくしてもいいかもしれない。
 あくまでも温度は最小で。だって、寒いままじゃ集中できない。三分の二まで書けたとはいえ、まだもう一つのレポートが残っているのだから。今日中に終わらせることを考えたら、効率は少しでも上げたい。だから、これは別に彼の言葉に負けたとかそういうのではなくて、戦略的撤退とか、そういうやつだ。
 ぱちり、と小さな音が鳴って徐々に彼が温かくなってくる。じわりじわりと足の先端から熱が移ってきた。今までとの温度差に痺れるようだ。気持ちいい。私は鼻の下まで彼の中に体を埋めてそれを堪能した。暖かいって素晴らしい。一度その暖かさに慣れてしまえば今度は物足りなくなる。最小から少しだけツマミを回せば、彼はまたその熱を大きくした。ああ、気持ちいい。快楽は私を魅了し、頭はだんだんぼんやりしてくる。何かを、しなければいけないはず、だったのに。すっぽりと私を覆う熱は私をどろどろになるまで甘やかして、囁きかけてくる。もう何もしなくていいんだ。目が次第に開けなくなってきて、閉じる直前にいつの間にか画面が暗くなっていたパソコンが目に入った。そう、私はレポートをしなければいけなかったのだ。でも、もう三分の二も終わってるし、もう一つは四限に提出だからまだ時間はあるし、だから大丈夫なはず。だって、どうしようもなく眠い。
 だから、おやすみなさい。

 こうして私は朝の陽射しが窓から差し込む頃、彼の中で目が覚めて再び絶望するのだ。でもそれまでは、幸せなひとときを過ごそうと思う。



 これは、わが永遠の敵――炬燵と私をめぐる勝負にすらならない戦いのひとつである。