師父「死者の殺し方」

 ♣♣♣

「こっちにもあるよ!」
 冬都君が元気に言う。彼が指差す叢の陰には、空き缶が落ちていた。僕がそれを拾って、手に持ったゴミ袋に入れている間に、冬都君は次のゴミを探す。
「お、永井、かなり集まってるじゃん」
 クラスメイトから声が掛かった。彼も同じようにゴミ袋を握っているが、その膨らみは、僕のそれの半分程か。
「幽霊に手伝ってもらってるからね」
 ニヤリ、と笑って見せる。普段まともなのに変な奴と思われるより、変なところはあるけれど他はまともな奴と思われる方がいい、と気付いたのは最近のことだ。
「はいはい、そのネタは飽きたから」
 呆れたように彼は言って、手をひらひらさせながら自分の作業に戻って行った。視線を戻すと、また冬都君が手招きをしているので、僕は小走りで彼の下へ向かった。
 今、僕らは学校行事の一環として、地域清掃、河川敷のゴミ拾いをしている。朝の十一時に始まって、休憩を挟んで昼の三時まで。割と長い時間拘束されるため、大体の生徒は嫌がっているが、生徒全員強制参加なのでしぶしぶ働いている者が大半だ。それでも熱心にゴミを探す生徒も二割程は居て、僕もその中の一人ということになる。そして、今のところ間違いなく、集めたゴミの量で言えば、僕がトップだろう。直ぐに一つ目のゴミ袋が一杯になって、所定の開けた場所に置きに行くことにした。
「冬都君、楽しそうだね」
 ドサ、と袋を置くと、西本さんが近付いて来た。
「そうだと、いいんだけど。最近あんまり構ってあげられなかったから」
 普段は可愛らしい印象の服を着ている西本さんが、ズボンを履いているのは中々珍しいな、と思いつつ返す。
「永井君の役に立てることが嬉しいんだね」
 なんだか、歳の離れた兄弟みたい、と彼女は笑う。
「優しい子だからね」
 冬都君は、幽霊だ。だから、僕と西本さん、そしてもう一人を除いて、クラスの誰にも彼の姿は視えない。
 詰まる所、僕は霊が視える。しかし、生まれつき、という訳ではなく、六歳の時、父が死んだ日を境に視えるようになった。西本さん曰く、死んだ相手に会いたい、と強く願うことで霊視能力が発現することもあるらしい。
「冬都君が張り切ってるから、僕もちょっと頑張らないと」
 そう言って、作業に戻ろうとする。うん、頑張って、という西本さんの声に、ふと思い返して聞いてみた。
「そう言えばさ、拭義は? 姿が見えないんだけど」
 拭義は、もう一人の霊能者だ。除霊師をやってるくらいで、三人の中で最も霊に詳しい。僕には人間の霊くらいしか視えないし、あの人間の霊であっても、僕と関係性の強い相手しか視ることが出来ないが、拭義は、動物や虫の霊も視えると言う。
「あそこ、橋の上にいるよ」
 西本さんが指差した先には、街のシンボルと言うべき赤い橋が掛かっている。視力の悪い僕には見え辛かったが、辛うじて拭義と、担任の根津先生の姿が見えた。
「多分、川に近付きたくないんだと思う。水場は悪いモノが溜まり易いし、力の強い拭義君は、影響を受けやすいから」
 西本さんが説明してくれる。力という表現が正しいのかは分からないが、三人の中で霊に対して最も無知なのが僕であり、そういうモノに対する耐性も低い。
「拭義が危ないなら、僕や西本さんはもっと危険じゃないの?」
 ふと、思ったことを聞いてみる。ああ、と目を開いて、西本さんはクスリと笑った。
「永井君は大丈夫。そういう悪いモノが見えないから、影響も受けにくいの。寧ろ一般の人に比べて耐性が在る分、一番安全だよ。私は……うーん、そもそも影響を受けにくい性質だから」
 西本さんはまた今度説明するね、と言って、指を伸ばした。冬都君が待ってるよ、と。
「ああ、そうだね。またお願い」
 軽く手を上げ、小走りで戻る。そうか、西本さんは、『そういう悪いモノ』が見えるのか、と考えながら。
ふと、空を見れば、雲行きが怪しくなっていた。

 ℣℣℣

 ポツリ、と最初の一滴が妙に大きな音を立てた。
「降って来たな……戻るか」
 そう言って、踵を返した彼は、俺が動かなかったことに気付いてこちらを見た。
「風邪引くぞ」
 ぶっきらぼうに言う彼が意外と優しいのだと気付いたのも、この旅行での事だ。
「雨が好きなんだよ。それに、小雨だろ」
俺達は、仲のいい六人で旅行に来ていた。……色々とトラブルはあったけれど、悪くない旅だったんじゃないか、そんなことをゆっくりと振り返る。はしゃいで火照った頬に、冬の風が心地よい。
「そうかい、まぁ、早めに部屋に戻れよ」
そう言って、彼は時計を覗き込み、それから部屋に入って行った。きっと十分か三十分か、彼なりに決めた時間が経って戻って来なかったらもう一度迎えに来るんだろう。
なんだかそういうマメなところが可愛く思えて、思わず笑ってしまった。
 ……段取りをしっかりしろよ、とか、男の癖に虫なんぞに怯えてんじゃねぇよ、とか、言いたいことは山程あるけれど、それも含めて面白かった。楽しかったんだ。
 後一時間程で、夜行バスに乗り、目が覚める頃には家の最寄り駅。それで、呆気無く終わってしまう。
名残を惜しんでいる割に、こうして一人で黄昏ている訳だが、中々どうして、見晴らしがいい。テラスから見える湖は、広さで言えば大したことは無いが、景観で言えば日本有数だろう。ホテルにもこの湖の写真は数多く存在したが、雪化粧をしながら雨に沈む湖という構図は無かったと思う。いつまででも見ていられる、見ていたい。
 気分は最高で最悪だ。この感覚をワビサビとかいうのかも知れないが、まだ楽しめる程達観は出来ていない。
落ち込む心に景色が染み入る。時折雨粒が湖面に作る円環と、それでも掻き消されない灰色。葉が落ちた訳でも無いのに、彩を欠いた森。
 だから、願ってしまった。帰りたくない、と。
 そして、ドン、という衝撃と共に、先程まで鈍い空を映していた湖面に、はっきりと自分の顔が映った。

♣♣♣

 鼻腔を微かにくすぐる埃のような匂いに、僕は再び空を見る。雨は直ぐに降って来た。ポツポツとした穏やかな雨だが、西の空に厚く暗い雲があることから見るに、これから酷くなるだろう。
「えー、始めに言ったように、氾濫の危険があるため、今日はこれで中止とします」
 決して声の大きく無い根津先生だが、皆が予想し、また期待していたその言葉に歓喜の声が上がった。即座に「今から遊びに行こうぜ」といった言葉が出る辺り、元気だなぁ、と同い年の彼らを眺める。全く、まだ先生の話は終わっていないだろうに、と。雨が降ればその量に関係なく中止であると同時に……
「その分、来週の土曜日に延期しますので、皆さん予定を入れないように」
 浮足立ったクラスに水を掛けるような言葉が放たれた。
 今度はブーイングが起こるが、そもそも根津先生も生徒にこういった労働を強制することを嫌っている一人であり、上からの指示に従っているだけなのだから覆しようが無い。それでも解散の一言で、再び皆は活気を取り戻し、本来失われるはずだった半日をどう過ごすかについて話し合い始めた。
「永井、これからカラオケ行かないか?」
 そして、それは僕も例外では無かったらしい。握り拳を肩近くに上げて、親指で後ろを差す浅間。その先には一ノ瀬さん、西本さん、拭義の三人がいる。恐らく浅間が既に誘ったであろう『いつものメンバー』という奴だ。それにしても……
「この格好で?」
 手を横に広げて聞いた。割と生真面目が多いこのグループは、全員が軍手にジャージ、帽子というやる気溢れるスタイルで、遊びの場にはそぐわないだろう。
「『さっきまでゴミ拾いしてたんです』って言ったら、あそこの店長値引きしてくれそうだろ?」
 にやりと笑う浅間に、口元を歪めて返す。
 と、眼鏡に水滴が付いた。空を見ると、雲行きが悪い。雨が酷くなりそうだ。担任の言葉が思い出されて、なんとなく上流の方を見た。
 当然、氾濫などしておらず、流れは穏やかだ。だが、視界の端に何かが映り込んだ。
 橋の下に人がいる。目を凝らせば、金髪の女の子だろうということが分かった。レインコートのようなものを着ている。
「酷くなりそうだね、早めに行こうか」
 皆の方に向き直ろうとしたその時、彼女の視線が僕を射た。冷たい目、人間味の無い光。
 嫌な予感がした。
 振り払うように、横を向き、冬都君に小さく手招きをした。普段の彼は、僕の邪魔にならないように一人遊びをしているのだ。僕には生者と死者の声を聞き分けられないから。
「お待たせ。おし、じゃあ行きますか!」
「あ、永井君も来るの? 五人揃うの久し振り」
「雨だと何も出来ないからね。カラオケっていう意味なら、西本さんと行くの、そもそも初めてかも」
「私、歌下手だから……」
「そんなこと無いと思いますよ」
 淡い期待を込めて、会話に興じる振りをした。しかし、振り返れば、彼女はまだ、こちらを見ていた。
「つかれたな……」
 ゴミ拾いの間、辺りには学生しか居なかった。河川敷に下りるには、数百メートル程離れたところにある階段を使わないといけない。
「疲れた、というか、腰が痛いね。ずっと中腰だったから」
 そんな一ノ瀬さんの言葉を訂正しようか迷って、僕は諦めた。今は、カラオケを、普通に楽しもう。
「大丈夫ですか?」
 気を取り直そうとしたところで、注意が入る。拭義が後ろを見ていた。
「大丈夫大丈夫。死にはしない」
 冗談めかして答えた。アレからは、殺意を感じない。殺意は、僕に向いていない。
熱中症を舐めたらいけませんよ?」
 拭義は呟いた。


カラオケが終わった頃には夕方になっていた。 こっそりと半額値を請求して来た店長に、普段よりやや高い声で礼を言う。未成年の『ありがとう』の混声多部合唱は、対大人に中々の力を持つものだ。人間関係の構築にこれ程便利なものはそうそう無い。
 外は小雨とは言えなくなってきていた。店の前で少し駄弁ってお開きになる……はずだった。
叫び声。野次。サイレン。
僕らは顔を見合せて、駈け出した。自分達には関係ないと切り捨てることは出来ない。僕らが住む町はそれ程大きくはないのだ。家族、友人、同僚、近所の人。関係性がどれだけ離れるかは分からないが、知人かもしれない。何より、騒ぎは先程までいた川の方から聞こえて来ていた。
 一ノ瀬さんと浅間が先に駆け出す。傘立てには五人分の傘がまとめて挿されていた。
「二人とも、傘!」
 即座に三本の傘を抜き、一本を片手で開きながら追い掛ける。
 浅間は直ぐに気付いて一度速度を落としたが、一ノ瀬さんは気付かない。彼女は元々運動神経のいい方だ。僕も平均以上はあると自負しているが、雨の中、傘を差しながらでは追い付けない。
 距離が縮まったのは結局、人混みの脇で、彼女が足を止めた後だった。減速しながらもう一つの傘を開き、彼女の頭の上へやる。
 全力疾走のせいか、彼女の息は完全に上がっていた。
「永井、君……」
 それでも、彼女は何かを言おうとする。後ろから、傘を開けるのに手間取った浅間が、そして、西本さんを待っていた拭義が来る。浅間はまず、一ノ瀬さんと僕を交互に見、それから拭義と一緒に橋の下を見た。
「あ、れ……」
 彼女が指差した時には、僕も既に見てしまっていた。
「一ノ瀬さん、落ち着いて」
 だからこそ、冷静に努めようとした。軽い過呼吸になり掛けている彼女をなだめようとして。
「どう、したの?」
 最後に、それでも全力で走っただろう、西本さんが来た。僕ら四人の顔を見て、一ノ瀬さんの顔を見て。
「あれ、私達と同じ……」
「見ない方がいいですよ」
 一ノ瀬さんの言葉を遮るように、拭義が言った。
 見慣れた体操服の女の子が、橋の下に倒れていた。ただ、零れ落ちる金髪からしか、僕らはあの人物を特定出来なかった。


 降り続いていた雨は静かに止んだ。
「さっきのって……牧さん、だっけ。一年の」
 実は髪の毛を染めることが禁止されている我が校では、ただ一人金髪に染めている牧という一年生は問題視されていた。
「部活中だったのかな……」
 クラスも学年も違うが、同じ学校の後輩だ。拭義以外の全員が、暗い顔をしていた。中でも、一ノ瀬さんはショックを受けているようだ。
「取り敢えず、今日のところは解散にしないか?」
 浅間が言う。
「いや、さっきのは、自殺なの? 他殺なら……」
「永井君」
 拭義が腕を掴んできた。
「……ごめん。ただ、此処で解散するよりも、出来るだけ一緒に帰ろう」
 何より、今の状態で一ノ瀬さんを一人にするのは危険な気がする。そして、もう一つ、僕が一人になるのも危険なのだ。
 全員で歩いている時、拭義が近付いて来て、こう言った。僕にだけ聞こえる声で。
「魔が、差したんでしょうか?」
 電車通学は僕、一ノ瀬さん、西本さんの三人で、そもそも二人は同じ中学校の出身、家も近い。僕は隣の中学で、最寄駅は二人と一駅離れていたが、歩けない距離ではない。偶に、二人に合わせたりもしている。
 高校近くに住んでいる拭義、浅間と別れ、電車に乗る。
「また、月曜に」
 そんな別れの挨拶以降、終始無言で僕らは歩き、一緒に帰る時に別れる交差点まで来た。
「それじゃあ……また」
「うん、また月曜日に」
 少しだけ笑って見せてくれたが、一ノ瀬さんの表情は歪んでいる。
「永井君も、気をつけて」
 西本さんは、そう言って、手を振った。二人の姿が遠くなる。
 魔が差す、というと、突然悪事をしたいという衝動に駆られることだが、僕らにとっては意味が違う。霊が、生きた人間に干渉したと考えるのだ。
 確かに、霊の声は聞こえない、が、思考は伝播する。僕らが雰囲気と呼んでいるモノは、即ち霊の思考だ。脳がない霊にとって、思考は物理的制約を受けず、周りに僅かに垂れ流している状態となるのだ。例えば、悪寒というモノは、悪い霊が居る場所に近付くとよく起こる。
 そして僕には、『魔』が一人しか思い付かなかった。
「冬都君、もう出て来ていいよ」
 立ち止まって、僕は言う。振り返ると、其処に彼がいた。ずっと歩かせると、当時八歳だった冬都君が僕らに追い付くのは難しいため、少しばかり『憑依』してもらっていたのだ。
「カラオケって面白いね!」
 話したくてうずうずしていたであろう彼は、大きな声でそう言った。『憑依』している間は、僕の五感が彼と共有される。
「そうだね、初めてだった?」
「うん、初めて」
「そっか、なら、良かった」
 幼くして死んだ彼は、或いは不幸では無かったかもしれない。けれど、本来見るべきだった幸せの分を、誰かが見せてやらないといけない。そうでなければ理不尽だ。
 軽く頭を撫でてやると、彼は満面の笑みを浮かべた。
「さて、と」
 笑顔は此処まで。僕は、冬都君に、帰るように言った。
 拭義から、西本さんから学んだ知識を反芻して。
「出ておいでよ、そこにいるんでしょう?」
 僕は、ポケットからナイフを出した。


「へぇ、ホントに視えるんだ?」
 彼女はクスリ、と笑った。赤い唇、白い肌。薄く化粧をしているようだ。何より目立つのは金色の癖毛。
「単刀直入に聞くよ、『彼女』を落としたのは君か?」
 透明なレインコートの下には、黄色のパーカーと緑のズボン。靴もランニングシューズというラフな格好。
「一言目が其れかよ、ったく、礼儀もへったくれもねぇ」
 文句を言いながらも、面白そうに口角を吊り上げる彼女。一瞬身構えそうになって、ふと、西本さんの言葉を思い出した。
「気に障ったなら、謝るよ。こっちもちょっとピリピリしてた。ただ、大事なことだから、答えて欲しい」
 ナイフの刃を戻して、ポケットに入れた。
『幽霊になったからといって、他の幽霊が視えるようになる訳じゃないの。だから、どんな幽霊も、話相手に飢えている。会話をする、それだけで楽しくて仕方ない、なんてヒトも大勢いるの』そんな、言葉。
「俺じゃない、って言って、信じるか?」
『西本さんは、ちゃんと、ヒトって呼ぶんだね』そんな、驚き。
「信じるよ」
 静かに観察すれば、伝わってくるものがある。前述の通り霊には脳が無い。肉体という制限が無い。だから、感情がだだ漏れになっている。
 泣きそうだから、というだけで、僕は信じられる。
「だけど、無関係じゃ無い、そうだろ?」
『ちゃんと、ヒトって呼ぶんじゃないよ。それじゃあまるで、幽霊の方が生きた人間より低いみたいに聞こえる。彼らはね、私達が生きている間には決して経験出来ないことを知ってる、立派なヒト達、なんだよ』

『永井君は、それが聞こえるんだから、誰より優しい人に成れると思うよ』それが、当時、霊を嫌っていた僕を変えた、彼女の言葉だ。


「詰まる所、君は突き落とされて、その相手に復讐するために此処にいる、と。にしても、何で最初は追ってこなかったのに、後になって追いかけてきたの?」
最初に彼女を見た瞬間に、憑かれた、と思ったのだけれど。
「雨だったからな」
 レインコートを着ていながら、彼女はそんなことを言った。そして、何かを思い出すように手を隠す。当然、僕にはそれが分かってしまう訳で。
彼女の死因は溺死だ。故に、彼女は水との相性が悪い。死因の再現、それが、唯一確実な、霊の『殺し方』だ。霊が物体に『触れたと感じるか』どうかは、その霊の認識による。壁を擦り抜ける霊もいれば、重力に囚われない霊もいる。けれどただ一つ、一度自身を滅ぼした運命からは、逃れられない。
 彼女の手には、針で刺したような傷が大量にあった。それが、ただ雨に打たれた、それだけの理由で出来たものだと理解するのに時間は掛からなかった。
 家に帰って僕は救急箱を漁った。その中から『有効なモノ』を探す
「ん、手を出して」
「は? 何でだよ」
 と、彼女は渋ったが、説明するのも面倒なので、無理やり手を引いた。人間の体温とは思えない程の冷たい感触を、錯覚する。……少なくとも、彼女が触れられる霊で良かった、と思う。
「治療だよ」
 絆創膏を広げて、彼女の手を素早く通過させる。本当は消毒したいんだけどね、と謝りながら。
 彼女の傷口には、すり抜けたはずの絆創膏が残っている。
「お前……」
 彼女は驚いて自分の手を見た。今まで、霊に詳しい人間に出会えなかったのだろう。
「幽霊の状態は、全て本人のイメージで決まるんだよ。まぁ、拒絶型で無くて良かった」
 そう、絆創膏を貼られたと本人が思えば貼られている。壁をすり抜けることが出来ても、先程のように生きた人間には干渉されることがある。特に、『霊の見える人間ならば、霊に触れられる』、という認識が広く為されているためか、僕は比較的多くの霊に触れられるようだ。が、理論的なタイプに多いのが、肉体が無い以上物理的な干渉はあり得ないと信じ混んでいる霊で、僕はこれを拒絶型と勝手に呼んでいる。拒絶型には、僕も触れることが出来ない。
「さて、話を戻そう。僕も、正直君に長居されると困るし、何より……此れ以上被害者は出させない 君を突き落とした奴の情報は? 何か覚えてることはない?」
 霊には強い想いがある。それが無ければ霊として自身を保つことが出来なくなり、消滅する。やり残した事であることが多いが、その想いが失われれば、矢張り此の世界に留まれなくなる。後者の消滅方法を、僕らは成仏と呼んでいる。
「はっきり覚えてるぜ。外見も、名前も、性格も、な。何せ、俺を突き落してきた時、仕返しに引き摺りこんで道連れにしてやったくらいだ。水の中で脳裏に焼き付けたさ」
 恨みの籠もった眼。怒りが、静かに伝わってくる。
「え……、それじゃ何か? 君は、既に死んでいる、いや、既に殺し返した人間に、更に復讐をしようと?」
 犯人は、拭義の言うとおり霊ということか。にしても……
「ったりめーだ。あの程度で収まるか!」
 彼女はヒトじゃない、と、そう思った。復讐の為に存在する人形だ。
 そうか、これは、茶番なんだ。
「性格もってことは、友達、だった?」
「ああ」
 彼女はぶっきらぼうに言う。
「どんな人だった?」
「最低のクズ野郎さ!」
 彼女は吐き捨てるように言う。
 それでも、友達だった、そうだろう? という言葉は、口の中で消えた。
「分かった、じゃあその復讐、手伝うよ」
 そう言うと、彼女は本当に幸せそうに、笑った。
 こういう表情も、知っているのか、と思った。


 其の日の夜、僕は拭義に電話を掛けた。
「メールで頼まれた件、調べておきました。此処数カ月、近くの数県で二十近い飛び降り自殺者が出ています。全員性別は女性。中学生もいましたが、大体は高校生で、カラーの写真が無いモノを除けば、全員金髪の女性でしたよ」
 やっぱり、だ。犯人は、彼女に似た人間を殺している。僕は、メールでは伝えきれなかったことを、ゆっくりと整理しながら説明した。
「……それは、おかしいですね。ならば『彼』は既に裁かれている」
 拭義も、そう思ったようだ。僕は、一つの仮説を上げてみる。
「成程、人形ですか。それならば納得が行きます。そうそう、もう一つ頼まれた件ですが、そんな名前の事故死者は、過去三十年遡っても見付かりませんでした。これも、裏付けられましたね」
「ありがとう。それで、僕も一つ茶番を打とうと思うんだけど……」


 次の日、彼女は嬉々として付いてきた。場所は当然昨日の橋の上。今日はこれから雨になる。それでも、復讐出来ると聞けば、彼女は喜んだのだ。きっと、昨日もそうだったのだろう。擦れ違いだ。
 橋の反対側から、女の子が歩いてくる。金の髪、僕の通う高校の制服。距離はまだまだ遠い。
「そうそう、君の名前を、聞いといていいかな?」
 匂いが変わって、僕は、傘を広げた。当然、彼女の上に、だ。
「ああ、それくらい教えとこうか。藤枝だ」
もう直ぐ、彼女は消えるからだ。
「藤枝、か、僕は……」
ポツ、と雨粒が傘を叩いた。
「永井、だろ。表札に書いてあった」
 女の子は橋の真ん中辺りで、手摺を持って川を覗き込んだ。そして、その後ろから、男が近付いてくる。
「アイツだ!」
 藤枝が叫び、走り出す。だが僕は、その前に踏み出していた。
 男が女の子の背中に手を掛ける。
 彼の顔は、様々な感情が入り混じったように、ぐちゃぐちゃになっていた。そして、震えながら其の手を、前に出す。
「今度は、一人で飛べ」
 更にその後ろから、僕は彼を突き飛ばした。
「人形遊びに、他人を巻き込むな」
 彼の痛みが、微かに流れ込んで来た。


「ありがとう、一ノ瀬さん」
 男は女の子、一ノ瀬さんをすり抜けて手摺から飛び出した。空中でこちらを向いた彼は、崩れた顔で、何かを見付けたかのように、笑った。
「ん、これで良かったの?」
 そう言って、彼女は付けていた鬘を外した。短めの黒髪が零れる。
「ばっちり」
 一ノ瀬さんには、霊は見えない。彼女も『拒絶型』、即ち、霊の存在を全面否定するタイプだ。そのため、例え霊が彼女に何をしようとも、何ら影響を受けることは無い。例え其れが何人を死に追いやった霊だとしても。肉体を持たない限界というものだ。
 振り返れば、藤枝の姿は無くなっている。……雨にあまり打たれていなければいいのだが。
「ホント、性質の悪い茶番だ」
 一人の霊が、二人に分かれる、なんてのは。そして、分かれた自分に自分を殺させようとする、なんてのは。
 川を覗き込めば、先程の男がびしょ濡れの姿で立ち尽くしていた。そして、瞬きの間に、その姿は無くなっていた。
「茶番って? それより、結局これ、なんだったの?」
 一ノ瀬さんは片手で鬘を持って軽く上下させる。何本か毛が抜けそうな程雑な扱いだが、元々安物だし、今後使う予定も無い。別にいいだろう。
「シネマ部が使うんだって、今の映像。演技が不自然になるのが嫌だから、本人には伝えないでくれってさ」
 言いながら、僕は事前に設置していたビデオカメラを指差す。録画モードにしてはいるが、実は何処で彼女が立ち止まるかを決めていなかったので、まだ全く映り込んでいないだろう。
「永井君」
「ん? 何?」
 怒られたら、何か奢るつもりではある。いや、そうでなくともこちらから提案するつもりだ。わざわざ休日に制服に着替えて来てもらったのだ、それくらいは必要だろう、と。しかし、彼女はジト目でこう言った。
「何か隠してるでしょ」
 ……そう、忘れていた。彼女は割と勘がいい。
「あ、バレた?」
 だから僕も、こういう時のために秘策を用意している。
「んー、何処から話したらいいかな。えっと、僕には幽霊が見えるって話、したっけ?」
 事実を言う。それだけだ。
 一ノ瀬さんは暫く沈黙して、溜息を吐いた。
「あれ、信じてくれないの?」
 念押し。
「幽霊なんて非科学的なモノ、いる訳ないでしょ」


 家に帰って、『藤枝』の名前と関連しそうな事件を検索する。
 真っ先にヒットしたのが、高校生六人が旅行中に、誤って一人が湖に落下、死亡した、という事件の記事。
 そして、同じくその一人が湖に転落し、意識不明で入院している、という記事だった。
「死にたかった、か……」
 ふざけて背中を押して、そうしたら相手が本当に落ちて死んでしまって。自分も湖に落ちたけれど、生き残ってしまって。彼は裁いて欲しかったんだろう。他でもない藤枝さんに。だから、藤枝さんの『人形』を作った。ただ、彼を恨み、殺そうとするだけの。だが、不運だったのは、彼女が死んだ日には、雨が降っていたことだ。きっと、藤枝さんを殺してしまった時と似た状況でしか、彼は幽体離脱出来なかったのだろう。だが、雨の中では彼女は表に出られない。それこそ、誰か霊の見える人に傘を差してもらいながらでないと。……それは、彼女を元に作られた『人形』も同じだ。
 だからこそ、彼は、彼女に似た他人で代用することにした。或いは、本当の殺人者になることで、理性を壊してしまいたかったのかも知れない。
 重たい話を頭の中で整理して、僕は溜息を吐いた。彼は今頃、病院のベッドの上で、自らを責めているのだろうか。
「これで、満足?」
 僕は、彼女に語り掛けた。
 しかし、彼女は既に、いなくなっていた。

  ℣℣℣

 落下している、それに歓喜している自分が居た。
 このまま死ねるなら、幸せなまま死ねるなら。
 そう、帰らなくてもいいのだ。
 けれど、手に強い衝撃が走って、俺の体は宙で静止した。
「え?」
 其処にあったのは、恐怖と、当惑とで顔を歪ませた彼の姿だった。俺が落ちない様に、支えてくれている。けれど、それも限界。少しずつ手摺で踏ん張っている手がズレていく。
 限界まで張った糸は、突然プツリと切れた。
「あ……」
 りがとう、という言葉は、流れ込む水によって途切れた。
酷く冷たい水だった。パニックになっていた彼は、もがく度に大量の水を飲んで、直ぐに動かなくなった。
責めなくて、いいのに、と。
感謝の言葉すら、伝えられなくて。
せめて生き残って欲しくて。
私は彼に、キスをした。