麻木「ある戦乙女達の軌跡」

 逃げろ、逃げろ! 覆い被さる様な影。やつはすぐそこまで迫っていた。焦りと恐怖で歯ががちがちと鳴った。左へ右へ、もっと速く。今は逃げることに全力を注げ。諦めちゃだめだ、必ず生きて帰るんだ。
 低い耳鳴り。すかさず左へ大きく回避。直ぐ下を掠める死の槍。その終点に迫る仲間の影。まずい、と思う間もなくそいつはやつに掻っ攫われていた。素手で心臓を握られたかの様な恐怖が襲った。何かが噛み砕かれる嫌な音。身を斬る様な悲痛な叫び声。呼吸が止まった。
「今だ! 飛び込め!」
 声を上げたのは別の仲間。そこで我に返り、悲鳴の残響を背に、私達は基地へと逃げ帰った。


 五世代ほど前の昔、ご先祖様達はこの暗い洞穴に拠点を作り暮らしてきた。ここで生活している皆は幼い頃にそう聞かされて育ってきた。それがどれほどの事か、つい最近まで知りもしなかった。そう、やつらがやって来るまでは。
「ちくしょう! アンズが殺られた」
 帰還して直ぐ、同じ遠征部隊東部サルビア班長サルビアが悔しそうに拳を叩きつけた。
「私がもっと早くに気付いて――」
「いや、サクラが気付いてどうにかなる様な相手ではなかったよ、やつらは」
 私の言葉を遮り、年上のサルビアは私の肩にそっと触れた。
「責任は全て、私にある」
 サルビアは唇を噛み、拳を固く握り締めた。他の班員も皆、拳を握り締めていた。アンズが喰われて死んだ、その事実が心に大きく伸し掛かっていた。
「おい、防衛部隊が帰って来たぞ!」
 門番の声に振り返ると、滑り込む様に仲間が入ってくるところだった。落ち窪んだ眼、負傷した体。多くの班員の傷ついた姿に、皆は沈黙する他なかった。
「……すまない。やられた」
 ややあって、防衛部隊南部ロータス班長ロータスが重い口を開いた。
「ベゴニア班のアスター、タイム。私の班のダリア、ロベリア、ミント。皆やつらの餌食に……くっ!」
 俄かには信じられない出来事に、皆が息を呑んだ。
 やつら、と聞いた瞬間、遭遇した時の恐怖が襲った。私達の三倍はあろうかという巨体。強い腕と頑丈な顎。長く太い槍。持っている武器では容易に太刀打ち出来そうもない分厚い鎧。まるで食事でもするかの様に易々とアンズを噛み砕いた光景が脳裏をよぎった。冷や汗が伝い、呼吸が苦しくなった。
ロータス。……すまないが、状況を説明してくれ」
 皆が狼狽える中、サルビアが静かに尋ねた。
「ああ……。第一防衛ラインはやつら二体で壊滅的な被害を受けた。第二防衛ラインで追い返しはした。が、やつらの鎧は硬すぎる。このダガーなどでは傷の一つも付けられなかった。我々では、何も、いや、何一つとして守れなかった! すまない……、すまない!」
 ロータスは拳を地面に叩きつけ、項垂れた。小さい妹たちは不安そうに首を傾げたが、年長の老婆達はその恐ろしさに身を震わせた。
やつらが十体でもやって来たら、と私は想像した。六ある防衛ラインはきっと簡単に突破されてしまう。西部や東部を合わせたところで、撃退出来るか……。いくら逃げ帰ることが出来たとはいえ、這う様に掠めていったあの恐怖、アンズの断末魔を思い出してまた震えた。
「一体でも逃げるので精一杯だった。どうすれば……」
 不安と恐怖。目の前が閉ざされた様だった。


 やつらのせいで、平和だった日常が地獄と化した。餌食にされる仲間達。荒らされる狩場。激減する食料。貯蓄も段々減っていった。
遠くから何度かやつらを見つける度、言い様のない恐怖と絶望に襲われ、部隊に知らせるや否や真っ先に逃げ帰った。情けないと思った。けれどもそれ以上に恐怖が勝った。
 恐怖でどうにかなりそうだった。いつ発狂してもおかしくなかった。この世の終わりが来たかの様な絶望感だった。そして諦めと恐怖に皆が支配されそうになった時、この基地を統治する私達の女王がついに決断した。
「やられてばかりではいけません。今こそ、立ち上がる時なのです」
 この一声で私達が戦闘訓練を開始したのがほんの数日前。ほとんど女ばかりのこの基地だったが、その上達ぶりは凄まじく、やつらを出し抜いて少しずつ狩場を回復し始めていた。小さい妹達も働けるようになり、やつらが来る前よりかは数が増えた。
 そんな時だった。防衛部隊西部の第四防衛ラインが突破されたという知らせが入ったのは。


「数は?」
「四体。やつらますます凶暴になってきています」
 夜明けとともに飛び込んできた伝令は負傷していたが、前線で見聞きした情報を伝えてくれた。いよいよやつらも本気で崩しに掛かって来たと皆理解した。泣き出すものもいた。絶望が直ぐそこまでやって来ていた。
 私の脚は再び震えた。いくら訓練したからと言って、恐怖が払拭された訳ではなかった。逃げ出したい気持ちを抑えるので精一杯だった。
「しっかりしろ! 殺さなければ殺される。やるしかないんだよ、サクラ」
 肩を叩いたサルビアの手は、よく見ると震えていた。怖いんだ、サルビアも。私はぎゅっと彼女の手を握った。
「西部第五防衛ライン、猶も防戦中」
「防衛部隊南部より、新手が三体。増援の模様。南部第三防衛ラインが迎撃中」
「東部第二防衛ライン、突破されました」
「北部第三防衛ライン、現在防戦中。増援を求めます」
 伝令の出入りが激しくなっていた。負傷兵も運び込まれて来た。門番が増え、基地内が騒がしくなった。
「総員、第一種戦闘態勢。やつらは本気です。厳しい闘いになるでしょう。こちらも総力を尽くしてここを守るのです!」
 女王の一言で、皆が気を引き締める。雷鳴の様な一言で、全員が覚悟を決めた。遠方部隊も全て防衛へと回された。各班が慌ただしく配置に就いて行く。
「遠方部隊東部サルビア班、エリカ、カラシナカレンデュラエニシダジャスミンアジュガ、ポピー、サクラ。東部防衛ラインの加勢に行きます」
小さい妹達に後の事は全て任せ、私達は戦場へ向かった。


 私達が向かった東部第三防衛ラインは、敵二体で半分を崩されていた。防衛部隊は機動力を生かして攪乱しつつ、同時攻撃でやつらの鎧を貫く作戦を取った。しかし、その分厚すぎる鎧と縦横無尽に振るわれる槍により、苦戦を強いられていた。悲鳴と怒号。その剛腕と強靭な顎の前に、次々と仲間が倒れていった。
「これだけの数の差があるのに……」
 数十倍は下らない数の差。矢の様に降り注ぐ攻撃。しかし、そんな事など気にも留めず、やつらは狙い澄ましたかの様に確実に仲間を潰していた。何にも動じず臆せず、山の様な巨体で悠然と戦場を進む姿は、存在するだけで災厄を振り撒く化け物に他ならなかった。
「部隊と合流後、左を迎撃します。以降は防衛部隊隊長の指示で動きます」
 左に進路を取るや否や、飛び込んでくる伝令。すぐさま散開。軌道を読ませないよう、とにかくジグザグに動いて相手を攪乱。私達の動きは、恐怖と絶望で震えていた以前の比ではなかった。
やつの真正面、高く飛んだアジュガの下を潜ってジャスミンエニシダがそれぞれ左右へ。続いてカラシナカレンデュラ。そして動き出そうとするやつの前へ私とポピーが飛び出す。全ては陽動。背後に回ったサルビアとエリカ、その他大勢の仲間の一点集中攻撃。やつの動きが一瞬止まった、と思った。
 悲鳴。噛み砕かれる音。何が起きたのか瞬時に分からなかった。やつの手から放り投げられたものがエニシダだと判った時には、既にやつは別の獲物を狩っていた。止まったと思ったのはフェイントだったのだ。急加速して反転した巨体に、虚を突かれた目は追い付けなかった。
 悲しむ間も与えない怒涛の攻撃。予想以上に仲間の命は軽かった。使い捨てもいいところだった。私は震え出す心を抑え、回避するだけで精一杯だった。じわじわと崩される一角、積み重なる犠牲。疲労は溜まって行く一方だった。
 背後に極大の悪寒。低い耳鳴り。振り返れば、全てを見透かすかの様な黒滔々たる眼が私を捉えていた。
「あ、あ……」
 まずい、と考える余裕もなかった。本能的に死を悟った。繰り出されるやつの腕。いや、狙い澄ました突進。静止する世界。消えゆく音。やつの動きだけが妙に遅く感じられた。私は、最早動けなかった。
「こ、んっのバカッ!」
 揺れる世界。一拍遅れて衝撃。吹っ飛ばされる視界の端に、口の端を釣り上げた彼女と、今まさに捕えて口を大きく開けたやつの姿が見えた。
サルビアアアアアァァァッ!」
 絶叫。その瞬間、何かが外れた気がした。回り出す思考。奮い出す心。ここで、こんなところで諦める訳にはいかない。笑っていたサルビア。意味は、解った。
「今だ! サルビアのチャンスを無駄にするな。全員掛かれえぇぇぇ!」
「ファイアアァァァ!」
 誰よりも速くやつの脚に喰らい付いた。剛腕が何だ。もう離す訳にはいかない。だらんと垂れ下がった彼女の手を掴んだ。
「サル、ビアッ……」
 彼女が笑い掛けた気がした。直ぐに仲間がやつを取り囲み、群がった。踏まれ、蹴られ。それでも離さなかった。沸騰する脳。しがみ付く腕が悲鳴を上げていた。増大する背後の圧力、そして密度。薄れゆく意識の中で、やつの瞳に燈った光が消えるのが見えた。
 サルビア、仇は――


◆  ◆  ◆


「見てみ、今年はいっぱい採れたんよ」
 倉庫の棚から取って来た一升瓶を持ち上げ、母は無邪気に笑った。その嬉々とした表情に、お盆休みで丁度帰省して来た私は呆れる他なかった。
「いや、養蜂始めたってのは電話で聞いてたけどさ……」
 一人暮らしを始めてから六年、久しぶりに帰郷した家は少し――いや随分様変わりしていた。
「いやーでも今年は大変でね。この巣箱、夏前にスズメバチに襲われてねぇ。ほんっと大騒動したんだから」
 そうそう大体あそこら辺でね、と母は巣箱を指しつつ、興奮気味に喋り出した。
「朝水遣りしてたらブンブン煩くてね。見てみたらこれがまあものすごい数のミツバチと五匹くらいのスズメバチが戦っててね。近くにはスズメバチの死体が――」
「はいはい、分かった分かった。話は後で聞くからさ」
 母の話を適当に聞き流しつつ、座敷に上がり荷物を放り投げた私は、採れたハチミツとやらを一匙舐めてみた。
「あー、なるほどねー。母さんが夢中になる訳だ」
 さらりとした口溶け。後から来る酸味。市販のものとは全然違う風味に少し驚いた。
 もう一杯、とハチミツの入った小瓶にスプーンを浸して。ふと目線を上げると、庭に咲いていた木槿からミツバチが一匹飛び立って行くところだった。
 なんか、帰省の楽しみが一つ増えたかもしれない。