序二段「博志の異常な愛情」

         
〈土曜日〉
 愛とは何か。
 そんなことを考える俺の前に無数の文字が躍る。
 ずっと好きでした、見つめ愛、愛されレッスン。
 無数に広がるそれらを見ても、もはや俺の心中の情動には遠く及ばない。
 むちぷりガール。ギリギリ義妹、すきすき☆おにいちゃん、メイド様とご主人様……。
「なんで表紙だけ見てんですか? 中身読まなくていいんですか? もしかして、そこにいる女子高生たち意識してんですか?」
 大森が馬鹿でかい声で話しかけてきたので慌てて目線を上げる。俺の立っている位置から少し離れた所で同じく漫画を物色していたのであろう女子高生たちが、こちらを見て露骨に眉を顰めている。彼女たちと俺が手に取っている物は同じ漫画なのだが対象年齢が少々違う。俺が悪いのではなく物理的区切りを置かない店側の怠慢が原因なのだ。そして彼女たちに卑しいもの見るような目つきをさせたのは大森なのだ。
「うるせえランボー! お前がでかい声出すから変な目で見られてるんだろ。あと中身なんて見なくても表紙詐欺かどうかなんて見分けつくんだよ!」
「表紙詐欺ってなんですか」
「それはだな、表紙の絵は上手いのに肝心の中身の漫画が……」
 俺が「すきすき☆おにいちゃん」の見本を開きながら表紙詐欺の説明をしていると、女子高生たちがキモいだのサイテーだのこちらに聞こえるようにぶつぶつと言っているのが聞こえた。
「おいお前らジロジロ見てんじゃねえぞ! 小便臭い雌ガキは家帰ってパパと風呂でも入ってろ」
「何こいつマジヤベー、セクハラ、セクハラ」
 女子高生たちが道端でトルコアイスを売っているクルド人のおっさんよりも不自由な日本語で罵倒してきたので、俺は中指を立てながら威嚇した。
「何がセクハラだ、どうせ援交してるんだろ学生娼婦が!」
 トランシーバーを携えた店員が足早にこちらに向かってきたので、大森を盾にしながら店を脱出した。


 汗まみれになりながらエスカレーターを駆け下りて通りに出ると、既に夕焼けが空を染めていた。予定よりも長居し過ぎたようだ。
「だから寄り道なんてやめようって言ったんですよ」
 大森は不満げに口を曲げながらも息一つ乱さずこちらに顔を向けた。
「だいたいあんな漫画なにが面白いんだか」
「そりゃランボー、お前には興味がない代物だろう」
 大森は背が高く色黒でたくましい筋肉に掘りの深い顔で、某ハリウッド俳優に似ていたため入部後即座にランボーというあだ名がついた。どうしてこんな後輩がうちの部に入ったのだろうと最初は疑問に思っていた。そしてこいつが俺にやたらと馴れ馴れしく、ふと気付けばこちらを見ていたり、妙にボディタッチが多かったりしてもまだ疑問に思っていた。
 ようやく理由に気付いたのはある日靴箱に入っていた一枚の写真のおかげだ。そこには六尺褌だけを身につけた無表情の大森が深く腰を落として正拳突きを繰り出している姿が映っており、裏には「兄貴とふんふんしたい。俺と兄弟になってくれ」などと意味不明なことが書いてあった。
「時間もないし、俺がおんぶしていきますよ」
 そう言った大森の目から並々ならぬ気迫が漲っていたので、俺は首を振りながら足を速めた。


「お前ら遅いぞ」
 店に着くと既に俺達以外の五人は席に着いていた。酒井は「来なくてもよかったんだぞ、邪魔者が二人も減るんだから」と書いてある顔をこちらにひとしきり向けた後、店員を呼んだ。
 未成年であるということで渡辺さんがオレンジジュースを注文し、他の者たちはそれぞれ適当にアルコールを注文した。かくいう俺は諸般の事情でアルコールは飲めないのでウーロン茶だ。
 実は皆が皆、渡辺さんにアルコールを飲ませたいのだが自分が率先して勧める勇気はない。そのため店員に注文するとき、男連中はよそよそしくお互いの顔を見つめ合うというよくわからない光景が展開された。
「じゃあ乾杯といきますか。とりあえず大会お疲れさまでした、ってことで」
 酒井がグラスを高々と持ち上げる。
「かんぱーい」
 微妙に乗り切らないテンションの下、遠慮がちにグラスがぶつかる。いわゆる文化系弱小クラブの飲み会とはこういうものなのだ。
 現在我が将棋部には七人の部員がいる。
「いやあ、今回は頑張ったんだけど、相手の女の子がかわいくてそれが気になって」
 下らない言い訳をしているのは部長の酒井だ。自称女たらしで確かに見てくれも悪くないが、どことなく胡散臭いその雰囲気は落ち目の結婚詐欺師にしか見えない。
「齢十四を過ぎた女なぞ既に朽ちかけ。邪念が差すのが信じられないな」
 及川が伏し目がちに俺の目の前の枝豆を見つめていたので、黙ってそれを渡してやる。俺から見れば及川のおかっぱみたいな髪型の方が朽ちかけの時代遅れに見える。あとどう見ても幼児にしか見えないアニメのキャラクターをプリントしたシャツを外聞もなく着てくるのはやめてほしい。
「またそれかロリコンロリコンは精神病だ、精神科の受診を勧める」
「何が精神科だ。手垢のついた自称大人の女なんて腐った羊水が逆流して脳を汚染してるだろ。あいつらこそ産婦人科と脳外科を受診すべきだ」
「いたいけな少女に欲情する畜生め」
「イエスロリータ・ノータッチという言葉を知らないのか? 僕らはただかわいく儚い存在を愛でているだけだ。無理やり手篭めにするなんて論外だよ」
 酒井と及川がグラスを片手に聞くに堪えない舌戦を繰り広げている。料理を持ってくる女店員が明らかに引いているのは顔を見ればわかる。
「おい、そこらへんにしとけよお前ら! 酒が不味くなるだろ」
 飲み会が始まったばかりなのに既に五杯目のモスコミュールを飲み干した田口が甲高い声で叫んだ。左手のグラスを置いた後、震える右手を高々と上げて振り下ろす。
 田口は普段は温厚な常識人である。しかし重度のゲーマーであるため筐体を強打するいわゆる台パンというものが癖になっていて、感情が高ぶると所構わず拳を振り下ろす。それに加えて筋金入りの酒好きなので、このような場では俺は率先して田口に酒を飲ませるようにしている。
「なにしてんだ、やめろやめろ」
 勢いよくテーブルに下ろされた田口の拳を、寸前のところで山田が掬いあげる。名も平凡、容姿も平凡、性格も平凡の三凡だがそれ故に全てひっくるめて部の男どもの中では一番まともだと言える。
「渡辺さんが困ってるだろ。頼むからもう少し落ち着いてくれ」
 山田は勢いそのまま突っ伏しそうになっていた田口をテーブルから引き離し、畳に組伏せながら言った。田口は狂犬病患者のように口からぶくぶく泡を吹きながらうーうー呻いている。他の客の喧騒がなければ通報されるか、出入り禁止もあり得る。
「はは……大丈夫だよ、私は」
 クソ将棋部唯一の女性である渡辺さんは両手でオレンジジュースの入ったグラスを抱え、俯き加減にぼそぼそと呟いている。
「それにしても、さっきから私ばっかり料理食べちゃってますね」
 そう言いながら渡辺さんはホクホクのじゃが明太子を食べながら顔をホクホクさせている。じゃがいもの湯気に加えて、目の前でくんずほぐれつしている山田と田口の熱気で眼鏡が曇っているように見える。
「なんか、盛り上がってますね……」
 ふと気付くと向かいに座っていた大森がテーブルの下から足先を伸ばして俺の股間に押し付けてきていた。盛り上がっているのは田口と山田でも俺の股間でもなくお前の欲望だ。静かだと思ったらとんでもない奴だ。
「おい、酒井、及川、田口、山田、便所行くぞ」
 俺は大森の言葉を無視しながらそのやたらとごつい足を払いのけて立ち上がり、声を荒げた。
「俺も行きますよ!」
「お前は残ってろ! だいたいお前の横でパンツなんて下ろせるか。渡辺さんが変な奴らに絡まれないようにしっかり守っておけよ」
 追い縋る大森を押しのける。目は据わりながらも何とか歩ける様子の田口を前に歩かせ、俺達は便所に向かった。


「単刀直入に言う、お前らどうなんだよ」
 奥の個室でゲロを吐いていた田口からは「単刀直入に言えてねえ」というような言葉が酸っぱい臭気と共に聞こえてきたが、他の者は何をするでもなく突っ立ったまま互いの顔を見合わせている。
「渡辺さんのことどう思ってんのかって聞いてんだよ」
 出来るだけ声を落として、それでもその場の全員に聞こえるよう凄みを利かせた。
「もう調べはついてんだよ、お前ら全員……そういうことなんだろ?」
 田口以外の全員が何かを思い出したような目でこちらを見てきたので、俺は慌てて訂正した。
「もちろんあのクソホモ筋肉馬鹿を除いてだよ」
 便器に張られた水に田口の吐瀉物がびちゃびちゃと跳ねる音だけが聞こえる、しばしの沈黙。
「わ、吾輩は、よ、幼女以外アウトオブ眼中で、で、でも可能であれば」
 及川が感電したロボットのようにキノコ頭を振りながら喋り出した。ネタなのか何なのかよくわからない口調なことからも完全に図星なのだろう。
「そりゃあお前、当然だろう。うちみたいな男だらけの集団の紅一点っていうだけじゃないぞ。化粧っ気はなくて少々イモっぽいがよく見れば結構かわいい。性格もいい」
 酒井が冷静に説明を始める。皆が皆、うんうんと頷いている。
「なによりオレたちみたいなコミュニケーション能力の乏しい文化系男子でも話しやすい感じの雰囲気があるのがなあ」
 そう言って山田は頭を掻きながら溜息をつく。
 同年代の女子たちにどこか恐れを抱きながら中学高校時代を過ごした文化系男子たちにとって、あの見るからに引っ込み思案な性格はむしろ良い方向へ働いた。声を掛けられてもおかしくない容姿を持ちながら、部活動以外で男と接する可能性が全くない。最初はとっつき辛かったが、部活動で同じ時間を過ごせばうち解けるのもそう難しくはなかった。
 それぞれがどこまで深く考えているのかはわからない。どことなく互いを牽制するような空気が便所に漂っていた。
「俺たちももう二年の付き合いになるからな。いつかはこんな状況になるとは思っていたが」
 俺はその場を見回しながら言葉を発した後、口を横一文字に結んだ。
 先輩は就活やらなんやらでいつの間にかいなくなり、今年の新入生は俺のケツを追いかけてきた同性愛者一人。同学年の男五人に、女一人。なかなか画になる状況だ。
「僕は一抜けだ」
 トイレの流れる音に若干食われ気味な弱々しい声。奥の個室の扉を開けた田口が口から垂れた糸を抑えながらのそのそと歩いてくる。
「こんなクソったれな状況、お前らは楽しいか? 僕は反吐がでるね」
 今出してただろ、とおそらく全員が思っているはずだ。
「僕はなあ、今幸せの絶頂なんだよ。うん、昇りつめようとしている。幸せに完全に包囲されている」
「何言ってんだお前……。もしかしてあれか? あのゲームか?」
「そうそうそのゲームだよ。僕はなあ、そこで思わぬ幸せを見つけたんだよ。ようやく自分の魅力をアピールできる場所で羽ばたくことができたんだ!」
「なんだゲームの中でか。いつものことじゃねーか」
「違う違う、確かにゲームだけどプレイヤーの方だよ。SNS、いわゆる日記形式のブログで交流してるんだが、ここ最近急に何人もの女の子からフレンド申請が来るようになってよお。ゲームの話からプライベートのことまで盛り上がってさあ。思わぬところから遅れた春が追いかけて来たっていうか」
 訝しげに突っ込んだ酒井に対して、田口は眉を下げながら便所の天井を見上げた。俺も釣られて見上げるとそこには剥き出しの排気管があるだけだった。
 田口がハマっている「乙女大戦」というゲームをゲーセンで見かけたことがあるが、美少女の絵が書いてあるカードを盤面にこすりつけて操作するという何とも気持ちの悪いゲームだった。プレイヤーもいい年こいて結婚していなさそうな中年ハゲや多汗症の眼鏡デブばかりで、揃いも揃って奇声を発したりぶつぶつと独り言を連呼していた。美人がどうのという以前に女が生息していない領域なのは明らかだ。
「まあ、お前がそれでいいんなら俺達は別にいいさ。ライバルが一人減るってことなんだからな」
「ああ好きにしろ、僕にはマリナちゃんや、ミホちゃん、ユズキさんがいるんだ。ちなみに今度オフ会があるんだ。ハーレムなどと調子に乗っているんじゃないぞ。三人いれば誰かを仕留められるかもしれないからな。渡辺さんは確かに魅力的だが、アレは難敵だぞお。手に入らないものに執着するのは失うものが大きいぞお。俺はしばらくゲームに打ちこむが、それは恋愛も兼ねているのであしからず」
 酒井は頭の上に手を上げて頷きながら「はいはい」と言いつつ、ギラついた目で力説する田口に背を向けた。そして俺の顔を見ると再び訝しげな顔つきで言った。
「そういえばお前は」
「さあな」
 俺は適当に言葉を切って便所を出た。


 席に戻ると大森と渡辺さんが談笑していた。
「あの場面は玉頭に歩を打つのが正着だと思いますよ。守りに手を回すのは遅い気がするんで」
「えー、でもあえて一手回すことで相手に選択を強いたのも間違いじゃなかったと思うんだけどなあ。あの後の飛車打ちが拙かっただけで」
 二人ともどこからか持ち出した雑誌を挟んで議論を交わしている。
「おいランボー、何の話してるんだ?」
「ああ、この前の名人戦第三局の試合の検討ですよ」
 大森は新入生だが我が将棋部で二番目に強い。その打ち筋は本人を体現しているような力強いものだが、試合後の検討や戦術の研究に余念がない理論派でもある。その風体から言動から何から何まで不一致な奴だ。
「高木くん、ランボーくんは本当にすごい打ち手だよ。初めての個人戦で、あれだけ勝てるメンタルの強さもびっくりだし。今年の新入部員は、一人だけだけど、はは……まさに一騎当千の逸材だね。よく連れてきたよ」
 渡辺さんは目を輝かせながら俺を上目遣いで見ている。
 大森は新入部員にして個人戦で準優勝を果たしたのだが、その大森を下して優勝したのが渡辺さんだ。個人戦でワンツーフィニッシュを決めた我が部だが、団体戦ではボロ負けした。俺を含め、他の者たちが話にならないほど弱かったのだ。
「いやあ、俺を奮い立たせてくれてるのは高木先輩ですからね」
 大森は照れながら俺の尻をぱんぱん、と叩いた。このようなとき、普通は肩を叩くはずだ。
「おーい、そろそろ時間だぞー」
 店員と話していた酒井の声が聞こえたので、俺たちはお開きの準備を始めた。


 店を出た後はそのまま解散の流れになった。渡辺さんを一人で帰らせるわけにはいかないので色々な意味で安全な大森をお供に付け、残りはまだ足元のふらつくゲロ臭い田口を送っていくことになった。
「おい、お前はこないのか?」
 どうせこの後は田口の家に乗り込んで男やもめの二次会になだれ込むのだ。大森がいると酔った隙に何をされるか分からないのでそのためのお供でもある。
「今日はちょっと用事があるんだよ」
「ふーん。そういえばお前、今日は酒飲んでなかったな」
 疑り深い酒井が追求の手を伸ばしてくることはわかっていたので、俺はそのまま手を振りながら背を向けた。

 真夏の夜にもかかわらず風が涼しい。駅前に停めていた自転車のおかげで、深夜の移動も快適である。
時刻は既に零時を回っている。あたりはすっかり静かになっている。
 おそらく帰宅した直後辺りだろう。このまま寝てしまうのが普通だが、どれだけ疲れていようと収集日をきっちり守ることを俺は知っている。
 角のところで自転車を停め、マンションの前を見張る。習慣とはいえさすがに飲み会帰りの強行軍では疲労困憊だ。
 十分ほど待っていると、マンションのロビーの明りを背にそそくさとゴミ袋を持って出てきた。ちゃんちゃんこのような見るからにダサい服を羽織っている。段差を降りてすぐのところにあるゴミ捨てボックスに大きなゴミ袋を一つ捨てると、またそそくさとマンションの中へと戻って行った。
「相変わらず大きいなあ」
 俺は自転車に乗りながらゴミ捨てボックスに近づき、捨てられたばかりの目当てのゴミ袋を拾い上げて前カゴに乗せ、家路を急いだ。
「ふふ……」
 思わず声が漏れてしまう。
「よく連れてきたよ」
 渡辺さんが褒めてくれた。
 自転車のペダルが軽い。
 俺を見たときのあの上目遣い。
 さっきの寝間着もかわいかったよ。ダサいけど。
 ああ、今夜は徹夜だ。


 ゴミ袋を家に持ち帰ってすることはもちろん一つだ。俺は不衛生な物を愛でるような変態趣味はない。
 都指定の透明な袋を開けると見るからに生ゴミと思しき物が詰まっていた。真夏の生ゴミはさすがにキツいが我慢だ。
「おっ、やっぱりあったか」
 いつも通り書きかけの手紙が見つかった。ぐちゃぐちゃになって生ゴミ特有の強烈な臭いを放つ汁で汚れてはいるものの、開いてみると文字の部分はしっかりと読みとれた。贈答用の上質な紙を使っているからだろう。
「山田くん、お元気ですか。私は元気です。先日の大会お疲れさまでした。山田くんは残念ながら初戦敗退だったけど、それは相手は強かったからであって、山田くんは精一杯頑張って打っていたことは棋譜を読めばわかります。特に中盤からはよく集中して手を進めていたよね。だから、もしよければ今度……いよいよか」
 手紙は途中で唐突に途切れているが、これもいつものことだ。渡辺さんは山田に対して手紙を書こうとしては、躊躇して毎回ゴミ箱もといゴミ袋送りにしている。そしてこの手紙は年寄りのような挨拶から始まっているが、間違いなくラブ・レターだ。
 初めてこれを見つけた時にはなかなか衝撃を受けた。なぜ山田なんだ……と思ったが三日ほど頭を冷やすとすぐに答えが見つかった。
 まず第一に渡辺さんは将棋部以外での交友関係がないに等しい。件の山田が触れていたが、コミュニケーション能力に関しては俺達より渡辺さんのほうがよほど乏しいのだ。
 そして第二にその将棋部にはろくな男がいない。というよりろくな人間がいない。将棋がやたら上手いクソホモ筋肉馬鹿を例外とすると、小児性愛者、できそこないのジゴロ、アル中ゲーム廃人という社会不適合者しかいないのだ。肝心の俺も愛を自覚すると周りが見えなくなってしまい、半年に渡るスト―キングの末、今や渡辺さんの私生活と同期している有様だ。客観的に見れば凡人オリンピック金メダル候補の山田以外の選択肢は消去される。
 生ゴミと渡辺さんの生活痕グッズを完全に仕分けた頃には、もう夜が明けていた。
 まずい。俺は慌ててパソコンの電源を点けた。


 日記を見ると二時過ぎには更新されていた。主に飲み会の報告だったが、大会で素晴らしい成績を残したなどという大嘘が恥かしげもなく書かれている。
「おはようございます☆軍神☆さん。リアルも充実してるみたいでうらやましいですね」
 二十三歳社会人一年目という設定の「ユズキ」のアカウントからは、朝の挨拶と共に無難なコメントを。
「飲み会うらやましいなー! まあわたしは未成年だからいけないけどね!」
 十七歳都内某有名女子高の二年生という設定の「ミホ」のアカウントからは背伸びしたがるやんちゃ娘らしいコメントを。
「それはそうと来週末あるゲームの三日間限定の称号大会はどんなデッキでいきます?」
 推定十代不登校引きこもりの「マリナ」のアカウントからはいかにもゲーム一筋らしい空気の読めないコメントを。
 いつもなら社会人の「ユズキ」は更新日の夜から明け方、引きこもりの「マリナ」は出来るだけ早く、学生の「ミホ」は速かったり遅かったりコメントの有無自体もまちまち、というように時間や頻度をばらけさせる。しかし今日はもうそのような手間をかける時間も気力もない。それに、あの飲み会での食いつきぶりからしても完全に信じ込んでいる。
 田口は匿名掲示板で「☆軍神☆は名前は立派なくせに寒いプレイングばかりする雑魚」と晒しあげられるくらいで、特にゲーム内のランキングが高い有名人でもない。だいたい男が圧倒的に多いマニアックなゲームのSNSで、同時期に複数の女がフレンド申請をしてくるのを不審に思わないのがいかにもあいつらしい。アカウントはそれぞれ別々のプレイヤーを経由して作成しているので、全員が同一人物だと見抜くのは確かに難しいのだが。
 完全に夜が明けて、蝉の声がうるさく鳴りだした。急がなければもう時間がない。受話器に手を伸ばす。
「おい、ランボー。今からあいつの家に行くぞ」
 電話をかけると大森の大きな欠伸が聞こえた。
「ふああ……え、マジでやるんすか、アレ」
「当たり前だ、準備はできてるんだろうな?」
「一応協力は取り付けましたけど……。じゃあ駅前に八時でいいですか?」
「おお、大丈夫だ。悪いな」
 受話器を放り投げるようにして置き、急いで支度を始める。
 今のところは概ね順調。しかし渡辺さんの手紙の進捗具合から見ても、やはり週明け頃には完了しなければならない。
「あと二人」


〈日曜日〉
 日曜日ということもあり、蝉の声が響いているだけで人もまばらな駅前である。ロータリーの出口付近にぽつんと銀のワンボックスカーが停まっている。運転席の窓が開いたかと思えば緑のタンクトップを着た男が手を振っていた。大森だ。
「悪いな朝早くに。それで、例の……」
「車の中にいるんで、とりあえず道すがらにでも打ち合わせしてください。何しろ俺から説明するのも難しいことなんで」
 そう言うと大森は車内から後ろを振り返った。重い扉を目一杯引いて車内に入ると、心地よい冷房の空気と共になにやらいい匂いがする。見ると一人の小柄な女の子座っていた。
「あんたが高木博志?」
 手に持ったファッション系雑誌から目を上げこちらを見たかと思うと、露骨に怪訝な表情で質問をぶつけてきた。いきなり年長者を呼び捨てとは態度の悪いガキだ。
「誰だこいつ」
「俺の妹ですよ、妹! 先輩が言ってた条件にぴったりでしょ」
 俺の苛立ちが伝わったのか、大森は運転席から慌てて身を乗り出して説明した。
「なだめすかして連れてくるの大変だったんですからね。報酬は高くつきますよ……」
 不穏なことを言い出したので大森妹と直接交渉に入る。
「やってもらうことは簡単だ。この紙に順序立てて書いてあるので移動中に読んでほしい。質問は随時受け付ける」
 そうこうしている間に大森はエンジンを掛け、車を発進させた。
 何の問題もなく車と妹を借りられる大森の家庭に疑問が浮かぶのはもちろんだが、素知らぬ顔でワンボックスの運転をこなす大森自身がいよいよ未成年には見えなくなってきた。そして件の大森妹はこのホモマッチョとはとても血縁関係にあるとは思えない可愛らしさだ。 
兄と十は離れているであろう年齢相応の小柄な体、さらさらの黒髪セミロングヘアー、小顔ながら大きな目。確かに大森も顔立ちはいいのだが男臭さが前面に出ているので、こんな妹がいるとは思いもよらなかった。
「ちょっとこれやばいでしょ。こんなの聞いてないよ。ねえお兄ちゃんちょっと信じらんない」
 読み終わるや否や騒ぎ始めた。この生意気な態度で「お兄ちゃん」と兄を頼るのがまたポイントが高いのだろうなあと思っている俺に、大森妹が睨みつけながら紙を突きつけてきた。
「ここに図書券がある。額は、二万円分だ」
 何かを言いかけた現役女子小学生は息と共に言葉を飲み込んだ。
「これはもちろん現金ではない。つまり報酬という訳ではないんだよ。援助交際などという低俗なものでもない。もし君が今から僕らが行う社会的正義を助ける名も無き協力者になってくれるなら、これをプレゼントしよう。重ねて言うがもちろん現金ではない。そういえば駅前に金券ショップがあったなあ。確か図書券の換金率は九十五パーセントだったか」
 すっとぼけた口調で言ってみたが、大森妹の目は真剣そのものだ。
「これ、大丈夫なの? なにかあったらいやだよ……」
 年相応に怖がりなのもいい。まさに適役だ。
「安全は保障する。そこにも書いてあるが俺と『お兄ちゃん』が待機してるから、不測の事態はあり得ない」
 突然「ああ……」という呻き声と共に車体が揺れた。慌てて前を見ると赤信号でもないのに車が急減速していた。
「なんだよ!」
「先輩の『お兄ちゃん』が不意討ち過ぎて昂ぶっちゃいましたよ……もう一回言ってください!」
 俺は無視して腕時計に目を落とす。既に九時前。起きるのは辛かろうが日曜日なら意地でも起きているはずだ。
 窓の外に目をやると、マンションが見えてきた。騒いでいる間に目的地だ。ロビー前は避ける。当然だ。裏手の非常階段の前で車を停めた。


 ピンポーン。
 ピンポピンポピンポーン。
「うるさいなあ……」
 及川がぼさぼさの頭で扉を開けたので無理やり押し入る。大森は廊下奥で待機だ。
「おお、結構いい部屋に住んでるじゃねえか、ってうわなんだこれ」
 すっきりとしたワンルームの賃貸マンション。中も程よく整理されていてると思ったが、壁という壁どころか天井にまでアニメのキャラクターのポスターが貼られまくっていた。当然だが全て推定年齢一ケタの女児だ。
「きめえ」
「きめえとは何だきめえとは! 僕だって他人に見られることは想定してないんだよ」
 と言いつつも及川が大げさなボディ・ランゲージでそれぞれのポスターの説明を始めた。内容は全く耳に入ってこないが、ぼさぼさだった髪の毛が激しい動きに合わせていつものキノコ頭に整っていく様はなかなか壮観だ。
「それで、日曜の朝っぱらから人の部屋に押し掛けてくるとは何事だよ」
「いやいや近くまで来たついでに寄ったんだよ。お前いつも飲み会の翌日具合悪そうだろ。だから一応様子を見に来たってわけだ」
 及川は田口ほど悪酔いするタイプではなかったが、確実に二日酔いになる性質の人間で、飲み会の翌日は授業があっても一日中机に突っ伏している。
「ああ、気分は最悪だよ。ただ今日は日曜だからな。見たいアニメのために気力で早起きしたんだよ」
 日曜朝の児童向けの特撮ヒーロー物と女児向け変身ヒロイン物が一通り終わるのが午前九時。調べた通りだ。
「ただまだ見るものがあるからな。悪いが何も出せんぞ」
 そう言うと及川はテレビの前に重そうな腰を下ろした。
「ああ、それなら酔い覚ましにでもと思ってオレンジジュース買って来たんだよ。コップ借りていいなら入れるぞ」
「おお、ありがたい。頂くよ」
 また何やら騒がしい曲が聞こえてきた。テレビに映っているのはもちろんアニメだ。
「よし」
 鞄から紙パック入りのオレンジジュースを出し、コップに注ぐ。
及川はテレビの画面から目線を離そうとしない。早速懐から白い粉末を取りだし、片方のコップに投入。素早くスプーンでかき混ぜる。
「酔い覚ましにはオレンジジュースがいいからな」
「さっき聞いたよ」
 さすがの俺も少し緊張しているのだろうか。もはやここまできたら引き返せないというのに。そうだ、この粉末は健康を害するものではない。健康を害するものではないのだ。
「どうぞ」
 半開きの口で半笑いのまま及川はテレビを凝視していたが、俺の差し出したコップにのっそりと手を伸ばし、それをゆっくりと口に運んだ。完全に静止した顔と、スローモーションの上半身からは言い知れぬ圧力が感じられる。
 及川の喉が俺の特製オレンジジュースで脈動する。それに呼応するように俺の震える手の中の汗がじっとりと粘る。
「うまかったよ、ありがとう」
 ゆっくりとだが一息で飲んでしまった。
 台所でコップを念入りに洗い、素手で触った部分の指紋を念入りに拭き取る。謎の粉末の袋とオレンジジュースを鞄にしまう。台所に残っているかもしれない怪しい粉末を念のため掃除機で吸い取る。
 俺が証拠隠滅を済ませたときには、テレビの前の及川は胡坐のまま昏睡していた。アニメもクライマックスの戦闘シーンに差し掛かる中、まさに大往生であった。


 外で待機していた大森を引き入れ、財布や携帯などの貴重品をポケットの中に突っ込む。鍵を持ちだして施錠もばっちり。指紋を改めて拭き取る手間を省くため、二人してゴム手袋をはめて迅速に作業を進める。
「さあ残るはこいつだけだな」
 左右からそれぞれ肩をかついでみると、確かに重いが何とかなる。というより相方の筋肉馬鹿のおかげだろう。
「このマンションはエレベーターしか監視カメラが設置されてない。つまり逆に言えば」
「階段ですかあ……まあがんばりましょう」
 二人がかりで及川を運ぶ様は一歩間違えなくても死体運搬そのものだ。
 汗まみれになりながらも何とか非常階段を下りきって車まで運び、後部座席に押し込めた。
「うわなにこの人、え、っていうか生きてるの? やめてよこんな近くに」
 大森妹の抗議の声がワンボックスの扉を閉める俺の背に突き刺さる。
「おやすみ中だ。放っておけば起きない」
 よほどの衝撃を与えなければ少なくとも二、三時間は目を覚まさず、目覚めたとしてもしばらくは意識が混濁するというようなことはウィキペディアに載っていた。一応処方箋は貰ったが、そこに書いてあったかどうかは忘れた。
 俺はこちらに向いていた及川のでかいケツから携帯を抜き取り、ゴム手袋ごしに操作する。ケツを挟んで反対側に座る大森妹は首を振りながら拉致だの誘拐だの兄譲りの不穏な言葉を呟いていた。
「さあ行くぞ、悪党の処刑場へ」
 俺が切らした息で精一杯叫ぶのと同時に、ワンボックスは再びエンジン音を轟かせた。


 セッティングは完璧だ。連れ出すときよりも人目につかない場所だったので全ては段取り通りいった。後は時間が来るのを待つだけ。
「それにしてもこんな場所に先輩と来ることになるなんて……」
 二人して廊下の角でうずくまっているのでただでさえ距離が近いのに、大森は上気させた顔を近づけてきた。それを無理やり押しのけながら腕時計を見ると、いよいよ十二時ちょうど、というところだ。
「いいから準備しとけ。メモちゃんと読んだのか? アドリブが問題って言う訳ではないが、ボロを出すのはまずいぞ」
「大丈夫ですよ。もう『詰めろ』かけてます。あとは手順通りやるだけ」
「詰めろ」とは将棋で事実上の勝利確定の状況でである「詰み」の一手前の局面である。将棋のことになると良い例えを使う奴だ。


 はぁあん! お兄ちゃん、もう起きてよぉ!


 第一段階開始。
 甘ったるい叫び声が部屋の扉を貫通して響いてくる。日曜日の昼なので誰もいないだろうが、誰か出てきてくれればそれはそれで好環境になる。
 この萌え萌えボイスはもちろん大森妹の声ではない。予め定刻にセットしておいた及川の携帯からの最大音量の目覚ましボイスだ。
 人差し指を口元に立てながら大森に目配せし、部屋の扉の前まで移動する。扉にコップを当ててみると案の定物音が聞こえる。安いのが売りなだけはある。
「あ、あ、え、なんだこれ、え」
「ぐす……ぐす……」
 第二段階開始。目が覚めたのであろう及川の戸惑う声と、大森妹の名演技の嘘泣きを確認できた。
 俺は左手を大きく振り回し、ゴーサインを出した。気分はさながら米陸軍空挺部隊だ。
 突入開始。俺の脳内にはワーグナーの「ワルキューレの騎行」が流れる。気分はさながらキルゴア中佐だ。彼は大好きなサーフィンをするためにべトコンをナパーム弾で焼き払ったそうなので、奇しくも俺と動機が似ていると言える。
「おらああああああああ! お前かああああ!」
 大森が扉を蹴破るようにして中に入ったが、当然鍵は元から開けてある。
「お、及川先輩じゃないですか! 何してんすか!」
 遅れて入った俺の目には、ベッドのシーツを体に巻いて足を抱えて座る大森妹の姿と、キノコ頭が状況を把握できずに狼狽している姿が映し出されていた。
 大森の演技は少々わざとらしいが、大森妹は傍から見れば被害者にしか見えない名演技だ。下着姿を完全ガードしているところがさりげない。
「え、なんだよ。僕は知らないぞ。なんだこの女の子は。どこなんだよここ」
「その子は俺の妹ですよ。助けてってメールが来たから慌てて駆けつけてみれば、まさか、こんな……うっ!」
「おにいちゃんっ!」
 茶番のように見えなくもないが、今の及川なら畳みかければどうにでもなる。
「お前には黙秘権はない。ロリコンは人間にあらず。よって人権はない」
 日本の警察が黙秘権の説明をしないのは問題であると思う。アメリカならドラマでもちゃんとやっているぞ。
「だから知らないって! おい、高木、お前がいるなら説明してやってくれよ。今日の朝に僕の家に来てたじゃないか!」
「黙れ公然猥褻カット! そもそも俺はお前の家にいっとらんしお前がこんな下劣な行為に及んでいるとは考えもしなかったぞ。ここがどこだって? こんなラブホテルに小学生を連れ込んでおいてよくそんなことが言えるな」
 そう言うと共に俺は鞄から取りだした「写ルンです」で部屋の中の写真を撮りまくった。もちろん大森妹の顔は写さない契約だ。
「違う、俺は目が覚めたらこんなところに……っていうか今日の朝は確かにアニメ見てて、そこにお前がやって来て……うっ、頭が」
「高木先輩は昨日の夜は俺とずっと一緒にいたんですよ。熱い夜を過ごすつもりだったんですけど、いつまでたっても妹が帰ってこないから心配してたらメールが……ああ!」
 大森は平時なら誤解を振りまきそうなアドリブ台詞を織り交ぜているが、概ね問題ないのでスルーしておく。
「何がイエスロリータ・ノータッチだ。手垢どころか恥垢にまみれた手で小学生を捕食する人間の屑が。お前は見事、性犯罪者予備軍から性犯罪者に昇格だ」
 指をビシィっと差した先の哀れなキノコ頭は既に泣きそうだ。
「お前の行為は猥褻目的略取及び逮捕監禁の罪、もしくは青少年育成条例又は児童福祉法第三十四条一項六号に抵触する。法廷で会おう」
 これ見よがしに携帯を取り出す。ほぼ勝利は確定しているが、ここが最大の急所の局面でもある。及川の行動次第では「詰めろ逃れの詰めろ」を掛けられる可能性もあるのだ。
「頼む、何でもするから許してくれ!」
 かかった。冷静に考えるとやはり茶番にしか見えない状況を突っ込まれると、一転して追い詰められるところだった。睡眠薬、ということになっている素敵な粉末にいかがわしい成分が入っていて及川の脳にいい影響を与えたのかもしれない。
「よくも乙女の純潔を。この変態!」
 大森妹はすっくと立ち上がると下着姿も露わに及川を罵倒し始めた。及川はいつの間にかベッドの上で土下座のような姿勢を取って大森妹を見上げていた。
「アホ、バカ、ロリコン!」
 大森妹は目の前の哀れな男の股間を踏みつけ始めた。激情に駆られたようだが絶妙にソフトに。兄譲りの足裁き。何やら楽しそうにすら見える。
「あとは好きに遊んでやれ。このままだらだら注意を引き付け続ければいいだけだからな。間違っても金は取るなよ。こっちがしょっ引かれる」
 小声で話しかけると、大森は一瞬ギラついた目を
見せた。
ランボー、間違ってもお前自身が手を出したりするなよ。洒落にならんからな」
「やだなあ。俺は先輩一筋ですよ」
 顎を引いた大森は相変わらずでかい声を出しながらこちらを見やったが、及川は小学生女児に足蹴にされるという思わぬ状況に夢中のようで気付いていない。
 俺は熱狂の渦中の真夏の愛の巣から抜け出し、再び蝉の声の止まぬ外へと歩みを進めた。与えられた時間も又、順調に減って来ている。
「あと一人」


〈月曜日〉
 大学の講義にはにやけ面の田口は顔を見せていたが、及川は姿を見せなかった。大森もいないのが何とも不安を煽るが、約束は守る男なので間違いはないだろう。
 午後一二時。昼休み。
 俺はわざわざ大学から少し離れたところにある喫茶店まで足を運び、女とお茶をしていた。残念ながら相手は渡辺さんではない。
「ほんっと、困りますよ。そう思いません?」
 地味な顔立ちだが服装はファッションに疎い俺でもわかるくらいにはいいセンスをしている。しかしやたらと感情を込めて喋るのが芝居がかっていて辟易してしまう。体も妙に前のめりだ。大学デビューを遠慮がちにやるとこういう中途半端に整った女子が出来上がるのだろう。
「まさかあいつがそんなことをしているとは。同じ部の者として申し訳ない限りですよ」
 心にもないことを言うと、女は満足げに顔を綻ばせた。ご満悦なところ申し訳ないが最高に気分が悪くなる表情だ。迷惑防止条例というものがこのような場合に適用されないことに、地方自治体の消極性が浮き彫りになっている。
「私も最初はよかったんです。彼、だらしないように見えて意外とやさしくて、色々心配してくれて、相談にも乗ってくれてたんです。でも、ある時期から急に私に辛く当たるようになって。何かきっかけがあったのかもしれません。私が何か誤解させるようなことをしてしまったのかもしれません。彼はみんながいるところでは相変わらず優しくて、でも気を許して二人になると豹変するんです」
 女は俯いてコーヒーをかき混ぜていた。しかし氷がカラカラと甲高く鳴るのと同じように、女の声は少しも沈んでいるようには聞こえない。実際に沈んでいるように喋ってはいるのだが、それが無意識的であれ偽りであると簡単にわかってしまうのだ。
「私はだんだん彼を遠ざけるようになりました。そして他の男友達――これは彼との共通の友達でもあります――に相談したり色々と努力しました。だけどそんなとき彼は現われて、私だけでなく男友達にも声を荒げて、行く先々で私の交友関係を掻き乱し始めたんです。妬んでいる、というのは私の驕りかもしれません。でも、私は彼を許せないんです。気付けば私を見る男友達の目は奇異なものに変わっていました。裏で何を言われているのか。想像するだけで恐ろしいんです。なぜそこまでされなければいけないの? 今は恐怖が醒めてむしろ腹立たしくて、悔しくて……」
 女は悔しさに震えていた。こちらは本当の感情なのだろう。ただ、涙は一滴もその頬を伝ってはいない。
「本人にはこちらから厳しく言っておきます。あいつも周りが見えなくなってるだけだと思うんです。状況が改善されるよう善処するつもりです」
 畏まって言うと、女はぱっと表情を明るくした。何とも忙しい、遊園地のピエロ顔負けの顔芸だ。
「ええっと、そういえば名前を聞いてませんでしたよね……。私は狭山千恵子と言います。よければまた会ってもらえますか?」
 女はそう言うと、立ち上がった俺を上目遣いで見上げたがガタイがいいせいで今一つ見上げきれていない。
「ああ、これは失礼しました。僕は将棋部の『澤村』と申します。そうですね、また機会があればお会いできれば嬉しいです。それじゃあちょっと用事があるんで、お先に失礼します」
 伝票を持って出口へ向かうまでに、女のだらしない笑顔が見えたが、それはさながら食虫植物のように禍々しいものだった。喫茶店のコーヒーがしゃぶしゃぶで薄い代物だったのにもかかわらず、俺は胃が荒れたような感覚を禁じ得なかった。
 気付けば太陽は頂点を過ぎ、午後の講義は始まっていた。遅れて教室に入ると、クソ暑い月曜日だからか、人もまばらである。
 酒井が飲み会で精神科が云々と言っていたが、なるほど症例を目の前にしているのだから頷ける。
 ストーカーには自覚のある者と、そうでない者がいる。俺は前者であり、雰囲気ブスもとい狭山は後者である。
 話題には上がらないが学科の中の男連中では有名な女だったらしく、調べると叩くまでもなく埃がでてきた。なんでも一線を越えないのをいいことに男に思わせぶりな態度を取りまくる精神売女らしい。
そしてその怪物に最初に引っ掛かった、というよりは諭したのが酒井だったようだ。メンタル・ヘルス、つまり精神衛生に重大な問題を抱えていた狭山にとって、たちどころに酒井こそが恐るべきストーカーとなってしまった。それがこのいざこざの公平な見方というものだろう。少なくとも直接会って話を聞いてみないと分からないと思っていたが、確信を持てた。
 もう一人の当事者たる酒井の話を聞くこととはもちろんしない。落ち目の結婚詐欺師は実のところ幸薄げなお人よし男だったわけだが、俺にとってそんなことは重要ではないのだ。善人の末路は火あぶりか犬の餌と相場が決まっている。
 気付けば午後の講義も終わろうとしていた。
 

 文化部棟に差し掛かると、何とも嫌な汗が流れてきた。夏なので夕暮れは遅いものの、日差しは既に弱まっているはずなのだが。場所が悪く空気の流れが淀んでいるせいで蒸し暑さが加速している。
「ふうー。お、今日は少ないな」
 扉を開けた瞬間、冷気が身体を包み俺は思わず声を上げた。
 部室には山田と酒井の二人しかいなかった。二人寂しく将棋を打っているが、明日からは酒井もしばらく顔を出せなくなるだろう。
「この暑さだからなあ。及川は講義にも来てないみたいだし、体調でも崩したのかもな。さっきまで渡辺さんもいたんだけど、ちょうど帰ったところなんだよ」
 渡辺さんは毎週月、火曜日の十七時から家庭教師のアルバイトを受け持っている。当然俺は知っていて入れ違いになった。
「おい、ちょっと必要な書類があるんだが、今日借りて帰ってもいいか?」
 俺が話しかけると「王将」を持った手を上げながら酒井が頷く。
「何かに使うのか?」
「いやちょっと今度の文化祭の件で、実行委員会に書類の不備があるって言われたからさ、確認しようと思って」
「ああ、それなら俺がやっとくのに」
「まあこれくらいやるよ。暇だし。副部長なのに特に仕事もないからな」
「なら任せるわ。サンキューな」
 これからお前にすることを思うと、そんな礼などもったいないくらいだ。そうは言えない俺は、ロッカーから目星をつけていた部の書類を取り出し鞄に入れる。
「おっと、すまん」
 酒井は手にしていた自分の「王将」を床に落としてしまったようだ。
「命運尽きたな」
二人には聞きとれないであろう独り言をつぶやきながら、俺は部室を後にし、足早に家路についた。


 檄文というものがある。
 これは檄をしたためた手紙であるという解釈が一般的だ。多くの人の心に訴え、情を煽る文こそが檄文とも言われる。俺は今、二人の人間に手紙を書いている。その内容は紛れもなく檄文であり、この二人の心を大きく動かし、状況を一変させるものになるだろう。
 ただ言葉を紡ぐだけでは駄目だ。誰によって発せられたかでその言葉の意味も価値も変わってしまう。
 部の書類それ自体には何の意味もない。文化祭がどうのも全て嘘っぱちだ。しかしここには紛れもなく二人の人間の直筆が残されていた。


 狭山さんへ。
 酒井くんへ。


 宛名を封筒の右上に丁寧に書き写す。


 酒井より。
 渡辺より。


 差出人を封筒の裏にそっと書き写す。
 筆跡を真似ることなど造作もない。自称硬筆五段は伊達ではない。渡辺さんに関しては筆跡どころか文体や句読点を付ける癖まで把握している。
 内容に関しては頭に次々と文章が浮かんでくる。気分は天下の名文家だ。しかし二通の手紙を捏造することが大変な労力であることには間違いない。
 しかし。
「狭山さん、色々とごめんなさい」
しかしメンヘラクソビッチである狭山を諭し、逆恨みされる事も予想できたにも関わらず身を呈して他の男子に警告した酒井。そんな人間をこんな形で陥れてしまっていいのだろうか。
「酒井くん、お元気ですか。私は元気です」
 酒井が妙に男子連中に人望が厚かったことも、こんな理由があったからだとしてもおかしくはない。
「俺は色々と考えすぎていた、それを君に押し付けていたのかもしれない」
 田口や及川はともかく、酒井ならばいいのではないか。
「唐突な手紙でごめんなさい。酒井くんに直接相談したいことがあったので筆を執った次第です」
いや、誰がいいのかなどと俺が判断するならば最初からこんな馬鹿げた行いなど無意味だ。ここまで来て引き返すことは、本当に許されないのだ。もはや俺の狭く歪んだ視界に映るビジョンは一つしかない。
「これで戦いは終わる……」
 俺は机に転がっていた「王将」の駒を見つめ、鉛筆を舐めた。気分はまさに名軍師である。
「天よ地よ、我らが部長を愛おしみたまえ」


〈火曜日〉
 誰よりも早く登校し二人のロッカーの隙間から手紙をねじ込む。そうして最後の仕事を終えた俺は、息も絶え絶えで部室の扉を開けた。
「あ、こんにちは。高木くん」
 すぐ近くに笑顔の渡辺さんが立っていたので、面食らってしまう。
「なあ、高木、酒井知らないか? 今日も一局打ってから帰ろうと思ったんだけど」
「さあなあ、なんか今日は騒ぎがあったみたいで人の流れがごちゃごちゃしてるからなあ」
 素知らぬ顔でパイプ椅子に腰かける。すでに徹夜二日目なのでさすがに疲労をごまかしきれない。
「それにしても、昼休みにあった騒ぎって、結局何だったんだろうね」
 渡辺さんが帰り支度を始めながら、不安げに語る。
入れ違いになるように昨日と同じ時間に部室に入ったつもりだったのだが。
「男と女の痴話喧嘩ってのが流れてる情報だけど、詳しいことはわかんねえなあ。なんか流血沙汰になったとかなってないとか」
 もちろん俺は酒井が当事者の片割れであることは知っている。流血沙汰で済んで良かった、というのが本音だ。
むしろもう片方の狭山と直接接触している俺にとって、そちらからのアプローチが懸念だった。万が一大学から「将棋部の澤村」なる人物に出頭命令が出ても存在しないので問題ないし、狭山自身が「将棋部の澤村」に対して告訴状を作成しても心配はない。しかし怒れるメンヘラが昭和の右翼よろしくポン刀を振りかざし部室にカチコミに来たら一大事だ。俺が新鮮なユッケにされるのは自業自得だが、渡辺さんの身に危害が及ぶことは許されない。
「じゃあまた明日部室でね、山田くん。高木くんも、来たばかりのところで悪いけど、今日はお先に」
 鞄を抱えた渡辺さんが部室を出てからもしばらくの間、山田は間抜け面で手を振っていた。一方俺の脳裏からは血まみれの酒井は追い出され、日本刀を構えた狭山が般若のような顔で仁王立ちしていた。


「なあ山田、一局打とうぜ」
 我が部には足付きの将棋盤などという立派なものはない。そんな中でも一番まともな折り畳み式盤を選んで机に広げて見せる。
「そういえば高木と部室に二人だけってのも珍しいし、将棋打つのも久しぶりだよな」
 山田は駒を丁寧に並べながら、楽しそうに言った。うちは絵に描いた様な弱小の部で面子も変わり者ばかりだ。しかし弱いなりにも大会に出場し、飲み会を開き、将棋の研究も一部では真面目にやっている。雰囲気が悪いということはあり得ない。田口の言う反吐が出る状況には確かに陥ってしまったものの、それ自体が表に出てくることはなく、それによって皆が気分を害することもなかった。
 俺が今回動くまでは。
「先手はやるよ、山田。俺は後手でいい」
 そう言って手のひらで盤面を指すと、山田は頭を抱えて考えだした。
「お前はいつも初手で悩むよな。なんでいつもそんなに悩むんだ」
「うーん、わかっちゃいるんだがなあ。しかも先手だろ。オレなんか先手は苦手なんだよなあ」
 放課後の部室にはいつも人がいた訳ではないが、それなりに賑わっていた。もちろん渡辺さん目当てというのもあるだろう。しかし、それだけではなかったのではないか。
「お前は後手が好きなんだよな。理由はあるのか」
「理由、って言っても大したもんじゃない。オレが単に優柔不断なだけだよ。相手の出方がわからないとイマイチ判断が出来ない性格なんだよなあ」
 そう言いながらも、山田は飛車先の歩を突こうと指を盤上に下ろす。嫌なら先手を断ればいいのにそんなことも出来ないのが優柔不断の表われなのか、人の良さの表われなのか。
「なあ、お前渡辺さんのこと好きか?」
「おいおい、唐突だなあ」 
 俺の問いに一瞬顔が強張ったが、得意の苦笑いを浮かべてくる。
「どうなんだよ」
「おい、マジ顔やめろよ……。どうってそりゃあ好きか嫌いかって言ったら好きだよ。この前の飲み会でも言っただろ」
 そう言った山田は改めて歩を指先でつまみ上げ、やや乱暴に叩きつけた。
「らしくない打ち方だな。図星も何もお前自身の言った通りだろ。この前の確認だよ、確認」
 俺は山田が散々悩んだ初手と同じく、飛車先の歩をそっと指の腹で前に押し進める。
「酒井もよく言ってたけどさ、お前はどうなんだよ」
 山田はあれだけ迷った初手が嘘だったように軽快に手を進め始めた。
「お前と同じだよ」
「卑怯な答え方だな」
 序盤の駒組みも終わり、いよいよぶつかり合いが始まる。
「そうだよ、俺は卑怯だよ」
 俺は飛車で山田の歩を取り、持ち駒にしつつ嘲るように言った。
「放っておいたら同じ部の誰かに取られるかもしれんぞ」
「取られるなんて考え方が自己中心的なんだよ。渡辺さんが決めることだ」
 山田は冷静に手を止め、少考した後ゆっくりと駒に触れた。
「一見良識に溢れる回答だが、単に相手にぶん投げてるだけじゃないのか? 自分が決断できないからって」
 俺は山田の目を見て煽った。しかし当の本人はこちらを見ようともせず、俺の「王将」に焦点を絞りながら、手を進めている。
「その通りだ。俺には勇気がない。誰か他の奴が渡辺さんに猛アタックしてそれでくっついても怨む筋合もない」
 違う。違うんだよ。
「誰か、って言うのも都合のいい話だよな。結局お前は具体的なものから目を背けてる。お前は田口と肩を並べてゲームをプレイする渡辺さんの姿が思い浮かぶか? 及川の前でコスプレする渡辺さんの姿が、酒井に鞄を買ってもらう渡辺さんの姿が見えるか?」
 俺はいったい何を言ってるんだろう。気付けば駒を掴む指の力も入らない。
「お前は俺の前でだらしなく服を脱ぐ渡辺さんを見たいか?」
 いつの間にか俺の「王将」の前には山田の歩がいた。
「王手だ」
 山田は淡々としていた。
 俺の言葉は聞こえていなかったのかも知れない。俺が心の中で言っただけで、実際は口に出していなかったのかもしれない。ただ、その目は研ぎ澄まされていた。
 山田は下手だが集中力はある。確かに初手であれこれ悩むが、中盤以降はしっかりと盤面を見て打てる。まあこの考察も所詮、渡辺さんの受け売りなのだが。
「投了だ」
 俺の言葉を聞くと、我に返ったかのように俺を見上げた。屈託のない顔だ。
「悪いな山田。時間がないから後の片付け頼めるか」
 それが快諾だったのか不平だったのかは分からない。山田がとにかく了承したことだけを理解し、俺は部室の扉を開けた。
 辺りは既に暗くなっていた。


 俺が自転車でサイクリングに出かけるのは土曜日と火曜日の週二回。偶然なことに渡辺さんのマンションのゴミ回収日と一致している。
 いつものようにダサい寝間着の渡辺さんが降りてきたところまではよかった。しかしいざゴミ袋を回収しようというところで突然の雷鳴。大雨。
 家に帰るとすぐにゴミ袋を放り投げた。雨に降られたためずぶ濡れだったがどのみち中身をぶちまけるのだから気にすることもない。
 結び目がいつもより緩いような気がした。雨のせいだろうか。
 袋の中身はいつも通り生ゴミが占めていた。リンゴやバナナ、キウイの皮。渡辺さんは果物が好きなのだ。そして、エビフライの尻尾や魚の皮を食べずに捨てるのも知っている。
 生ゴミは汚い。そして臭い。愛でるものでもない。
 だが俺とて渡辺さんの生活の残滓を垣間見ることに関しては満更でもないのだ。
「おいおい」
 しかし、いつもと違うことが一つあった。
「手紙がないぞ」


〈水曜日〉
 昨晩の深夜から降り続く雨は、昼を回るとかなり勢いを落とし始めていた。しかしあれだけ燦々と照っていた太陽を暗幕で覆い、多くの人間のイライラの原因となっていた迷惑な害虫である蝉を黙らせたことで、意外にも多くの学生に有難がられていた。
「なんか静かだね」
 午後二時。日中で気温が最も高くなる時間。
「この雨はたぶん夜まで降るだろうなあ」
 部室の中は涼しい。クーラーが効いているのもあるが、二人しか人間がいないのもあるだろう。
 講義のない渡辺さんがこの時間に部室にいるのはわかっていた。そしてバイトもないのでしばらくはいるだろう。いや、いるのはまず間違いない。
 渡辺さんは窓際の一番背の低いパイプ椅子に座り、両手を机の上にある鞄の上に置いていた。その手の隙間から、見慣れた封筒が姿を覗かせている。
「渡辺さん」
 意を決して名前を読んでみる。
「ん?」
 少し首を傾げて眉を動かす動作。それほど大げさなものではないが、俺にとっては五本の指に数えるほどの好きな仕草だ。
「このクラブに入ってよかった?」
 我ながら情けない質問だ。
「はは……えらく改まった質問だね」
 苦笑いしながら頬を掻く渡辺さん。この苦笑いは誰かに似ている気がする。
「そうだね、楽しいよ。高校のときも将棋部に入ってたんだけど、部員が私一人でね。ここは女の子は私しかいないけど、みんな面白い人ばっかりだし、ちゃんと大会にも出られる。今回の団体戦、初戦で負けちゃったけど、私は嬉しかったんだよ。一人のときは団体戦なんて……出られなかったし」
 そもそもこの二人だけの状況は何のために作ったのだろう。こんな馬鹿らしいことで部を掻き回して、俺はいったいどうしようと思ったのだろう。 
 渡辺さんのためか?
 山田のためか? 
 それとも俺自身のためか?
 もしかしたら、今がチャンスなのではないのか?
 この手紙は俺に宛てたものではないのか?
 今なら。
 今ならまだ間に合うのではないのか?
 先手を取ったんじゃないのか?
 渡辺さんは俺が無言だからか、気まずそうにしきりに口をごにょごにょさせている。
「それならよかった」
 何がよかったのだろう。俺が口を開いたことで意識がはっきりしていることがわかったからか、渡辺さんは口のごにょごにょを止めた。
「はは……なんか愚痴みたいになっちゃったな」
 口調はいつもと変わりないが、その声色には間違いなく緊張が滲み出ている。しきりに時計を気にしているのが丸わかりだ。
 俺は雨の音がやや小さくなったのを見計らって再び口を開いた。
「酒井は色々面倒なはずなのに文句も言わずに部長やってるし、ああ見えていい奴かもしれない。なんて、本人に言ったら女の子の前でもっと言えとかいいそうだけど」
 乾いた笑いを渡辺さんに向けると、しっかりとこっちを向いて笑っていた。俺は咄嗟に顔を窓の外に向けた。雷雲がとぐろを巻きながらゴロゴロと音を立てている。まるで脱糞前の腹だ。
「田口はあんだけゲームやってるのになんで将棋にその情熱を向けないのかねえ。戦略がどうのを語るなら将棋でそれを見せてくれってんだよ。あと酒を止めれば頭もシャキッとして打ち方もまともになるのかも」
 俺の視界の端で渡辺さんはうんうんと頷こうとして、慌てて遠慮がちに肩をすくめた。
「そ、そう言えば及川がこの前かわいい女の子連れてるのを見たんだけど、なんでもランボーの妹らしいよ。あいつの妹とは見えないくらいかわいくて、まだ小学生らしいけど、及川のケツを蹴りあげててさすがだなと思った。まあ本人はむしろご褒美とか言ってたみたいだけど」
 半分は嘘のような俺の話に目を細めて笑っている。口元から僅かに見えた歯は、初めて見たわけでもないのに俺の言葉を上ずらせる。
「肝心のランボーなんか、及川に『お兄さん』とか呼ばせて喜んでるんだから本当に困りもんだよ。それを俺が聞いたときには、『今度三人で男機関車しましょう』とかまた意味不明なこと言ってきてさ。あいつと一緒にどっかにでかけると、とりあえずサウナに誘ってくるし。この前言った怪しい喫茶店なんか、『不純同性交友禁止!』とかいう不気味な張り紙があってさあ、そこでもあいつは……」
「ふんふんしよう、でしょ?」
「そう、ふんふん」
 俺の上ずった言葉に乗ってきてくれた。例えようもない高揚感。だが、そんなものももうすぐ消える。
「山田は」
 そう言った俺を見る渡辺さんの目には、俺の姿は映ってはいなかった。


 山田はつまらない奴だ。ただのヘタレ野郎のくせに手段を選ぼうとする勘違い男だ。容姿も言動も将棋も平凡で、先手を取ろうともしない腰抜けだ。悟ったような思い上がりで自分を慰める屑だ。


「山田は慎重すぎるのがなあ。後手ばかり好むのは本人の自由だけど、中盤以降の集中力をもっとさっさと発揮できればこの部の三番手は間違いないのに。まああいつに昨日も負けた俺が言うことじゃないけど」
 山田の人となりはどうした。その平凡な容姿や言動はどうした。
「そうだよ! 本当に山田くんは惜しい将棋を打つよね。常識人なのはいいけど、盤上ではもっとはっちゃけてもいいのに……。って何か言いすぎちゃったね、ははっ……」
 そう言うと渡辺さんは小さく背を丸めるように俯いてしまった。
 山田のことだと目の色変えるんだね。もしかして。
 自分がそんなことを言える立場にないことは一番良くわかっていた。自分のことにも渡辺さんのことにも触れず、他人の話しかできない自分には。
「まあみんな今は忙しいだけで、来週にはひょっこり顔を出してくるだろうから、こんな風に誰かと二人だけになることもないかな」
 チャンスは今日しかないんだよ。
「そ、そうなんだ……。なんか、ごめんね。私、二人だと緊張しちゃって、変な感じになってたなら悪いな……なんて」
 昨日帰るのが遅かったのは、山田と二人だけだったからだよね。
「そんなに気にすることなんてないよ」
 まず顔を出すのは田口だろうか。週末のオフ会をすっぽかされて半信半疑のまま部に来させるのもつまらないので、いっそのことネタばらしして俺に殴りこみに来させるのも面白い。
「こっちが申し訳ないくらいだ」
 及川に大森兄妹を連れて部室に来てもらうのも面白い。あいつの妹なら俺達が教えたそばから将棋でボコボコにされる事もあり得る。罰ゲーム担当が兄の方なら身の毛もよだつが。
「まあ今日は色々話せてよかった」
 これで酒井が俺達に女の悪口の一つも溢さなかったら、いよいよあいつは聖人君子ということになるのかもしれない。もしくは最終解脱者か。そうなれば報われてもいいような気がするが、残念なことに俺は紹介する女の知り合いもいない。南無。
「変な話だけど、ありがとう」
 だが俺には話すことなど何もない。来週もまた、今週や先週までと同じなのだ。渡辺さんがついぞ俺について「将棋部の高木くん」以上の興味を抱かなかったのと同様に、ただ白紙の予定が手帳を埋めるのだ。俺の部屋にぶちまけられるゴミ袋から、新たな思い出の断片が発掘される事にささやかな期待くらいは寄せておく。


 時刻は既に四時を回っている。四コマの授業はもう終わっているだろうか。
「ちょっとトイレ行ってくる」
 席を立った俺を、渡辺さんがどんな顔で見ているのか気になった。どんな目で見ているのか。どんな仕草で。どんな表情で。
 ドアノブに手を掛け、思い切り開ける。俺が鞄を持って出ようとしていることに気付いているのだろうか。気付いていないのだろうか。
 廊下がやけに長く感じた。雨粒が通り抜ける風に乗って壁や天井にこびりついているのだろうか、水気が顔に当たる。目が霞み鼻の粘膜が湿気にぐずる。
「おお、高木、今日は早いな」
 山田が廊下の向こうから歩いてくる。平凡な状況で平凡な表情をして平凡な挨拶をぶつけてくる。
「どこ行くんだ?」
 昨日打った将棋は覚えているのだろうか。悩みなんてないような顔しやがって。これから起こることは間違いなくお前の人生で最大の吉事だから克目しておけ。そして驚いて心臓麻痺で死ね。


「うんこだよ」
 俺は笑った。
 そう、長くてでっかいうんこだ。