仲原 あずま「Door to door」

 

 昼から大雨が降っていた。朝、部屋の扉を開けたときは、薄曇りかなぁって感じだったんだけど、帰って来る頃にはジーパンの膝まで濡れるぐらいの土砂降りになっていた。空も地面も暗い色に染まって、さかさまになっても分からないぐらい。電車の音も、雨の音と同化している。
 ホームに立っただけで、そこそこ濡れたパーカーから雨をはたき落としながら、駅の階段を降りる。「俺のうち駅近くだから!」なんて、心が広い振りをするんじゃなかった。傘かえせ天然美少女。もしくはお前の家に帰らせろ。相々傘にはここ数年縁がない。ディスプレイの中に旅立つべきかもしれない。勤務先は、二次元からは程遠い、電車で十五分の本屋。
 傘買った方がいいだろうか。それより、雨の中を走って帰った方が良いかもしれない。コンビニで四百円の傘を買うと、明日の食費に差し障るし。本屋は薄給かつ激務なのだ。だけど、風邪を引いて帰るのも嫌だ。明日は月曜日で、週刊誌がたくさん入ってくる。早朝から、少年の心をたぎらせる紙束を運ぶお仕事が待っている。
 ……思い出したら、帰りたくなくなってきた。
 駅のコンコースにも、雨が吹き込んでいる。建物の下から空を見上げると、顔に雨粒がこれでもかとぶつかってくる。冷たかった。冬にこんな大粒の雨が降るなんて、珍しいんじゃないかな。バスが駅前の停留所から出発していく。閑散とした駅に、ばしゃばしゃと止めどない雨の音が響く。
 人通りはまばらだった。すぐ真横に、サラリーマンが一人立っているだけ。彼はなぜか、ケータイを握って、深刻そうな顔をしている。迎えでも来るのかもしれない。待ち受けの写真を見て、苦笑いを漏らしている。一人でニヨニヨしちゃって、小さい娘さんとかいるのかな。
 いいよね、家族とか。俺は一人暮らしだし、電話をかける当てもない。ケータイは、ポケットに入ったまま。
 明るい駅の中で、寒さが募っていく。待つ人もいないのに、ぼーっと花屋が店じまいするのを見ていた。サラリーマンが、早く帰ってくれれば良いなと思いながら。
 そしたら、後ろからなにかぶつかってきた。それも、勢いよく突き飛ばされた。花屋のねえちゃんのポニーテールに見とれていた俺は、雨の中につんのめって放り出された。
「なにっ?!」
「ふーんふふーん」
 とても機嫌が良さそうな鼻歌が返事をした。大雨が、ワイシャツもジーパンも一緒くたに濡らしていく。だけど俺は、その時鞄の中の買ったばかりの本のことで頭が一杯だった。鞄を腕で庇っていると、傘を差し出された。件の機嫌の良さそうな声で。
「雨ですね」
 てへへ、と笑った。傘を差し出してくれたのは、白いコートを羽織った女の子だった。
「ずぶぬれですね」
「……あ、はい」
 俺は傘を受け取っていいのかなと悩みながら、そろっと手を出した。彼女は傘を引っ込めて、俺の手をぎゅっと握った。
「え!?」
「あなたにハンドパワーをさずけました。これで雨もだいじょーぶ!」
 彼女は緩みまくっていた笑顔をきりっと引き締め、謎のパワーを授けてくれた。指はGood jobの形になっている。
 ……誰?
「ど、こかでお会いしました……?」
 はじめましてどうぞよろしくとか、言った覚えがない。お店のお客さん? 三年前にお世話になった占い師? ゲームの世界の人?
 彼女はきょとんとした後、首を傾げた。親しげな笑顔、ほんわかした動作。俺のジーパンは今もびっちゃびちゃなのだが。
「おむかえです」
 彼女は俺の手を引っ張って、助け起こしてくれた。それから傘を差し出して、
「いっしょにかえりましょう」
「……ええええええ……」
 さすがに初対面の女の子のお誘いには乗れない。俺の引きつった顔に、彼女はまた首を傾げて、「傘ないんでしょう?」と当然のように傘を握らせた。
「いやでも家の方向」
「いぇーい雨だー!」
 聞いちゃいねぇ。雨を楽しむように、とっとこ歩いていく彼女に引き摺られてずるずる歩き出した。彼女は俺のことなんか気にせず歩いていく。なのに彼女の歩く道は、不思議といつもの帰り道だった。
「ふーんふふーんふふー」
「……何の歌それ」
「あーめあめふーれふれもぉーっとふれー」
 昭和歌謡がお好みらしかった。しかも、サビとイントロだけ歌って満足したのか、次々と古く懐かしい曲を繰り出す。上手いというよりもこなれた歌声だった。彼女の歌う歌は、お母さんが料理をしながら口ずさむ歌に似ていた。あったかい気分。
 なごり雪を聴きながら歩いていたら、いつの間にか商店街のアーケードに入っていた。ここなら傘がなくても濡れない。家は商店街の裏だから、もう少しだ。差しっぱなしの傘を返すと、彼女はその時初めて俺に気づいたような顔をした。
「ありがとう。濡れずに……は済まなかったけど。家、この近くだから。もう大丈夫」
「あ」
 傘を返すと、彼女はなにか言いたげな顔をして、俺を見上げていた。大きな目。
「お礼するよ。よかったら、えと、お茶とか……」
 だから、精一杯勇気を振り絞って言ってみたのだけど。返事はなかった。
「じゃあ……」
 アドレスを聞いたりするのもためらわれて、俺はさっさと帰ろうと決める。今日のことは可及的速やかに忘れよう、うん。
「あのですねっ」
 慌てた声が聞こえて振り返る。アーケードのライトが、二人の影を照らしている。いつもは一人の影なのに。
 傘の分少し離れている、ちょっと微妙な影の距離。
「きょう、いいことあったんです」
「いいこと?」
「バイトが、三ヶ月つづいたんです。わたしすごいダメなんですけど。失敗ばっかりなんですけど。お店の人、みんなやさしくて。お祝いしてくれて、お酒をのんでかえってきたんです」
「それは……よかったですね」
 彼女はそれはもう、にっこり笑った。ふにゃふにゃの笑顔に、涙がいっぱいだった。きっと、大変な三ヶ月だったのだろう。本当に良かったなぁと思えた。初対面なのに。
「ありがとう。よかったぁ」
 彼女はそれから、「よかった」を繰り返しながらべそべそ泣いた。酔っ払った泣き上戸は、本当に性質が悪い。どうしていいのか分からない。雨も降ってないのに、ずっと彼女の傘を差したまま持っていた。傘は、水色のストライプとクリーム色の淡い色。縁にはレース。
 彼女の肩は、小さく震えていた。真っ赤になった頬が、寒そうだと思った。涙はなかなか止まらなかった。
「ぐず……すみません」
「あー、いえいえ」
 思うだけ泣いたら、彼女は手持ち無沙汰の俺に気づいたらしい。鼻水垂れてて、見れたもんじゃない顔だった。鞄からティッシュを出そうとしたら、まさかのアニメ絵柄のティッシュが出てきた。営業さんが持ってきた、単行本の粗品だ。
「あ、ありがとうございます」
 涙とか鼻水とか拭きながら、やっぱり笑った。泣き上戸で、笑い上戸。
「鼻かぜひかないように、気をつけてな」
 傘を返す。それで、そのまま家へ帰った。泣いた顔なんか見られたくないだろうから。家へ帰ってジーンズを洗って、カップラーメンを食べながら、彼女のことを考えた。ちょっと可愛かったよな。あんな泣かれたら迷惑だけど。家はこの辺りかな。また逢えるかな。色々考えて、酔っ払いだから覚えちゃいないだろうし、諦めて寝ることにする。明日も早いのだし、発注書を書く楽しいお仕事が待っている。店長が山ほど発注した漫画、売れるかなぁ……

 次の日、玄関の扉を開けると、空は晴れ渡っていた。昨日の傘干さないと、と思って、傘を持って帰ってこなかったことを思い出す。今日同僚に返してもらおう。彼氏と相々傘で帰るとか、うらやまけしからん。
 家の鍵を取り出して、鍵をかける。今日一日に向かって歩き出す。良い天気じゃん。バイト頑張れよ、と思いながら。
 隣室は、今朝もとっとこ走る音がしている。最近早起きを始めたようで、朝はにぎやかだった。通り過ぎ様、干してある水色の傘に一瞥くれて、鍵をポケットにしまった。行ってきます。