序二段「くたばれ独立愚連隊」


 人に上下はあるのか。
 人に上下があるならば、つけるのは誰か。


(一)

「ぜひとも、あなたと働きたいですね」
 てらてらと光る浅黒い肌は揺れても、微笑みは崩れない。男が慣れた素振りで突き出した手を、僕はおずおずと握った。
「はい!」
 全員に同じことをしているとわかっていても、声はうわずる。それを自覚した僕は背を丸めながらそそくさと部屋を出た。
「どうだった?」
 控室に戻った僕に、小柄な男が目をくりくりと動かしながら聞いてきた。僕と同じ学生だ。自分以外の二人の学生とともに集められ、それぞれが個人面接を受けている間に配布された筆記試験をこなす。今日の面接はそんな形式だった。
「うーん。まあ趣味の話とかがほとんどだった」
 僕は正直に答えた。実際、あれほど緊張して挑んだ面接は自分にとって他愛もないとしか言えないもので、拍子抜けしたといってもいい。
「そうかあ。僕は結構きついこと言われたんだよなあ。『君の考えは甘い』とか……ずっと怖い顔してたよ、人事の人」
 聞かれた内容が違うというより、どうやら雰囲気が違うらしい。確かに僕の目から見ても、この男は真面目そうだ。しかしそれだけだ。面白そうなことを言ったり話を弾ませるのが得意という風には見えない。全員が言われていると思った「あなたと働きたい」も、あながち美辞麗句ではないのかもしれない。
「まあ、ようわからんなあ!」
 それまで机に体をべったりと伏せていたもう一人の男が、呆れたような声をあげながら伸びを始めた。こちらの男はすらりと高い背丈に精悍な顔立ち。軽薄さを上回る爽やかさを漂わせていて、ありていな言い方をすれば「モテそう」な男だ。
「ああ、失敗してしまったかなあ……」
 小柄な男が顔に手を当てながら立ち上がったのを見届けた僕は、鞄をわざとらしく軽々と持ち上げながら真っ先に部屋のドアノブに手を伸ばした。
一礼してくる警備員に恐縮していると、目の前の大きな自動ドアを開いた。いきなりビル風が吹きつけてくる。面接が終わる午後五時半は多くの企業の終業時間と重なっていたからだろうか、足早に目の前の駅を目指す人たちの姿が目立つ。ふと横を見ると、背の高い男が何かをつまむ真似をしながら「吸う?」と首をすくめて聞いてきた。僕は風から顔を背けながらゆっくりと首を横に振った。
「じゃあ、ここで」
 煙草を小脇に、男はすらりと長い手を振って大きな口を開いた。
「さっきの子ってどこ大だったっけ?」
 他愛もない話がひとしきり終わり、駅の改札に差し掛かるころ、小柄な男はやんわりと切り出してきた。
「確か、D大らしいよ。さっき聞いたから」
 小柄な男が面接中、僕は背の高い男と話していた。しかし大学の名前を知っていたのは配布された用紙の記入欄をちらりと盗み見たからである。直接聞いたわけではない。
「ふーん、D大かあ。有名なところだなあ。僕は愛知から来たから、こっちでは全然……」
 D大は近畿圏では特に有名な私立大学だけあって、全国的にもそれなりに名を知られているようだ。
「……大なんだけど、磯山君はどこ?」
 よく聞いていなかった。正確には聞こえていたが、よく知らない大学の名前であることしかわからなかった。それよりも、唐突に名前を呼ばれたことに少し驚いた。
「僕は、O大だよ」
 簡潔に、答えた。相手の反応を見る必要は、特にない。僕はこの小柄な男の名前も、さきほどの「モテそう」な男の名前も覚えていない。覚えているのは、D大くらいだ。
「ふーん」
 電車が来た。スーツの列が動く。僕たちは同じようなスーツを着ているが、この人たちとは違う。偽者。偽物。
「お互い受かってるといいなあ」
 小柄な男が笑った。僕も笑った。一次面接だから、三人いれば通過するのは多くて二人だろう。もしくは一人か。
「そうだね」
D大の奴と僕、どちらが受かっているか。どちらも受かっているか。それを考え始めると、小柄な男の声はまた聞こえなくなった。

 冬でも雪が積もらないS市でも、さすがに二月の寒波に大気が芯から冷やされていた。大学も例外ではない。
「さむっ」
 ゼミが終わったついでに校舎前で掲示板を読んでいると、内藤が缶コーヒーを右手、左手とお手玉しながら近づいてきた。
「今度のゼミの資料ってもうコピーした?」
 熱さがおさまったのか、内藤は缶コーヒーを顎の下に挟んだ。そのまま、深緑色のジャンパーの胸元からよれよれの煙草を取り出す。胸ポケットに押し込められていて歪んだ箱には、LARKと書いてあるのがかろうじて読み取れる。
「一応できてるよ」
 僕は言葉を返しながら顎の下に手を出した。内藤は「おお」という声とともに顎を上げ、鈍い金色の円筒が僕の掌に収まった。まだ熱かったので、今度は僕がお手玉を始める。適当に切り上げてスーツのポケットに避難させる。
「俺なんもできてへんわ」
 苦笑した内藤の伸び放題な髭から目を離し、白で縁取られた画面に目を遣る。自分とは対照的な僕のスーツ姿に今頃悟ったのか、内藤が言葉を続けた。
「そういや就活か、大変やな」
「まあ、まだまだ始まったばっかりだから」
 複数のメールアドレスを管理できるのだが、どちらのアドレスで応募したのだったか。先月買ったばかりのスマートフォンの扱いにはまだ慣れない。
「じゃあ、お疲れ」
 僕はスマホの画面から目を離さないまま、内藤に缶コーヒーを手渡した。
「おお」
 右手に火のついた煙草、左手に缶コーヒー。「内藤は就活してるの?」とは聞かなかった。聞く必要はなかった。ちらりと目線を上げて見えた内藤の突き出した両手とハの字の眉毛に妙なシンメトリ―を感じながら、僕は背を向けて歩き始めた。
 メールが一件あった。この前面接を受けた会社だ。首を傾げるより先に、胸の奥を嫌な動悸が走った。面接を通過したら、普通は電話じゃないのか? いや、何か別の連絡かもしれない。面接も、上手くいった。上手くいったはず。上手くいったんだ。
 だって、あなたと働きたいですねって言われたじゃないか。
「落ちてる」
 選考結果のお知らせ。
先日は、当社の選考に参加いただき、誠にありがとうございました。心より御礼申し上げます。選考の結果ですが、残念ながら次のステップに進んでいただくことができなくなりました。重ねて御礼申し上げますとともに、磯山様の今後のご活躍をお祈り申し上げます。
ありがとうございました。


(二)

「すみません、わかりません……」
 その消え入りそうな声に、僕は肘をつきながらわざとらしく溜息を被せた。
「まあ、わからないのは仕方ないとして」
 こんな問題もわからないのか、とは言わないし、思わない。しかし、目の前で俯いた少年の鬱屈とした表情には苛立ちを隠さない。
「なあ、ここ大事って言ったよなあ」
 油圧式の回転椅子に座ったまま少年の方に向き直る。
「言ったよな?」
「……はい」
 では何故できないのか。能力が足りないのか。それでも僕は、努力が足りないと思っている。月並みな考えかもしれない。しかしやるべきことをやっていない。それで結果が出ないならば、言うべきことは限られている。
「こんなことできなかったら、これから何もできないよ」
 自分の言葉に残酷な意味が付随することを意図していたわけではなかった。だが、してもいいと思っていたからこそ言い切った。原因の全てが自分になかろうと、結果は全て自分に返ってくる。それが責任なのだから。
「最後の最後まですみませんねえ、うちの子、全然勉強しなくて」
「いえいえ、まだこれからですよ」
 もう何度繰り返したかわからない指導後のやりとりを終え、少年の家を後にした。自分が少年に厳しくあたっておきながら、結果について母親から詰められることがないのだから、楽なアルバイトである。
殺風景な田んぼを撫ぜる寒風に煽られて、頭が冷やされる。僕は自分の言葉に少年不在の苛立ちが反映されていたことを反省するとともに、その原因となった出来事を思い浮かべた。
初めての一次面接の結果はお祈りだった。お祈りという言葉は、選考に通過できない、いわゆる不採用通知を装飾する様々な文言に必ずと言っていいほど「お祈り」「祈願」といった言葉が含まれていることに由来する。
初面接で「祈られて」ショックを受けたものの、思い返してみると気になる点があった。重要とされる最後の質問で、僕は最近のニュースで倒産が話題になっていた企業の名前を出し「――の倒産は御社にどう影響しますか」などという掴みどころのない問いをぶつけてしまった。人事の男の柔和な表情は変わっていないように見えたが、眉が動き、目からは笑みが消えた。それに加えて「自分をグループディスカッションで通過させてくれたのはなぜか」という質問もしたのだが、これも「僕じゃなくてあのとき場にいた一般職の子が決めたんだよ」と返され、評価について自意識過剰な印象だけがその場に浮かび上がってしまった。
そもそも面接で人事が優しい場合、恨まれないように、会社の印象を悪くしないため、あまり突っ込んで聞く必要がないから、などの理由があると聞いたことがある。つまりは不採用がほぼ決まり。反対に根掘り葉掘り厳しい質問をぶつけるのは人間性を深く見ようとしている。つまりは通過させるに見合う可能性があるから、とも。
 一ヵ月前、僕は徹夜で作った消しカスまみれの履歴書を持っていき、息も絶え絶えにグループディスカッションに参加した。セオリー通りにこなし主導権を握り、いよいよ発表の番というときに自分が指名され、緊張を御しきれなかった。気分は落ち着かず、お世辞にもまとまっているとは言いがたい発表をした。だからこそ、一次面接の案内が来たときは拳を握りしめた。
 しかし、気にしても仕方ない。そんなことはわかっている。僕は今日何のためにスーツでアルバイト先まで来たのか。自分を諭すように心の内に封じ込めた。
部屋は思ったよりも広く、無機質な作りの大きな白テーブルが六つほど不規則に並んでいた。ドアから見て左側の中央には長机が背に二つ白板を従えている。その前に立つ背の高い男は高そうなスーツを着ている。私服をアレンジしたものだろうか。俳優の堤真一に似ている。恐らく人事の社員だろう。予定よりも早く着いたのだが、既に多くの学生で白テーブルが埋められており、一つだけ席が空いたところへ僕は通された。
「こんにちは! 僕はK大の田中です」
 大学が名前なのかと言いたくなった。実際、大学の名前なのだが。
「どうも、I大の林です」
「R大の安田です、よろしくー」
 I大は名前だけは聞いたことがある。K大とR大はD大と肩を並べる私立大学だ。就活を始めてもうすでに聞き飽きた。
 取るに足らない自己紹介合戦がひとしきり終わったころ、堤真一似の人事がいかにも芝居がかった口調で挨拶を始めた。
「みなさんには、ゲームをしてもらいます」
 しかし、言葉に反して血圧の低そうな声だ。
「その前に、一つ質問。こっちがするんじゃなくて、君らがするのね。じゃあ君」
 いきなりマイクを向けられた僕は、動揺を精一杯隠すようにゆっくりと左右を見回しながら立ち上がった。最後に入ってきて目をつけられたんだろうか。田中も林も安田も示し合わせたかのように首を引っ込めてよくわからない笑い方をしている。
「では、御社で働く上で重要と思われる『信条』などがあれば」
「ふうん……それはちょっとまずいんちゃうかな。『信条』を聞くとなると、問題が」
 人事の苦笑は顔色を窺うように時間差で部屋中に広まった。その場の人間たちの心根を反映したのだろうか。僕が畏まった言葉で砕いて揺らいだ部屋は、結局のところ雰囲気の弛緩に着地した。それは滑稽に見えるようで緊張を伴っていた。一様に笑っているが、笑えるから笑っている。笑わなければ、笑われる。
 苦笑をごまかすために口角を縛った僕の目の前には、きれいに色分けされた八枚のカードが並んでいた。
「この中に仲間外れがあります。八枚ありますが一枚につきカードを見れるのは一人」
 つまり、四人なら一人あたり二枚のカードをめくることができる。その情報を他の三人と共有しつつ、全体の規則性を掴めということだろう。
「じゃあめくるね」
 安田が元気よく赤いカードに手を伸ばす。順々にめくっていき、最後は僕が二枚のカードをめくった。
文字はない。カード全体に絵だけが描かれている。そして一目見て小鳥だとわかった。もう一枚は台所によくあるトングだ。
「じゃあさ、それぞれ何が描かれてたか言っていこう。俺のはトゲトゲのウニと小鳥!」
 田中は何がおかしいのかわからないが、笑ったまま大きく口を開けて提案を始めた。自己紹介でラグビーをやっていると言っていただけあって、押しつけがましく迫ってくる。
「包丁と、黄色いからこれはパプリカかな」
 安田が一番に声を上げる。
「蛇口と、おそらく葉巻」
林は淡々と答える。
「トングと、こっちも小鳥だ」
 僕が安田の方を見ながら返すと、案の定大袈裟に目を丸くしはじめた。
「なんで一緒なんだろうね」
「うーん、それぞれ分類もばらばらだよなあ」
 安田の当然の疑問を、田中は遠まわしに否定する。小鳥が二つある以外は、確かにまとまりがない。
「そうだ! ねえこれアナグラムだよ絶対!」
 安田はさきほどよりさらに一回り目を丸くして声のトーンを上げた。しかし言っていることは当たり前のことだ。それぞれの最初の文字を組み合わせると七文字の言葉が浮かぶ。残った一つが仲間外れ。よくある仕掛けだ。
 そこからみな思い思いにアナグラムを模索した。しかし、見つからない。制限時間が迫っている中、僕は目立たないように他のグループのテーブルに目を遣り、耳を傾ける。どこも喧々諤々といった感じで、沈黙する自分たちが置いていかれているような不安に駆られる。
「カードに書かれてる言葉を見直すべきかも」
 僕は焦燥の火の粉がちりちりとくすぶり始めたテーブルに勇気の一歩を下ろした。
「こっちの小鳥とそっちの小鳥、たぶん別の鳥だよね」
 言葉ではなく絵が描いてあるということは、読み取らせる意図があるはずだ。ただのアナグラムなら誰しもが辿り着く。トングのような微妙にわかりにくいものが描いてある理由も説明がつく。
「でも、アナグラムだと思うんだけど」
 溜息が出る。安田は自分がアナグラムを思いつきそれが正解であるという理想しか見えていない。他の二人を見回すと、当の田中は笑みが張り付いていて特に反応を示さない。林はまだ話が通じそうだ。
「小鳥がなんの鳥かってことじゃないの?」 
 祈りが通じたのか、林が安田の方へ顔だけを向ける。
「うーん、たぶん俺のは、インコかな。黄色いし」
 田中は大仰に指を顎に当てて一人で頷く。僕は自分のカードを見て、鶯色の小鳥に目を凝らした。
「これはたぶん、メジロだ」
 ウグイスとメジロは混同しやすいが、より鮮やかな鶯色を纏うのは皮肉なことにメジロの方らしい。
「ウニ、インコ、包丁、パプリカ、蛇口、葉巻、トング、メジロ
 読み上げた林の声を反芻し、各々再びアナグラムを考える。
う、い、ほ、ぱ、じ(じゃ)、は、と、め。
「駄目だ、思い浮かばない」
 こういうときは「アタリ」を付けるとして、おそらく「じゃ」ではなく「じ」を使うのだろう。それくらいしかわからない。まだ、何かが足りない。
アナグラムだと思うんだけどなあ」
 安田の投げやりな口ぶりが聞こえてくる。このグループディスカッションという選考は、結果ではなく過程を見る。安田にとってはアナグラムという方法さえ合っていれば答えが合わなくても問題ない。時間を考えれば別の方法を試す余裕はない。アピールできるポイントは限られている。まさに先行逃げ切りである。
「そうは言っても、アナグラムじゃないかもしれない。絵の中身をもう一度確かめよう」
 僕は言葉の内に苛立ちを隠さなかった。ここで気後れすれば、評価においても後塵を拝することは明らかだ。そして重要なのはやはりカードの絵だろう。八つ挙げられたうち、実のところ僕はほぼ全て確定できていると考えていた。しかし、ただ一つ怪しいものがある。
「包丁って言ってたけど、どんな包丁?」
 真っ先に安田に問いかけたことで、自分が疑われていると勘づいたのだろう。目元を一瞬だけ歪めたが、すぐさま取り繕った。
「長い包丁」
「長い包丁、うーんわからんなあ!」
 田中は呑気に大きな声をあげ、いつの間にかすぐ近くで見ていた人事の方へ向き直った。
「あと二分だよ。二分」
 堤真一は悪戯気に笑うと長机の方へ歩いていく。
「やばい時間が無い」
「えー、もう一回並べ直そうよー」
 安田は口を尖らせる。僕はその不快な顔を視界から外してテーブルの白に包丁のイメージを投影し、閃いた。長い包丁。包丁の種類。それは何か。
「包丁、長い、包丁……刺身、刺身包丁だ」
「おお! ほんまに?」
「なら」
「さだよ! さ!」
 残り一分が告げられる。こうなるともうアナグラムしかない。白テーブルを無機質な言葉の羅列が覆う。
「う、い、さ、ぱ、じ、は、と、め」
「さ、め、は、じ、ぱ、と、い、う」
「ぱ、め、い、と、う、じ、う、さ」
 アナグラムはハマると時間がかかる。あたりをつけるしかない。人名、地名、固有名詞各種。
「さいとう……」
 林が今までにない張りのある声で白テーブルの海から頭を持ち上げる。
「さいとうはじめ。斎藤一だ。新選組の」
 四人とも一様に笑顔になった。
「つまり余った」
「仲間外れは」
「ぱ、だね!」
 解答を配られた用紙に書き込む。時間切れを告げられる。
「はい、時間もおしてるので単刀直入に。正解は『ぱ』です。理由は――」
 正解した。田中は今までとは違った心からの笑顔を見せ、安田は立ち上がって喜びを露わにし、林は頷いている。僕も安堵した。だがすぐに掻き消えた。肝心なのは評価だ。自分の感情ではなく、評価がこの場の結果を決める。しかし、それは後で考えればいいかもしれない。今日のところは。
「では、最後にこれを書いてもらって今日の選考は終わりです」
 堤真一は傍らの女子社員に命じ、一人につき一枚ずつ紙を配らせた。よぎった不安は、間髪入れずに的中した。
「今回もっとも貢献したと思う人の名前を二人選んで書いて下さい」
 残酷な仕打ちだ。そうとしか考えられない。なぜ二人なんだろう。一人だけ、除外されてしまう。僕はできるだけ他の三人の顔を見ないようにした。誰の名前を書くか。誰に名前を書かれるか。でも、紙に書かれるだけなら、人事が知ることになるだけだ。この場の誰にもわからない。この場は、壊れない。
「そろそろ書けたかな。書けたら、それぞれ理由とともにグループ内で発表してください」
 なぜ。なんのために、発表させる。顔が机に吸い寄せられる。目線が沈む。いや、みなで協力したのだから。全員が発言したのだから。貢献したのだから。少なくとも、僕は。
「俺は、安田さんと林くんかな。やっぱりアナグラムがすごいね。林君は冷静やった」
 田中は感慨深げな視線を二人に送る。
「ああ、ありがとう。僕は安田さんと田中くんにした。理由はだいたい一緒だけど、田中くんは切羽詰まった状況でも、みんなを鼓舞してたね」
 林はふっ、と溜息を吐いた。
「ありがとう。私は逆に、田中くんと林くんかな」
 安田は得意げな顔で言った。
「やっぱりアナグラムでやってみてよかった」
 唇の震えを抑えて顔を上げた僕を、誰も見てはいなかった。アナグラム。刺身包丁。僕はその言葉を頬の内側で噛みしめた。アナグラム。刺身包丁。アナグラム。刺身包丁。貢献したじゃないか、僕は。刺身包丁で。

 選考を受けた会社は、本町駅から歩いて五分ほどのところにあった。子供の頃から地下鉄御堂筋線を使ってきたが、難波と梅田の間の駅というのはなにぶん馴染みがない。学生には用がないが、社会人にとってはそうでもない。就職活動では学生の身分のまま、それを体験することになる。
フェイスブックのアカウント、ある?」
 誰ともなく話しかけながら歩く田中は、スーツに見合う恰幅をしている。元気が取り柄の体育会系というのは、今日のような商社には適材と言われている。
「あるよ」
 林は薄い顔を柔和な表情で覆い、白い息を吐く。存在感が無いのか、抑えているのかわからないが、角を立てない人間なのだろう。
「あるある」
 会場のときと比べると甲高い声。薄暗くなっても安田の膨張した顔に塗りたくられたチークは鬱陶しいくらいに明るい。
 気が付くと僕は、三人からつかず離れずの距離で曖昧な笑顔を作り、話に頷いていた。逃げ出すわけでも、言葉を取り繕うわけでもなく、ただ縋るように。三人は一見僕の存在に気を留めていないようだった。
 そのとき、マナーモードにしていたスマホが振動した。
「はい、磯山です」
 すでに本町駅の入り口の階段を下っている。切符を買おうとした三人を尻目に、僕は小走りに改札のそばの格子に近づき、寄りかかっていた。
「はい、はい、本当ですか?」
 駅を出発する電車。地下から地上へと吹き抜ける風。甚だしい騒音。それを押しのけて、僕は電話に向かって声を振り絞っていた。
「ありがとうございます!」
 大学のOBが、話を聞きたいと電話をかけてきた。もちろんそれは、表向きの建前だ。企業の人間として面接前に学生を選別する。リクルーターと呼ばれる人間であることは既に知っている。
 電話を切ると、三人は僕の方を見ていた。先ほどまでの意味のない会話をやめて。視線とともに、静止していた。この雑音の中で、その視線は曖昧な立場で括られた僕たちを鋭く切り取っていた。
今日選考に参加した商社は、服飾を扱っている。華やかな業界の裏で泥臭く走り回り、繊維から生地まで掻き集める。服を作る過程の九割は、服でないものに金を投げ、動かす。糸や生地に個性はない。個性があるのは服である。個性を作るために、個性が必要というわけではない。
傍から見れば一目でわかる、リクルートスーツ。それは見えないタグを学生につけていた。これから、選別されていく。いいものが選ばれるのではない。悪いものが除かれるわけでもない。よくないものを、そっと別のラインに載せる。それは、服にはならない。では、何になるのか。
「お前らとは違う」
 三人は、まだ僕を見ていた。僕が喜ぶ様を切り取ろうとする視線。電話の相手に向けた感謝の笑みを、すぐに曖昧なものに戻す。僕のつぶやきは、改札を抜ける本物のスーツたちの革靴の音に踏み均されていった。


(三)

「じゃあ、今日でもう終わりなんかな」
 杉本さんは手狭な休憩室の片隅にゆっくりと腰かけた。大きな体が沈み込むパイプ椅子。金属が軋む音で、声の末尾までもが埋もれる。
「はい。もう少し続けたかったんですが」
「やっぱりアルバイトはそろそろきつい?」
「そうですね、家庭教師の方も先月いっぱいという感じです」
 大学一年からやってきたアシスタントのアルバイト。ホテルで行われる結婚披露宴のビデオ撮影。雑務その他手伝いが仕事内容といっても、格式高い場でスーツを着て動き回るという意味ではなかなかに大層であり、ハードでもある。給料も一般的なアルバイトからは考えられないくらい高い。しかし実態は華々しさからは程遠い。
「今日もなんか色々言われたなあ」
 杉本さんは深々と息を吐いたあと、食べかけの菓子パンをモニターデスクの隅に置いたまま、鞄から文庫本を取り出した。
 格式高い場と言っても、ホテルの舞台裏というのは怒号が飛び交う現場でもある。「スマ婚」なる安上がりの結婚式が主流となっている現在では、何十万もの金をかけて大勢で祝う披露宴は縮小傾向にある。結婚が日本旧来の家同士の顔合わせ、繋がりを重んじていた時代は終わり、友人同士だけを招いて気軽に楽しもうという風潮が広がっているらしいので、それも仕方がないのかもしれない。
「色々とすみません」
そんな中でホテルは利益のために高い金を取ることをやめないばかりか、経費を削減するために手間を全て外注の業者に押し付けている。音響、映像、着付け、装花、配膳。僕たちも含め出入りの業者のうち、映像や音響は余ったスペースを控室と称して割り当てられている。ホテルと現場の力関係は、客とホテルの関係と表裏一体と言ってよいほどに大きい。
「まあ、あのキャプテンはああやから」
 現場で披露宴を動かすのは、ホテルの正社員の中でも経験を積んだキャプテンと呼ばれる人間である。キャプテンの指揮は広範に及び、キャプテンの腕や性格でその披露宴は大きく左右される。
「でも、あんなの打ち合わせで聞いてないのに、ちょっとひどいですよね」
 カメラマンとアシスタントは二人で一組。キャプテンや司会からの言伝をカメラマンに伝えるためにアシスタントが動くことも多い。僕は今日、其のキャプテンに丸めた進行表で胸元を小突かれ、辛辣な注意を受けた。ポマードで固めた髪を笑顔に張りつかせながら、目は機敏に周囲を窺う。皮肉にもプロの仕事を体感した。
「まああれは俺が悪いから気にせんでええよ」
 ジュースをストローですする音が響く。杉本さんは特に気にしてもない様子で、文庫本を読み続けている。
「そういえば、磯山君って小説好きやったよな」
「はい、まあ」
「あれやろ、部活動やったっけ。書いてるんやろ」
「ええ、まあ、たいしたもんじゃないですが」
 大きな手に覆われた文庫本のタイトルを、僕は凝視した。よく知っている作家の作品だった。
「これとか知ってる?」
「はい、一応」
 その作家は、ミステリーの括りでありながら異色ともいえる作品でデビューした。奇抜な人物描写、会話偏重で多くの人間からはイロモノ扱いされながらも、速筆で矢継ぎ早に作品を量産していつの間にやら売れっ子の名を確たるものにしている。
 僕はそこから言葉を続けなかった。文庫本からも目を離し、わざとらしく先ほどの披露宴の録画を再生しているモニターに目線を移した。その視界の端に、ニコニコしながら本の表紙を見ている巨体が引っかかる。
「でも」
 時給のいいアルバイトだが、正社員として割がいいとは思わない。最近では、撮影のヘルプをさらに別の業者に依頼することも増えてきたらしい。いわば外注の外注だ。もともと案件の数も日の巡りによって変わる不定期な仕事だが、さらに近年の向かい風がある。僕が辞めまいが遅かれ早かれ、バイト一人が受ける件数は減る。それでも、バイトは増え続ける。安く、仕事量の調節にも使いやすいからだ。しかし同時に、正社員の負担は増える。
「デビュー作はミステリーですけど、それ以降はよくわからないものばかり書いてますよね」
 所詮、末端なのだ。正社員だろうと、現場で働く仕事である以上、会社同士の力関係からは逃れられない。その証拠が、この控室の光景だ。
「正直、突っ込みどころが多いです」
 視界の端からは杉本さんの顔は消えていた。僕の意識が視野を狭めたのか。それとも。モニターには、ケーキ入刀の場面が映っている。模造品のウェディングケーキ。
なんでも統計によると、男の結婚時の平均年齢がいよいよ三十を越えたらしい。僕が今まで見た新郎も、大概がそれくらいだった。一方女は、二十代で駆け込むように結婚している。揃いも揃って稼ぎが良さそうな、もしくは身持ちが良さそうな職業の男と。医者、警官、教師――。
「まあ、売れてますけどね」
 僕はその作家が好きでも嫌いでもなかった。
煙草のヤニで黒ずんだ壁。冬でも汗でくたびれるネクタイ。こぼれた菓子パンの屑。そんな空間で杉本さんが持つその本は、異物だった。滑稽が満ちていた。何かが、いや全てだろうか。醜く見える。フィクション然とした内容は、残酷なほど皮肉に満ちている。あまりにも、乖離している。現実と小説、そのどちらかが。
 モニターにはちょうど、手を合わせてナイフを握る男女が映っている。夥しい数のフラッシュが、夫婦の笑顔を切り取る。入刀した部分だけは、本物だ。それ以外は、発泡スチロールでできたダミー。偽物。その境界は、この二人にしかわからない。

 中之島と呼ばれるエリアは、文字通り川の中に浮かぶ島のような土地を指す。先日連絡を取ってきた企業は、この地域に文字通り根を下ろすように存在している。
待ち合わせ場所のロビーで尋ねると、この企業関連で全ての階が埋まっていることがわかる有様だ。建物自体が企業で利用するためにある。まさに城下町と言ったところか。
「まあ売れませんね」
 苦笑交じりに自嘲しながら、手元のコーヒーカップの茶色の渦を目で追ってみる。柔和な表情を心掛けても、緊張で首から下の自由が利かない。簡単な自己紹介では、案の定小説の話題に食いつかれた。
「いや、自分たちで印刷してるのとか、それだけですごいと思うよ」
 岩永と名乗った目の前の男は、社会人一年目だそうだ。自分や周囲の学生と一つや二つしか歳が変わらないにしては、その雰囲気や貫禄には確かなものがあった。それは端的に言えば、本音や思惑を見せないしたたかさだ。
「それじゃあ次は、周囲の人を動かした経験とか言ってもらえるかな」
 僕はその言葉を見計らい、ミルクで濁ったコーヒーに口をつけていた。千二百円のコーヒー。東から白く差す光は、寒さを断つ厚いガラスから滲みだすようだ。こじんまりしたラウンジだが、むしろ慎ましくさえ見える。
「はい、私は――」
 僕が口を開くのと同時に、岩永は見開きの履歴書に再び目線を落とす。電話を受けた時点では、履歴書の提出期限までには一週間あった。それでも「履歴書を見ながら話を聞いてアドバイスしてあげましょうか」と言われれば、最優先で書き上げるしかない。本音と建て前。平日の朝から、一年目とはいえ社員が学生の「アドバイス」ごときに割く時間などあるはずがない。まだ数えるほどしか経験していないが、この場のこの空気は間違いなく、面接のそれなのだ。
「以上の点から自分の長所としては、傾聴力が挙げられると思います」
 言い終わると、岩永はうんうんと頷きながら顔を上げた。
「いいと思う。ただ、少し長いかな」
 面接での自己PRの時間は、ケースバイケースである。面接官に指示されることも多いが、概ね三十秒、一分、一分半の三パターンほどを用意しておけばいいと言われている。僕はまだ、この時間配分が出来ていなかった。内容を練り込みながらも、削る部分を捻出しなければならない。
「はい、ありがとうございます」
「うん、なかなか面白い経験してるみたいやし、おそらく次も話聞くことになると思うわ」
 自分でも、眉が跳ね上がったことがわかった。大袈裟な表情で喜びを悟られたくないので、すぐにこらえて口を噤む。
「本日はお忙しいなか、本当にありがとうございました!」
「いいよいいよ。面接はまだ先やけど、がんばってね」
 立ち上がって深々と一礼。岩永も立ち上がったが、荷物を手に取る様子はない。僕の後にも学生との面談の予定が詰まっているはずだ。もちろん前にも。今日だけでなく、明日も、昨日も。
経団連の倫理憲章とやらに沿い、多くの企業が四月一日を実質的な選考活動の解禁日としている。つまりその前に行われる面接は公然と行われるフライングか、今日のような「面談」ということになる。なので、岩永の「次」も信用できない。面接は誰しもが受けられるという体裁だが、ここで見込みなしと見られれば書類選考で落とされることになる。正確に言えば、「書類選考で落とされた」という扱いになる。
 ラウンジからでるときに、もう一度、一礼。
 ロビーから外に出るときに、念のため、一礼。
 去りゆく二月の寒風が、スーツの襟から背筋を撫ぜる。遠目に見える岩永は、せわしなく資料をめくっている。

 三月に入ると、手帳は黒で埋まる。ほとんどはESと呼ばれるエントリーシートや、履歴書の提出期限で占められる。それらはホームページで配布されることもあるが、ほとんどが会社説明会で手渡される。朝昼は外で歩き回り、夜は履歴書を書くという生活に追われることになる。それでも、時間が足りない。ある程度自己PRを練っているといっても、個別の質問事項に回答する手間は途方もない。説明会の合間を縫って、高い金を払い、スターバックスドトールで履歴書を書くことが増えてくる。
「最近読んだ本は何って聞かれてさあ」
 リクルートスーツに身を包みながら、楽しげに会話をする二人組。女が二人。
「何て答えればいいんだろうね」
 十四時を過ぎると、梅田駅近くにあるスターバックスの店内はどこも混みあうことが多い。外回り営業のサラリーマン。百貨店で高い買い物をしに来た小奇麗な主婦。金の使い先を求める老夫婦。そしてこの時期になると、多数派だった若者の多くが画一的な黒装束に模様替えをする。
「あれちゃう、芥川賞とか、直木賞とか」
「やっぱりあそこらへんをチェックしとくべきかなあ」
 ようやく席を取れたと思えば、大きな対面席を占領して繰り広げられる会話が、集中を阻害する。集中力は、喧噪の中でむしろ保たれるという考えに異論はない。しかし大きくも近くもない二人組の存在が、なぜか意識に闖入してくる。不快感だろうか。何が不快に感じるかを考えることすら、馬鹿らしい。
 大きな空白には定規で線を引き、下書きする。全て鉛筆で行い、ボールペンで清書する。大学指定の履歴書に不満はなかったが、当初は一枚書くだけで一晩かかったこともあった。
「アマゾンで内容チェックしとくべきかな」
「あらすじくらいは言えるようになった方がいいやろねー」
「読みたい本なんてないわ」
「ははっ」
 文章経国大業、不朽之盛事。文学は国を治めるのに匹敵する大事業であり、永遠に朽ちることはない。そんな大それた言い方をしなくても、同様のことを口にすれば、笑われるどころか聞き返されるだろう。「なんて言ったんですか」と。
 目が霞む。薄暗い照明と生暖かい暖房が緩慢に首を締め上げる。文句を言うにも他に場所はない。外も既に日が陰っている。
「何を聞きたいんやろうか。読んだ本の感想? そんなん聞いてどうするん」
 お前たちも書いているだろう。取り留めもない報告書も、過剰な自意識を定期的に放出するブログも、傲慢な批評も、衒学的な言葉遊びも。文章自体に意味などない。意味を見出す手段は書くことであり読むことである。それをしないのは、できないのは。なぜなのか。
 その問いかけは、唐突に自分に向けられた。履歴書の質問による圧迫が、女二人の声を遮断する。意識は、筵に横たわりつつある。それとも、睡眠の海に漕ぎ出したのだろうか。
自己分析という言葉は、怪しげな背景の直下を漂う。それは就職活動であったり、自己啓発であったり。しかし表現の本質は、小説の本質は、そこにあるのかもしれない。なぜ小説を書くのか。小説を書く意味は何か。


(四)

「文章がきれいで、読んでいると登場人物に自然と感情移入できました。優しい雰囲気のおかげで、すんなりと読めました」
「ありがとうございます、では他に、何か細かい指摘等ありますか」
 和室で円を作る部員たち。柔和な笑みを浮かべた後輩が、僕のちょうど対岸からその円全体を見渡し、声を上げた。
 小説を書くといっても、それほど高い敷居はない。大学の部活動といっても、高校ではその手の団体がないことが多いので、初めて書く者たちの受け皿となっていることも多い。僕の所属する団体も、その例に漏れなかった。自分が入部したときは少なかったが、今では所属する部員が二桁をゆうに超えるようになっていた。小説を書いてみたいと思いながら、なかなかその機会に恵まれなかった人間が、一定数いるということなのだろう。
「はい」
「じゃあ、磯山さん」
「一つ聞きたいんですけど。なんのためにこの作品を書いたの」
 その小説の作者は一年生、といってももうすぐ二年生になる。僕と目が合うと、困ったような相槌を打ちながら、首を捻り始めた。
「ごめんなさい、言い方が悪かったね。どういう目的で、どんなものを表現するために、書いたんだろうか」
 剣呑な雰囲気を出さないように気を配ったつもりだったが、直接的な答えを引き出そうとする姿勢は、ある種の決闘のような刺々しさを醸し出しつつある。それは当然、僕も自覚していた。
「うーん、そういうつもりで、書いたとかは、ないんですけどねえ」
 そういうつもりというのがどういうつもりなのか。それを聞いている。僕は言葉を頭の中でガムを噛むようにひとしきり咀嚼してから、目線に込めた。しかし曖昧な首振りは崩せない。
「今回は主人公とヒロインの立ち位置を決めて、世界観を決めて、という感じです」
 回答自体には、なるほど納得がいった。しかし、同時に落胆も芽生えた。曖昧だから、などではない。それにこれ以上聞いても、はっとさせられるような答えは得られないだろう。
「ありがとうございます」
 僕は若干の間を意図的に絞り出した後、礼を言った。
「じゃあ、俺もちょっといいですか」
 それまで胡坐で押し黙っていた東野が、おもむろに手を挙げた。東野は二年生だが、僕が浪人しているので同い年の後輩だ。冷笑的なようで皮肉屋でもない。馴れ馴れしいようで、距離を保つ。自己主張をするようで、何を考えているかは量りかねる。他の部員からは特に言及もされないが、僕にとって先輩世代がいない部の中では抜きんでた存在感を持っていた。あくまで僕の中では、だが。
「世界観、という点では 設定を語りすぎずに存在感を出すことに成功していると思います。主人公とヒロインの人物描写もぶれてないし、一貫性があるし。おそらく二人の関係の変化を書くことがメインだと思うんですが、それは上手く伝わっていると思います」
 東野は、事前に用意したのであろう小さなメモを手に取って読んでいる。件の作者は先ほどまでとは違い、はっきりと首を縦に振っている。
「ただ、背景と人物に一体感が足りないような気がします。それぞれはよく考えられているんですが、今一つ噛み合ってない。上滑りしているように感じられます」
 作者の頷きは止まった。するとまた、うーんうーんと唸り始めた。

 書評会という名称は、いささか高尚にすぎる気もするが、それ以外に適当な括りがない。だからこそ、誰が何を言おうが、文句をつけるのは筋が違う。見当が違う。
 校舎と校舎の隙間を歩く。そういえば、外から眺めるだけのことが増えた。単位はもうほとんど取り終わっているので、今更授業に追われることはない。大学に転がる色々なものとの縁が、徐々に切れていっている。食堂や生協の前の煩わしい人だかり。少し視点が高いというだけで、不遜を改めようとしない自転車の列。そういったものに対する感情も、特に。
「おーい」
 気付けば東野が目の前を歩いていたので、つい声をかけてしまった。
「ああ、お疲れ様です」
 おそらく授業を控えているのだろう。自販機などには脇目も振れずに歩みを進めていた東野は、僕の呼びかけを平坦な語気で迎えた。
「お疲れも何も、これだけだよ。今大学でやることなんて」
「その割には、答えにくいこと聞きましたね」
「あれが答えにくいのは確かにそうかもしれんが、答えを聞く意味はあるだろ」
「うーん、そんなもんですかね」
 東野は、表情を変えずにぼやいた。
「お前みたいにうまいことフォローしながら言ってあげた方がいいんだろうけど」
「俺は、フォローなんかしてないですよ。内容について自分なりに噛み砕いて具体的に言えば、納得してくれなくても、許容はしてくれるでしょ」
「そりゃそうだけどなあ。感想言うにしても聞いておかないと前提が」
「まあ、どう受け止めるかなんて自由なんだから、人格否定さえしなければこっちが言うことだって自由でいいんですよ。それはそうと、顧問の先生に渡すって言ってた資料、どうなりました? 期限、確か昨日でしたよね」
 しまった。その言葉以上に、僕は大袈裟に驚いた顔を作った。よくやる誤魔化しだ。実際は、内心自分の失敗に舌打ちした。淡々と、小さく。舌打ちする。
「あー、悪い。すっかり忘れてた。一昨日は覚えてたのに、説明会の予約が上手くいって安心してしまってた」
 東野は、顎を引いて「うーん」と漏らしながら、こちらに向き直った。
「まあ、大丈夫でしょう。あれだったら代わりにやっときましょうか?」
「いや、授業あるだろ東野は。今からちょっと行ってくる」
 僕は腕時計を見た。今日の選考であるグループディスカッション、通称GDまでは三時間もある。
「それなら、お任せしますよ」
 東野の声に、慌てる様子は微塵も感じられない。
 そのとき、唐突にスマホが震えた。慌ててポケットに手を突っ込む。
「はい、磯山です」
「先日面談させていただいた岩永です。色々と聞かせてもらって、面白い子がいるとうちのところで話題になってね。是非もっと話を聞きたいってことになったんでね、電話させてもらったんですよ。今度は別の人なんやけど、またどうかな? 来週の火曜とか」
 来た。手応えはあったし、予想もしていた。どれくらいの間隔をおいて連絡が来るのだろう、早く来てほしい。そう思っていた。
「ありがとうございます! ぜひ、ぜひよろしくお願いします。火曜日の……火曜日の十一時三十分ですね。わかりました。はい、ありがとうございます。それでは失礼します」
 順調だ。本当に。
僕は唇を噛みしめて、緩む口角を殺しつつ円を描いてぐるぐると歩き回っていた。落ち着きはなく、歩幅は舞い上がるように大きく、大きくなっていく。選考ではない、「面談」なのだ。どこまで上げてもらえるかはわからない。一人目の次は二人目。二人目の次は三人目かもしれない。いつ終わるのか、いつまで続くのかも決まってはいない。選考ではないのだから、保証どころか情報もない。ただ、チャンスをつかんだことは間違いない。
まだ一次面接を突破していないことが、不安の種だった。手帳には、履歴書やESを提出した企業の名前をリストアップしている。書類選考を通過すれば、履歴書の項にマル印。その項の右には、GD。その次には、一次面接。その次は、二次面接。今のところ一次面接は受けた一社が落ちた一社だ。バツ印の多くは履歴書の列にちらほらと。多くは、通過している。どこもまだ選考が始まったばかりであると同時に、結果待ちも多い。空白ばかりなのは当然なのだ。しかしバツが少なかろうがマルが多かろうが関係ない。ほぼ毎日説明会に参加している。さりとて選考は進まず、下に連なる企業の数だけが増えていく。なんの異常もないようで、その空白には文字通り置き場がない。空恐ろしい。対照的に黒く染まる手帳の日程は、むしろ精神衛生に貢献していた。
 ふと意識が視界に戻ると、東野どころか近くに誰もいなくなっていた。授業が始まったのだろう。そういえば、履歴書の封筒が切れたので生協で買わなければならない。新しい折り畳み傘も。
顧問の件は、また明日でもいいかもしれない。いや、いいだろう。昨日が今日になったように、今日が明日になっても。僕の場合はそれがいつまで続くのか、わからないけれど。

 GDを経験する機会が増えてきた。商社の選考で体験した類のカードゲームはグループワーク、GWと呼ばれ、亜種のようなものとされている。何にせよ結局のところポイントの稼ぎ合いと思っていたが、そうでもないことがわかってきた。
「熊谷さんは九月卒業のメリットを学業の面からまとめてくれましたが、では麻生さんは四月卒業のメリットをどのような点から主張したいですか」
 他人の発言を極力遮らず、耳を傾け、噛み砕く。そしてその後に続けざまに要約し、また他の人間に話を振る。理解が全員に行きわたり、議論を円滑に進める。有効な主張を提示することは重要だが、上手くいかないことも多い。各々が正しさを譲らない限り、集団は迎合を選ぶ。途端に正しさなどという穏便でない尺度は放棄され、それ以外の部分を基準に排除が始められる。いともたやすく。
「麻生さん、ありがとうございました。二人ともが主張の中でテーマの論点を整理してくれたおかげで、私から見るとかなり議論の焦点が絞れてきたと思っています」
自己主張を抑える必要はないが、自分以外を沈めるような真似をすべきではない。フリではなく、根本の姿勢から他人を立てなければならない。穏便ではない扱いをされると、誰しもが反感を抱く。
「対立軸は既に挙がっていますが、これに加えて、社会で受け入れる体制を作る必要性について最後に論じるべきかもしれませんね」
 リーダーと時計係は大人気だという。事実上、発言する機会が保障されているからだ。しかし躍起になって役職に縋る必要はない。周囲を目ざとく観察し衝突を避けること。リーダーをやりたがる人間がいればやらせればいい。時計係には合間を見てこちらから時間を聞けばいい。少なくとも四人、多ければ十人。そんな中で、一番を取る必要はない。くれてやればいい。その後ろからリーダーをサポートして、その貢献で二番抜けすればいい。
 GDが終わると、頭数の一人が近づいてきた。
「磯山くんのおかげで、余裕で時間内にまとまったわ」
 どこか呆けたような顔で褒め言葉を浴びせられる。名前は山田か澤田か、なんだったか。時計係を務めただけで、自分の役割をやりきったと思っているのだろう。
「いや、みんながそれぞれ主張に固執せずに議論に参加してくれたおかげだから」
 リーダーはハイリスクハイリターンとも言われている。グループによっては、誰もやりたがらない。そんなときは、自分が率先して皆を助ければいい。
「ありえないだろうけど、全員通過してたらいいなあ」
 そう、ありえない。最近では平等という言葉が学校で一人歩きして、徒競走は全員が手を繋いでゴールするべきだなどという議論にならない議論すら現実になっていると聞いた。手を繋いでゴールするのは、確かに美徳だ。皆を鼓舞しつつ、自分を抑える。でも、いつかは学校を卒業しなければならない。そんなときはゴールテープの前で、身を乗り出せばいい。最後の最後に、自分が勝てばいいのだから。それを目ざとく見ている人間が、テープの向こう側には、腐るほどいるのだから。

 ビルから出てスマホの電源を点ける。リクルートの提供する就活アプリは、PCを利用できない時間や場所で重宝する。案の定企業からのメールや説明会の案内が、新着欄に届いていた。
「グループワーク通過のお知らせ」
 復唱した。
 あの商社だ。人事が堤真一に似ている。そういえば、選考結果の通知期限にはまだ何日かあった。四人いれば、せいぜい通るのは二人だろう。堤真一は、あの中で僕を選んだ。
「ふふっ」
 馬鹿らしい。通ってるじゃないか。刺身包丁。
 ざまあみろ。


(五)

 同じ中之島でも、面食らう場所に呼び出された。アルバイトの関係でホテルについての知識があったからこそ、待ち合わせに提示された名前には恐縮してしまった。
「うん、今聞いた限りだとよくまとまってるね。特に、震災の影響もあって私たちは今、磯山君の言う傾聴力がまさに必要になってるから」
 ラウンジというよりはサロンと呼んだ方がいい空間の、さらに隅。およそ学生に似つかわしくない席。そこで藤友と名乗った社員は、自己PRを三分ほどでと注をつけて求めてきた。
「ありがとうございます」
「おそらく四月の筆記試験と面接に進んでもらうことになるから、一日から空けておいてほしい」
 藤友はそう言うと、ややレンズの大きい眼鏡のフレームを指で上げた。一年目にしては貫禄のあった岩永よりも、さらに年次の高いことが明らかな風貌。緊張感はあった。しかし、経験は何物にも勝るのだろうか、落ち着いて自分の言葉が口から出てきたのは僥倖に違いない。
 昼を食べると、次の面接までギリギリといったところだ。ふと見ると、見知った人間からのメールが届いている。内藤だ。
今週のゼミどうする?
 たった一文のメール。決まりきった返信。
 ちょっと厳しい。先生にも言ってあるけど、しばらくは就活で行けそうにない。
 手帳には黒が続く。三月後半には、フライングの面接の予約がいくつも書き込まれているし、四月の第一週も、既に染まりつつある。これがその後も続くことになるのか、ならないのか。続く方がいいのか、続かない方がいいのか。
僕は藤友が未来を語った企業の「リク」の項にマルを点けるかペンを迷わせ、やめた。今の時点では、この白と黒の均衡が自分の精神の平衡を保ってくれているような気がする。
 ホテルの外が中よりも暗いことに驚いた。見上げれば曇天。折り畳み傘を取り出し、小走りに地下の駅を目指す。この後も面接があるのだから、髪やスーツを濡らすわけにはいかない。

 ノックは三回。順番に部屋に入ると、手前には三つのパイプ椅子。奥には例の長机と、同じく三つ椅子が置いてあるのが窺える。真ん中にはあの背丈の高い男がいた。堤真一に似ている例の人事。前回見たときよりも、表情が明るい。
 面接官は三人。学生も三人。自分も丁度真ん中に座った。決まりきった口上を述べ、集団面接が始まる。
「自分の失敗談を話してくれる? 手上げた人からね」
 堤真一は悪戯っぽく煽るような手振りで僕たちに指示した。
「はい!」
 僕から見て左に座った、見るからに快活そうな男子学生。我先にといわんばかりに、勢いよく立ちあがる。
「あー、僕は飲み会の帰りに、自転車に乗りながらアイスクリームを食べようとしたんですけど、ふらついて、ぶちまけちゃってえ。大変なことになりましたね」
 面接官は右から愛想笑い、大袈裟な苦笑、無表情に反応が分かれた。
「はい」
 僕は飲酒運転を失敗談で笑い話に仕立てた話から一呼吸置いて立ちあがり、努めて冷静に話を始めた。
「私は――」
 面接では「僕」ではなく「私」。常識だ。
面接官は三人とも、目尻を動かし、うんうんと頷く。
「じゃあ君は、そこからどうやって――」
 堤真一は一転して真剣な表情を作り、質問を返してきた。面接官でなくとも、興味のない話を聞きたいとは思わない。そして興味のあるポイントは、人それぞれである。ならば、余計なことを言わず、質問したくなることを散りばめて簡潔に、慎重に話す。
最後は右の学生が立ち上がる。すぐ隣にいても、聞き取りづらい語尾。面接官の座す位置にいれば、語尾だけでは済まないだろう。
同じような質問を二、三個続けたところで、時間が来た。面接官は揃って立ち上がる。
「では結果は、一週間以内にお伝えします」
 深々と一礼した後、こちらと同様に立ち上がった堤真一の全体像が見えると、前回よりも落ち着いた調子のスーツを着ていることがわかった。
部屋を出ると、特に二人に話しかけることもなく、受付から外へと向かう。気にしても仕方がないし、話しても得るものは少ない。田中も林も安田も、少なくとも今日この場にはいない。三人のうち二人はこの場を訪れることはもうないはずである。そう考えると、先ほど肩を並べてともに胸を張っていた人間が、どうでもいい存在としか思えなくなった。

 梅田スカイビルの真下には、郵便局の本局がある。大阪中の郵便物はその日の最後にここに集められ、二十四時の締め切りを待って出発する。外で用事を済ませたついでにコーヒー片手に書いた履歴書も、ここから速達で出せば翌日の朝には東京に届く。速達代五百円は、高いコーヒーとさして変わらない値段だが、比較にならないリターンをもたらしてくれる。
 家のドアを開けると真っ暗だった。抜き足差し足。終電で帰宅しても、台所にはスーツのまま直行する。ラップをされたおかずをレンジで温め、盛りつけたご飯と共にいそいそと机へ運ぶ。
 PCの電源を点け、クライアントメールと就職ポータルサイトを確認する。視線は画面へ。箸とマウスをせわしなく持ち換える。味わう暇はない。どうせすぐ眠くなるのだから、その前に用件を検めなければ安心して眠れるはずもない。もう、足だけでなく手を止める暇もない。当然、頭もだ。
 手帳の企業名の項目は、おおよそ打ち止めだ。就活中の学生が耳慣れる「持ち駒」は、多くて困ることはない。駒として雇ってもらうのに、企業を駒扱いする。これもやはり偽物のスーツに身を包む学生だからこそ、なせる業なのだろう。
 スタンドのスイッチに手をかける。光が、消える。
光がついていようが、いまいが。スーツを覆う闇はまだ変わらない。
四月が来る。本当の意味での、夜明けが。


(六)

 四月一日は、エイプリルフールである。僕の認識では、嘘を吐いてもよいなどというお題目は低俗な無礼講を意味しているに過ぎない。それを真に受けるにしても、嘘を吐いていいのはどうやら午前中だけらしい。午前中に限定するあたり、いかにも勤勉な小市民の免罪符だ。
 中之島の、とうとう本丸に辿り着いた。今までと違うのは建物の大きさや、格調の高さだけではない。数えきれないほどの学生が、入り口の周辺に蠢いている。全てリクルーターの面談を経てきたのだろうか。
 係の社員は不慣れなのか、大勢に面食らったのか、なかなか学生の名前を見つけられずにいた。必然的に受付の名簿を覗き込み、自分の名前を指差すことになる。その横には、所属する大学名。
 大学の名前は、物の見事に偏っている。国立も公立も私立も、同じ大学がいくつも並んでいる。もちろん偶然ではないだろう。面談を複数回行っても、これだけの数の学生がいるのだから。大学名で濾過しなければ面接以前の問題である。フィルターと称されるのも自然な話だ。
 筆記試験自体は、いたって一般的な問題としか言いようがなかった。簡単ではない。しかし問題集のパターンと大して、というよりほとんど変わらない。差が付くのかは疑問だ。そもそもこれだけの人数の試験問題を、どう処理するのか。採点は機械に任せるとしても、それがどのように反映されるのか。
「四月頭の筆記と一次面接の予約を、この電話でしてもらうことになる」
 リクルーターの藤友は、そういって日程を提示した。この電話でようやく通過した、という意味なのだ。「面接の案内をする」と言っていても連絡がこなくなることはザラらしい。そんな体験談は、匿名掲示板で毎年量産されている。
「不安に思うやろうけど、自分の言葉でね」
 行きたい。この企業に、行きたい。
世間体や給料や労働環境が魅力的であると感じていることは、嘘ではない。リクルーターとの胸襟開いた面談で、インフラ企業らしい社会的使命感に目覚めたなどと言うつもりはない。ただ淡々としながらも具体的に語る藤友の仕事の話を聞くと、その魅力が現実に形を得て躍りだす。それは内定という装束を纏って、僕の目の前に。
それにしても複数の時間帯があるということは、同程度の人数が幾度となくここに足を運んでくるという想像に難くない。ようは、今日の集まりは整列点呼のようなものなのだ。翌日から始まる面接で、ばっさりと切って捨てられる。切り捨てられるために、僕たちは朝から並び、鉛筆を削る。
「すごい数やね」
 どこからか漏れた声は、終わったばかりの筆記試験を指してのものではないだろう。試験が終わった後は、入るときとうってかわって人が停滞し始めた。その多くは、次の予定が迫っているのだろう。もちろん時間に余裕はあるが、僕も同様である。

 手帳の四月第一週は理想的な埋まり方をしている。履歴書を書く機会は、今の持ち駒の中にはもう多くはない。全て、書類選考にマルバツいずれかの印がついている。その代わり、身一つで赴く毎日だ。
 今から向かう二社も、すでに書類選考は通過した。銀行にも生命保険にも興味はなかったが、企業のカラーに惹かれたのもあって応募した。結果的に中之島のインフラ企業と肩を並べるほど大きな企業が二つ、持ち駒の筆頭に躍り出ることになった。最も受けている商社の数々は三月後半からちらほらと選考を開始し、それぞれのペースで選考が進む。それほど規模が大きくないからだろう。しかしこの三つの企業は、四月の第一週から毎日のように選考が続く。学生に迫っているのだ。他社とうち、どっちを選ぶのかと。大企業の特権だろうか。どちらにせよ大手企業を総なめする様な気は毛頭なかったので、問題はなかった。三回チャレンジできるだけでも、十分なのだから。
 難波駅の地下は東西に伸びるが、梅田ほど複雑ではない。梅田は放射状に広がるが、難波は東西南北に線を引くように広がる。迷うことは少ないが、足を使うことには変わりない。
 目的の建物は難波でも人通りが少ない、西の外れにあった。入り口にはご丁寧にも誘導の人間が看板を持って立っている。その横を、僕は会釈して抜ける。顔に水滴。寒空の陰りの下。小雨が吹き抜けから地下部分に染みる。
 エレベーターを抜け、開かれた両開きの扉を過ぎると、大部屋を数え切れないほどの仕切りで区切った空間が眼前に現れた。受付で渡されたプレートに従って、ブースに移動する。
「よろしくお願いします」
 人の良さそうな五人。そういえばことGDに関しては、落ちたことがない。
「では、まだ時間もあるし自己紹介していきましょうか」
 今日のGDでゴールテープを先に切るのは、僕だ。
 体を這い登る緊張感は、翌日の面接に向けられたものだと断言できた。

「あなたが上司なら、部下の長所を伸ばすか短所を補うかどちらを選びますか。思いついた方から、手を上げてください」
「はい」
「では、大原さん」
「私は短所を補うことを勧めます。組織として、一定の成果を上げるためには長所を伸ばすことも重要ですが、その前に出来ないことを一つずつ減らしていくことが必要だと考えます」
「それは、部下の個性を抑えつけることにつながりはしませんか。たとえば、欠点というのは個性の裏返しということもありますから」
「確かに、個性を損ねるのはまずいですね。それでも、ある程度は上から抑えることも必要だと思います」
「ある程度、とは?」
「ああ、ええと、はい。それは……それでも何とかしないといけないと思います!」
「うーん、なるほど。えっと、お隣の磯山さん。笑っておられますが、あなたなら長所と短所、どちら」
「え、あ、はい。ああ、そうですね。私は長所を伸ばす方がいいと考えています」
「なぜ」
「先ほど個性とおっしゃられていましたが、やはり個性を伸ばすことが、よりよい結果をもたらすと考えています」
「私は長所を伸ばすか、短所を補うかと聞いたんですが」
「あ、はい、ああ、すみません。そうですね。それは、やはり個性というのは長所と……」
「……」
「はい、それでは宗像さん」
「私は短所を補う方を選びます。一つ例え話なんですが、よろしいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
「ここに桶があるとすると、一部分の木の板の高さが他より低いと、水が流れ落ちてしまいます。反対に、一つの木の板を高くしても、入れられる水の量は変わりません」
「うーん、でも部下はたくさんいるし、全部の板を延ばせばいいんじゃないかなあ」
「はい、確かにその通りです」
「はは、素直だね。まあ良い例えだと思うよ」
「ありがとうございます」
「じゃあ最後は、吉野さん」
「はい。私は、長所を伸ばす方がいいと思います」
「お、結局きれいに割れたねえ。じゃあ、どうしてか言ってくれるかな」
「組織の生産性を高めるうえで、先ほどの桶の例えのような考え方は非常に重要であるのは間違いないんですが、実際には固い木の板のみで作られた桶であると、乾燥や湿気で大きさが変わったり、歪んだりします。隙間ができて水が漏れると、困ります」
「お、君はうまいこと乗っかったねえ」
「あ、ありがとうございます。私は組織の柔軟性を重視したので。さきほどおっしゃられていたような個性を剪定し、長所にあたる部分を残す。そうすることで組織全体が柔軟になり対応力が増すのではないかと考えました」
「なるほど、ありがとう」
「うーん。そうですね、時間も丁度いいので、これくらいで。結果は、通過者のみに追って連絡します」

 ちょうど、正午からの面接だった。本社の前の植え込みの陰で、口ずさんだ自己PR。そらで言うにしても、丸暗記だと悟られてはいけない。不安を紛らわせるように、自己分析を書き込んだノートを手にうろうろと時間を潰した。結果的に、それらはなんの役にも立たなかったわけだが。
 本社の上階部分は、社員の案内がなければ間違いなく迷う広さで、僕たち四人は軍隊蟻の如く行進。控室には、それぞれのリクルーターが代わる代わる顔を出して激励をしてくれた。
「君は他の人にはない経験をしてるから。質問の内容はわからないけど、僕のときは選択を迫る質問でどちらをとってもなかなかに突っ込まれたから、気負わないようにね」
 最後に現われた藤友に、僕は言いようのない安心感を得た。アドバイスの最後には、肩を軽く叩かれた。それまでの藤友の淡々とした口ぶりや、数回交したメールの文面。それらを鑑みればらしからぬ行動だと思ったが、素直に嬉しかった。その言葉を膨らませ、この企業で働く自分の姿、何をできるか、どう貢献するか、そのためにどのような経験を活かすか、思案できた。自然と、自分が会社の一員になったような気になって。
 三人の面接官という形式には、もう慣れているはずだった。その凄み。不敵な態度。平然と心を抉る質問。答えのない問い。企業研究など鼻で笑うように、学生の人間性だけに切り込む笑顔。対面する距離が遠いのか近いのか、わからなかった。捻じ曲がった何かが、挟まっていた。平衡感覚はいとも簡単に失われた。
僕は再び、難波の地下を西へ向かっていた。中之島には、もう用はない。これからも、おそらく。
「落ちたな」
 自虐のつもりでぽつりとつぶやいてみたら、存外に痛ましい。本当に落ちたと認識してしまいそうで、縁起が悪い。まだわからない。いつになったらわかるのかも、わからない。
再びGDの会場が見えてきたところで、距離感を取り戻した。そうだ。空間は捻じ曲げられても、時間は遡行不可能。銀行の次は、生命保険だ。前日のGDは予想通り受かっていた。通過していた。即日連絡というのも、いかにも四月第一週といった感じだろうか。銀行だから、だろうか。
楽勝。そう、楽勝だった。
自分に言い聞かせる。同じように、突破する。今日の面接は、レベルが高すぎた。内容を後悔するのは、今すべきことではない。中之島には、いつでも足を運べる。時間と違って空間は、自分の意志でどうとでもなる。戻ってこれる。しかし時間だけは、違う。
明日には、今日は昨日になる。明日が今日になるのと同じように。それは、変えられない。


(七)

 日経新聞を取る必要などない。就職相談で学生の不安を煽って契約を重ねている者たちをよく見たが、ある意味では適切に職能を発揮していたのだろう。確かに面接の朝に新幹線の車内で目を通す分には、それらは適材なのだが。しかし月曜朝から新幹線に乗るビジネスマンであってもろくに読みはしない物を、学生が訳知り顔で読んでいても滑稽である。
 最終面接の案内ですら、面接の翌日に来た。正午ぴったりを見計らって。販売員のような洗練された話しぶりながら、日程について有無を言わせぬ雰囲気と拍子抜けを喚起するような矛盾が同居していた。月曜に銀行、火曜に、生命保険。四月第二週の早々に最終面接を受けることになるとは。それも二社ともである。
 内定。
 その二文字が頭を廻るのは、もはや防ぎようもない。GDは両方とも主導権を握り、特に危なげもなく終えられた。一次面接も、二次面接も、時間をたっぷり四十五分も与えられた個人面接。GDを受けていた周りの学生も、頓珍漢でもなければ賢しくもない、人の良い者ばかり。面接官もそうだ。嫌らしい質問や、揚げ足取りもない。素直に聞いてもらえれば、僕のような人間は落ち着いて自分を主張できる。
 今日も明日も、商社の面接がそれぞれ二つほど入っていた。しかし銀行の者に「明日でよろしいでしょうか」と言われば快諾するほかない。すぐさま断りの電話に繋ぐしかない。急き立てられている。生命保険は、端から明後日と切り出された。それだけでも、運が良い方だろう。最終面接は、最優先。
 本社の吹き抜けは、ゆうに十階分はあるだろうか。見上げると腰がもたない。ふと首の角度を戻すと、自分と同じようなリクルートスーツが二人。言葉をかけるでもなく手持無沙汰に三十分ほど待つと、緑の名札のようなものを首から掛けた男が近づいてきた。
「みなさん、こんにちは。では、これを首から掛けてこちらへどうぞ」
 手渡されたのは男のものと似た緑色。IDだろう。そのまま三人だけの行列を作り、改札のような入口を抜ける。IDはこのためだけのものらしい。
 引率の社員の言葉にそつなく返すことに頭がいっぱいで、緊張感は少しも緩和されない。やたらに光を反射するエレベーターに乗り込み、そのまま何階かもわからない控室へと案内される。
「十五分ほどの、個人面接です」
 浅く腰を沈め、説明を受ける。交通費の清算のための印鑑や、筆記用具を取り出しながら。
 事前に集められる情報は、全て集めた。銀行や生命保険という業種についてはもちろん、大学教授の論文も読んだ。もちろん僕は経済学が専攻ではない。それでも、情報は必要なのだ。自分の考えに根拠をつける。率直に言えば、安心するために。移動の片手間には匿名掲示板のスレッドにも目を注いだ。企業の選考内容が毎年同じであるわけがないが、実際にここまでは過去の質問例が大いに役に立ったのだから、侮れない。
「では、がんばってくださいね」
三人だけが残される。ライバルではあるが、目の敵にする必要はない。この企業の最終面接は、二次面接までの結果を確かめる、つまりは散々落としてきた後の面接であるという伝統があるらしい。僕たちの親世代では「最終は顔合わせ」などと言われていたことからも、あながち嘘とも言い切れない。都合のいい話だ。しかし最終面接において「落とすため」という性格が薄れるのは、共通認識だろう。
「じゃあ、いってきますね」
一人目が、引率の男に続いて部屋を出た。柔らかい笑顔。こちらも目を合わせたまま笑顔で返す。
荷物を持って出るということは、面接後はそのままエレベーターに向かうということだろう。エレベーターまで見送られれば、芽がある。そんな銀行面接の逸話を思い出し、苦笑に変わる。唯一疑いようがないのは面接のその場で握手し、「おめでとう」だの「内定です」だの言われることだろう。それだけを、期待する。
「磯山さん、どうぞ」
 十五分は短い。僕は先ほどと全く同じ笑みの浮かべ方の男に連れられ、立派な扉の前に立つ。
「自分のタイミングで、入って下さい」
 深呼吸する。ここで、終わらせる。今日で、終わらせる。
 僕は景気よく強めにノックした。三回。
 三回目が震えて四回に聞こえたことには、気づかなかった。

 外に出ると、突風。外套もないので、スーツがひっくり返る。自分を狙っていたのか。思わず舌打ちをした。
 握手はなかった。相手は面接官などという事務的な面を被ってはいない、威厳のある白髪頭。明らかに重役だった。他愛もない世間話、しかし、どこかピントが合わない。自分でも話している途中に気がついた。厳しさは当初、白髪頭から発せられていた。それがいつのまにか、白髪頭と僕の間にとぐろを巻いていた。雰囲気が悪くなるようなことはない。相手は歴戦の社会人なのだから。真意はわずかに醸し出される違和感から、悪性に寄っていることだけが窺い知れた。
 おかしい。ではどこが、おかしい? なぜ、おかしいのか。どこが、なにが。
 頭が揺れる。風は既に止んでいるのに。平仮名が沁みだしてくる。すぐに、振り落とす。
 今日、内定がもらえるかもしれないと思っていた。正直なところ、期待していた。なので、大阪での面接の予約は今日の分しかキャンセルしていない。
 馬鹿らしい。でも、しょうがないじゃないか。期待するだろう。わけのわからない自答を繰り返しながら、スマホに手を伸ばす。断りの電話を入れたら、牛丼と酒でも買って早めにホテルに入ればいい。風呂でも入って、テレビでも見て。
 面接の結果は下手をすれば明日の正午には来る。下手をすれば? なぜ、下手なんだ。自問が止まらない。自答も止まらない。

 四千円の宿は、思ったより快適だった。
 朝食のバイキングは九時までということもあって、間際にはスーツ姿でごったがえしている。
 腕時計を見ると、八時四十五分。生命保険の面接は、十二時半から。銀行から連絡があるとすれば、十二時ちょうど。電話ならば、内定。メールならば、お祈り。
 スクランブルエッグをプラスチック製のフォークで刺すと、ぶよぶよとしていた。押し返される。寄せては返す。電話か、メールか。ケチャップでぐちゃぐちゃにして、口の中に放り込みながら立ち上がる。時間までは会社の近くの喫茶店で時間を潰そう。
 昨日の銀行とは違い、大仰な控室もなく、大きく開けた空間にぽつりぽつりと椅子があるところへ案内された。GDのときと同じような感じだ。椅子の数は、二列ほどで計二十もない。人が座っているのもぽつりぽつり。一日に二十を捌き、三日ほどで最終面接を終わらせるという予測ができる。
 それぞれ距離はあったが、他にも二、三いるリクルートスーツたちとは目配せを経て奇妙な一体感が生じている。
 時計は十二時に差し掛かろうとしている。念のため、まだスマホの電源は点けたままにしている。電話があれば、この企業には悪いがその場で辞退。そのまま面接を受けてもいいのだろうが。
 とっくに呼吸はあがっている。期待と不安と緊張がない交ぜになっている。
 プププッ。
 その振動よりも、ビクついた僕がパイプ椅子を軋ませる音の方が大きかっただろう。
 画面に、ゆっくりと指を近づける。震えていない。一回だけの振動。その事実に、自分の指が震える。お祈りは、メールで。
「では、磯山さん、こちらへどうぞ」
 目の前には、誘導係の人間が。僕は、必死に目を上げようとする。しかし、画面に映るメールが、それを許さない。
 選考結果のお知らせ。
 立ち上がる足も、震えた。

「O大から参りました磯山和人です! 本日はよろしくお願いします!」
「はい、元気いいですねえ。では、志望動機をお願いします」
「私は就職活動をするにあたって、自分を生み育ててくれた社会への還元をしたいという考えから企業研究を始めました。生命保険を志望するにあたっては、四つの点から志望の思いを強くしました。一つ目は、人の一生を支えていくこと。二つ目は、一生の買い物になるということ。これらはともに、お金を預けることで日常的に人の暮らしに関わる銀行以上に選択の重みが大きい生命保険だからこそ言えると考えています。それに加えて、商品以上に人が信頼できるかどうかでお客様が決断されることが多いとも伺いました。これが三点目です。四点目は、自分のためではなく、自分以外の人のために加入するという点です。私はこれこそが他の金融やインフラと違う最大の特徴であると考えています。さらに御社には公共性の高さと可能性の大きさという他社にない二つの意義があると感じたので、志望の思いを強くしました」
「はい、ありがとうございました。ではいきなりの質問になるんだけど、もし嫌いなタイプの人間が上司で、どうしてもその人の下で働かないと駄目な状況になったら、どうする?」
「はい、私は嫌いなタイプの人間を今すぐ思い浮かべることができないんですが、たとえ少し反りが合わないと感じても、あくまで自分の方を合わせていきたいと思っています」
「それは、やっぱり上司だから?」
「はい、確かにその意味合いが強いです」
「でも間違ったことを指示されたら、しっかりと自分の意見を言えるのかな」
「そのときは周囲と考えを共有して、上司に働きかけることを考えます」
「じゃあ、周囲の人間全てが上司に反対しなかったら?」
「ええ、それは……」
「まあ、意地悪な質問だったね。それはそうと、磯山君は企業研究を熱心にしてくれてるみたいだけど、うちに対してはどういう風にやってくれたのかな」
「はい、そうですね。私の場合は、現場を見て勉強しようと思ったので、就職活動の合間を縫って支店に足を運んでみました」
「それはすごいねえ。それって、どこの支店?」
「え、ええ。そうですね。支店は、確か天満橋の、天満橋に、あったと思います」
「北浜?」
「いえ、ちょっと、今思い出すのは、はっきり思い出せないので、すみません」
「ふーん。じゃあ、選考状況とか聞いとこうかな」
「はい! 自分はすでにOガスさんから内定を頂いているんですが、ぜひとも御社に入社したいと考え、その内定を辞退させていただきました」
「Oガスさんっていったら、内定出たのいつでしたっけ」
「はい、えっと、一昨日ですね」
「そっか、それで、内定はもらったけどうちに来たいと」
「はい」
「Oガス最終ってそんな早いのね」
「……はい」
「なるほどなるほど」
「よろしくお願いします!」
「まあとりあえずこの辺にしておこうかな。結果は三日以内に、合否にかかわらずお知らせします」

 芝公園は思いのほか晴れている。もう午後も五時だというのに、陽はまだ白く、揺らめくこともなく屹然としている。
 僕はベンチに座ったまま、呆けていた。陽がいつまでも沈まないのに苛立ちを覚えながら。平日の日中にスーツで公園は自分の状況がどうであれ、居心地が悪いものだ。
 とりあえず、歩き出す。少し間を置いて配置されている隣のベンチには、若い女が座っていた。本を読んでいる。意図せずに背表紙に目が移るが、薄茶色のブックカバー。本屋で買うとタダでつけてもらえるものだ。目線を返される前に、自分の革靴に目を戻す。手にはスマホは握ったまま。電源は点けているが、メールを確認する気分にはならない。
 面接は、上手くいった。上手くいったと思うしかない。銀行の失敗は活かした。元気よく、深く考えない。知ったかぶりをしない。素直に、率直に。
 その結果が、嘘だ。嘘を吐いて泡を吹く。嘘つき。素直に嘘を吐いた。息を吐くようにではなく、過呼吸から漏れ出すように。恐らく気付かれただろう。しかしたとえあれが嘘でなかろうが、回答が失笑に値する程度のものでしかない時点で、面接官にとっては関係ないかもしれない。嘘に嘘を重ね、張子の虎で威勢良く。
 漫然と歩くと、プリンスパークタワーが見えてきた。公園の和の装いは、北側の増上寺からゆるやかに南下しているように見える。しかしこの辺りから芝公園を抜ける様は、舞台袖から抜けるというよりは奈落を下るようだ。あっさりとビルの谷間に滑落する。幅の狭い道を自動車が蛇行する横を、笑う膝を抑えながら下ってゆくことになる。
 面接は、相対評価だ。最終面接になれば、優秀な人間ばかりかもしれない。しかし自分の出来が悪いから落とされるとは、限らない。こいつはろくでもないから落とそう、というレベルでなければ。皆が皆たいして変わらないようならば、こんな自分ですら好意的に解釈してくれるかもしれない。緊張していたんだなあ。色々と、考えすぎたんだろうなあ。そんな風に。
 目の前には巨大な電波塔が光っていた。日本一有名な電波塔。さんざん沈まなかった陽は、どこかへ消えた。僕が見上げた八十五度分くらいを占領したオレンジの光は、本物の陽の淡さを忘れさせるほどに鮮やかだ。
高層ビルが多ければ、沈む陽ですら尾を隠す。その背の高さは、ちっぽけな自分を忘れさせてくれると甘えるには、大きすぎた。押しつぶされる。
小さな嘘は自分をより小さく見せる。ろくでもない人間が、ここにいる。小さな人間が大きくなるためについた小さな嘘。その過ちの大きさすらも、東京タワーは軽々と見下ろしている。


(八)

 正午になっても、電話もメールもなかった。考えてみれば最終面接の日程も一日の間を置いていたので、内定の連絡が日を空けても何ら不思議ではない。翌日に祈られるなどというのは、仕事が早いのか、よほど「ろくでもなかった」のか、どちらかだったのだろう。明日か、明後日か。それくらいには、きっと連絡は来る。連絡は。
 箸が止まる。腹は減っている。しかし、味が鈍い。
「大丈夫?」
 目の前の母親が、尋ねてくる。声の調子は言葉に重荷を乗せないように、極力深刻さを薄れさせようとしていることがわかる。
「大丈夫大丈夫」
 少しだけのおかずと言葉を残す。その日のうちに新幹線で大阪にとんぼ返りしたのはなぜか。一昨日と昨日に最終面接があろうと、今日と明日の面接から逃げるわけにいかない。三日後までには連絡があると言っていた。だからこそ。そこから先のことは、まだ。
「いってきます」
 スーツを着て、家を出る。
 往復の新幹線代は出たが、高速バスを使えば浮かせることもできた。三月からほぼ外で食べることが多かったので、口座から下ろす回数はもう数えきれなくなっている。額は、見ないようにしている。息抜きのつもりで、金を使っていた。最初は確かにそうだった。ところが面接を受けるようになって、それが半ば自棄の様なものに変容している気がする。焦りに追い立てられるから、金を撒いて逃げる。たくさん使えば、逃げ切れるような気がする。いつかは、足を止められるだろう。だから後ろを振り返らずに、一心不乱に撒き続ける。
「で、この小説を書く活動が、うちで働くうえでなんの役に立つのかな?」
 男は気味が悪いほど口を開いて問いかけてきた。僕の隣には、線の細い学生。
「それは、自分の考えや理論を筋道立てて他の人たちに説明したり、実際にそれらを役に立てる上で必要な表現力に繋がると自負しています」
「ふーん」
 男は左の肘をつきながら右手だけで僕の履歴書を弄ぶ。わざとらしく上下に舐めるように見て、言葉を続ける。
「うちが、何をやっているかわかる?」
「はい。御社は商社として樹脂や原材料の卸に携わることで繊維などの製品の商流の中で利益を上げるだけでなく、メーカー機能を持つことで化学品の開発にも積極的に注力して――」 
「うん、わかった。じゃあさ、さっき言ってた君が役に立てる「それら」って何? 具体的に」
 そんなこと、今言えるわけないだろ。
 僕は鼻腔が熱を持った空気で歪むのを感じた。
「隣の君は、どう? 大学で何やってたの?」
 線の細い学生は、やや躊躇ったのか間を開けた。目の前の人事が僕に行った問いかけを反芻して、答えを考えていたのだろう。
「自分は、造形工学を専攻しておりまして、主にデザインの観点からものづくりに関して研究してきました。そういった点から、御社では商社として製品の魅力を理解してニーズを掴むだけでなく、製品の設計にも理解を――」
「でもうちさあ、デザインはそんなにやってないんだよね。どうでしたったけ」
 蛙のように口をパクつかせながら、人事の男は隣に黙って座る初老の男に顔を向けた。わざとらしく、大袈裟な動作だった。初老の男が何か言っていたが、僕にはもうよく聞き取れなかった。自分の息が肺を震わせて、圧迫する音で。

 翌日は、中之島から橋を渡った先が目的地だった。
もちろん、インフラ企業ではない。四月の最初を飾った面接の結果。お祈りすらこなかった。面接までメールや電話で親身にしてくれた藤友からは、なんの音沙汰もない。こちらからメールしてやろうかとも思った。「結果がこないのですが」と。通過者のみに連絡と言っていたことは、わかっている。わかっているからこそ、皮肉の一つでも言いたかった。ぶつけたかった。そして、藤友から何か言葉を引き出したかった。皮肉。違う、ただの嫌がらせだ。惨めになった僕は、すぐに藤友のアドレスを消した。
「君、自分で書いたこの履歴書を見て何か思うことない?」
 ずらりと並ぶのは、強面の七人。二次面接からこの圧迫感は、経験したことが無い。
「……いえ」
「読む人間の気持ちになって考えてみなよ」
 その中でも横幅の広い、あまり日常では見ない酒樽のような体型の男が、言葉を寄せてくる。
 何が言いたいんだ。どうせ、言いたいことは決まってるんだろう。そんな言葉を飲みこむ