猫町「愛の真髄」

     

 僕は大学の帰り道を歩いていました。当然一緒に帰る人なんているはずもないので、一人黙々と歩いていたんです。僕は足を動かしつつも、あることに夢中になっていました。あることっていうのは、大学から家まで何歩で帰れるかっていうのを数えることです。別に何歩だろうがどうだっていいんだけれど、あまりにも退屈で、退屈すぎて退屈すぎて気が狂いそうだったので、他にやることもないし、しょうがないから歩数でも数えるか、ってなったわけです。特に面白いわけではないんだけれど、他に何もすることがないのでなんとなくやっていたら、それはそれで熱中してしまったんです。ほら、刑務所の中なんかだと、わけわかんない本とか読んでもなんだか面白く感じたりするじゃないですか、娯楽が少ないから。そんな感じです。そんな感じでいつの間にかそれが日課になっていました。我ながらなんて阿呆らしい日課なんだろう。説明しているだけで自分の惨めさに恥ずかしくなってしまいます。
 その時のペースは今まででも最短の歩数を記録していました。五百歩の時点でこんなところにまで来ているなんて。これほどまでにいい記録が出ることはめったにありません。何度も試行錯誤を重ねた結果判明した最良のコースをたどっても、なかなか記録は縮まらないんです。奥が深いんです。馬鹿みたいとかは思っても言わないでください。お願いします。
 そんな風に僕がくだらないことに熱中していると、なんだか横から声をかけられたような気がしましたが無視しました。だって僕が人から声をかけられるなんてことはまずなくて、僕が聞き間違いをしている可能性の方がよっぽど高いからです。あったところでせいぜい風俗店の呼び込みとかぐらいです。だから僕は呼ばれたような気がしても、習慣的に一度は聞こえなかったふりをするんです。一度目で振り返ったりなんかしたら、声の主は別の人のほうを向いていて、周囲の人から、あいつ自分が呼ばれたと思ってるよ、お前みたいな人間の屑に誰が声をかけるんだよ、社会の吐瀉物のくせに、と思われるに違いありません。しかし一度目に聞こえなかったふりをすれば、声は止み、勘違いをすることもなく、ああよかったなあ恥ずかしい思いをせずにすんだ、と万事うまくいきます。素晴らしい生活の知恵です。けれどその時は何度も何度もしつこく声をかけられ、本当に僕が呼ばれていたみたいでした。奇妙なこともあるものだなあ、と思いながらも僕は今何歩目だったか忘れてしまって腹立たしい気分でした。
 そんな気分のまま、声をかけてきた人の姿を見たとき、あ、見たことがある人だ、と思いました。とはいっても別に芸能人とかそんなのじゃなくて、単に高校で同じ学年だった人なんだけれど。ただどっちにしたって僕にとっては遠くの世界の人なので、大した違いはありません。
「ちょ、ちょっと無視すんなよお前。久しぶりだなあ」
 彼は親しげに話しかけてきました。彼は僕の高校時代での、消去法での唯一の友人でした。彼は学校でも友人が多く、クラスの中心人物でした。そして嫌味でない程度に勉強もスポーツもこなしていました。そんな皆からの人望もある彼はなぜか僕にもしばしば話しかけてきました。僕にはそれがかえって鼻につきました。なぜならその行動は、僕のような日陰者にも分け隔てなく話しかける度量を自分は持っているんだぞ、自分はなんて素晴らしい人間なんだろう、と周囲にアピールしているようにしか思えなかったからです。僕は彼の剥き出しの醜い自尊心に反吐が出ました。要は死んで欲しいと思いました。僕はこんなことを思っていたんだけれど、それを一切口にはせず、当たり障りのない会話をしていました。なぜならこれほど社会的地位の高い人物に嫌われたりしたら、僕みたいな矮小な生き物はすぐに捻り潰されてしまうからです。子どものころに痛い目を見たことがあるので、そこら辺はしっかりとわきまえていました。
「おお、いきなりだから誰かと思ったよ。久しぶりだね。元気でやってるの?」
 僕は答えました。早く死なないかなあ。
「あー、まあまあ。うん。ただ最近バイト始めたんだけど、それがすっげー疲れんのよ」
 とかなんとか彼は言って、その後もしばらく無意味な音声のやりとりを続けました。彼は一人で盛り上がっていて、一緒に飲みにでも行かないかと誘ってきました。僕には彼に逆らう術がないので、ただただ追従するしかありませんでした。
 居酒屋へ移動しても、彼は依然としてどうでもいいような話ばかりしていました。なので会話の内容は返事をすると同時に記憶から消えていきました。ただ、一つだけ記憶に残っているくだりがあります。
「そうそう、俺さー、彼女にフラれちゃったんだよ」
「え、ほんとに?」
 そういえば彼には高校時代から彼女がいたんでした。いわゆる学園のアイドル的な人らしいです。まあ、僕は彼から紹介されるまで、その存在をまったく知らなかったんですけれど。僕は今をときめくアイドルがテレビで活躍していたとしても、そもそもテレビを点けていないような人間なのでした。
 彼は自分がフラれた原因として、アルバイトとか、なんとかっていうサークルとか、そんなのが忙しくて、あんまり彼女に構ってあげられなかったせいで愛想を尽かされたんだと言っていました。そんなことや、付き合っていた当時のことを彼は話してきたんだけれども、彼が彼女に抱いていた愛情とかを聞かされたところで、僕にはそもそも愛というものがよくわからなかったので、何と答えたものかと困惑しました。これは別に哲学的なことを言ったりしているわけじゃなくて、単純に女性と付き合って、仲睦まじくじゃれ合うということの、何が楽しいのかまったく理解できなかったのでした。人と会話をしていて楽しいというのは、僕にはあまり経験がないけれど、なんとなく想像することはできる。それは確かに楽しそうだ。うんうん。だけれども、相手の女性といちゃついたところで、僕にはその会話自体がどうしても、ひどく気持ち悪くて、胡散臭いものだとしか思えないんです。たとえば、捕まえてごらんハニー、待ってよダーリン、なんてやりとり、想像しただけで嘔吐してしまいます。うげえ。
 僕はこんな風なことを正直に、ただしだいぶとオブラートに包んで彼に伝えました。
「ああ、でもそういうのは別に珍しくはないと思うけど。まあなんとなくそのうちわかるようになったってことも多いし、別にわからないからってなんてことないでしょ、そんなの」
 そういうものなんだろうか。僕は自分のことを、感情が不能になるという機能障害を持った人間だとしか思えないんだけれど。僕はそんな不安を口にしました。
「あー、そんなら、たとえば女じゃなくてもなんか別の、そう、子どもとか。ああいうの見たときになんか思ったりしない? なんつーか、こう、可愛いなっていうか。心が安らぐっていうか。言ったらそういうのが愛なんじゃないかと思うけど」
 子どもですか。あれはいいですよね。彼らの行動は時に人を和ませますよね。ただ彼らはまだ成長途中ですからね。未成熟なところがあるんですよね。相手の気持ちを推し量ることができないんですよね。人の尊厳を好き勝手に踏みにじりやがって、クソガキが。
「うーん、子どもはちょっと苦手かな」
 僕は正直に答えました。
「んー、そうか。そんなら、じゃあ動物とかは?」
 動物ですか。僕は人間が飼う必要があるのは畜産物だけだと思っているので、動物と交流を持つという発想は斬新でした。
「うーん、それもあんまりわかんないなあ」
 僕はまたも正直に答えました。
「あー、そうかあ。まあまあ、でも別にそんなに気にしないでいいと思うけどね」
 その時はそれで次の話へ移り変わっていきました。僕は自分のことが人としてどうしようもなく思え、情けなくなりました。


 そして居酒屋を出た後、彼はまだどこか別のところへ行こうとしていましたが、なんとか別れることができました。その帰り道、雨が降っている中を歩いていると、あるものが目に留まりました。ダンボールです。中を見ると、犬が入っていました。雨に打たれて濡れていました。最初、うわ、汚いな、と思いました。しかし僕はその考えを頭から振り払いました。こんなことばっかり言っているから僕は駄目なんだ。だから愛とか言われても何のことか理解できないんだ。そうだ、もう一度よく見てみたらもしかして愛おしく思えるんじゃないかな。その愛らしさに魅了されてしまうんじゃないかな。そう思って再び見返してみましたが、その姿は薄汚い浮浪者程度のものにしか思えませんでした。そんなはずはない。可愛いはずなんだ。そうに決まってる。こんなのはどう考えたっておかしい。だってあんなに愛くるしいのにどうして……。え? あれ、なんだか可愛く思えてきたんじゃないか? うん、だんだんそんな気がしてきた。してきたよ、すごく。もう一度目を凝らしてよくよく見てみれば、どこからどう見ても可愛らしいワンちゃんの姿がそこにありました。なあんだ、どうしてこんな当たり前のことに今まで気づかなかったんだろう。うっかりしていたなあ。この汚泥にまみれたぼさぼさの毛並みなんか特にチャーミングだね。
 僕はこうして愛に目覚めました。このワンちゃんを愛しく思いました。そうです僕はついに愛とはいかなるものなのか知ることができたんです。それはとても言葉で言い表せるような感情ではありませんでした。彼がうまく説明できなかったのも納得です。これは実際に体験していない人には決して理解できないようなものなんです。僕は喜びを噛みしめながらも、どうやらそのワンちゃんは捨て犬のようだということに気づいたので、迷わず家に連れて帰ることにしました。


 家に着いてまずは、ワンちゃんが雨ざらしにされていた寒さで震えていたし、汚れていたのでお風呂に入れてあげることにしました。どういう風にしたらいいのかよくわからなかったけれど、とりあえずシャワーを浴びせてあげてみたら喜んでくれているようだったので、一安心でした。そして、体を洗ってあげているとき、ふと気づきました。どうやらこのワンちゃんはメスのようです。
 そこで僕はとても重要なことを思い出しました。ちょっと小耳にはさんだことがあるんですけれど、愛していたとしても、交わりを結ばなければ愛の真髄を知ったとは言えないんだそうです。交わりを結ばないでいるうちはおままごとのような愛なんだそうです。それは大変だ。せっかく愛を知ることができたと思ったのに。僕はまだまともな人間になれないのか。くそう。それはいやだ。そう思い、僕は決心して彼女の方に向き直りました。
 彼女のつぶらな瞳は僕を不思議そうに見つめていました。