安倍公房『砂の女』@草一郎

安倍公房(著)
文庫: 276ページ
出版社: 新潮社; 改版版 (1981/02)


人間の存在を追求した長篇


 安部公房の作中に登場する人物は「個」を特定する要素が希薄である。本作の主人公、仁木順平もまたそうだった。彼の本名は劇中では一度も明かされない。巻末の届け出で分かるだけである。物語の中で仁木順平は「男」という呼称で呼ばれつづけ、まるで一般化されたかのような印象を読者は受ける。

 主人公の男は教師である。しかし典型的な教師ではなく、生徒を妬みの対象として見ている歪んだ教師であった。それは自分と違って生徒たちには将来の可能性が大きく開かれているからである。男は本来望まれるべき教師像とはかけ離れており、また同僚や妻との関係でさえも意識的に他人とは異なるものになるよう心掛けている。つまり、生徒にとって教師、同僚にとって仕事仲間、妻にとって夫という「何者かでいること」を拒否しつづけていた。

 そんな彼が憧れたものが流動が常態である「砂」であった。そして新種の昆虫を発見し、その学名に自分の名が刻まれることを夢見ていた。それは半永久的に流れる時間のなかで、「仁木順平」という「自分」を何かの形で残すことに価値を見出したからである。枠組みの中にある「自分」ではなく、何物にもとらわれない独立した「自分」を求めたからだろう。彼はそんな思いで砂丘へ出かける。

 休暇を利用して到着した砂丘。付近の村人の導きで、男は砂の穴の中にある民家に泊めてもらうこととなる。民家には男をもてなす女がいた。落ちてくる砂にややもうんざりしながら、一晩を明かした翌日。目を覚ました男は、地上に出るための縄梯子が取り外されていることに気づく。慌てふためき女に訊ねると、このように答えた。

「砂を毎日掻き出さなければ家が潰れ、ひいては村が砂に埋まってしまう。砂運びの人手が必要だった」

 何かに束縛されるのを嫌っていた男は、またもやシステムの一部として組み込まれしまう。憤りを覚えて、なんとか逃げ出そうと砂運びを拒否し続ける。ところが、蓄えてあった水が底をついてしまい、激しい渇きを覚えた男は、降伏せざるを得ない状況に追い込まれる。仕方なく砂運びをすることになる。

 さんざん拒否していた砂運びだったが、やってみるとそれは思ったほど苦痛ではなかった。が、やはり単純労働なのは変わりない。男は脱走を試み、うまく穴から抜け出すことに成功する。しかし、逃走中に運悪く村人に見つかり、逃げ込んだ底なし沼にはまり込んでしまう。抜け出せなくなった死の間際、村人に見つかりまたも穴に戻される。男は手立てなく労働に打ち込むなかで、砂から水をろ過させる装置を作り出す。

 そんなとき、女が妊娠。子宮外妊娠で出血し病院へ運ばれる。うろたえた村人は、梯子をかけっぱなしにするという過ちを犯す。脱走するチャンスであったが、しかし男は逃げ出さなかった。男は自分が工夫して作った蒸留装置を見てもらいたかったのだ。

「逃げる手立てはまた翌日考えればいい」

 この一行でこの小説は幕を引いている。

 極めて上手く出来ている物語であるが、読者に暗に問いかけているものは多い。外面は推理小説のような雰囲気だが、その実よくよく見て見ると観念小説であることがわかるだろう。また、虚構を現実に近づける写実的な表現と比喩の豊富さにも注目してもらいたい。常識の範疇では考えにくい特殊な状況を、うまく描き出している。男の脱出劇に手に汗を握るに違いない。

 
あらすじ
 主人公は砂漠に新種のハンミョウを採集しに向かうが、砂漠の中の村で寡婦が住む家に滞在するように勧められる。村の家は一軒一軒砂丘に掘られた蟻地獄の巣にも似た穴の底にあり、はしごでのみ地上と出入りできる。一夜明けるとはしごが村人によって取り外され、主人公は女とともに穴の下に閉じ込められ、同居を始める。村の家々は常に砂を穴の外に運び出さない限り、砂に埋もれてしまうため人手を欲していた。村の内部では、村長が支配する社会主義に似た制度が採られている。主人公は砂を掻きだす作業をしながら、さまざまな方法で抵抗を試みるのだが……。(wikipediaから引用)