中島敦「名人伝」@たこのには

【あらすじ】
中国、戦国時代。紀昌という男が天下第一の弓の名人を志す。紀昌は、弓矢にかけては及ぶ者がいないと思われる飛衛という男の下に弟子入りし、修業を積む。修業の成果あって、紀昌はとうとう飛衛と並ぶまでに上達する。しかし、紀昌はあくまで自分が天下第一であることを望み、飛衛を射殺そうとする。飛衛は身の危険を案じ、甘蠅師を訪れよと紀昌に告げる。甘蠅師の前ではわれわれの技は子どもの遊びに等しい、と飛衛は言う。まだ上があると知った紀昌は、すぐさま甘蠅師のもとへと旅立つ。そこで紀昌が甘蠅師に教わったのは、弓矢を使わない「不射の射」であった。いよいよ弓を極めるところまで極め、天下の名人となった紀昌は……。


【感想】
漢字が多い、格調高い文章だ。誰それがこうした誰それがこうしたと、いちいち力強く書かれている。なんだか漢文を訓読しているかのような気になる。それでいて、読んでいるのは現代でも通じる日本語である。新しい言葉を知ったような新鮮さがある。著者中島敦は大学で森鴎外を研究したというが、森鴎外に見られるような古文と現代文の中間のような文章とはまた違う。この変な感じが面白い。そして、驚くほど読みやすい。ところどころ意味のわからない語があっても推測で読み進められるし、それで筋書きは十分追える。段階を一つ一つ踏んでいくように話を展開するから、整理されて頭に入りやすい。無駄がなく、話が飛んだとか冗長だとか思うこともない。段階ごとにふさわしいだけの分量を書いているからだろう。
内容はといえば、世俗離れした名人たちをうまく描いている。名人飛衛は技、人ともにまさに名人であるし、甘蠅師のもつ神秘的なオーラは、私がイメージする仙人のそれだ。そして、努力を重ね天下第一の弓の使い手にまで上りつめる紀昌は、天才の典型だ。誰をとっても個性がはっきりしている。オリジナルなのにイメージしやすい。登場人物で主なのはこの三人だが、他にもさらっと出てくる。その違和感のなさ。あるべくしてある脇役である。それにしても、紀昌の修練を描写するためだけに彼の妻を登場させるとは。彼女はそれ一回きり登場しない。
というわけで、感心させられつつ楽しく読んだのだが、結末には考えさせられた。弓を手にしない弓の名人とはいったい何なのか。天下一の名人となった紀昌は「至為は為すこと無く、至言は言を去り、至射は射ることなし」と言った。何かを真に極めた者はそれをしないということだろうか。そうだとしても、それはなぜだ。考えるがわからない。私には謎だ。誰か教えてほしいくらいだ。


【おまけ】
中島敦の名は「山月記」や「李陵」でご存知の方が多いのではないでしょうか。かく言う私も高校時代に教科書で「山月記」を読んで知りました。読んだ当時は、漢字だらけなのに読みやすくて面白い、といささかびっくりしたものです。あれから二年、ふとあんな文章が読みたいと思い、「名人伝」と「李陵」を読みました。そんな私が言うのもなんですが、「名人伝」は読まずには惜しい名作です。「山月記」より少し短い程度の短編小説なので、気軽に読まれてはいかがでしょう。ちなみに私は『ちくま日本文学全集 中島敦』(筑摩書房)で読みましたが、この本は「中島敦を読みたい」という方には是非とおすすめできる本です。文庫サイズで定価1000円ですが、上にあげた三篇のほか、中島敦の有名な作品はほとんど入っているようです。