「この恐ろしい眠りに終わりはないのか?」
                      ――タイタス、息子たちの生首などを目の当たりにして

【あらすじ】
 ローマ軍の勇将タイタス・アンドロニカスは、先帝の後継者争いで揺れるローマに凱旋する。ゴート討伐で捕虜とした女王タモーラの長男王子を殺して、戦死したわが子たちの霊廟への生贄とする。これを怨んだ残る王子二人は、次帝に見初められてローマ皇帝妃となったタモーラの狡猾なムーア人情夫、エアロンと共謀。タイタスの娘ラヴィニアを襲って凌辱し、なんとその舌と両手を切断してしまう。怒り狂うタイタス…―血で血を洗う復讐の凄惨な応酬。その結末は!?シェイクスピア初期の衝撃作。

【書評】
 シェイクスピア最初期の作品(1593年)。有名な四大悲劇が1600年代以降であることを考えると、この作品が最初の悲劇ということになる。しかしこの作品が四大悲劇と同列に論じられることは少ない。作品自体の評価がそれらに勝るとも劣らないものなのにも関わらずだ。その答えにこの作品の残虐性がある。繰り広げられるのはあまりにも苛烈な復讐合戦。読者はページを捲る度に咽かえる血の匂いに辟易するだろう。特に物語クライマックスの、狂人に扮したタイタスが、タモーラ達に手作りパイを振る舞う“狂宴”には寒気を覚えたはずだ。つまり“悲劇”と言うよりは“残虐劇”なのである。後世の評論家には、「残酷の押し売り」や「最初期ゆえの習作」と断ずる者も少なくない。しかしこの作品がシェイクスピアを論じる上で欠かせないのには理由がある。

 シェイクスピアの初期の作品は「ヘンリー六世三部作」(1589〜1592)に代表される史劇や「じゃじゃ馬ならし」(1593〜1594)のような奔放な喜劇が挙げられるが、この後の「タイタス・アンドロニカス」を境にして、「ロミオとジュリエット」のような恋愛悲劇が生まれ、喜劇の奥行きも増す。「ジュリウス・シーザー」(1599)、そして「ハムレット」(1600〜1601)から続く四大悲劇で人間の心の葛藤に根ざした暗さをテーマにした後期の作品が生まれていく。つまり本作には中期から後期に渡って生まれる、傑作群の悲劇の萌芽が内包されているのである。

 例えば、諸悪の根源的な描き方を為されながら、人種的コンプレックスを抱えたエアロンのムーア人としての悲哀は「オセロー」の主人公オセローに、己が欲望の為に姦計を弄する人物としての設定はオセローを陥れる悪役、イアーゴに受け継がれる。また夫を唆して狡猾に立ち回るタモーラの悪女としての振る舞いは「マクベス」のマクベス夫人に、狂人に扮して憎き敵を油断させるのは「ハムレット」にも使われた設定だ。残虐さに不似合いなまでの美しい韻文は「ロミオとジュリエット」ではその輝きを放つに相応しい場を与えられる。

 これほどまでに重要な文学的価値を有しながら、近年に至るまでにほとんど舞台で上演されなかったのは、やはりその暴力と残虐に溢れた作風が原因だろう。しかしこの作品には紛れもなくシェイクスピアの持つ輝かしい種子が詰まっており、それを見透かすことが出来たならば美しさすら感じ得るだろう。一見単純な善と悪の対立に見える内容も、タイタスの生粋の武将ゆえの蒙昧さや、タモーラの母親としての慈愛を注視すれば適切ではないことがわかる。特にラストの、純粋な悪に近い者として描かれていたはずのエアロンのセリフが、この物語を荒削りながらも底が浅からぬものにしている。


 もし生涯に一度でも善を行なっていたら、魂の底から悔やんだろうよ
                                  ――死刑を宣告された後のエアロン


 最悪と言っているうちは、まだ最悪ではない
 
 死ぬほどの哀しみも、別の哀しみで直る

                                     ――ウィリアム・シェイクスピア