東野圭吾「殺人の門」@たこのには

あらすじ
「倉持修を殺そう」と思ったのはいつからだろう。悪魔の如きあの男のせいで、私の人生はいつも狂わされてきた。そして数多くの人間が不幸になった。あいつだけは生かしておいてはならない。でも、私には殺すことができないのだ。殺人者になるために、私に欠けているものはいったい何なのだろうか?人が人を殺すという行為は如何なることか。直木賞作家が描く、「憎悪」と「殺意」の一大叙事詩。(「BOOK」データベースより)

感想
二度と読みたくない作品である。主人公は男に幾度も騙され騙され騙されつづけ、その度に不幸になっていく。男はまさに悪夢のように主人公につきまとって離れない。読んでいるとほとほと嫌になる。嫌になる理由は大きく二つ。一つめは、主人公が何度もあっさりと騙されることにイライラするから。男への憎しみは烈火のごとく燃え上がってあるのに、それでも主人公はころりと嵌められてしまう。それがもうもどかしくてしょうがない。男も、どうしてこうまで人を騙すのか。騙すほうも騙されるほうもやめにしてくれと言いたくなる。二つめは、男を憎む主人公に感情移入して疲弊するから。憎悪するというのは本当に疲れる。途中、何度読むのをやめようと思ったことか。読後しばらくは憂鬱になること請け合いだ。だが、それでも読まされてしまった。読者をひきつける術には感服せざるをえない。
読んだ当初は、作者はどうしてこんな本を書いたのだと怒ったものだ。こんな本を読んだって、疲労感と後味の悪さが残るだけじゃないか、と。このような物語を書く意義が分からなかった。しかし、嫌な記憶も薄れだした今となっては、ある程度評価する。意義はいまだにわからない。が、絶大な憎しみを書いたことを評価する。読むのがしんどければ書くのもしんどいはずだ、と信じる。作者がこの作品に費やしたエネルギーは相当なものだろう。それをやってのけただけでも評価に値すると私は考える。
さて、かなり印象深い物語なのに、結末がどうなったかは忘れてしまった。はたしてどうなったか気にかかるところだが、それを確かめるためにもう一度この本を手に取ることはすまい。