「そりゃ昔の小説の名探偵ならね、犯人が好きなだけ殺人をしてしまってから、やおら神のごとき名推理を働かすのが常道でしょうけれど、それはもう二十年も前のモードよ。あたしぐらいに良心的な探偵は、とても殺人まで待ってられないの。事件の起こる前に関係者の状況と心理とをききあつめて、放っておけばこれこれの殺人が行われるはずだったという、未来の犯人と被害者と、その方法と動機まで詳しく指摘しちゃおうという試み・・・」(『虚無への供物』より奈々村久生)


【あらすじ】
 アパートの一室での毒殺、黄色の部屋の密室トリック―素人探偵・奈々村久生と婚約者・牟礼田俊夫らが推理を重ねる。誕生石の色、五色の不動尊、薔薇、内外の探偵小説など、蘊蓄も披露、巧みに仕掛けたワナと見事に構成された「ワンダランド」に、中井英夫の「反推理小説」の真髄を見る究極のミステリー。 (「BOOK」データベースより)


【書評】
ドグラ・マグラ」「黒死館殺人事件」とならぶ日本の三大奇書のこの作品。他の二つが内容云々以前に読破が苦行なのに比べ、かなり読みやすいだろう。前者のようなキ○ガイ描写もなく、後者のような眩暈をおぼえるほどの衒学乱れ打ちもない。前二つが戦前の作品なのに比べ時代が近い(それでも半世紀前の作品だが)のも大きい。珍妙なキャラクター描写、メタ的、蘊蓄満載で愉快な推理合戦(冒頭のセリフのように事件が起こる前に始めてしまう)。戦後初期の時代や浅草の風景、洞爺丸沈没事故や有毒米などの社会問題を色濃く映した背景。さらに、軽薄ともいえる探偵たちの掛け合いは良くも悪くも現代のライトノベルのような印象を与える。ノックスの十戒や密室の定義などミステリーファン垂涎の要素も満載だ。

 しかしこの小説が内に秘めたテーマの重厚さは、冗長に感じるほど長い本編中に妖しく姿をチラつかせ、読者を戸惑わせる。作中には4つの密室殺人が主軸として書かれているが、しだいにこのテーマが見えなくなっていくのだ。最初はアホだなあと思って読んでいた呑気な探偵たちの推理が思わぬ方向に進み、作中作「凶鳥の黒影」と共に地の文に浸食しつつあることに気付いた時、読者は戦慄するだろう。そこにあるのは推理と事件という関係性の倒錯。ミステリーではおのずと定められていた探偵の不可避性や推理の合理性の冷徹なまでの否定。真犯人の告白で明かされる動機は、作中の自称探偵達や私たち読者を嘲笑っているのかと思わせるほど暗く、それでいて純粋な輝きを放つほど文学的だ。

 この小説の書評は非常に難しい。分類はミステリーということでいいのかもわからない。この作品が江戸川乱歩賞に応募されたこと、作中の執拗なまでの探偵、推理の描写から鑑みてもミステリーと言って妥当だろう。1964年に発表された本作は、竹本健治京極夏彦らに多大な影響を与え、沈みつつあった本格ミステリーで奮闘していた島田荘司、のちに台頭する新本格の旗手である有栖川有栖らと違った【読者への挑戦状】を本作は投げかけてきている。それも個人だけではない、社会全体に対してだ。ミステリー好きを自認するなら、必ずや楽しめる要素があるであろう作品だ。

 しかし作者自身や多くの読者、ミステリーファンから度々漏れるこの言葉も一読すれば納得できるのである。

「この作品は『アンチミステリー』である」


 題名にもある虚無への供物はいつその正体を顕現させるのか。冒頭から結末まで萌芽はいたるところに仕込まれている。