オノレ・ド・バルザック『谷間の百合』@ゆうゆう

書評
 本書はバルザックの代表作の一つであり、彼の初恋とその結末をドラマチックに書き出したものといわれる。バルザックの書くキャラクターは情愛的な本心と偽善的な社会通念の間で板ばさみになり、苦悩して死んでいくが、この作品もその例に漏れない。本書ではフェリックスの恋の相手、アンリエット(=モルソフ伯爵夫人)が、無理解な夫や虚弱な子供達に囲まれ、フェリックスからの求愛をうけて苦悩する。
 
 フェリックスは貴族達の集う舞踏会でアンリエットを見、その威厳と美しさに心奪われ、彼女の住む谷間に通うようになる。アンリエットは既に伯爵と結婚し、子供もいる身であり、フェリックスの求愛を性愛的な意味では決して受け入れない。その代わり、彼に社交界で成功するためのアドバイスをし、可能な限り後ろ盾になろうとする。貞潔な彼女のフェリックスへの愛情は親が子に向けるそれと似ている。

 フェリックスが社交界で成功する間、アンリエットに生まれた子供は虚弱体質であり、モルソフ伯爵はアンリエットに冷酷に当たるようになった。アンリエットは変わらず夫に尽くすが、フェリックスは社交界で出会った女性と逢瀬を繰り返すようになる。アンリエットは谷間で一人、高潔と貞淑を体現して生きるが、環境にも理解者にも恵まれず体調を崩してゆく。

 フェリックスがアンリエットの元に再び赴いた時には、彼女はすでに自由に床から起きることは出来ない体になっていた。いよいよ臨終というとき、フェリックスはやせ細った彼女が最大限の努力をしてめかしこんだ元に呼ばれる。彼女はそこで、いままでの自分の境遇に対する呪いを明かし、フェリックスと一緒に行きたかったと告げる。
「さあ、あなたの力で私の目にはっきり見せてちょうだい。私が死ぬはずがない、だまされたままで死ぬはずが無いって」(「谷間の百合新潮文庫 P.400)
「私の一番大きな苦しみは、あなたにお会いできないことだったの。いつか、生きてほしいって、私のそうおっしゃったわね。私、生きたいの。自分でも馬に乗りたいの。パリも、社交界の楽しみも、悦楽も、私、何もかも、この身で知りたいの」(同)

 谷間がアンリエットを失い、寒々しくなってゆくところでこの物語は終わる。プロットとキャラクターの魅力も充分に素晴らしいが、バルザックの大きな特徴の一つはその詩的な表現である。全編にわたって自然や人を表現する言葉が豊富な語彙と感性によってつむがれ、こここそがバルザックを天才と言わしめるものであるということがわかる。文学に触れるにあたって、詩的文章の美しさを味わうことも楽しみの一つだと思う。本書に触れる機会があったなら、バルザック一流の表現にも着目して読んでいただきたい。

[書籍情報]
谷間の百合
オノレ・ド・バルザック
石井晴一/訳
小説(古典)
新潮文庫