マイケル・J・サンデル『完全な人間を目指さなくてもよい理由 遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』@おさひさし


[内容]
 遺伝子操作やスマートドラッグやドーピングは悪か? 何処までなら許されるのか? 人間の身体的増強への欲望は「正義」か? (本書帯より)


[感想]
 この本を読んで、アメリカはもうここまで進んでしまったのかと正直舌を巻いた。
 遺伝子操作による病気の治療法は開発されつつある。それによって身体能力を好きなように増強(エンハンスメント)する方法も開発されるだろう。現在可能なこととしては、自分や子の身長に不満があれば、ホルモン注射によって多少伸ばすことができる。愛しているペットが死んでしまっても、クローニングによって遺伝学上全く同じペットを手にすることができる。そして何より、精子バンクや卵子バンクの存在によって、好みの遺伝子をカタログから選んで組み合わせ、理想の子どもをデザインすることもできてしまう。
 しかしこれらは、何処まで許されるのか。許されないとしたら、何が問題なのか。人体の改造はなぜ批判されるのか。それらの問題を本書では多数の事例を示しながら、事細かに扱っていく。


 個人的に印象に残ったのは第四章「新旧の優生学」である。

 映画やアニメ、漫画などでも、近未来における遺伝子操作の問題はしばしばテーマとして扱われる。より優秀な子どもをつくるため、より良い方向へ人類を進化させるため、という理想のもと、そういった手法は開発され、また消費者たる親たちもそれを要求する。そうしてどんどん遺伝子操作された「優秀な」子どもが生み出され、確かに人類は進化を遂げる。しかしその末路は、多くの作品で描かれる通り、決して明るく理想的とはいえないものだ。
 しかしその近未来の一歩手前に、アメリカは立っている。


 遺伝子の操作等による能力の増強(エンハンスメント)は、今日でもしばしば議論の種となっている。人間をより優れた存在にしようとするその行為は、かつてアメリカで熱狂的なまでに支持された優生学を連想させる。
 アメリカ合衆国第二十六代大統領であり、ノーベル平和賞を受賞したセオドア・ルーズヴェルトは言った。
「いつの日か、われわれは認識するようになるだろう。自分たちの血を後世へと受け継ぐのは、優れた部類に属する善良な市民にとって至高かつ不可避の義務であるということを。そして、劣った部類に属する市民を長々とのさばらせておいてはならないということを」
 そして国内の精神病患者や囚人や貧民への強制断種が行われ、最終的に6万人のアメリカ人が断種された。
 かのアドルフ・ヒトラー優生学を「もっとも明晰な理性の要求」であり「人類のもっとも人道的な行為」と主張して徹底した強制断種を行い、アメリカの優生学者たちは喝采の声を挙げた。
 その後ナチスによる惨劇と共に優生学は退潮していったが、今日非強制の遺伝子操作等を扱う「リベラル優生学」として復活を遂げている。旧来の優生学とは違い随分やわらかい印象を受けるものの、やはり多くの生命倫理学者、政治哲学者が擁護と批判を繰り返し「ここまではセーフで、ここからはアウト」というようなことを激しく議論している。


 しかしいくら倫理や哲学を追求しようと、それらは所詮理念に過ぎない。理念と現実が一致しない事実を、たとえば現在の原発問題のように、我々は多く目にしている。どれだけ理念を語ろうとも、子どもを「贈られるもの」から「商品」へと変えていることに違いはないのだ。「商品」として生まれた子どもたちは、「子ども」を欲した親に「商品」として育てられる。それが当たり前になってくると、やがてタガが外れる。多くの作品が予見するとおりの未来が訪れてしまうのだ。

 サンデルは語る。「子どもの自律に対する影響がどうであれ、偶然性を払い除けたい、生誕の神秘を支配したいという衝動は、設計する親を駄目にし、無条件の愛という規範によって統制されるはずの子育てという社会慣行を堕落させてしまう」と。
 無条件の愛というといかにもこそばゆい感じがするが、しかしそれが軽視されていくとどうなるか、我々は容易に想像できるはずだ。

 本書は人類の、暴走する科学文明への警鐘を鳴らし、同時に「届かないもの」としての生命の尊重を訴えている。