森博嗣『喜島先生の静かな世界』@黎明

【あらすじ】
 学問の深遠さ、研究の純粋さ、大学の意義を語る自伝的小説

 僕は文字を読むことが不得意だったから、小学生のときには、勉強が大嫌いだった。そんなに本が嫌いだったのに、4年生のときだったと思う、僕は区の図書館に1人で入った。その頃、僕は電波というものに興味を持っていたから、それに関する本を探そうと思った。その1冊を読むことで得られた経験が、たぶん僕の人生を決めただろう。意味のわからないものに直面したとき、それを意味のわかるものに変えていくプロセス、それはとても楽しかった。考えて考えて考え抜けば、意味の通る解釈がやがて僕に訪れる。そういう体験だった。小さかった僕は、それを神様のご褒美だと考えた。
講談社創業100周年記念出版(amazonより)

【感想】
 自伝的小説とあるが、確かに主人公の造形は筆者を彷彿とさせるものがある。文字を読むのが不得意だった点や電子工作に夢中になった点、そして研究者として大学に残ることになった点などは筆者と同じだろう。ならば実際に喜嶋先生という人物はいたのだろうか。もちろん小説用にアレンジされてはいるだろうが、その元になるような研究者に筆者は出会ったのだろうか。それが本書を読み終わった時にまず浮かんだ疑問だった。

 本書は主人公である橋場くんの物語である。あらすじにあるような体験をした橋場くんは数学と物理に興味を示し、大学を卒業した後は大学院に進学。そこで恩師である喜嶋先生と出会い、研究者として成長していく。筆者はミステリー作家の面が強いが、本書では橋場くんを通して研究というもの、研究者という人たち、そしてその中でも際立っている(あるいは理想である)喜嶋先生について淡々と描かれていく。真面目版水柿くんと言ったら伝わる人には伝わるかもしれない。

 本書の主人公は橋場くんであると書いたが、中心人物は間違いなく喜嶋先生だろう。橋場くんの恩師にあたる喜嶋先生の研究に対するストイックで純粋な姿勢は見るものを圧倒させる。しかし現実世界との接点を極力排し、ただひたすらに研究に打ち込む姿は憧れもするが、同時に恐ろしくもある。多くの研究者は、おそらく最初は自分の研究のことで頭がいっぱいのはずだ。ただただ研究が楽しくて、本書の言葉を借りれば「一日中、たった一つの微分方程式を睨んでいた素敵な時間」を研究対象は違えど誰もが持っていたはずである。そしてそれがずっと続くものだと考えている。

 しかし結婚して家庭を持ったり、学内政治や委員会や会議といった研究以外の雑事が増えたり、あるいは自分の能力に限界を感じたりして、一人、また一人と学問の王道、研究の本道から外れていく。あの素敵な時間が、素晴らしい発想が二度と得られないものだと気が付いていく。本書の中に出てくる研究者は皆そうだし、主人公である橋場くんですら例外ではない。

 本書を読んでいくとその中で一人、静かな世界で生きていく喜嶋先生の姿はとても美しく思える。しかし最後まで読むと、それがとても残酷な生き方であるとも知らされる。

 研究内容については具体的に踏み込むことはなく、それでいて研究の面白さが伝わってくるように書かれているので楽しめると思う。また理系の研究生活について書かれているので、それがどういったものなのか興味がある方にはおすすめである。