お題『セミ』『文字』『山姥』@掛流野カナ

あれは、十数年前のことだ。僕はまだ小学生で、田舎の祖母を家族揃って訪れていた。
都会生まれ都会育ちの僕は、荷ほどきもそこそこに、大喜びで山へ虫捕りに出かけた。
都会ではセミが鳴くばかりだけれど、さすがド田舎の山。
カブトムシなんかが山ほど見つかる。僕は調子に乗って、どんどん山奥へと進んでいた。
気付いた時には、もう帰り道が分からなくなっていた。
夏の夜が、あっという間に周囲を暗闇で包み込む。
慣れない山道。真っ暗な周囲。
都会育ちの小学生の僕は、すぐにへたり込んでしまった。
そんな時だった。
「あら、どうしたの?」
ぱっと振り向くと、和服姿の女の人が灯りを手にこちらを見ていた。
黒い髪、白い肌、整った顔立ち。かなりの美人だ。
そんな状況にもかかわらず、顔に熱が上ってきたのは今でも覚えている。
「え、えっと、帰り道が分からなくなって……」
「まあ!そうなの。じゃあ私の家に来たらいいわ。ここからすぐだから」
そう言う女の人について行くと、本当にすぐにひとつの民家に辿り着いた。
中からはいい匂いが漂ってきている。
引き戸をくぐって中に入ると、いかにも昔話に出てくる家のような間取りになっていた。
中央にある囲炉裏には、お味噌汁らしきものが煮立っていた。
「お腹、空いたでしょう。たんとお食べ」
優しく微笑みかける女の人の前で、僕はごくごくとお味噌汁を頬張った。
なんの変哲も無いお味噌汁だったけれど、あのお味噌汁は今でも人生で一番美味しかったと思っている。
ある程度腹の虫が落ち着くと、女の人は自分自身のことを色々教えてくれた。
山の神社で巫女として神様に仕えていること。神社を訪れる人が減っていて寂しいことや、ここでの生活のこと。
「さすがにここで一人で暮らすのは寂しいわ……訪れる人も少ないし」
「大変なんですね……」
僕がそう言うと、女の人は切ない笑顔を僕に向けた。
その瞬間、何故か突然の眠気に襲われた。意識が遠のいて行く中、女の人の声だけが頭に響いた。
「でも君は……帰った方がいいわ。まだ、小さいから……」
その言葉の意味を聞く間もなく、僕は意識を手放した。


翌日、僕は捜索隊によって倒れているところを発見された。そして僕は、日が暮れてからの記憶をすっかり無くしていた。
当時はショックによるものだろうと片付けられ、僕は夏休みが終わるといつも通りの日常へと戻って行ったのだった。



「ふう……疲れた」
「そろそろ休憩するかい?」
「ありがと、ばあちゃん。でももうちょっとだから」
そして今、僕は田舎の祖母の家で、古臭い本をなんとか読もうとしていた。
何故かは分からないが、十数年経った今になって、当時の記憶を思い出したのだ。
どうしてもあの女の人のことが気になって、僕は祖母に例の山の神社のことを聞いたけれど、全く知らないとのことだった。
倉庫に眠っていた地元に関する古い本を引っ張り出して、筆で書かれた読みにくい文字をなんとか解読したところ、
確かにあの山には神社があったそうだが、一時期山姥が出るという噂が広がって訪れる人が減り、いつのまにか忘れ去られてしまったらしい。
「山姥…か」
あの時は何も疑問に思わなかったけれど、あの時間にあの場所で出会うって、どうなんだろう。
もしかしたら、あの女の人が山姥だったのかもしれない。
寂しいと言っていたあの人に、また会うことはあるのだろうか。
入道雲を背に佇む深緑の山。窓枠の中に絵のように収まるそれを見て、僕はひとつ、溜息をついた。