お題『遊園地』『バックヤード』『触覚』@助野 神楽


 ここはどこだろうか、という一瞬の感覚。
 人の記憶は、パノラマ写真のように連続したものではなく、デジタル時計のような断続的なものなのだと思い当たる。
 目の前では微かな光線が、乱雑な表面の壁に鉄格子のような模様を描いていた。
 他には、闇。
 厳密には違う。いずれ目が慣れるであろう。
 唐突に、昔読んだ小説を思い出した。
 卵のような楕円形の巨大なドームがあって、内面は全て鏡になっている。
 その内部にいる人には、どんな光景が見えるのだろうか。
 更に思い出した、自分には一瞬で答えが分かったのだった。至極、自明なのだ。
 手を伸ばして、周囲を探ったが、岩肌のような壁以外に、感じ取れるものは無い。
 触ってみて分かったが、この壁も正確には岩ではない。洞窟を模するためにそれらしく起伏を付けたようだ。
 それでも、触覚は不自然だ。厚塗りの塗料に覆われている、と子供でも気づくだろう。この中途半端な演出に、意図があるのか……。
 あるいは、一種の騙まし討ち(または、フェイント)を狙ったものなのかもしれない。


 凸凹の多い壁に沿って手探りで進んで暫くして、ほぼ方向を半回転するような曲がり角を経て、急に視界が開けた。
 そこには大きめの、真実の口ほどの大きさの、横穴が開いていた。外からの日差しが入り、明るい。
 横穴の向こうには、白と緑を等量混ぜたような色をした、幾つもの支柱に支えられた線路のような建造物が、斜め上下に伸びていた。微妙に捻じれているようにも見える。
 かなり近い。このまま梯子の要領で、外へ出られるのではないか。
 次の瞬間。
 轟音。
 ドップラー効果を伴う悲鳴。
 点滅。
 音波よりも、むしろ振動。
 風圧。
 存在が強調される静寂。


 現在地をほぼ把握できた。
 岩山の表面を駆け巡るように走るジェットコースターは、敷地の外にさえもその存在感をまるで仙人掌のように誇示していたのだ。
 線路越しに見える景色を見て、再度驚いた。以外と高い。地上が遥か遠くに見える。
 ジェットコースターの線路は大きな岩山のほぼ頂上まで達していたため、錯覚ではないだろう。
 ここまで来る途中、僅かに道が上へ傾いている感覚がしたのを、時間差で実感した。
 つい先程まで暗闇の中を歩いていたため、急な明るさの変化にまだ目が痛い。一先ず目を閉じた。
 風を感じる。
 その時、再び、轟音と悲鳴。
 瞼は完全に閉ざされている。だがそれでも、明るさだけははっきりと感知できる。
 今、目の前を通り過ぎた。
 風圧が強まる。
 不意に、立ち眩みのような感覚に襲われた。前方に倒れそうになる。
 膝を曲げて屈み、左手を地面に付けて対処した。右手は頭を押さえる。目は、開けることができなかった。
 五秒ほど静止していたと思う。僕は一度右手で両目を押さえた後、ゆっくりと目を開いた。
 周囲を見渡して分かったが、どうやら自分は無意識の内に一歩前に進んでいたようだ。
 こういうのを何と言ったか……。ベルヌーイの定理? 否。物理現象ではない。
 立ち上がった。当然ながら、変化が生じているのは自身だけだ。
 僕は再び、横穴の向こうの線路を正面に、ジェットコースターを待った。但し今度は、倒れたりしないよう、壁に手を付いて。
 目を閉じて、聴覚と触覚を研ぎ澄ます。後頭部に意識が集中する。
 ……今、通り過ぎた。風が、自分の形を模るように流れる。音が、周囲を跳ね返り、吸い込まれるように自分に届く。
 視覚の有無でかくも変わるか。電気信号を実感したような気がした。


「あの、ここで何してるんですか?」突然、後ろから声が聞こえた。
 慌てて振り返る。数歩後方に若い女性が一人、こちらを怪訝そうに見ていた。眼鏡を掛け、長い髪を後ろでまとめている。敷地内でよく見かける制服と帽子から、スタッフであることが判る。
 何をしているのか、と訊かれたが、本当に何をしているのだろう。自分でも説明し難い。
「ここは、その、関係者以外立ち入り禁止、なのですが」少し遠慮がちな口調だ。僕は余計に申し訳ないという感情に襲われる。
「いえ、あの、すいません。道を間違えたようです」我ながら拙いだと思う。「直ぐ、戻ります」
 逃げるように来た道を戻ろうとしたが、瞬間、愕然とした。周囲は横穴からの太陽光で明るい。
 往路では気付かなかったが、沿って歩いていた方の反対側には、別れ道がいくつもあった。
 混乱した。果たして今まで、別れ道を進んだだろうか。それすらも曖昧だった。
「ええっと……、僕は、その、何処から来たんでしたっけ……?」
 スタッフの彼女は、何とも味のある表情を浮かべた。


 勿論のこと、帰り道は僅かに下り坂だった。
 彼女の話によると、ここは岩山を模した機材置き場のようだ。
 あらゆる所に地下通路を経由して出入り口があるらしく、一番近い出口まで送るってくれるそうだ。
「お一人で、遊びに来られたんですか?」唐突に訊かれた。
「ああ、はい。一人で」
「家がお近くにあるんですか?」
「いえ、そういうわけでは。普通に電車を乗り継いで」
 考えてみれば、僕は客観的に、いや、主観的でも甚だ怪しい存在だ。前方を歩く彼女もきちんと接客を行っているが、内心では警戒しているのではないか。
「見つかったのが、私で良かったですね」彼女はこちらを振り向き、首を傾げて微笑んだ。ちらっと八重歯が見える。「警備員だったら、今頃詰所に強制連行ですよ」
「ああ……、御尤もです。寛大な措置に感謝します」
「いえ、そういう意味ではなくて」彼女は前を向き直る。「貴方のこと、泥棒かと思ったのです」表情は見えないが、悪戯っぽい表情を想起させた。
「……尚更、意味が分かりませんが」
「私、好きなんですよ」嬉しそうな口調だ。「泥棒が」
 僕は、何も答えられない。


「またのご来場を、お待ちしております」
 出口と思しき扉の前で、彼女は明るい声で言った。
 僕は扉を開けて外へと出た。出ない理由がない。
 急激に差し込む光。
 一瞬、自分が目を開けているかどうか自覚できなかった。