「ねぇねぇ、ピアノの中身で人が殺せるのよ」
私がピアノを弾いていると妹が後ろから声をかけてきた。撮影から帰ってきたところらしい。妹は写真のモデルと、その写真につける文章を書くという趣味とも仕事とも言い難い活動をしている。
「そうね、ピアノ線ね」
振り向かずに私は答えた。たくさんのハンマーがピアノ線を叩き続けている。弦楽器であり打楽器でもあるという、何とも不思議な楽器だ。
「よくあるお話だし現実でもたまにあるじゃない。木と木の間に、ぴーんと張って――今と同じように」
ピアノ線を凶器にするミステリは決して斬新なものではないだろう。しかし雰囲気から察するに、妹は今日初めて知ったらしい。
またあの人が変なことを吹きこんだのだろうか。変な知識ばかり増やさせるのはいい加減やめてほしい。
妹の写真を撮っている人は、駆け出しの写真家だ。一度だけ会ったことがあるけれど、何というか、つかみどころのない人だった。とにかく写真が好きで、被写体として妹が好きらしいということはわかった。あの人の撮った妹の写真を、嫌がる妹をなだめすかして一度だけ見せてもらったのだけれど、今まではただ痩せて背が高いだけのごくごく平凡な女の子だと思っていた妹が、写真の中ではまるで機能性を追求した道具のようにスタイリッシュな姿でそこに映っていた。
強いて具体的に言い表すなら、誰かの命を狩るために張り詰められた、一本のピアノ線のように。
それを見た時、私はあの人を見直したものだ。とにかく、凄い。そう思わせてくれただけで充分だった。
それでも、とにかく妹に変な知識を教えるのはやめてほしいのだ。
「ええ。だから、日が沈んでから括りに行きましょうよ」
ほら、また変なことを言い始める。
私の妹は常識が無いというか、とにかく発想が荒唐無稽だった。頭が良いのをこじらせてしまったのかもしれない。まるで現実と空想の区別がついていないみたいだった。
「捕まるからダメ。首無しライダー事件の犯人になっちゃうじゃない」
ため息交じりでピアノを弾き続ける。楽譜は覚えているから、漠然と前を見ながら弾き続ける。すると妹が悩みながら私の視界に歩み入ってきた。
「じゃあ……じゃあ、それなら、首無しライダーならぬトマト缶ライダーを用意しましょう」
「トマト缶?」
私の頭にこの前買ったトマトの水煮缶が浮かんだ。トマトは私も妹も好きだし、安かったから買っておいたのだ。ピアノを弾く指が止まった。妹は興奮したように話を続ける。
「頭がトマト缶のライダーよ! その人がすごい速さで私たちがいたずらした道を通ったなら、きっとうまくいくわ!」
「でも、そんなことをしたらその人は死んでしまうわ」
「大丈夫、缶は開けられるためにあるんだもの。使命を果たせたならきっと幸せよ」
大体の物は存在している以上何かしらの役目がある。役目が果たせたならそれから存在を保てなくても確かに問題はないだろう。きっとライダーも、頭が缶である以上は開けられて食べられないといけないのだ。
うまくいく以前にトマト缶ライダーなんていないのだけれど、切断面から鮮血の代わりにトマトが噴き出す様はなんとなく見たいような気もした。
いや、全く、全くダメだ。最近この子に毒されてきてる。
「うーん……でもライダーは走り続けたいかもしれないわ。だから頭がトマト缶でもダメなのよ。代わりにトマト缶で何か料理してあげる」
ピアノの蓋を下ろして譜面を片付ける。妹がピアノにカバーをかぶせてくれた。顔があまり見えなくても喜んでいるのが分かる。
昔からこの子は私の作る料理が大好きだった。ひょっとして最初から、私のトマト缶料理が食べたかったのかしら。
「ありがとう!」
そう言って笑う妹はやっぱりごくごく平凡だ。あの写真の中の、触れば切れそうな鋭い雰囲気は写真家の見せる幻なのだろうか。
それともそうしたこの子を、私が見ていないだけなのだろうか。
「缶はあなたが開けてね。私、缶切りは苦手だから」
「いいけど、珍しいわね? 私に頼むなんて」
ピアノの片づけを終えて部屋の電気を消す。薄暗くなった部屋の中で私は一瞬だけ考えた。
「うーん……ピアノ線の代わりかしら?」
夕食のトマト缶を開けること。ピアノ線の新しいお役目だ。