お題『時計』『懐中電灯』『地下街』@助野 神楽


 壁はコンクリートの打ち放しで、スペーサの跡が格子点のように見える。部屋全体は単調な直方体で、奥行きはあるのにも関わらず、圧迫感が多方向から感じられた。
 後方には、当然だが自分が入って来た扉。そして私から見て対辺の壁に同じような扉があった。
 足を進めてみる。足音が殆ど聞こえない。恐らく特別な素材が床に使われているのだろう。尤も、音の逃げ場のないこんな部屋においては、当然の処置かもしれない。
 鍵は掛かっていなかった、と言うより、鍵穴も閂も存在しない。軋む音など微塵も聞こえなかった。
 先には、また同じような部屋。否、今度は左右両面に扉がある。
 ……やはり先刻から圧迫感のようなものを感じる。言葉では巧く説明できない。まるで上から下へと吹いている風を浴びているような、あるいはこの部屋が頭上遥か上にある点を中心に回転運動しているがために生じる遠心力のような、そんな感覚。
 左側の扉を開ける。これは私が左利きだから、などでは決してない。
 何も置かれてはいなかった。平素な空間、そして今までの部屋よりずっと暗い。懐中電灯を持ってきたのは正解だった。
 どうやら今までの部屋では、こちらから見えない位置に蛍光灯が据え付けられていたようだが、この部屋の照明は背の高い電気スタンド、そして多分、部屋の隅に転がっている燭台だろう。
 床には白い、まるで石灰のような粉状のものが散りばめられており、所々顔料のようなもので色付いていた。微かに匂いもする。
 当たりと見做して問題ないだろう。ここが彼の仕事場だ。


 彼は若くして一世を風靡した芸術家であったが、三十年以上前から姿をくらまし、行方が杳として知れなかった。突然のことで、当時は多くの勝手な憶測が行き交ったのだが、最も有力だったのはどこか人目に付かないところに逼塞して、一人作品を手掛けているのではないか、というものだった。
 しかしそれも最近までのこと、というのも、彼の訃報が伝えられたのだ。零に何を掛けても零であるかのように、仮説は最早意味を成さない。
 伝えたのは、彼の弟だった。享年六十四歳とのこと。
 どうやら最有力説が的を得ていたようで、数多くのまだ日の目を見ていない作品の存在が明らかとなり、芸術界はその話題で持ち切り、というのは私にこの情報を教えてくれた友人の弁だ。


 隠れ家、という目的としては最適だろう。
 ここは地下街の僻地であり、警官すら立ち寄らないような場所だ。
 ……どうやら、自警策があったようだが、まあ良しとしよう。
 懐中電灯でよく見ると、この部屋だけかなり奥行きがある。まるで電車の車両のように細長い形状をしている。洞窟と形容した方が適切かもしれない。周囲の壁や天井は直線的でも、そんな想像をさせる。
 中央辺りに、大型の手動リフトが鎮座していた。これで作品を運ぶのだろう。
 ふと、自分がこれに何か芸術作品を乗せて移動させている場面を想像してみた。思わず吹き出しそうになる。雪だるまが動いて走っているような、どこかちぐはぐした景色になってしまう。
 芸術家にとっては日常かもしれない。にも関わらず可笑しく思えてしまうのは、こちらのソフト的な問題だろう。
 否、ハードの方かもしれない。それも自然にインストールを行う、既成的な。
 直ぐに行き止まりとなった。
 床には相変わらず白い砂状のものが散りばめられてある。これでは靴底に付き、目立つ足跡ができてしまうだろう。どこかで拭き取らねばならない。


 足元に気を付けながら、仕事場と思しき部屋から出る。一旦懐中電灯の電源を切った。
 今度は反対側の、つまりさっきとは別の扉を開ける。
 どうやら居住スペースのようだ。普通に椅子や机があってほっとする。
 仕事柄、他人の家をよく訪問するが、ここまで生活感がない空間は珍しい。
 ごく普通のワンルームマンションのように、簡単な流し台や調度品があるが、その中でも目を引いたのは、壁の半面ほどの大きさを持つ本棚だった。
 嘗て仕舞われていたであろう本が、一冊も無かった。
 本棚一段の高さは結構高い、恐らく、写真集のようなものが入るのだろう。
 私は周辺をよく観察してみた。
 棚の中だけ埃の層が薄い。即ち最近片付けでもしたのだろう、と推測できる。
 ふと、気付いた。
 この本棚、微妙に傾いている。上部の方が少し前に出ていた。
 しゃがんでみると、本棚と壁の間に何か挟まっているのが分かった。どうやら備え付けというわけではないらしい。
 空の本棚ほど、運び甲斐のあるものを私は他に知らない。案の定、何かが床に落ちる音が聞こえた。
 それは、一冊のスケッチブック。ごく普通に市販されているものだ。
 埃を払って、開く。
 デッサンと思しき鉛筆による絵が数十枚、だが最後のページだけは、異彩を放っている。
 十字架に、顔が真っ黒な男が掲げられていた。当然だが表情は図りようがない。クリスチャンに見せた場合、感想は絶賛と非難に二極化することだろう。
 教会の天井画のように、キリストを模しているのだろう、男の両手と足、さらにはオリジナリティの表れか、左胸にも、かなり強調されて描かれた杭が刺さっていた。
 私には、思い付くことがあった。
 どこか、ものを捨てる場所がある筈だ。
 部屋はそう広くない。流し台の横に直ぐに見つかった。
 壁に備え付けられた、ダストシュート。
 どこへ続いているのだろう。子供の頃ならば色々な想像を巡らせ、心ときめかせたであろう。
 マンションのポストのような鉄製の扉を開ける。
 そう深くはない。懐中電灯で照らす。
 殆どが段ボールやビニール袋といった包装物。
 そして、その奥の方に、
「見つけた」


「えぇー、じゃあ結局手ぶらで帰ってきちゃったの?」
 彼女は不満と驚愕を等量混合したような声を上げた。
「手土産でも欲しかったのかい?」
「そりゃあ、そうよぅ。ほら、わたしも芸術家の端くれとして、なんか、こう、探求心が湧いてくるの」意味が読み取れないジェスチャーと共に彼女は言う。この友人は手話の覚えが早いかもしれない。
 彼女は画家の卵を自称しているが、生計を立てるために、所謂夜の仕事をしている。
 故に、着飾った彼女しか知らない私には絵を描いている場面が想像できない。
 だが、彼女が時折手首や手の甲に絵の具を付けていることがその事実の証左であり、また微笑ましくもある。
「それにしてもさあ、あなた、よく見つけられたよねぇ。わたしの話だって、殆ど噂レベルなんだよ」彼女はカクテルを混ぜながら言う。
「別に、この周辺で身を隠せる場所を適当に当たってみたら、偶然一発目に当たりを引いただけさ」
「ふうん、ラッキーね」
 嘘だった。彼女と私では受信する情報の波長帯が大分ずれているだけの話だ。
「わたしも、この目で見てみたい。ねえ、連れてってよ」
「却下する。あんな場所に女の子は連れていけない」
「やっぱり? ああぁ、残念。じゃあ代わりに、頂戴、土産話」
 私は彼女に、飽くまで話せる範囲で詳しく語り始める。
 その最中に、思い出していた。
 あの部屋には、時計が無い。
 窓も通信回線も、外部とのアクセスはあの扉でしか不可能だ。
 あれは遮断か、あるいは媒質か。
 いずれにせよ、その目的は逃避か、あるいは防御か、はてまた抑止か。
 どうであれ、あそこにあるのは、紛れもない洗練だ。修行僧のような心理がそこにはある。
「うーん、凄い。何と言うか、こっちの予想の数段上を行くわね」こちらが話し終わると、溜め息を伴わせて彼女は言う。「ね、また行ってみる気はないの? きっと宝の山だよ、一見そうじゃなくても」
「多分、もう行かない」
「へえ、割りに合わないってわけ」肩を竦められた。
「いいや」私は小声で言った。誰かに聞かせることが目的ではないように。「墓荒らしの趣味は無いんだ」
 我を殺すことこそが、彼にとっての我だったのだろう。


 後日、彼の作品が一か所に纏められ、公開されるとのことで、彼女に連れられて私は足を運んでみた。
 場所はとある百貨店の催事場だった。エレベーターホールにて、主催者である老紳士が挨拶をしている。彼女によると、例の、彼の弟らしい。
 予想通り、立体的な作品が多い。彫刻が顔料で彩られている。絵画と彫刻の融合として斬新な印象を受ける。
 これだけのものを作るには、沢山の工具が必要だろう。私は、見ていないが。
 幾つか作品を見て回って、見覚えのあるものがあった。
 十字架と男の絵だった。正確には絵ではない。女神を表現している人型の彫刻の背中に、まるで刺青のように描かれていた。
 よく見ると、こちらの絵にははっきりと顔がある。
 それは、主催者の彼の顔に、よく似ていた。
 そして、笑顔だった。