お題『汽車』『ワイン』『賭け事』@助野 神楽


 奇妙なほど振動を感じない。
 もしうたた寝でもしてしまえば、起きた時には自分が今どこにいるのか完全に捉え違えることだろう。
 それに加えて、車窓から見える景色は遠くに田園地帯が広がっているだけだ。
 遠くには河が見える。遠目からみればゆるやかな層流ではないかと判断できる。
 高架の上であるせいか、風景もほぼ一定だ。
 汽笛。
 ゆるやかな風。
 緩急。
 変化。
 積分
 人間は変化を感じることに重きを置いているようだ。
 今、汽車は時速およそ160キロメートルで走行している。
 にも関わらず、車窓からの景色さえ見なければ、あるいは目を閉じれば、そのような実感は無い。
 昨日の夕方に駅に出発して以降、線路は平坦なのだ。
 速度も殆ど変化が無い。
 故に、加速度も存在しない。
 慣性の法則からも分かるように、人間が実感できるのは、速度ではなくて加速度なのだ。
 現に、地球は一日かけて自転し、途轍もない速度で回転している筈だが、その意識は微塵もない。天動説を後押しした要素の一つだろうと想像できる。
 これは決して悪い事ではない。つまりは生物全体に有する適応力、ある種の能力と言える。
 似たような現象に、飽きるというものがある。ある状態に慣れ、その変化、あるいは刺激の無さに耐えられなくなる状況だ。
 没頭した状態を、『我を忘れる』と言うが、よく飽きる人は我を忘れたがっているのだろう。


 前の車両に続くドアが開いた。女性が一人、入って来る。
 私が座っている席は扉から近い。乗客は私しかいない。最後尾である食堂車に今の時間、人がいることを意外に思ったのか、少し驚いた表情を見せた。僅かにあどけなさが見える。
 視線がすれ違う。
 一瞬、時間が圧縮される。
 静かだ。
 彼女かこちらへ近づいてくる。
「こちら」右手で対面にあたる椅子を示す。「宜しいかしら?」
「構いませんよ」私は左手で椅子を示す。
 女性はゆっくりと席に座る。黒の袖の無いドレス着て、紺色のストールを長い髪ごと肩にかけていた。真っ白なテーブルクロスとのコントラストが調和している。こういった無意識の内に生じる、まるで水晶の中にある水泡のような美しさが、私は好きだ。どんな宝石よりも映える。ものの価値と言うものはそういうことだと私は認識している。
「本当に宜しいの?」彼女が訊いてくる。「今日見かけた女性と、テーブルに座るだなんて」
「一人ですから」
「あら、そうなの?」
「そういう貴女こそ」私は微笑んで見せた。「素敵な方がいらっしゃるのでは?」
 彼女の左手には、銀色の指輪がしてあった。座ってから、両の瞳が赤いことにも気付いた。
「まあ」戸惑う様子を見せた。「人のプライベートに、土足で足を踏み入れるのね」
「足場が悪ければ、仕方ありません」
 どうやら私のジョークは当たったようだ。一瞬の間の後、口元に手を当てて微笑む。
「一杯、頂けるかしら?」テーブルに置いてあるワインボトルを指して言う。
 私はテーブルに備え付けられた棚からグラスを取り出す。船舶や航空機にも置いてある、揺れにも対応できるものだ。自宅に欲しいと私は前から思っている。
 私と彼女、二つのグラスにワインを注ぐ。
「素晴らしき旅に」
「乾杯」グラスを合わせる。
 口に含む。
 空気が変わる。
 沈黙と静寂は異なる。
「おいしい」彼女は言う。「どうして人と飲むお酒って、こうもおいしいのかしら」
「そこに本質があるのでしょう」
「そうでない人もいますわ」
「ええ、勿論」
 その時私は、彼女の耳にピアスがつけられていることに気付いた。サイコロを短い糸で釣ったような形をしている。
「変わったピアスですね」私は率直に訊いてみる。
 彼女は自分の耳に触れる。
「どちらで手に入れたのでしょうか」
「女性にプレゼントするんですか?」
「さあ、どうでしょう」
「残念ですが、知らないんです」彼女は景色の方を見て言う。「彼に貰ったものですから」
「そうでしたか」
「彼、ギャンブルが好きなんです」目線は外に向けられたままだ。「どうして男の人って、賭け事が好きなんでしょうね」
「男性の私に訊きますか?」
「あら、答えて下さるの?」
「おそらく、脳梁があるか、ないかでしょう」
脳梁?」
「右脳と左脳をつなぐ部分のことです。女性の方が大きく、両方の切り替えが早いのです」
「それで?」
「会話するときに、男性は左脳にある言語中枢だけを使います。対して女性は様々な部分を使っています。女性の方が一度に複数人と会話できるのはそのためと言われています」彼女は頷くだけだ。「そのために男性の方が論理的思考に有利、というかそれに拘泥してしまいます」
「口喧嘩で男性の方が早く参ってしまうのは、そのため?」
「回転が早いですね」私は素直に関心する。
「賭け事にはまってしまうのも、切り替えが遅いからなのね?」
「そうかもしれません。あくまで傾向の話ですが」
 彼女はそこでうつむき、笑いだす。
「おかしいですか?」
「ええ。――貴方のお話じゃあなくて、貴方自身が」
「ほう」
 生物学的な答えはお望みではなかっただろうか?
「女性と対面で、お酒を飲み合っているときに、こんなお話をする男の人なんて、他にいませんよ」テーブルに肘を付き、両手の上に顔を置いて言う。「それとも、酔っていらっしゃるのかしら?」
「まだ、二杯目ですよ。友人からは理屈屋のレッテルを貼られています」
「……ねえ、何か私と賭けをしません?」
「賭け、ですか」
「ええ。――そうだわ」
 彼女は右耳に付けられていたピアスを外す。
「このサイコロを使うの」
「ルールは?」
「私、ギャンブルには詳しくないの。何か考えて下さらない?」
「そもそも、何を賭ける、と?」
「そうね。じゃあ、これを」彼女はハンドバックからワインの瓶を取り出した。
「上物ですね」
「彼の鞄から持ってきたの。無断で。貴方に会わなければ、ここで一人、これを飲んでいたわ」
「私が負けたら?」
「貴方のそのワインを頂くわ。どうかしら?」
「これ、飲みかけですが」
「いいの。貴方の目の前で、一人で全部飲んで見せるから」
 私は最後の言葉に少し当惑した。目の前の女性は、ただ旅行中に恋人と喧嘩して若干無鉄砲になっているだけなのかと思った。このような躁状態にある人を、私は何人も見てきた。
 さて、どうしたものか。
 決意か、無謀か、私には判断できない。
「では、私がこのサイコロを振って」彼女のピアスを受け取る。「三回連続で出る目を当てられたら、私の勝ちです」
「私に有利過ぎない?」彼女は不満そうな表情を浮かべる。
「ポーカーにおいて私は、今まで一度も負けたことがありません」
「嘘?」
「いいえ」
「信じられない」
ブラックジャックならば、そうかもしれない。しかしポーカーならば可能なんですよ」
「ふうん」口角を上げて笑っている。
「先ずは、1」
 右手を振る、サイコロは彼女のグラスに当たって止まる。
 出た目は、1。
 再び手に取る。
「次に、1」
「また?」
「ええ」
 加速度でサイコロを放る。ピアスの金具と糸があるため、あまり転がらない。
 1の目を上に、静止する。
 顔を上げると、彼女と目が合う。タイミングを合わせたように、同時に微笑む。
「凄い」
「勝負運の賜物です」
「最後は?」
「1。所で、一つ訊いても?」
「いいわ」
「何故、こんなことを?」
「賭け事の気分を味わうため」
「本音は?」
 彼女は、口を閉じる。
 私も沈黙する。
 これは、静寂だ。
「……きっかけが、欲しいの」一分ほどして、答える。「絶対的は不幸と幸運は、バランスのとれたものなのだと、思うの。ううん、信じているの」
 サイコロを振った。力を強く振ったため、転がって行く。
 テーブルの端で止まった。
 彼女は目を瞑っている。
「……どう?」
「ご自分の目で、確認しては?」
 彼女はゆっくりと目を開いた。目線の動きがテーブルの端で止まる。
 上の目は、1。
「私の勝ちです」私はゆっくりと言い放った。
「運が良いのね」
「悔しいですか?」
「ううん、あまり。彼が貴方と勝負したら、もう賭け事なんてやめてしまうかも」
「昔、友人に同じことを言われました」
「じゃあ、これは、貴方のものです」瓶をこちらに差し出す。「なんだか、寿命が伸びた気分」
「それは、良かった」
 一瞬の間。
 これは、沈黙。
「……じゃあ、飲むお酒もなくなった、失礼するわ」彼女は立ち上がって言った。
「宜しければ、この二本とも、一緒に飲みませんか?」
 最後の選択肢を、私は与えた。自分らしくない気遣いだと思った。
「……ありがとう。でも、もういいわ」
 笑顔。純粋に美しいと思った。
 彼女は歩いて行く。
「忘れ物ですよ」私はサイコロのピアスを彼女に差し出した。
「それも、差し上げます。付き合って下さったお礼です」泣き笑いのような表情だ。「じゃあ、……さよなら」
 彼女は来た方と反対方向に歩いて行く。汽車の進行方向と逆方向に。
 扉を開け、出て行く。視界から消えた。
 ここは、最後尾の車両にあたる食堂車だ。彼女が今いるのは、バルコニーだろう。
 私は車窓からの景色に意識を傾けた。空は既に、夕日によるグラデーションを呈している。
 下には、青と黒、そして夕日の橙色の均等な色彩。
 広大な河川の上を走っていた。
「貴女は、賭け事には向いていない」私は一人呟く。「泥棒には、向いているけど」


 夜になって、客室の一つで休んでいると、放送で先ほどの食堂車に呼び出された。乗客全員に向けられての放送である。
 少し危機感が生じたが、幾つかのプランを思い浮かべ、指示に従った。
 食堂車には三十人あまりが集まっていた。規模の大きな汽車ではあるがその実、乗客の数は少ない。
「お時間頂き、申し訳ありません」乗客全員に車掌が告げた。「皆さんにご足労頂いたのは、乗客の方が一人、行方不明になったおそれがあるためです。これよりこの車両全体を捜索致します。そこで念の為、お客様立会いのもと、客室も調べさせて頂きます」
「誰がいなくなったんですか?」私は手を挙げて訊いた。
「女性の方です」車掌は直ぐに答えた。「二十代後半の黒いドレスをお召しになって、婚約者とご一緒に当車両をご利用でした」
 車掌の後ろに、スーツを着た男性が椅子に座っていた。顔を両手で覆って、憔悴としている。彼がその婚約者だろう。
 程なくして、車両全体の捜索が始まる。先頭車両の乗客から客室捜索の立会いのために呼び出される。
「大丈夫ですか?」私は婚約者の男性の元へ近づき、話しかけた。
 彼はゆっくりと顔を上げる。「……ええ、ありがとうございます」
「いなくなった、とは?」
「四時間ほど前でしょうか」彼は懐から懐中時計を取り出す。金色で、表面に宝石で十字が模られている。「部屋を飛び出して以降、姿が見えないんです」
「どんな方ですか? 何か特徴は」
「そうですね……。ああ、以前、プレゼントした、ダイスの形のピアスをつけています」
「ダイス、ですか。珍しいですね」認識の違いを認識。
「あと、そうだ、荷物からワインが一本なくなっているんです。多分、彼女が持って行ったんだと思いますが……」
「でしたら、どこかで酔いつぶれているのかもしれませんね」
 少し冗談めかして言った。少し茶化してしまうのが私の悪い癖だ。残念ながら彼は表情を変えない。
「……喧嘩を」少し間を置いて、彼は言う。
「はい?」
「喧嘩をしたんです。ほんの些細なきっかけで」
「それで、飛び出したんですか?」
「はい。……全く、何がどうなっているんだ」
 捜索は一時間足らずで終わったが、見つからなかったという結論を車掌は告げた。
「そんな筈はない! もう一度探してくれ!」彼は車掌に詰め寄って言う。私は彼の肩を押さえて宥めた。
「ですが、間違いありません。全ての客室、スタッフルーム、機関室、厨房や冷凍庫に至るまで徹底的に調べました」
「それならば、まさか! 列車から落ちたのか?」彼は椅子に腰を落とし、頭を押さえた。否定したかった最悪の可能性だろう。彼はプログラマーには向いていない。そんな場違いなことを私は思い付いた。
「その前に、一つ伺いたい」車掌は彼を見下ろして言う。「貴方は本当に、その婚約者の方とご乗車したのですか?」
「どういうことだ?」彼は顔を上げて言う。
「失礼を承知で質問しております。駅に確認したのですが、ご乗車したお客様は全部で三十二名。そして」車掌は食堂車のテーブルに座っている乗客全員を見渡して続ける。「今この車両にいるお客様も全員で三十二名、いらっしゃるのです」
 彼は茫然と、後ろにいる他の乗客の方を向いた。全員が彼に注目している。
「このことも、絶対に間違いはありません。駅員のカウンターの数や乗車券の半券などがそれを裏付けています。正直申し上げますと、貴方の発言を疑わざるを得ません」
 その言葉に、彼は更に顔色を悪くし、椅子に崩れ落ちるように座った。
「明日の午前十時には駅に到着します。念の為警察に通報致しました。捜索は到着後、そちらに任せようと思います」
「……そんな、筈は……。彼女は、何処へ……?」
「他のお客様のお帰りを許可しても、宜しいですね?」
 彼は何も言えず、ただ顔を伏せていた。


 風が強い。空気の存在を実感する。
 深夜、私は最後尾のバルコニーに立っていた。
 懐中時計で時刻を確認した。零時十分。
 表面の装飾が、綺麗だ、と思う。十字架の形。彼のものだ。
 あと五分ほどで、汽車は河川の上にさしかかる筈だ。
 水深はとても深い。そのために利用できる。
 彼女も、そう思ったのだろうか。
 映画の影響だろうか。それとも、本当に賭け事をしてみたかったのかもしれない。
 ポケットに手を入れ、中からピアスを取り出す。サイコロのピアス。今は6の目が上になっている。
 あの後彼女は、ここから河に向かって飛び降りたのだろう。
 死にたかったのだろうか? あるいは、逃避か。
 もしかしたら岸にぶつかってしまうかもしれない、あるいは溺れてしまうかもしれない。そのような可能性は思い付いた筈だが、私は奇しくも、そんな無鉄砲な賭けの後押しをしてしまったのだろうか?
 とにかく、その瞬間、この汽車の乗客は一人減った。
 その後、汽車の貨物の一つとして乗り込んでいた私が、その穴を埋めてしまった。
 彼はさぞ困惑していることだろう。少々気の毒だが、まあ仕方あるまい。元々は彼が撒いた種なのだろうから。
 私はサイコロのピアスを、バルコニーの床に落とす。
 明日、駅に待機している警察、あるいは彼がこれを見つけるだろう。その頃には、乗客が一人足りない筈だ。
 河川が見えてきた、私はバルコニーの柵に足を掛けた。
 我ながら余計なことだとは思う。少し不思議な精神だ。
 私は、一気に飛び降りる。
 余計なものは盗まない方がよい、というのが私の経験則だ。
 私は泥棒だが、彼女の存在まで盗むつもりはない。