お題「花火」「シャワー」「延滞金」@古川砅

 これは時間旅行が今ほど規制されていなかったころの話なのだけれど、夏が暮れると、僕は決まって2012年の8月に飛んでいたんだ。

 向こうに着くと僕はまず、都心近くで日雇い労働を転々とする。4,5万円ほど稼いだら、朝一番に駅に向かって、なるべく遠くに行ける、できるだけ安い切符を買うんだ。客もまばらな電車に揺られて、街並みだとか山だとかそういうものをぼんやり眺めてさ。途中で休憩なんかも挟みながら、適当な町をひとつ、一日かけて見繕って、それからそこに一週間だけ泊まることにしていたんだ。丸一日ホテルのベッドで寝過ごしたり、外に出て、雲とか犬とかを見ながら煙草をくゆらせたり、そうして一週間を過ごしたら、さっさと宿を引き払って、そのまま元の時間にまっすぐ帰る。お世辞にも意義や生産性のある趣味とは言えなかったけれど、そのころの僕にとってはそれが最高のバカンス、あるいはひとつの逃避だったんだよ。

 どうして21世紀の初めなんて半端な時間を選んだかって? たしかにあそこは文化の進みも遅れもバラバラだから、あまり観光には向いていないね。当時もあの時代をわざわざ旅先に選ぶ人はほとんどいなかったように思う。けれど、なんと言ったものかな、僕はそういう、一般的にはあまり見向きされない物事に、ひどく愛着を抱きがちなんだ。打ち捨てられた標識だとかピンボケしたスナップ写真だとか、まあいいや。とにかく、あの時代の雰囲気は、そういう、僕のごく個人的な趣味に上手く合致していた。

 あれは5回目の旅行だったかな。そのとき僕が選んだのは都会とも田舎ともつかない山あいの町で、2階建ての小さなホテルに泊まっていたんだけど、3日目の夜に突然お湯が出なくなってさ。シャワーで頭を洗っていたところに突然冷や水を被せられたものだから、ひどく驚いたよ。それもシャンプーすら泡立てていない前洗いの途中だったから――そうそう、言い忘れていたけれど、僕には自分の髪を丹念に洗う癖があるんだ。別に長髪というわけでもないけれど、そうしないと落ち着かないんだよ。それで、最悪な気分でフロントに電話をかけたら、応対に出た人は給湯器が壊れたって言うんだ。僕は「それなら部屋を替えてほしい」と頼んでみたんだけど、生憎その日は満室でさ。どうやら、ホテルからそう遠くない川辺で花火大会があるらしかったんだよ。

「シャワーが直るまでどれだけかかりますか?」
「うーん、2時間くらいかしら。いや、お兄さん、ほんとにごめんなさいね」
「いいですよ。じゃあ俺、しばらく出てますから」

 ホテルの外は、ひどく暑かった。それと、花火の音が夜空に響くのは聞こえたんだけど、音が聞こえてくるだけで肝心の花火そのものは見えなかったんだ。けれどまあ僕は、特別、花火を見たいわけでもなかった。駐車場のわきに喫煙スペースがあったから、そこのベンチに座って、マッチで煙草に火を点けて、焚き火にも似た花火の音を聞きながら、煙草のけむりがゆらゆら漂うのを眺めてたんだよ。そしたらホテルの入り口から、一人の女が飛び出してきてさ。僕と同年代に見えたから、二十歳すぎくらいかな。遠目にもだいぶ出来上がっているのがわかったよ。なぜか白いコンビニ袋を提げて、チューハイの缶を両手に一本ずつ握っていたそいつは、きょろきょろ辺りを見回して、その途中で僕と一瞬目が合ったんだけど、男にしろ、女にしろ、酔っ払いなんかに絡まれたらろくなことにならないだろう? 僕はそのまま無視を決め込んだんだけど、向こうはずんずんこっちに向かってきてさ。「さあ! 飲もう!」なんて、僕に缶を突き付けてきたんだ。僕も機嫌が悪かったからぞんざいになってついつい返事をしてしまった。

「さあ! 飲もう!」
「あー、人違いじゃないか?」
「はあ〜〜〜!? 一人者なんかじゃないし〜〜〜! あんな奴なんかもうほんとにどうでもいいしもうくたばれって思ってるしあんな奴なんかもうほんとにどうでもいいけど、私はあんな奴よりもっといい男見つけるからつよい! さあ! 飲め!」
「なんだ、彼氏に振られたのか」
「ちょっ。違うし、そういうのやめてよ。酔い冷めるじゃん」
「望むところだろ。じゃあな。俺用事あるから」
「嘘。ぜーったい嘘。さっきまでそこの窓から見てたけど、あんた全然暇そうだったじゃん。どうせあんたもあれでしょ? 花火見に行く一週間くらい前に彼女と別れて、無駄に広い二人部屋に独りさみしく泊まってるんでしょ? で、いたたまれなくなって外に煙草吸いに来たんだ。うわ、せせこまし〜〜〜、かわいそう〜〜〜」
「分かったから八つ当たりを止めろ。じゃあ俺は行くから。やけ酒も大概にしろよ」
「あんた、ほんとに冷めるわ……。はあぁぁーあ。タイムマシンでもあればなあ」
「なんだ。やっぱり未練があるんじゃないか」
「そうじゃなくて、延滞金」
「延滞金?」
「そ。先月アメリってDVDを借りたんだけど、あいつ、『俺も見たいからちょっと貸して。あとで俺が返しとく』とか言ってたのにそのまま忘れてたらしくて。一昨日の朝、『ごめん』って郵送で送ってきやがったわ。計算したら2万くらいになってた。ふざけんな」
「散々だな」
「あいつはもうムリだからどうでもいいけど、やっぱり延滞金はどうにかしたいじゃん? だからタイムマシン」
「水を差して悪いが、過去を多少いじったところで今はまったく変わらないぞ」
「は? ぷふっ、何それ。物知り博士?」
「川の流れを変えても、行った水は戻らないだろ? 時間というものも大体それと似たようなものなんだ。ゆく河の流れは絶えずして、ってやつさ」
「ふーん。あー、もしかしてあんた慰めてくれてる?」
「どうしてそうなるんだよ」
「はいはい、ありがとね。お礼にこれ飲んで。つーか飲め。買い過ぎで余ってるから」

 その後、僕たちは、缶チューハイを10本ほど空けたあと、どういうわけか夜道を練り歩いて、人気のないだだっぴろい空き地を見つけると、何を思ったのか、手持ち花火を買えるだけ買い込んで、それで散々遊び明かしたらしい。翌朝空き地で目覚めると、花火の残骸がバケツの中にまとめられていた。ひどい二日酔いで、ろくに昨晩の記憶もなかったんだけど、彼女が火花を散らしてはしゃぐ姿が、夜の暑さを泳いでいるみたいで、それだけはやけに覚えていたんだ。遠い時間で起きたことだし、僕にとってももう何年も前のことだから、だからどうということもないんだけれどね。まあ、それだけの話だよ。