ただ そんなふうに
破れた景色も 曇り空も
ただじっとそこにあるだけ
最後に震わせた弦をミュートする。和音の余韻が消えるか消えないかのところで、一礼する。十畳くらいの会場は拍手に塗り替えられる。
アンコールは、一曲。なんとなくそう決めている。さらにもう一曲を求められたならばそれに従うのだけれど、いつのまにか、求められることも無くなってしまった。
舞台袖ではいつも、ゆるやかな笑顔をしたスタッフの女性がいて、お客の拍手に紛れるように、僕に拍手を送ってくれる。ありがとうございますと言いギターを片付けていると、奥からマスターが現れる。その手にはいつも、ぬるい水の入ったグラスが握られている。
「今日のアンコールは、久しぶりですね」
「ええ、久々に、歌いたくなって」
「ここで歌い始めたころは、よく歌ってたと思うんですけど」
暗い通路の立ち話。いつもと変わらない時間。二十分でも、三十分でも、彼とは話が弾む。まるで数十年来の友達と街で出くわしたかのように。
そうして、帰りがけ、鞄から紙袋を取り出す。
「そういえば、これをご子息に。つまらないものですが」
「ああ、ありがとうございます。これは……」
「うちにあった、レコードです。このまえ飲んでいたとき、お薦めの曲を訊かれまして」
「いやあ、失礼しました。息子がそんなことを」
「いえいえ。僕だっていつも、やりたいようにさせてもらってますし」
マスターの息子は、いずれ医者になるものだとばかり思っていた。勉強熱心で、医学部へ行ったとも聞いた。それが数年前、全てをやめて家業を継ぐことにしたのだ。
実際のところ、(息子が店に立つようになってから聞いたのだけれど、)成績が優秀だっただけに教師から目をかけられて、お前は医学部へ行けと言われたに過ぎないらしい。成績の良くなかった僕には、想像の及ばない話だった。
「ありがとうございます、渡しておきます」
「ええ。お願いします」
明日もまた、会場へと向かう道の途中、どっちつかずの薄暗い空の下で、何を歌おうか考えているのだと思う。
やりたいことだけ。なるべくなら、そうやって生きていたい。人生のアンコールは一度だって無いのだから。