お題「病院」「アイスクリーム」「実験」@助野神楽

 どちらが北だっただろうか。一瞬、そんなことを思いついた。
 きっかけは分からない。脈絡も秩序もないのが思考である。
 さらに考えを進めてみた。
 ここの病院のエントランスは北西を向いている。つまり歩く方向は南東。
 右手にあるエレベーター乗って、五階で降りる。いや、階数はどうでもいい。
 受付を済ませてまっすく進む。右に曲がる。さらに右に曲がる。違う。この時は緩やかな曲がり角。ここは傾き四十五度と近似して考えよう。
 病室の前に着く。左側のドアを開ける。つまり北は――
「ねえってば、どうしたの? さっきからぼーっとして」
 北の方を向くと、彼女と目が合った。
「ああ、ごめんよ。ちょっと考え事」僕は慌てて取り繕う。
「ふうん、そう。でも今は頭より手を動かしてほしいな。ほら」
 彼女は口を開ける。親鳥に餌をねだる雛鳥のようだ。
 何のことかと一瞬分からなかったが、ほんの一瞬だけだった。僕は手にもっていたアイスクリームをスプーンですくい取り、ベットに寝て上半身を起こしている彼女の口に入れる。
 彼女がアイスクリームを味わって飲み込み、再び口を開ける。僕は再び彼女に食べさせる。さっきからその繰り返しだ。
 しかも時間的に等間隔だから退屈して、つい別のことを考えてしまう僕なのだった。


「ねえねえ、鶏が先か卵が先か、って言うでしょう?」
「言わないね」
 アイスクリームを食べ終えた所で不意に訊かれたため、即座に答えた。
「あれ、言わないの? ……あれ、何か間違えた、わたし?」
「ああいや、そういう言い回しは存在する。でも僕個人は使わないって意味」
「まぎらわしいことを……。で、鶏が先か卵が先か、って言う、じゃない、言い回し、あるでしょう?」
「あるね」
「あれってさ、絶対に料理中の奥さんが初めに言ったんだと思うんだ。だって卵に触れる機会が多い人なんて、養鶏所の人を除けば奥さんしかいないし」
「料理中だったら、コックさんはどうなのかな」僕は彼女の相変わらず奇妙な持論に付き合うことにした。
「駄目だよ。コックさんは厨房で大忙しなんだから、いちいちそんな余計なこと考えてる暇なんかないって」
 よく分からない反論をされた。
「あと、養鶏所の人もやっぱり考えないと思う」
「どうして?」
「だって、ずうっと鶏が卵を産むところを見て、しかもそれで生計を建てているんだよ。自分の仕事が、下手したら根底から揺らいでしまうような疑問は思いつかないって」
「ははあ」生返事である。


「あれ、もうこんな時間だ」彼女は時計を見て言う。
「本当だね。そろそろ行く?」
 僕は頷いた彼女を車椅子に乗せ、押して歩く。そのまま病院を出て、車に乗る。
 シートを外してある助手席の位置に車椅子を固定してシートベルト締め、発進した。
 程なくして、市民ホールの駐車場に車を停め、中に入る。大ホールで行われるイベントに参加するためだった。
 会場には既に多くの人がパイプ椅子に座っていて、殆ど満員だ。百人くらいだろうか。
 僕は端の方の椅子に座る。彼女はその隣に車椅子をつけた。
 そして、五分ほどで、奥の壇上に人が出てきた。刹那、あちこちで途切れなかった話し声が全て治まった。
「皆さん。本日はご足労ありがとうございます。今日は一つ、実験をしながらお話をさせて頂きます」
 白衣を着た、背の高い初老の男性だった。マイクを使っている訳でもないのに、声がよく通る。
 男性が話し始めたところで、上手袖から若い男性がテーブルを押して歩いてきた。キャスターのついたテーブルで、ビーカーや薬瓶、スポイトなんかも置いてあった。若い男性はそれを舞台の中央まで運ぶと、下手の袖に歩いて行った。
「まずこちらの瓶をご覧下さい。ラベルになんて書いてあるか見えますか? まあ皆さんの位置からは見えないでしょう。これは酢酸です。ええ、つまりお酢ですね。誰もが知っている調味料のお酢です。まあこれはとっても濃いお酢なので、ていうか酢酸なので、舐めちゃだめですよ。これをこのシャーレに少し注ぎます」
 彼はスポイトでお酢をシャーレに注いだ。
 それにしても、さっきからあの男性、つまらないというかジョークにもなっていないようなことを織り交ぜて喋っているのに、観客が結構笑っているのが驚きだ。横を見ると、彼女は笑っていないので少し安心する。
「次にこちら、これはアンモニアです。はい、臭いのきついあれです。これもちょっとだけとって、さきほどのシャーレに注いでみましょう」
 さっきとは別のスポイトを使っている。薬品を変えるごとに洗うかスポイトそのものを変えるのが普通なので少し安心する。
「はい、注ぎました。今このシャーレでは酢酸とアンモニアがまぜられているんですね。もう察しのついていらっしゃる方もいるのでは? そうこれは中和反応の実験です。酸性の酢酸とアルカリ性アンモニアを混ぜることで中性に、つまり中庸となるんですね。おや、このシャーレ、ほんのりあったかいですね。でもこれでいいんです。これは中和熱といって、わずかに熱が発生しているようですね。私も実験に白熱してきました」
 またも会場が笑い声に包まれる。
「さて、実験はここからが本番です。次に使うのはこの二つ。硫酸と水酸化ナトリウムです」
 彼は先ほどと同じように硫酸をシャーレに入れて、次に水酸化ナトリウムを加えようとしたところで手を止めた。
「よく見ていて下さいね。三、二、一、はい!」
 掛け声とともに大きな音が響いた。周囲が驚きの声に包まれる。彼女も短く悲鳴を上げた。
「びっくりしましたか? 硫酸と水酸化ナトリウムは酸性とアルカリ性がとても強い薬品です。それらが混ざって一気に中和されると、今のようにとても激しい反応が起こります。熱もすごいですよ。ほら、分かります?」
 彼はシャーレを指差す。よく見ると湯気が見えた。
「さて、この実験から分かるのは、酸性とアルカリ性のような二極化される指標、そう例えば左翼と右翼のような、そういったものの両極に近いものが出会ったとしたら、その二つが中和、あるいは和解のような状態になるために、周囲に大きなエネルギーが発生すること。そしてそのエネルギーが周囲に危険を及ぼすかもしれないということなのです」
 このあと話はガラリと変わって、世界各地で起きている内乱や紛争の構図を簡単に説明された。そんな話が一時間以上続き、イベントは終了した。
「……あのさ」
「何かな?」
戦争と平和、ってどっちが先なのかな?」
 僕が彼女を病室に送り届ける道中、車の中で、彼女は僕にいった。
「どういうこと?」
「鶏と卵みたいな感じで、概念って言うの? ほら、戦争の対義語って平和でしょ。この両極の言葉って、どっちが先に生まれたのかな、って思ったんだ」
 僕は考えている、あるいは難しい問題だ、といった意味合いを含む生返事をして、運転する。
 確かに明確なようで考えると深みにはまるような問題だ。だがヒントあるいは足掛かりのようなものはある。
 鶏が先か卵が先かという言い回しを僕は使わない。何故なら答えは明確だからだ。
 どちらでもない、が正解なのだ。