「リンゴ」「ポケットティッシュ」「香水」@間雁透

 僕は呪われている。

「ほら、見て? 途中で切れないように練習したのよ」

 僕一人だけの台所で、僕はピーラーでリンゴを剥く。皮はバラバラになって、シンクに落ちていく。包丁を使わなければ、桂剥きなんて無理だ。僕には一生できそうにない。

「切ったリンゴを薄い塩水に浸けておくとね、茶色くならないのよ」

 皮を剥いたリンゴを、切り分けもせずに、そのまま丸かじりする。一人で食べるのだからこれでいい。ちょっとだけ塩辛い。
 朝食はこれで十分。

 僕は呪われている。
 もう聞こえるはずのない声が聞こえる。


 僕は呪われている。

 身だしなみを整えたら、着替えを手早く済ませる。社会人生活も、もう二年目だ。誰に直されなくとも、ネクタイくらいは自分で締められる。
さて、必要な書類は全て鞄に入れた。もう忘れ物はないはず。
 革靴を履こうとしたところで、靴箱の上、花のない花瓶の隣に目が留まる。
 もちろん何もない。
 あぁ、けれど。
 僕は部屋に戻ると、うっかり忘れかけていたポケットティッシュと新しいハンカチを鞄に入れる。

 僕は呪われている。
 誰も準備をしてくれなくなった今もなお、ありもしないものが見えている。


 僕は呪われている。

 朝の駅、ホームは混んでいる。電車が来るたびに、たくさんの人が降りてきて、たくさんの人が乗り込んで、僕は周囲に抗わないように、流されていく。
 すれ違いざまに、愛しい香り。
 足を止めて、つい振り返る。いるはずのない背中を探してしまう。もちろん周囲は僕を押し流す。僕の足を止めた香りもかき消していく。
 あの香水が何の香りだったのか、結局僕は知らないままだ。けれど、彼女だけのものじゃないことだけは確かだ。なのに、僕は。

 僕は呪われている。
 ふとしたことから、いつかを思い出してしまう。


 僕は呪われている。
 ほら、今だって。
 彼女の言葉の残響が、僕の中を満たしている。
 彼女の想いの残滓が、僕の日々を支えている。
 彼女の存在の残光が、僕の心を惑わせている。
 僕は呪われている。
 呪われたまま、生きていく。