黎明「ジョンバールの分岐点」

       
          (一)

「『ジョンバールの分岐点』という言葉を知っているかな」
 夕暮れの屋上で、七条さんからそんな質問が飛んできた。僕は知らなかったので黙って首を振る。
「半世紀以上も前にアメリカで発表されたSF小説が元になってるんだけどね」
 そう言うと七条さんは屋上の四隅を囲うフェンスにもたれかかる。長い間風雨に曝されてきたフェンスは錆だらけで、強度に問題がありそうなのは誰の目から見ても明らかだった。けれど七条さんは全く気にせずに言葉を紡ぐ。
「その小説ではね、ある出来事がきっかけで、世界が二つに分岐するんだ」
七条さんは僕らに向かって語りかける。けれど、本当に話したい相手は別にいるはずだ。
「ジョンバールとギロンチと呼ばれる二つの世界は、平行世界として存在するんだけど、やがて生存のために戦うことになる」
 だって、僕らの生きる世界はいつも一つだもんね。
 七条さんは小声で呟く。
「まあ、詳しい顛末はその小説を読んでもらうとして、そこから平行世界への分岐点を意味する『ジョンバールの分岐点』というSF用語が生まれたんだ」
 七条さんはここで溜息をついた。
「僕はさ、いつも思うんだ。やっぱりあの秋の夜。あそこが僕の人生における一つの分岐点だったんだろうなって」
 七条さんは僕らから視線を外して、上空を眺める。
「もしあの選択で世界が分岐したのだとしたら、平行世界の僕はどうなっていたかな。幸せだったのかな」
 七条さんは再び僕らの方へ視線を戻した。けれど焦点は僕らの後ろ。そこで初めて、僕は七条さんにも視えているということに気がついた。
「今更こんなことを言うのは卑怯だけど」
七条さんは直視している。自分の罪を。後悔を。罪悪感を。
「悪かった。許してほしい」




          (二)
 
 夏休み明けの学校には、どこか浮ついた雰囲気が漂っている。久しぶりに歩く通学路、しばらく顔を見ていない級友の姿、語らずにはいられない夏休みの楽しい思い出。学校ってこんなに楽しみな場所だったっけ、と思わず肩を叩いて確認したくなるほど、すれ違う生徒の表情はどれも明るい。
 教室の引き戸を開けると、一瞬クラスメイトの視線が集まる。しかし扉の近くにいた数人に朝の挨拶を受けたくらいで、その他大勢は興味を失ったようにそれぞれの会話に戻る。僕は適当に挨拶を返しながら自分の席に着いた。
 五分も経たないうちに担任が入ってきて朝のHRが始まる。と言っても今日は始業式のみ。連絡事項は後回しにして、皆でぞろぞろと体育館へ向かう。校舎同様、体育館に足を踏み入れるのは久方ぶりだったけど、特別何の感慨も湧いてこない。運動部にでも入っていればまた違うのだろうか。僕は校長先生のありがたい話を聞き流しつつそんなことを考える。
 今日は約一カ月ぶりの学校ということで、約一カ月ぶりに早起きをした。その影響だろうか、僕は立ちながらうとうとしてしまったらしく、気が付くと式は終わろうとしていた。マイクを持った学年主任が、何か連絡事項はありますか、と他の先生に確認している。
 すると端に並んでいた先生群から一人抜け出て、マイクを持った。遠目からなので判別しにくいけど、多分、今年赴任してきた英語の若林先生のはず。
「えっと、夏休み中、学校に来ていた生徒は知っていると思いますが、現在、旧校舎を取り壊すために重機が入っています。本来なら夏休み中に終わる予定だったのですが、遅れが出ているため、二学期が始まってしばらくは作業を続ける事になっています。危険なので、生徒は旧校舎に立ち入らないように」
そう言うと、マイクを返して元の位置に戻る若林先生。学年主任が、他に連絡のある方はいませんね、と再確認すると、それが合図となって始業式はお開きとなった。
 
「黒峯君」
始業式の後のLHRも終わり、いそいそと帰り支度をしていると声をかけられた。
「え、ああ、猫宮さん」
 予想外の相手に少し動揺する。別に知らない仲ではないけど、教室で話しかけてくるとは珍しい。
「えっと、ちょっと話があるんだけど」
 少し早口で、どこか気まずそうに喋る猫宮さん。僕はその態度でピンと来た。と言うか、猫宮さんと僕の共通の話題と言えば一つしかない。
「ああ……。また幽霊関連?」

***

 僕と猫宮さんには生まれつきある能力が備わっている。それは一言で言えば『霊を視る能力』である。霊、死者、この世ならざるもの。そんなこの世の法則を無視した、スーパーナチュラル達を僕たちはそれなりの頻度で視る事が出来る。
さらに、単に視るだけじゃなくて、時には会話したり、相手によってはこの世から消えるためのお手伝いをするはめになったりもするのだから、堪ったもんじゃない。
僕はこの能力を秘密にしていた。今までの苦い経験から、他人にいちいち説明するよりもじっと黙っていた方が利口だと言う事を学んでいたからだ。それに世の中には数字に色がついて見えたり、音を聞くと味を感じる人間がいるという。それと比べれば、他人に見えないモノが視えるというこの能力もそう大差ないように感じられた。
もちろん他にも似た体質の人間はいるだろうと思っていた。けど、その大多数は僕と似た結論に達すると考えていたので、知り合える可能性は低いと思っていた。  
だから去年の夏、ふとした偶然から猫宮さんが同じ能力を持っていると知った時は大いに驚いたし、凄く嬉しかった。いくら慣れたとは言え、この感覚を共有できる相手が出来るのは僥倖だった。
しかも彼女の家系はそういった能力が発現しやすいらしく、霊の視える基準、霊に憑かれる条件、そして霊を消す方法と、経験則に依るものだが、ある程度体系だって確立しているのがありがたかった。おかげで僕は霊関連で困った際には猫宮さんを頼り、また逆に助けが必要な場面では馳せ参じるという約束を結ぶことになった。冗談めかして『黒猫ホットライン』と呼んでいる協力関係は、結成以来、それなりの頻度で稼働していた。
とは言っても僕が相談したのは一度きりで、ほとんどは猫宮さんからのヘルプだった。視える力が強いと、それだけ憑かれる可能性も高いのだろう。申し訳なさそうに助けを求める猫宮さんは、もはや恒例となりつつある。

***

「図書館に出る幽霊の話って聞いたことある?」
 あの後、長話になるならと場所を近くの喫茶店に移した僕らは、ボックス席でアイスコーヒーを啜っていた。九月になっても日差しは陰ることなく、秋の気配などどこ吹く風、いまだ圧倒的な熱量を持った夏が気候を支配している。天気の話題を起点にいくつか雑談をして、僕のアイスコーヒーが空になりかけた頃、ようやく猫宮さんが本題に触れた。
「図書館の幽霊?」
 初耳だった。そして幽霊関連だろうという僕の読みは的中したことになる。
「そう、あの図書館に出てくる幽霊」
 僕の通う神部高校は公立で偏差値、校風、授業内容等々特別変わった点は見受けられないが、唯一他に自慢できるのが図書館だった。  
そう、図書室ではなく図書館。
 新校舎と旧校舎の間に立っているそれは、二階建てで蔵書数はそこらの市立図書館に対抗できるくらいあると言う。なんでも地元の名士が二十年前くらいにお金を出して建てたものらしく、神部高校の入学案内のトップを飾るくらいの魅力を持っている。
 その図書館に幽霊か。学校側とすれば折角のアピールポイントに変な噂を立てないで欲しいだろうけど、まあ図書館に幽霊というのは七不思議でもありそうなくらい順当な所だろう。
「聞いたことないな。いつから流れてるの?」
 僕の質問に猫宮さんは首を傾け、
「えっと正確にはわからないけど、たぶん夏休み中かな」
 なるほど。受験生にとって勝負の夏休み。学校に立派な図書館があるとなれば大多数はそこで勉強しようと考えるだろう。つまり利用者はかなり多かったはずだ。それなら噂が発生すればそれなりに伝播するだろう。真偽はともかくとして。
「私は今日クラスの子から聞いたんだけど」
 猫宮さんは占いやおまじないといった神秘系というかオカルト系に造詣が深いというのが周囲の一致した認識なので、学校でそっち系の噂が立てば結構な確率で彼女の耳に入るようになっている。そして、その性格故いちいちその真偽を確かめようとするので、結果として霊関係の面倒事に巻き込まれてしまう傾向にある。
放っておけば良いのにと僕なんかは思うわけだけど、やっぱり気になってしまうらしい。しかも妙に頑固な所もあって、一度気になるときちんとした結論を得るまでは諦めない。今回の用件だって、要約すれば『図書館の幽霊調査に協力して欲しい』になる。そして仮に僕が断ったところで彼女は独りで調べるだろう。そこまで読めてしまう以上、
「この噂の真偽を確かめたいんだけど、良かったら明日の放課後付き合ってくれる?」
 僕は頷くしかないのだった。

          (三)

 翌日の放課後。僕と猫宮さんは一緒に図書館へ向かった。道中、気になっていた質問をぶつけてみる。
「今は放課後なわけだけど、幽霊が出やすい時間帯とかってあるの?」
 隣を歩く猫宮さんは鞄からルーズリーフを一枚取り出す。
「噂についてまとめてみたんだけど」
 僕は受け取って目を通してみる。綺麗な字で情報が箇条書きにされていた。
1.目撃時間はバラバラ
2.場所は図書館の一階。壁際の微積分のコーナー
3.女性。服装は制服。髪型は三つ編み
4.こちらの姿を認めると話しかけてくる。
「思ったよりも具体的な情報が多いね」
 せいぜい『背中に気配を感じた』だとか『本棚の隙間から見られた気がした』だとか、気のせいかもしれないけど何かいる程度だと思っていたのだけど、これだけ具体的だと嫌な予感がしてくる。まるで本当に出るみたいじゃないか。
「けど、逆にこれだけ具体的だと、単純にこの学校の生徒と見間違えたって可能性もあると思う」
 確かに制服を着て図書館にいるのだから、普通に考えれば生徒だと思う。なぜ、幽霊だなんて噂になったんだろう。
 あれこれ考えているうちに、図書館の前まで来ていた。
「まあ、それも視てみればわかるか」
 何も視えなければいいけど。そう小声で付けたすと、僕は猫宮さんに続いて図書館に入った。


流石と言うべきか、館内は冷房が利いていて涼しかった。図書館の一階は向かって右側に貸出カウンター。中央に長机と椅子が並んでいて、それを取り囲むように本棚が配置されている。左手には二階への階段がある。受験生と思しき人が数名、机に向かっているだけで、館内は閑散としていた。猫宮さんはそんな様子に目もくれずルーズリーフ片手に目撃地点へと進んで行く。僕も慌ててついて行った。
「えっと、微積微積……」
 微積コーナーは最奥にあった。窓からの光も、電灯の明かりも十分に届かず、薄暗く妙に湿った印象を受ける。微積なんて受験生必須なのだからもっと目立った場所に置けばいいのに、なんて思ったけど、後で聞いた話によれば微積微積でも大学レベルの図書なのだそうだ。そういう高難易度の教科書は基本的に奥まった場所に並べているらしい。
「……誰もいないね」
 誰か不精な人が片付けるのをサボったのか、床に何冊か本が積まれているだけで、人の気配はなかった。否、猫宮さんが視ているのだから霊の気配もないのだろう。何もいなくてホッとした半面、少し肩すかしを食らった感じもする。
「そうだね。どうやら噂は噂だったみたいだ。帰ろうか」
 僕は振り向いて猫宮さんを説得する。このまま出るまで待とうか、なんて言われて本当に出たらたまらない。しかし猫宮さんの返事を聞く前に、別の声が答えてくれた。
「誰……ですか」
 か細く、可憐な声。けれど僕はそれを聞いて一発で分かってしまった。
 目の前の猫宮さんは僕越しに何もない空間――否、何もなかった空間を凝視している。仕方ないので、僕はゆっくりと振り向いた。
 ほの暗い空間に白いものが浮かび上がっている。もし心の準備が出来ていなかったら声をあげていたかもしれない。良く見ると、それは異様に肌の白い女性であることが分かる。着ているのは制服、髪型は三つ編み。すべて噂通りだった。
「えっと、君は何組の生徒?」
 無駄なあがきと思いつつも一応問うてみる。けれど猫宮さんは僕の体をつつくと、おもむろに『彼女』の足元を指差した。僕はそれを見て絶句する。
誰かが片付け残した本の山。彼女の右足は、それを貫通していた。


「あなた方は、私の姿が見えるのですね」
 僕たちの反応からそう悟ったらしい『彼女』は音もなく近づいてくる。僕たちは固まったままその様子を見守った。いくら霊を見慣れているとは言え、やはり最初の一瞬は緊張する。何せ相手がどんなタイプかまるでわからないのだから。
「ああ良かった」
 僕らの目の前まで来た『彼女』は自分に視線が集まっている事を確認すると、胸の前で両手を合わせた。
「実は、お願いがあるんです」

          (四)

幽霊には存在理由がある。因果律や物理法則といったこの世の常識を打ち破って出現する彼ら彼女らには、言いかえればそれだけのエネルギーを使ってでも達成したい目的があった。伝えたい思いがあった。叶えたい願望があった。それだけのために現世に出現したと言ってもいいくらいだ。
そしてそれらが満たされた時、彼ら彼女らはレゾンデートルを失い、元のあるべき姿に還る。これが僕や猫宮さんが今までの経験から得た結論である。一言で言えば、幽霊を消し去りたいときは、とにかく霊の目的や願いを達成させてあげる事。これがいまだ発現条件のはっきりしない霊に対する、最もスタンダードな消滅法だと思う。
つまりここで『彼女』の願いを聞いてあげる事は、この事態を解決に導く、唯一の方法と言っても過言ではない。というわけで僕と猫宮さんは『彼女』とコミュニケーションを取ることにした。猫宮さんが訊き役で、僕はケータイのメモ帳機能を利用して書記を担当した。

以下、一問一答。
○お名前は?
――榎田小百合
○死因は?
――良く覚えていません。高いところから落ちたような。
○お願いとは?
――ある人を探して欲しいのです。
○もう少し詳しく。
――はい。訪ね人の名前は七条明と言います。年は私と同じで十八歳で、同じクラスです。
○それがあなたの心残り?
 ――はい。私がこうして目覚めたときからその事ばかりが頭に思い浮かびます。どうしても会いたいのです。どうか、よろしくお願い致します。


「さて、どうしようか」
 昨日と同じ喫茶店の同じ席。これまた同じように向かい合った僕と猫宮さんは今後の方針を相談することにした。とは言っても『彼女』、いや榎田さんにあるべき姿に戻ってもらうためには、榎田さんの願いを叶えるのが一番なのは明白だ。なのでどうやったらその七条明なる人物を見つける事が出来るのかが議題となる。
「やっぱり先生に訊くのが一番早いかな」
 猫宮さんが提案する。確かに榎田さんの言葉が正しいのなら、彼女と七條さんは同じ学校に通っているということになる。そして榎田さんが猫宮さんと同じ制服を着ている以上、その学校とは神部高校で間違いないだろう。となれば七條さんのことを知っている先生がいてもおかしくない。
「となると七條さんがいつ卒業したのかが重要だよね」
 猫宮さんが続けて言う。最近ならともかく、昔の卒業生だと知っている先生も限られてくる。そしてこの二人はそれなりに古い卒業生である可能性が高かった。
「そうだね……。そのためには榎田さんがいつ死んだのか、それをはっきりさせるのが一番だと思う」
 何せ二人はクラスメイトなのだから。
僕の言葉に猫宮さんは頷く。
榎田さんは七條さんを同い年だと言った。しかし榎田さんの時は十八で止まっているけれど、七條さんの時間は動き続けている。となれば今現在、何歳なのかは分からないし、最悪死んでいる可能性すら考えられる。けれど榎田さんがいつ死んだのか。それを特定できれば同窓である七條さんの現在も多少は推測できる。少なくとも年齢が分かるし、職員室で先生になんとか頼みこめばある程度の消息は掴めるかもしれない。そこから先、現在の七條さんに会えたとしてどうなるかは榎田さん次第だ。少なくとも会いたいという願いは叶えられる。
「黒峯君はどう思った? 榎田さんの印象」
 氷だけになったコップをストローでつつきながら、猫宮さんが問うてくる。
「そうだなあ」
 僕は目を瞑って榎田さんの姿を思い出す。
「少なくともケータイが普及する以前の人だね、彼女」
 僕の答えに猫宮さんは大きくうなずく。
 
***

幽霊は基本的に死んでからすぐに現れる。そのインターバルは長くても一年。それは猫宮さんが、いや猫宮家が持つ経験則の一つである。やはり心残りを解消するために化けて出るという仮説を採用するなら、死んだ瞬間こそ最も蘇るためのエネルギー値が高く、そこから時間が経つにつれて徐々に減衰していくのではないだろうか。本当のところはどうだか分からないけど、僕はそのようなイメージで納得した。
 だから本来ならもっと簡単に榎田さんの事を調べられるはずだった。しかしそんな僕と猫宮さんの予想は、図書館でのインタビューを終えた直後に潰えることになる。榎田さんがこんな質問をしてきたからだ。
「あの……黒峯さんが先ほどから触っているそれは何なのですか?」
 榎田さんの視点は僕の手中にあるケータイに注がれている。
「何って……ケータイだけど。携帯電話」
「携帯……電話? それ、電話なのですか?」
 目を見開いて驚く榎田さん。僕はそのリアクションを見て単純にオーバーだなあと思ったけれど、猫宮さんは違ったらしく、しばらくその様子を眺めたあと、おもむろに問いかけた。
「もしかして榎田さん。ケータイを見たことがないの?」
 榎田さんは大きく肯定した。

***

さっきから僕らが榎田さんの死をある程度過去のものとして話しているのは、そう言う事情があったからだ。先ほど、ケータイの普及率の推移をケータイで調べてみたところ、大体ここ二十年で浸透してきたようだ。つまり単純に考えるなら、榎田さんの死は二十年以上前のことになる。
自分の年齢以上の時の壁に、僕と猫宮さんは少し戸惑ってしまっていた。
仮に榎田さんを二十年前に死んだ人と仮定するなら、現在の七條さんは三十八歳である。順調に行っているなら高校どころか大学を卒業し、それなりの社会的地位を得ている人物だ。それを高校生二人で探し出せるだろうか。僕らが得ているのは、神部高校の卒業生という情報だけなのに。さらになんとか連絡先を知れたとして、果たして七條さんは僕らと会ってくれるだろうか。というかそもそもなんて頼めば良いのだろう。あなたの二十年来の知り合いが会いたいと言っているのです。誰と聞かれたらどうする。正直に答えたら確実にいたずらだと思われるだろう。
とにかく情報が足りない、と僕らは結論付けた。明日もう一度榎田さんに会って死の詳細を訊こう。
そして職員室へ出向いて、榎田さんと七條さんの事を訊こう。事故か事件かは不明だけど、少なくともうちの高校の生徒が一人死んでいるのだ。覚えている先生は必ずいるだろう。
 僕らは明日の放課後の予定を決めると、喫茶店を後にした。

          (五)

 翌日。夕暮れ時に、僕と猫宮さんが図書館の微積コーナーに足を向けると、待ってましたとばかりに榎田さんが現れた。そして僕ら二人以外に誰もいないのを確認すると、落胆した表情になる。いくらなんでも昨日の今日で七條さんは連れてこれない。
 僕は昨日の結論を簡潔に説明した後、用意していた質問をぶつけた。
「どうして死んだか、ですか」
 小首をかしげる榎田さん。頬に手をあてしばらく考え込む。
「いつ死んだか、とかでもいいんですけど」
 黙り込んでしまった榎田さんは、やがてゆるゆると首を振る。
「ダメです。なんだか記憶が曖昧で、いつ死んだのか、どこで死んだのかはっきりと思い出せません。なんだか高いところから落ちたのは覚えています。そしてそれは嬉しい事だったということも」
「嬉しい事?」
 僕は思わず訊き返す。高い所から落ちたというのがおそらく榎田さんの死因だろう。それなら事故にせよ事件にせよ驚きや怒り、悲しみが残るはずで、嬉しいという感情は全くの予想外だった。
 隣の猫宮さんも少し困惑しているようだ。首を傾げている。
 三人とも考え込んでしまったため、沈黙が場を支配した。しかし考えても良く分からない。ならば分かるところから攻めることにしよう。僕らは、榎田さんにまた後で戻ると告げて、図書館を後にした。  
次は職員室で榎田さんについて訊いてみよう。

 
 職員室の扉を開けると、丁度目の前に塩見先生がいた。好々爺然とした老教師で、この高校での勤務年数は一番か二番じゃないかと生徒の間で噂されている。榎田さんの事は塩見先生に訊こうと思っていただけに、この遭遇はありがたい。さっそく訊いてみることにした。
「あの、塩見先生」
「ん? 黒峯くんに猫宮さん。何か用ですか」
 塩見先生は生徒相手でも丁寧語で話す。
「はい、ええと」
 考えてみれば随分唐突な質問になる。しかし飾る言葉を思いつかなかったので単刀直入に言うことにした。
「あの、榎田小百合という生徒を知っていますか」
「……榎田さん?」
 いつもにこやかな塩見先生の表情がわずかに強張った気がした。
「はい、えっとたぶん二十年以上前に在籍した生徒だと思うのですが」
 猫宮さんが横から補足する。
「ええ、覚えていますよ。ちょうど二十年前ですね。榎田小百合。三年五組でした」
 塩見先生は虚空を見つめて目を細めた。当時を思い出しているのだろう。
「物静かでしたが、色々な事に気がつく生徒でした。あんなことにさえならなければ、立派な社会人になっていたでしょう」
「あんなこと?」
 僕は嫌な予感を覚えつつも老教師に訊き返す。
「ええ、失踪したんですよ」
「失踪?」
 自殺、あるいは事故という解答を予想していただけに驚いた。横目で猫宮さんを見ると衝撃で固まっている。
「そうです。警察にも届けましたし、私たちも学校付近を捜索しました。張り紙だって貼りました。けれど結局榎田さんは見つからず。本当にどこに行ってしまったのでしょう」
 塩見先生はそう説明してくれた。
「せめて親しい友人でもいればよかったんですけどね。彼女は人付き合いが苦手なタイプでしたから、もし悩み事があったとしても誰にも話さなかったでしょうね」
「そうだったんですか」
「そのせいでしょうか。失踪した榎田さんを探そうと呼び掛けてもなかなか人が集まりませんでした。結局最後は私一人で活動していたようなものです」
 三人の間に沈黙が降りる。塩見先生は昔を思い出しているのだろうし、僕と猫宮さんは意外な事実に言葉が出てこなかった。
「で、二人はどうして榎田さんの事を知ろうとしているんですか」
 唐突に、塩見先生が尋ねてくる。
「え?」
 僕はとっさに言葉が出てこない。
「なにせ二十年前の事です。先生方にだって榎田さんの事を知らない人もいるくらいです。それなのになぜ、あなたたちが生まれる前にいた生徒の事を訊いてきたのですか」
 言われてみれば当然の疑問だった。不自然さは隠しようがない。
 けれどだからと言って、いや、ちょっと榎田さんの幽霊が現れまして、なんて答えれるはずがない。
 しどろもどろになる僕を猫宮さんがそっと引っ張る。それを合図に僕らは、失礼しました、と言い残して職員室から逃げ出した。


「危なかった、危なかった」
 昇降口付近まで早足で逃げてきた僕らは思わず顔を見合わせる。
「良く考えれば二十年も前の生徒のことを尋ねるなんて怪しいにもほどがある」
 僕の言葉に猫宮さんは苦笑する。
「うん。これで職員室に行けなくなっちゃったね」
「まあ、けど、一応収穫はあったかな」
 失踪という単語。これは今後にどういった影響を及ぼすのだろうか。
「でも肝心の七條さんの事を訊けなかった」
 そうだ、とにかく塩見先生のおかげで榎田さんは今から二十年前に三年生だったことが確認できたのだ。と言う事は七條さんも同じ三年生だったということになる。二人は同じクラスなのだから、当然塩見先生は七條さんの事も知っているだろう。もしかしたら連絡先も把握しているかもしれない。
 僕は目の前の霧が晴れたような爽快感を味わっていた。
「よし、じゃあ塩見先生に訊いてみよう。今ので相当怪しまれただろうけど、なんとか言い訳を用意して、七條さんの連絡先を手に入れなくちゃ。いや、いっそのこと塩見先生に仲介役を頼んでもいいな。けど、どういう理由にすれば上手く事が運ぶかな」
 猫宮さんはどう思う、と訊きかけて、僕はようやく猫宮さんが浮かない顔をしているのに気がついた。僕のいぶかしむような視線を受けてか、猫宮さんが小さな声で呟く。
「でも、なんだか気にならない?」
「気になるって……失踪のこと?」
 猫宮さんは首肯する。
 確かに失踪とは穏やかな話ではない。高いところから落ちた、という榎田さんの話から、事故死、あるいは自殺を想定していただけに、その単語には不穏な気配を感じる。
「ねえ、もう一度榎田さんの所へ行かない? 結果報告もしたいし、それに」
 猫宮さんはここで一度言葉を切った。
「七条さんと榎田さんはどういう関係なのか、まだ訊いてなかったよね」
 
          (六)

 榎田さんは先ほどと同じ場所で僕らを待っていた。とりあえず僕らは、七條さんは二十年前に神部高校を卒業していたけど、七條さんの事を知っている先生がいたので、そこから連絡をとれそうだという事を話した。流石に失踪云々の話は省いておいた。もしかしたらそれを伝えることで曖昧な記憶が補強され、何かを思い出すのかもしれないが、どう考えても明るい方向には転ばない気がしたので黙っておくのが得策だと考えたのだ。
 榎田さんは僕らの話を聞くと、
「そうですか、私は二十年も前に死んでいたのですか」
 と感慨深げに呟き、
「では、明さんともうすぐ会えるのですね」
 と嬉しそうに言った。
 その様子を見て猫宮さんが問いかける。
「あの、七条さんとはどういう関係なのですか?」
「それはその……」
 口ごもる榎田さん。しかし頬が少し紅潮している。とても分かりやすかった。
「恋人同士だったのですね」
 攻める猫宮さん。
「ええ、まあ」
 照れる榎田さん。
 その様子を見て猫宮さんがぼそりと呟く。
「……まずいかも」
榎田さんには聞こえなかったみたいだけど、僕には聞こえてしまった。不吉な言葉は止めて欲しい。


上機嫌な榎田さんと別れた後、僕は猫宮さんを例の喫茶店に誘った。その理由はもちろん、先ほどの言葉の真意を探るためだ。猫宮さんも気づいていたらしく、席に通され、注文を終えると即座に話し始めた。
「ねえ、私が説明する前に、良かったらこれまで得た榎田さんに関する情報を纏めてみてくれる」
そして差し出されるルーズリーフとシャープペン。
「えっと……」
僕はインプットされた情報を整理してみる。
榎田小百合。享年十八。二十年前に高校三年生だった。今回、二十年の時を経て霊として復活。目的は当時の恋人、七条明氏に会うため。
死因は、本人の自己申告を考慮するなら高所からの転落死。ただし本人はそれを嬉しい事と表現している。理由は不明。現実では失踪扱い。
「こんなところかな」
僕はシャープペンを置いて、ルーズリーフを猫宮さんに渡す。彼女は僕のメモを見てしきりに頷く。
「さっき、塩見先生が言ってたよね。『彼女には悩み事を相談できるような親しい人はいない』って」
「うん」
「でも恋人ってその親しい人に入るよね」
確かにそうだ。塩見先生はああ言っていたけど、実際榎田さんには七條さんという恋人がいたわけだ。もし塩見先生が七條さんの存在を知っていればあんな言い方はしないだろう。と言う事は。
「榎田さんは塩見先生に七條さんとの交際を隠してた?」
「うん、それはまあ、あり得ると思う」
 まあ、わざわざ先生に交際を報告する人はそういないだろう。
「けど問題はその後。榎田さんが失踪してから」
猫宮さんは真剣な口調で言う。
「普通、恋人が失踪したら平気ではいられないと思う。知り合い全てに行方を訊くだろうし、さっき先生が言ってた学校周辺を捜したり、尋ね人の張り紙を貼ったり積極的に動くはず」
「うん」
 だんだん僕にも猫宮さんが何を言いたいのか分かってきた。
「そうなれば、塩見先生だって気がつくはず。榎田さんにはこんなに心配してくれる人がいるんだって。あるいは七條さんの方から自分の恋人だって言うかもしれない」
 猫宮さんはそこまで言うと黙ってしまった。仕方なく僕があとを引き継ぐ。
「……七條さんが榎田さんを探すのに協力していたら、ね」
塩見先生はこう言っていた。『最後は私一人で活動していた』と。もし七条さんが参加していたら、絶対にそんな事態にはなっていなかったはずだ。
「と言う事は、七條さんは榎田さんの事をそれほど好きではなかった」
「あるいは」
 猫宮さんと目が合った。
「七條さんは榎田さんの行方を最初から知っていた」

          (七)

「ちょ、ちょっと待ってよ」
 僕は慌てた。その結論は、七条さんが榎田さんの失踪に関わっている可能性を示している。それどころか、もっと突っ込んで言えば、榎田さんの死に……。
「いや、でも」
 そこまで関与しているなら、逆に榎田さんの態度が不自然になる。
「もし、仮に七條さんが榎田さんの死に関係あるとしたら、七條さんに会いたいという榎田さんの願いはおかしくない?」
「おかしくないよ」
 あらかじめ予期していた問いなのだろう。猫宮さんは即答した。
「幽霊が人に会いたいという場合は単純に考えて二パターンに分かれるの。一つは、生前お世話になったから感謝したいという場合。もう一つは」
 そこで言葉を切り、こちらを見つめてくる。
 僕はしぶしぶ答える。
「生前危害を加えられたから、復讐したいという場合」
「その通り。俗に悪霊と呼ばれるのはこちらかな」
 七條さんは榎田さんの死に加担している。だから交際がばれてないのを良い事に、榎田さんが失踪したとなった時も探すのを手伝わなかった。そして榎田さんはそれをずっと恨んでいて、今回、二十年ぶりにその恨みを晴らそうとしている。
 確かに筋は通る気がする。
 けれど。僕は先ほどの嬉しそうな榎田さんの様子を思い出す。彼女は七條さんに会えるのを心底楽しみにしている様子だった。僕にはあれが演技だとは到底思えない。
猫宮さんにそう言うと、
「確かに。私も正直言ってあれが演技だとは思えない」
 と同意してくれた。
「それに自分の転落死を『嬉しい事』と表現する理由も分からないし」
「確かに」
 その謎は未解決のままだった。


会話がひと段落したので、僕は少し残っていたアイスコーヒーを一気に飲み干した。
「結局のところ」
 猫宮さんが苦笑する。
「本当のところは七條さんに訊かないと分からないね」
「というか、僕らの任務は七條さんを榎田さんに会わせることだよね」
 もし僕らの推測が当たっていたら、榎田さんに七條さんを会わせる事は危険だけれど、会わせない限り、榎田さんが消える事はない。僕は詳しくないけど、猫宮さん曰く、強制的に霊を消す手段もあるらしい。だけど、現時点では榎田さんは誰にも危害を加えてないわけで、そんな幽霊に対して強硬手段は取りたくない。となれば多少のリスクは背負いつつも、二人を引き合わせるのが一番という結論に達する。
「となると残る問題は」
 猫宮さんは渋い顔をしている。多分僕も似たようなものだろう。
「どうやって塩見先生から七條さんの連絡先を入手するかだね」

          (八)

 翌日。放課後になって僕と猫宮さんは職員室を訪れた。昨日と同じように、扉を開けると塩見先生の姿が目に入る。先生も僕たちに気が付いたらしく近づいてきた。
「先生、ちょっとお話があるのですが」
「来ると思っていました」
 塩見先生はそう言ってほほ笑むと、僕たちを隣の応接室に招き入れた。
 ローテーブルを挟んで僕と猫宮さんは塩見先生と向かい合う。
「さて、昨日の疑問に答えてくれるのですね」
 僕と猫宮さんはしっかりと頷いた。

 
 塩見先生から七條さんの連絡先を入手する方法。放課後までの休み時間で僕と猫宮さんで色々と考えたものの、結局ありのままに話すことにした。つまり僕らの特殊な体質から始まり、七條さんに会いたいという榎田さんの願い、それに対する僕らの推測、全てを包み隠さず塩見先生に話した。
 先生は、最初は目を丸くしていたものの、口を挟まず最後まで聞いてくれた。
「というわけで僕たちは七條さんの連絡先を知りたいんです」
 僕は話をそう締めくくった。
 塩見先生はしばらく動かなかったけど、やがてゆっくりと口を開いた。
「まず初めに言っておきますが、私には幽霊は視えません。なのであなた方の話が本当なのかどうか確かめる術は私にはありません」
「はい」
 僕と猫宮さんは声をそろえる。
「だけど、私は二人の話を信じます」
 塩見先生はあっさりとそう言った。
「信じる根拠は色々ありますが、一番大きいのはあなた方が榎田さんの事を知っていたという事実ですね。確かに当時はそれなりに話題になりましたが、二十年も前の話を今更蒸し返すなんて、本当に榎田さんの幽霊が出てきたとしか考えられません」
 塩見先生は真面目な顔で言うものだから、僕の方が笑いかけてしまう。
「それにしても七條くんと榎田さんが交際していたとは驚きです」
 やはり塩見先生は知らなかったらしい。
「ただ、七條くんが隠そうと思った気持ちは理解できますね。彼の家は名家ですから、そういう交際は厳しく制限されていたはずです」
 名家、と言われてもピンとこない。僕の微妙な気持ちを読み取ったのか先生が補足してくれた。
「例えばうちの名物になっている図書館。あれのお金を出してくれたのは七條家なんですよ」
 七條家の援助で建った図書館に出た幽霊が榎田さん。これも何かの縁なのだろうか。
「っと、すいません、話がそれましたね」
 塩見先生が苦笑しながら言う。
 そうだった。目的は七條さんの連絡先の入手だ。
「けれど、心配はいりませんよ。だって七條くんはこの学校にいますから」
「え?」
 一瞬意味が分からなかった。猫宮さんも隣でポカンとしている。
「実は彼は教師になったんですよ」
「え? でも七條なんて名前の先生は知りませんよ」
 まさか僕の知らないうちに新任の先生が増えたのだろうか。そう言えば、始業式の記憶がない。
「私も知りません」
 しかし猫宮さんも否定する。
「ええ、彼は婿養子に入ったので名字が変わっているのですよ」
 そして、塩見先生は七條さんの今の名前を教えてくれた。
「若林先生です」





     

     (十)

 旧校舎の屋上。七條さん――いや、若林先生は榎田さんに謝罪した。
 僕と猫宮さん、それに塩見先生は屋上の出入り口付近でじっとしていた。先ほどまで僕たちの後ろにいた榎田さんは今、若林先生と向かい合っている。七条さんに会いたいという榎田さんの願い。それは今叶ったということになる。
 問題はここからどうなるのか。僕と猫宮さんの想像が正しければ、榎田さんは若林先生を恨んでいることになる。
 けれど。僕はここにきてようやく事の真相を理解しつつあった。塩見先生から得た情報。七條家は名家でその息子たる七條さんは交際に制限があった。おそらく将来の結婚相手なんてものも、早い段階で決められていたのだろう。だから榎田さんとの交際を周囲に隠していたし、近い将来、絶対に別れなければならない事も十分に理解していた。
 二人がどの程度お互いを想っていたのかは分からない。けれど、榎田さんは転落する時に、嬉しいと感じていた。これから死にゆくという場面で、そういう感情が浮かぶ理由は一つしかない。
「どうして……」
 かすれたような声で榎田さんが問いかける。
「どうして一緒に飛んでくれなかったの?」

 僕たちは塩見先生を残して、屋上から退散することにした。若林先生と榎田さんは出来れば二人きりにしてあげたい。それは僕たち三人の一致した意見だった。けれどもし猫宮さんの予想が当たって、榎田さんが悪霊化した場合は、なんとかして止めなければいけない。その場合の事も考えて、連絡役として塩見先生を屋上に残したのだった。緊急事態になれば、塩見先生が現れる。そしてその時、僕は猫宮式除霊術を目の当たりにするのだろう。
 屋上と四階とを結ぶ踊り場で、僕と猫宮さんは待つことにした。
「結局、心中未遂だったんだね」
 猫宮さんがぽつりと呟く。僕は軽く頷いた。
 榎田さんと若林先生は心中を計画した。舞台は旧校舎の屋上(もちろんその当時はまだ旧ではなかっただろうけど)。どういう手筈になっていたのかは知らないけど、まず榎田さんが飛んだ。天国で幸せになれる事を信じて。しかし若林先生は飛ばなかった。土壇場で怖気づいたのか、あるいは冷静になったのか。はたまた最初から飛ぶ気などなかったのか。その辺は分からないけど、とにかく若林先生は生き残ってしまった。
 となると問題となるのは榎田さんの死体だ。
 本来なら飛び降り自殺で処理をすれば良かった話だ。実際に自殺なのだから疑われる事はまずない。けれど、遺体の処理を考えた若林先生――あるいは連絡を受けた七條家――は完全に隠蔽することにした。つまり死体を回収して、飛び降りの痕跡を完全に消す。あとは死体を絶対に見つからない所に隠せば大丈夫。普通の考えなら海か山か。そういった人が寄り付かない所に捨てようと考えるのだけど、七条家の発想はもっととんでもないものだった。
 まず、死体を埋める。それは旧校舎近くの空きスペースを利用した。あまり派手に動かすと目立つし、痕跡も残る。だからこれは妥当な判断だと思う。そして見つからないようにと死体の上に建物を建てたのだ。そう、図書館を。

 若林先生はこう言った。榎田さんと一緒に心中をするという選択、現実にそうだったように榎田さんを見捨てて自分だけ生き残るという選択。ここがジョンバールの分岐点だったと。
 けれど僕は、分岐点はもっと前にあったのだと思う。どちらを選択しても幸せな未来が待っている、そんな分岐点が必ず存在したはずだ。
 若林先生はそれに気が付かなかった。
 榎田さんもそれに気が付かなかった。
 
 もし僕が、同じような状況に陥った時、果たしてそれに気づけるだろうか?

 屋上への扉は閉ざされたままだ。
 最初に出てくるのは一体誰なのか。僕には想像もつかなかった。