秋乃「Grin like a cat」

 ホームに向かいながら携帯電話を取り出す。水溜りができてたみたいで危うくこけそうになったけど、そんなことを気にしてる暇はないから急いで電話を掛ける。
「ごめん、遅れそうやわ。今はやりのゲリラ豪雨のせいでダイヤが乱れとるんやと」
 呼び出し音が途切れた途端、名乗りもせずに謝った。するとヒロミは即座に、一本早いのに乗らんかったお前が悪い、とばっさり切り捨てた。正論すぎて言い返せん。
「まあ少しくらい遅なっても構へんやん」
「いい訳ないやろ! こんなん一生に一度の機会やねんぞ!」
「いやいや、わからんでぇ?」
「なにが言いたいんじゃ!」
 いつになく噛み付いてくるあたりよっぽど緊張してるんやな、と思うとちょっと笑える。
「なに笑っとんねん」
「別に。気のせいやろ」
 そう言いながら待合室のドアを開ければ、その音に気づいたヒロミに「他の人の迷惑になるから外で話しなさい」と窘められた。お前はオカンか。
「誰もおらんって。……いや、猫おったわ」
「マジでか。そういや昔、映画でそんなシーンあったよなぁ」
 待合室の椅子で箱座りしてる黒猫って、なんか凄い図やな。ドアが開いても出て行かへん所を見ると迷い込んだ訳ではないらしい。雨に濡れへん上に暖房も効いてるここは、きっと特等席なんやろう。こんなとこ見つけるなんて頭ええなぁ。ちょっと失礼して隣にカバンを置いたら猫はこちらを一瞥して、それから何事もなかったように顔を逸らした。なかなか根性も据わっとる。
「黒猫なんやけど、ちょっとワタヌキに似てんねん。あいつって白のイメージあるのに不思議なもんやけど、白猫よりは黒猫って感じすんねよなぁ」
「なんかわかるかも。国によって幸運やの不幸やの言われるとことか、好き嫌いが分かれるあいつっぽいわ。周りがそんな風にいろいろ思ってても気にも留めてなさそうなとこも似とる」
 予想外の反応に驚いてると、トーヤ? と呼ばれた。次いで呆れた声で「さてはお前……腹黒いから、みたいなこと考えてたやろ」って言われた。
 確かに、あいつの腹は真っ黒い。保証する。
 口には出さずにそう思って、カバンの中身を出す。財布、手帳、招待状、日記三冊に手紙が入った封筒。どれも濡れてないな。よし、あとはカバンに戻すだけや。
 手作り感溢れる招待状の『結婚』という字をぼんやり眺めてると、ふいにワタヌキの言葉が甦った。
 ――ヒロミが好きならさっさと告白してまえ。あいつ鈍いから、はっきり言わな気づかへんで。
 告白したら、なんか変わってたんやろか。想像しようとして、止める。答えがないことを考えるのは好かん。
「どうしたんや、急におとなしくなって」
「ん? んー、『うつせみ』の作者の名前なんやったかなって無性に気になってな。時雨屋ハナナ?」
「カナやカナ、花の名って書いてカナ! いい加減覚えんかい」
「そうそれ、時雨屋花名。あいつ『雨は空の涙』なんてクッサイこと書いてたけどさー、この雨はどうなんやろな。号泣? 男泣き?」
「クサイ言うな! お前わかってないわ。そらその部分だけ見たらクサイかもしれんけど、あれは辛い過去を押し殺して生きるうつせみに弥吉が……」
 はい、話題変更完了。結構ムキになったから暫くは一人で勝手に喋ってるやろ。
 適当に相槌打ってたら手が滑った。日記が落ちて、その間から黄ばんだノートの切れ端がはみ出す。猫は音にびびって少し身構えたけど、結局そのまま座ってた。やっぱお前ワタヌキに似とるわ。図太いとこなんかそっくりや。
 しかし懐かしいなぁ。久しぶりに見返してみよか。ヒロミは話に夢中になってるし、ちょっとくらい読んでても気ぃつかへんやろ。なんて思いながら分厚い日記のページを捲ると、最初の方はクラスメイトの悪口ばっかりやった。
 家柄の他はなんも値打ちないようなボンボンか見栄っ張りな成金とこのクソガキか、もっと偏差値が高い有名校に進学できそうな頭でっかちな生意気な奴か。そんな輩しかいてへん嫌な学校やったし、幼なじみのヒロミも別のクラスやったからしゃあないか。同窓会で会った時もあいつら相変わらず嫌な奴やったもんなー。しゃあないしゃあない。
 ヒロミの声と雨の音を聞きながら目を通してると、『ワタヌキ』って字を見つけた。そっか、あいつと初めて会った日も雨やったな。顔に張り付く真っ白い髪と、ずぶ濡れの真っ黒い詰襟を思い出す。
 それはゴールデンウィーク明けの五月七日のことやった。

  *  *  *

 寝て起きたら放課後やった。アホ宮の汚い声に起こされたらしい。なんか腹立ったから目は開けへんことにした。アホ宮とアホ巻き(アホ宮の取り巻き)がワタヌキとか白いの好きなんやろとかほざいてるけど、雨の音でよう聞こえへん。聞きたくもないからええけど。またうとうとしとったら、急に雨とは違う水音と牛乳の臭いがした。
「お兄さんとお揃いってだけで、別に好きでもないんやけどなぁ。でもまあご好意は有難く頂戴しましょか」
 やたらよく通る、聞き慣れん声。それに思わず薄目を開けると、見慣れん白髪頭の学ランが横で笑ってた。うちって私服やよな。じゃあこれ夢か。
 どうせならアホ宮やなくてヒロミの夢がええなぁって考えてたら、牛乳だらけのそいつはタオルで顔、身体、机に床まで拭いて、「お礼に机拭いたるわ」って言うてそのタオルでアホ宮の机を拭いた。絞ってないタオルから牛乳が滲み出てきて、アホ宮の机が臭く汚くなる。ええぞーもっとやったれ。
 にやにやしてたら突然頭をはたかれた。アホ巻きに「お前、当番のくせに掃除の時寝てたやろ! せめてゴミ捨てて来い」って耳元でがなられる。
 今日はアホ宮がゴミ捨てのはずや。あいつら、最初からこれ押し付けるつもりでわざと放置してたな。でもサボったんは事実やから癪やけど捨ててきたる。感謝しろ。
 寝起きの重い体を起こすと、さっきの学ランは綺麗さっぱり消えてた。やっぱあれ夢やったんか。アホほど重いゴミ袋に休み前当番やった奴の愚痴言いながら歩いてたら、びしょ濡れの白髪頭がゴミ捨て場でカバン片手に突っ立ってた。
 なんや夢やなかったんか。っていうか雨の中なにしとんねん。呆気に取られてたら、濡れ鼠の方が先に口を開いた。
「あ、君って隣の席の子やんな。僕は転校生の綿貫。お父さんが四つ先の駅んとこの病院で院長やってるから、どうぞご贔屓にー」
「……なに普通に自己紹介してんねん。ってかその営業スマイル止めろきもい」
「だって君、ずっと寝とったやろ? それからこの笑顔は標準装備やから気にせんといて」
 あ、こいつイタイ奴か。まあおるよなー、うん。でも濡れてる理由は訊いときたい。
「寝てたけど。なんで濡れてんのかとか、自己紹介の他に言うことあるやろ」
「ああこれ? 牛乳掛かってもうたから臭い取ろうと思て」
「水道で洗え。つーかあんま近づくな、こっちまで濡れる」
「それ捨てに行くん? 濡れるやろから僕が代わりに行くで」
「はぁ? お前なに言って……おいこら待てぇ!」
 言うやいなや、そいつはゴミ袋を奪い取って凄まじい速さで走って行った。ワタヌキが『理解不能な変人』の地位を獲得した瞬間やった。
 帰り、ヒロミにワタヌキの話をしたら興味津々で「おもろいなぁ、会いたいなぁ」って言うてきた。なんかイラッとした。

  *  *  *

 ああ、こんなことあったなー。やっぱり細かいとこは忘れとるわ。メモ魔でよかった。ヒロミはまだ『うつせみ』について熱く語ってる。そんなに好きなら時雨屋花名と結婚せえ。

 五月八日(木)
ワタヌキの筆箱がなくなった。理科室でそれに気づいたワタヌキはアホ宮、もとい若宮にシャーペンと消しゴムを借りて、シャーペンをアンモニアに漬けて消しゴムを水道に落としてから返してた。返す時アホ宮に申し訳なさそうに謝ってたけど、それがなんか楽しそうに見えた気がした。ヒロミが「今日は転校生どうやった?」って訊いてきたけど、書道展の話を振ったらそっちに夢中になった。ヒロミってこういうとこ可愛いよなぁ。
 五月九日(金)
休み時間に話してワタヌキと少し仲良くなった。なんで学ラン着てんねんって訊いたら「お母さんがお兄さんの詰襟姿好きやってん」って言うてた。ようわからん。掃除の時、トイレに突っ込まれた状態でワタヌキの筆箱が見つかった。消しゴムは諦めたみたいやけど、シャーペンは洗ってまた使う気らしい。あいつ凄いわ。
帰り、ワタヌキのことは忘却の彼方らしいヒロミが前回の書道展の優秀作品について語ってた。こいつも凄い。
 十日(土)と十一日(日)
親父が久しぶりに帰ってきて、二世議員やって馬鹿にされたこと愚痴ってた。それ言うたら兄貴なんか三世やん。書道教室に逃げたんはいいけど、ヒロミが歴代の優秀作品の写真を見せながら熱く語ってくれたからどっちにしろ疲れた。
 五月十二日(月)
体育から帰ってくるとワタヌキの学ランがなくなってた。ワタヌキはアホ宮の机にジャージ入りの袋が掛ってるのをじっと見たあと、教師の目の前で「君、さっきの体育サボってたからジャージ綺麗やろ?」って言うてアホ宮のジャージを借りた。そのあと教室移動の時にゴキブリが出た。周りの女子がうるさいから潰そうとしたら、ワタヌキが殺生はあかんとか小難しい顔で言いながらゴキブリを逃がした。ワタヌキは何でもなさそうな顔してジャージの袖でゴキブリを掴んでた。やっぱある意味凄い。ヒロミの話はまだ続く。
 五月十三日(火)
真新しい学ランを着たワタヌキが、涼しい顔してアホ宮にジャージを返してた。汚してないから洗ってないでってワタヌキが言うたら、めんどくさがりなアホ宮はジャージを持ち帰らずにロッカーにつっ込んだ。あーあ。帰り道、ヒロミは書道の歴史について話してきた。多分これ終らんな。明日の帰りはワタヌキの話を振ろうと思う。
 五月十四日(水)
帰りはヒロミに完敗した。話を振る隙もなかった。これはもうワタヌキと一緒に帰るくらいのインパクトがないとどうしょうもない。明日はヒロミが法事で休むから、明後日ワタヌキを誘おうと思う。
学校の方は、ワタヌキが休んだからつまらんかった。考えてみたらこの日記いつの間にかワタヌキの観察記録になっとるな。まあええか。そういやアホ宮たちが悪だくみしてるっぽかったけど正直どうでもいい。
 五月十五日(木)
アホ宮がワタヌキに大量のクモの死骸を投げつけた。ドヤ顔が心底うざい。ワタヌキはそのクモを見ると毒グモかもしれんって言うて、その毒グモに触ったら死ぬこともあるって話した。真っ青になったアホ宮がアホ巻きと保健室に行った頃、でもよう見たら違うわってあっさり言いよった。呆れてたら、嘘は吐いてないでって笑った。帰り、ゴミ捨て場の方をぶらついてたらワタヌキがしゃがんでクモを埋めてた。手ぇ合わせて目をつむってるワタヌキを見て、そういやあいつ「いただきます」と「ごちそうさま」をしっかり言う奴やよなって思った。
 五月十六日(金)
ワタヌキに好みのタイプを訊いたら、付き合うなら僕みたいな人って答えやがった。嘘やろって言うたら「僕、誓ってもいいけど嘘は吐かへんで」って妙に真剣な顔で言われた。とりあえず、ヒロミは好みやなさそうなので「一緒に帰らんか」って誘った。体育の時、アホ宮が例のジャージの袖口で汗を拭いてるのを見て可哀想になった。帰り、ヒロミは思った通り書道の話を止めた。これはこれでおもろくない。ワタヌキは寄り道して帰るって言うてた。家族のことは好きやないらしい。そういえばあいつ、今までは放課後なった途端図書室の方に行ってたな。

 ちょっと読んで、音を上げた。あかんわ一日一日が濃すぎる。っていうかこの頃は「アホ宮ざまあ」とか思って笑ってたけど今見たら泣けてきた。哀れな若宮の末路を思い出してもうたから余計に泣ける。

 クモの一件ですっかり虫がトラウマになってた若宮は、月曜になって「ごめん、実はあのジャージの袖でゴキブリ触ってん。謝るの忘れてた!」ってカミングアウトされた瞬間卒倒し、そしてそのまま不登校になって転校した。
 一方のワタヌキはアホ宮を倒した英雄として元アホ巻きどもに崇め奉られるようになり、学年のいじめる側からは目の敵にされ、いじめられる側からは尊敬されるようになった。でも本人は「トーヤとヒロミがおったら他はどうでもいいわ」なんて飄々としたもんやった。
 その後もワタヌキは、しょうもないプライドと浅知恵で武装したアホ宮二号三号との陰湿な戦いに身を投じた。その頃は二号三号に怪我をさせられても相手に怪我させることだけはせえへんワタヌキを悪く思ってなかったけど、今考えるとその所業は精神的にはあまりに凄惨なもんやったと記憶してる。二号三号も夏休みの頃には転校した。
 普通こんだけ無茶やってたらワタヌキ自身もなんか言われそうなもんやけど、綿貫家は理事長との繋がりが強かったらしい。それにワタヌキは言いくるめるんが上手かった。教師や保護者には「悪気はなかったんです。あいつのことも別に嫌いやないし」って弁明しつつ、わざとやないとは一言も言わんかった。

 ただでさえ相槌が涙声になってんのに、これ以上読んだらやばい(ちなみにヒロミは自分の話に感動したと勘違いしてるらしく、嬉しそうに時雨屋花名作品のよさについて語ってる)。そこで、七月二十三日までページを進めることにした。

  *  *  *

 終業式が終わってすぐ、ワタヌキとうちの別荘に向かった。
 今まではヒロミと来てたんやけど、あいつは書道展の準備で忙しいらしい。まあ、成長して身体が違ってくると色々難しいから丁度よかったかもしれん。そこをいくとワタヌキは、頭の中身は多少おかしくても同じ性別な分一緒におって楽やった。それに、毎年虫捕りをしてる身としては、虫に詳しいらしいワタヌキと遊んでみたかった。
 ワタヌキのお母さんが心配したから別荘には二週間しかおれんかったけど、今まで知らんかったワタヌキをいっぱい知ることができた。
 もともとは寂れた町の孤児院にいてたこと。昔おったとこにはおもろいもんなんてほとんどなかったから、虫捕ったり本を読んだりして過ごしてたこと。特に毒虫の図鑑が好きやったこと。死んだお母さんの口癖が「嘘吐きは泥棒の始まり」やったこと。孤児院の院長先生とワタヌキのお父さんが古い知り合いで、その縁で綿貫家の養子になったこと。お父さんもお母さんも結構な年やから、お姉さんと、その旦那さんが親みたいなもんやってこと。

 ワタヌキの家族の話は、正直ようわからんかった。そしたら見かねたワタヌキがノートに綿貫家相関図を書いてくれた。それによると、ワタヌキのお姉さんはワタヌキのお父さんの娘やけど、ワタヌキのお母さんの娘ではないらしい。ワタヌキのお父さんとお母さんの間の子は、お兄さんしかおらんかったそうや。
 お兄さんの上に、ワタヌキが『僕とよう似てる。学生の時に病死』って書き込んだ。これ見てもようわからんって言うたら、ワタヌキが肩竦めて「大人になったらわかるやろ。持っとけ」って笑いながらノートを破いて寄越した。子ども扱いされてむかついたけど、ワタヌキの笑い方がいつもと違う気がしたから一発殴るだけにしといた。

  *  *  *

 黄ばんだ紙切れを見て、ちょっと物思いに耽ってみる。ワタヌキは最後の日まで自分がどういう境遇やったんかはっきりとは言わんかった。つい感傷的になりそうになったから、思考を別のとこに持っていく。雨止まんなぁとか、ヒロミの話は相変わらず長いなぁとか。
 でも上手くいかんかった。意志とは反対に、手が三冊目の日記に伸びる。『ワタヌキ観察日記?』って書かれたそれの、五月十六日を探す。

  *  *  *

 ワタヌキとつるむようになって二年くらい経った頃、初めて会った日みたいにゴミ捨て場で雨に打たれてるワタヌキを見た。
「なにしてんねん」
 真っ白い髪が濡れて肌に張り付いて、いつもと少し違う印象を受ける。病気で亡くなったお兄さんと同じ色、やったか。
「うーん。時雨心地って感じ?」
「……前々から思ってたけど、お前ちゃんと話す気ないやろ。人をおちょくって楽しんどるんやろ」
「んな訳ないやん。話し相手にするならトーヤが一番やからなぁ。ヒロミは誤魔化そうとしても上手くいかんから嘘吐いてまいそうで困ることあるけど、トーヤはヒロミとは違う方向で鈍いからなんでも話せる。いい友達を持てて僕は嬉しい」
「やっぱ馬鹿にしとるやろ」
「酷いなぁ。この顔見てもそんなこと言うんか」
「どう見てもにやけてるやろうが」
 軽口を叩くワタヌキを睨む。人を食ったような、何を考えてるかわからん嘘臭い笑顔。いつもと同じはずのその表情になぜか違和感を覚えて、同時に懐かしい気もした。違和感と既視感。伝い落ちる雫を見て、ふと思いついて口にする。
「泣いてんの?」
 ワタヌキはほんの一瞬驚いた顔して、それからすぐ元通りの表情になった。
「まっさかー。生きてるってだけで僕は充分幸せやもん。そんな奴が泣くわけないやろ?」
 芝居がかった調子でおどけるワタヌキ。いつもなら呆れて会話を放棄するとこやけど、今回はそうはいかん。
「その生きてたら幸せっての、死んだお兄さんと関係あるんか? お前、もしかして病気やったんか」
 詰め寄ろうとしたら、屋根から出る前にワタヌキの方から近づいてきた。
「傘も持たずに出たらあかんやん。風邪引くで」
「ちゃんと話を」
「はいはい、君の誠意はしっかり受け取りました。ちゃんと話すから、ほら、さっさと入った入った」
 子どもを宥めすかすような口調が癪に障ったけど、「嘘は吐かへん」というこいつの言葉を信じて従うことにした。ぐいぐい押されるまま歩いて行くと、そのまま人気のない教室に入った。
「トーヤって、たまに鋭いんよなぁ。病気やったってのは的外れもええとこやけど。雨に濡れまくって平気な奴が元病人な訳ないやろーほんまアホやなぁ」
「喧嘩売っとんかお前。買うぞ」
「滅相もない。今日は雨がうるさぁて内緒話には打ってつけやからな。なんでも正直にお答えしましょ」
「よし責任もって答えろよ。お前泣いてたやろ」
「うん、半分当たり。ちょっと泣きたい気分やった」
「泣いたらええやんけ」
「無理。だって幸せなんやから」
「お前なぁ、まだ言うか?」
「僕のおった孤児院、そういう商売しててん。悪趣味な奴に売られてった姉ちゃんもいっぱいおった。せやのに、金持ちの養子になれた僕が泣けるか」
 頭に上ってた血がすぅっと冷えるくらい、静かな声やった。
「ま、僕も商品には違いないけどなぁ。お母さんの機嫌取るためのお人形。お兄さんの名前で呼ばれて、服も口調もお兄さんそっくり。この髪もお母さんに気に入られるようにって染められたんや」
「……なんでそんな目に遭わされて黙っとんねん」
「そらお前、生きたいからに決まってるやろ。孤児院の前はゴミ山に住んでたけど、酷いもんやったで。今の僕くらいの年まで生きてられる奴なんておらんかった」
 他人事みたいに淡々と言うワタヌキを見ながら、アホ宮たちのことを嫌いやなかったんも頷けるなぁなんて場違いなこと考えた。ワタヌキの周りにおった奴らに比べたらあんなん可愛いもんやったんやろう。
「そいつらに悪いから、泣かんのか?」
 無意識に訊いてた。自分でもそいつらって言葉がなにを指すんか曖昧やなぁって思たけど、ワタヌキは「大体そんなとこかな。生きてるからには楽しく生きたらな、申し訳ないやんか」って悲しそうに笑った。その顔見てたら、頭の中でなんかが弾け飛んだ気がした。
「……ほんまに、笑ってることがそいつらのためになると思っとんのか」
「トーヤ?」
「そんなんほんまにただの人形やろうが。死んでるんとどこが違うねん。そいつらのために楽しく生きたいって言うんやったらな、笑って怒って泣いて、人生満喫したらんかい!」
 気づいた時には、ワタヌキの胸倉掴んで怒鳴ってた。呆然としてるワタヌキに「返事!」って言うたら「なんでトーヤが泣いてんねん」って返してきよった。
「さっき言うてたやんけ。いい友達やからじゃ」
「おかしいなぁ、今いい友達に殴られそうになってんねんけど。暴力反対」
「うっさい。愛の鉄拳や」
 そう言ってワタヌキの濡れた頭を軽く小突いたら、なんか可笑しくなってきて二人して笑った。一頻り笑って落ち着いた頃にワタヌキを見ると、見たことないくらいすっきりした顔してた。
「今の話、ひとまずヒロミには内緒な。僕にとっては悪趣味なオッサンでも、ヒロミにしてみたらあの人は恩人やから」
「……そうやな」
 昨日ヒロミがはねられた。雨でブレーキが利かんようになった車が突っ込んできた時に、妹を守ろうとしたらしい。すぐにワタヌキのお父さんの病院に運ばれたから命に別状はないけど、後遺症があるやろうから書道は続けられんみたいやわってヒロミのお母さんが言うてた。
「ヒロミ大丈夫やろか。あんな書道好きやのに」
「そこはほら、トーヤ君が立派に支えて見せんと」
「おい、お前はどうした」
「僕はお母さんと外国の別荘行くからなぁ」
 こんな時になにを、って言おうとして止めた。ワタヌキが「泣きたい気分」になった理由を悟ったから。今ワタヌキは人形で、生きるためには持ち主に従うしかない。人形の友達がどうなってようが持ち主には関係ないんやろう。
 えらい急な話やなって返したら、言うタイミング逃しててんって困ったように笑われた。
「お母さん病気でもう長くないからな、緑豊かな土地で悠々自適な余生を過ごして欲しい――ってのは建前で、まあ、大方お母さんがおらん内にお義兄さんを院長にしようって腹やろうけど。お父さんも羽伸ばして好き放題するんやろうなぁ」
「お前一人でついて行くんか」
「うん。一人の方がうちの孤児院の人身売買について調べやすいからな」
 目を点にしてたら「僕、今後も黙り続けるとは言うてへんで?」なんてのたまいやがった。
「実はお父さんと院長先生の分はもう証拠揃えたんやけど、それだけを警察に送ったら情報元が僕ってバレバレやからなー。他の客も一気に叩きたいし。孤児院の客の横の繋がりをじっくり調べながら自立する準備もしたいから、お母さんと二人ってのは渡りに船で都合いいわ。で、証拠集めてこっちの警察に送ったらそのあとは行方くらますつもりやねん。関係者の事情聴取とかめんどくさそうやもんなぁ……。あ、ついでにマスコミにも証拠送ったろ。三流ゴシップ誌とかやったら揉み消されることもないやろ。『慈善事業の黒い影!』なんて見出しの新聞、おもろそうやない?」
 ほとんど一息で語ったかと思うと、ワタヌキは心底楽しそうな顔で「ああ、待ち遠しいなぁ」と呟いた。生き生きと輝くワタヌキを見て軽く放心する。
 ああそうや。こいつはこういう奴やった。妙にしおらしいとこ見てる間につい忘れてた。
「それでこそワタヌキや」
 言うてから、気づく。『綿貫』の名前で呼ばれて、こいつはどんな思いしてるんやろ。
「なんやねんその顔。別に今まで通り呼んだらええやん。今は綿貫家に養われてる身やからな、文句はないで」
 しかしトーヤは難しい顔似合わんなぁ、って笑ったあとワタヌキが急に真剣な目をする。
「それにしても、トーヤに諭されたとか屈辱やな」
「もう一発いったろか? 今度は本気で」
「遠慮しとく。でもなぁ、もう十年もこんな生き方しとったらなかなか変わられへんもんやで。やっぱ泣くんは抵抗あるわ」
「考え方変えたらええねん。お前って、下の名前――」

  *  *  *

 あかん、こっ恥ずかしいことまで思い出した。恥ずかしすぎて手が震える。

 ワタヌキがお母さんと外国に行ってからは何回か手紙のやり取りして、入院中にヒロミがすっかり本の虫になったとかワタヌキの情報収集は順調やとか、お互いそんな報告をしました。一年くらいしてワタヌキのお母さんが亡くなったあと、「葬儀も終わったからお父さんに色々ばれる前に逃げる。警察とマスコミにはもう封書送っといたから近い内に金持ち連中がぎょうさん捕まるで。楽しみにしとけ」という手紙が来ました。その後すぐにワタヌキのお父さんを含むたくさんの人が捕まりましたが、その手紙以降ワタヌキからの連絡はなくワタヌキは完全に消息不明になりました。そして今に至る、と。はいこれで回想は終了ですよお疲れさん!
 勢いよく日記を閉じたら猫が跳ねた。相当びびったらしくこっちを警戒してる。すまん。「トーヤ?」って不審そうに訊いてきたヒロミには、もっかい時雨屋花名の話題を振ることにした。
「あいつって年齢性別不詳の覆面作家なんやろ? オフレコとはいえ、よう取材できたなぁ」
「いやほんまに。こまめにファンレター送ってよかったわー。返事来た時はもう、書道続けられんってなった時以来で死ぬかと思った」
「お前あん時そんなアホなこと考えとったんか。で、それから何回か文通したんやっけ?」
「そうそう。そしたら『お会いしませんか? 面白い恋人さんもご一緒に』って。しかも待ち合わせ場所が小説のモデルになった喫茶店ってのが粋やよなぁ! ほんま新米記者には身に余る光栄や」
 粋って言うか気障ったらしいよな、って呟いたら、聞こえたらしい。機嫌悪そうに「もう約束の時間になるから切るで」って言われた。
「おい、随分冷たいな。それが彼女に言うことかね? 十二月一日(しわすだ)弘実(ひろみ)君」
「婚約者よりも二度と会えんだろう有名作家を優先するのは当然のことだろう、十(つなし)弥生(やよい)君」
 この野郎。
「弥生って呼ぶな言うてるやろ! 嫌いやねんこの名前。つーかなんやねんその態度、諸々すっ飛ばして『結婚してくれな死ぬ!』って泣きついてきたんは誰じゃ! 忘れたとは言わさへんぞ、あれは五年前の同窓会の二次会やった!」
「な、なに叫んどるんやアホ! あれは酔った勢いで本音がやな……」
「否定せんのか! なんやねん本音って。聞いてるこっちが恥ずかしいわ」
「いやいや。横で聞いてるのが一番恥ずかしいもんなんやで? お二人さん」
 やたらよく通る、記憶の中よりも少し落ち着いた感じの声。
 思わず携帯を落とす。それはヒロミも同じらしく、落とした携帯から似たような衝撃音が聞こえた。
 ストラップに反応した猫が臨戦態勢に入る。慌てて携帯を拾うと、狙い澄ましたようなタイミングで「久しぶりやなぁ、クサイ台詞言うてくれたトーヤ君?」って声がした。『クサイ』をやたら強調してたんは気のせいか。
「ワタヌキ……いつから聞いててん」
「薄情やなぁ。再会の挨拶もしてくれへんの? 寂しいなぁ酷いなぁ」
「はいはいお久しぶりですね。……で? いつから聞いてらしたんですか、時雨屋先生?」
「よろしい。最初っから全部聞いてたで。ヒロミが来る前からおったからなぁ、呼び出し音にびびってコーヒーぶちまける二時間半前からぜーんぶ聞いとった。挙動不審なヒロミは見物やったで」
 通話時間を確かめてみたら約三十分。ってことはヒロミお前、三時間前からおったんか。その前から待ち構えてたワタヌキといい、なにしてんねん。
 正気に戻ったらしいヒロミの声が聞こえる。なんで声掛けてくれへんねんとかなんとか。
「そっちこそ、ずっと後ろにおったのになんで気づいてくれへんねん。トーヤよりよっぽど薄情やな」
 あ、今ヒロミ言葉に詰まってる。そしてワタヌキはにやにやしとる。間違いない。
「まあ黒髪和服美人に変貌した僕に気づかんでも無理はないわ。それよりトーヤ、よう僕が時雨屋花名って気づいたなぁ」
 ヒロミの絶叫が聞こえたけど無視。
「あんだけ人の言葉がっつり使っといてよう言うわ。印税いくらか寄越せや」
「そんだけ感動したんやってー」
「嘘吐け。話し終わった途端お前、腹抱えて爆笑しとったやんけ」
「怖い声出さんといてや弥生センセ。今でも暗唱できるくらいには感動したんやで?『お前って下の名前そらやろ。雨は空の涙や。せやからお前が泣いてもただの雨や。ずっと雨やと鬱陶しいけど雨が降らんのも困るやろ? わかったら腹いっぱい泣け!』」
「止めてくれ頼むから」
 軽やかなワタヌキの笑い声に殺意すら湧いてきた。声優顔負けの熱演で人の黒歴史ほじくり返しやがって。
「しっかし、ヒロミから告白したとはなぁ。こいつ自分の気持ちにも気づいてへんと思ってたのに」
 あ、なんか唸り声が聞こえる。ヒロミか。
「そういや婚約おめでとう、って言いたいとこやけどトーヤ的にはちょっと残念やよな。せっかく結婚式の招待状まで用意して驚かそうとしてたのにヒロミにばらされてもうて」
「…………エスパーかお前。それともうちの部屋に盗聴器でも仕掛けとるんか」
「犯罪者扱いってさすがに酷くない?」
「じゃあなんでわかってん!」
「わかったもなにも、瓢箪から駒や。あんだけネタにされたからにはそのくらいの反撃はしてくるかと思ったけど、そうかー、ほんまに用意してたんか。ちょっと自分が怖い」
 感心したような口調にイラッとした。
「……やっぱお前、嫌な奴やな」
「そう言うトーヤは、やっぱいい友達やな。僕みたいな嫌な奴のこと、結婚式に招待しようとしてくれてたんやろ?」
 少しはにかんだような声に固まってると、今までずっと連絡できんでごめん、って小さい声が聞こえた。
「なに水臭いこと言うとんねん。別にそんなん」
 ツー、ツー、ツー。
 無情な電子音が響く。ヒロミの奴、ちゃんと充電せんかったな。
 携帯を睨みつけてたら、アナウンスが聞こえた。やっと電車が動き出したらしい。そういや、あんなに喧しかった雨の音が止んどる。窓の外を見たら雲の隙間から空が覗いてた。硝子に映った自分が泣いてて驚いたけど、考えてみたら生死不明やった奴が生きてたってわかったら泣くんが普通やよな。殺意が湧く方がおかしい。時雨屋花名の小説読んですぐにワタヌキやって気づいたけど、それでも。
 名は体を表すってほんまやなぁ。随分久しぶりに話したのに、全然そんな感じせえへんかった。人を小馬鹿にしてるとしか思えん話し方も芝居がかった感じも、昔のワタヌキと同じや。雨のあとも空の色が変わらんのと一緒。
 ワタヌキは、泣けるようになったかな。ちゃんと笑えるようになったかな。小説家になる前はなにして生きてたんやろ。訊きたいことがたくさんある。ずっと言いたかったことも、声を聞いてて思いついたことも。
 どれから言おうかなって考えながら猫を撫でようとしたら、するりと逃げられた。人見知りはせんけど、かと言って簡単に気を許すこともせえへん感じがやっぱりワタヌキに似てる。
 またアナウンスが聞こえた。もう電車が来るらしい。もっと考える時間欲しかったなぁ、って思いながら荷物を纏める。待合室のドアを開けながら、とりあえず最初に言うことだけ決めた。

 久しぶり、『そら』。