序二段「怯懦」

       
地下鉄ではしばしば眩暈を覚える。
 電車は始発にほど近い乗車駅から隣市の中心地に向かい、そのまま郊外の丘陵地帯へ抜ける。くすんだ橙色の長椅子が向かい合わせで並ぶ、地下鉄では一般的な車両だ。
 座席はまず端から埋まる。私も無論、端が好きだ。始発なのでほぼ座ることができるが、稀に上手くいかないことがある。各扉から滑り込んだ数人が、示し合わせたように端の席をごく自然に埋める。みな必死さを漂わせはしない。是非とも端でなければならないとまでは思っていないのだ。慎ましやかで滑稽な椅子取りゲームである。
私は須らくこれに負ける。そんなとき、慌てて辺りを見回してしまう。最も離れた端の席で一息ついた若い女と目が合う。嘲りを押し留めた声が。
「席空いてますよ」
 無視してすぐそばの長椅子に駆け寄る。何の問題も無い。座れるのだからそれでいいではないか。
 長椅子のちょうど真ん中に腰を下ろす。臀部の下にクッションの切れ目を感じるほどちょうどである。
 後悔が鎌首を擡げる。私が座っている部分と両端の空間に目を遣ったためだ。一人分より広く二人分より狭いように感じる。しばらくすれば次に乗って来る者が座るだろう。どこに座る? どのように座る? 私の方へ詰めるのか、端の者の方へ詰めるのか。どちらとも言えない部分で落ち着くのか。端の方へ詰めれば私はどうなるのだろう。六人掛けの椅子の中心に孤立して座す自分を思い浮かべると、すぐにその想像を畳み込みたくなった。
かといって私の方へ詰められても具合が悪い。その者と端の者の間に一人分とも足りない領域ができてしまう。端の者が寄ることはあり得ない。ならば私と私の方へ詰めた者が、一人分を捻出するために反対側へ動くか、死んでいる領域を埋めるために端の者の方へ詰めるかしなければならない。
どちらにせよそれは現実味がない。少なくとも私にはできない。運動会の児童のごとく息を合わせて動くことができるのか。私の方へ詰めた者と。まだ乗って来てもいない乗客と。声をかけるのか。わざわざ私の方へ詰めることを選んだ者に。
「ドアが閉まります、ご注意ください」
 気付くと駅に着き、乗客が既に私と端の者の間に立っていた。線の細い女だ。この領域にぴたりと収まる大柄な男ならと希望を抱きつつあったが、あっさりと顛覆した。
 私は焦った。下を向いて焦った。同時に妙案が浮かんだ。今の内に端の者へ寄ればいいのだ。この禍々しい空間を、女一人分の領域に転化させればよいのだ。
 女はゆっくりと頭を回し、肩をくねらせる。それを確認した私は、腰を突き出すようにずらしながら、そちらに身体を小さく寄せた。
 成功したのには幸運が作用した。女は私の方へちらりと目線を向け、隙間と余裕を見極めてほどよい収まりに着地したのだ。
「よかったですね」
 私は女の目線が自分から完全に外れたのを見送って、感慨深げに眉を上げてみた。自然と目尻が下がった。

 幸福感とは気怠いものである。頭脳が鈍麻していくのである。それゆえ気付くと状況の把握が追いつかなくなることもある。
 車内では人の凝集が進みつつあった。日曜にも関わらずこの混み様は、何か催し事でもあるのだろう。
 視線を薙ぐと、先ほどの私の煩悶を飲み込む勢いで座席は埋め尽くされていた。両側からの圧迫感と狭窄感。
 靴が見える。すぐ前に人が立っている。妊婦や怪我人ではないだろう。病人なら自己申告をすればいい。しかしもし老人ならこちらから席を譲った方が良いのではないか。老人なら――。
 すぐに目を瞑る。当然だ。私はまだ意識が朦朧としているのだ。鈍麻は甘い痺れを抱いて尾を引いている。つまりは酩酊である。
 瞼がむず痒い。目を瞑ろうという意識自体が目を瞑る障害になっている。目を瞑っても私の意識の中に靴が投影されてしまう。
 私はささやかな幸福による倦怠感を理由に、老人に席を譲ることを拒否しようとしているのだろうか。いや、正確には老人であるかはわからないので目を閉じて確認を拒絶したのだ。老人でなければ譲ることが正しい選択としては成り立ちにくい。そして老人であっても譲られることに不快を覚える者もいる。
 それを防ぐためには確認しなければならない。老人であるか。老人なら、席に座りたがっている老人であるか。自分が座りたいのではない。自尊心のために施しを与える道化にはなりたくないのだ。
 私がたとえ道化と自嘲しても周囲の感心は得られるだろうが、それはやはり半端な感心なのだ。賞賛の手前で転落した感心は、やがて生臭い悪臭を放つ欺瞞を私の心中に引きずり込む。たとえ欲する者に席を譲ったとしても、自己犠牲という小さくも高潔な結果が独り立ちして私の精神の汚泥と反発するのだ。高潔は矛盾を攻撃する。私の汚泥にはその矛盾が卑屈を餌としてボウフラのように巣食っている。
 私は突発的な怒りに駆られた。無性に腹立たしい。なぜ私がここまで気を遣ってやらねばならないのだ! そんなことは目の前の乗客は知る由も無いことであり、私自身が自分の中に勝手に設けた問いに景気よく回答できないことが悪いのも承知している。しかし視界から私の意識に侵入してくる靴に対して抱く憎悪はもはや揺るぎない。
 目の前の靴が動いた。同時に両隣の圧迫感が緩和する。アナウンスが告げる駅名は、市の中心部のそれだ。
 空いた自動扉から逃げる湿気に吸着するように私の頭は浮き上がり、動いた靴の主の横顔に自然と視線が向いた。
男である。しかし年齢のよくわからない男である。老けた青年か、若作りした中年か。見定める前に降りる客の波が男を沈めた。
「扉が閉まります」
 機械音が聞こえる。結局私にはできなかった。座席から男の顔を見上げて確認することが。もし目が合えば私は席を譲るどころか、葛藤の下に落ち着かない瞼を意識することすらできなくなっただろう。
 姿勢を正すと、首が心なしか痛む。代わりに車内を捉える広い視野が意識を覚醒させた。
催し事があるのは先程の駅なのか、私と向かいの老婦人以外はあらかた空席となっていた。
「よかったですね」
 老婦人から顔を背けた私は、空いた両端の席を交互に見比べていた。

         
 大学というのは概ね山の上や、高台にある。広い敷地を確保するにはそのような土地しかないのだ。では専門学校はどうなのだろう。
 繫華街のように有象無象が軒を並べる雑景はないが、無機質なビルが通りから生えそろっている。肌寒さを感じる乾いた風に追い立てられて、私は約束の店の扉を開けた。
「遅いよ」
 先輩は私の姿を見ると表情を変えずに軽く肩をすくめて言った。時計に目をやると、二時五十五分。約束の時間にはまだ五分ある。
「すみません」
 頭をせせこましく下げながら上目にちらと見上げると、化粧の薄い頬が緩んでいる。ぱちりとした目でこちらに向かって微笑んでいる。わかっていたが最初だけはと思い、目を見て話しかけた。
「謝らないでよ、みっともない」
 座ろうと腰の下に手をやると、妙に固い椅子であることがわかる。できる限りそっと腰掛けることにする。
「久しぶりだな小松君。まあ楽にして、好きな物を頼みなよ」
 先輩はそう言うと、顎に手を当てながら私が開いたメニューをしげしげと眺めている。恐らく自分もこれから頼むのだろう。
『純喫茶マルク』と書かれた黒いインクを手でなぞるとがさがさと紙の荒れる感触に指がくねった。
 手を挙げるとニコニコと明るい表情を目一杯押し付けてくる女の店員が注文を取りに来た。
「アイスコーヒーで」
「私もアイスコーヒーで」
 メニューから目を離さずに注文した私の声に被せるように、先輩は妙に大きな声で言った。空気の振動が私の左の鼓膜から右の鼓膜へと移っていく。店員に顔を向けて話す先輩の姿がテーブルの光沢に浮かんだ。
「用はなんです?」
「ここに来てもらうのが用だよ」
「なぜ」
「君の後輩たちに、君が最近呼び出しに応じないから何とかしてくれって泣きつかれたんだよ」
 無意味にはぐらかしたりせずに簡潔に目的を伝えてきた。彼女の言う私の後輩たちよりも円滑に意志を汲み取ることができるのは有難い。後輩たちが通う学校の近辺であることは既にわかっていた。しかし久しぶりに会う先輩の目的がそんなことだけだったとすれば、苦渋の道程が彫りを深めて私の記憶に再び立ち込めてくるような気がしてしまう。
「まあ久しぶりに会って話でも聞こうと思ったのもあるよ。子供の使いでもあるまいし」
 先輩は角ばったグラスを持った店員が私の視界に入る前に、ミルクの入った容器に手を伸ばした。インクか黒鉛か判別のつかない黒ずみが爪の内側で鈍く光っている。
「自分は特に代わり映えしませんよ。報告することもないし」
 無造作に置かれてコースターからはみ出た水分でよれよれになったストローの紙の包装を、私は指で弄ってみた。手元で近づけたり遠ざけたりしながら。
「四年制の大学に行ったんだって? 名前は知らないけど。美術関連の専攻はないみたいだけど」
「先輩だって四年制の大学じゃないですか」
 ストローから脱がせた包装は、脱皮した芋虫の皮のように空気の振動に合わせて揺られている。そこに焦点を合わせると、テーブルが茫漠な背景としてひたすらに広がっていくような悪寒が匍い上がってくる。
「私は絵が好きだけど描くことにあんまり執着がないから。今だって美術関連の勉強は一応してるんだよ。描くことは多分ないけど、仕事としてやっていけたらそれで御の字だから」
 先輩が部に居なければ私は高校時代をもって絵をやめていただろう。それほどまでに私が描きたい絵を私より魅力的に描いていた。好んで描いていた。それでいて絵を描くことではなく、絵自体が好きと常々言っていた。半端な私や私の愚かな後輩たちには間違っても見出せない稀有な意識だ。
「で、なんであの子たちと会おうとしないの?」
「あいつらは今から来るんですか? みんなで仲良くお茶でもいかがって感じで」
 私は皮肉を込めるためにふっと息を立てて笑おうとした。しかし口は音もなく歪むだけであった。ひょっとこのような顔で斜め下に首をひねって見せる私に笑われるのではないか。笑われて然るべきだ。
 先輩と私と後輩たちは高校の美術部という場で一時を共にした。ただ各々の意思のままに絵を描く弛緩とも揶揄される活動の日々であったが、集団としての方向性の違いは目立って現われることはなかった。そもそも集団として何か機能を果たしていたと言い難いのは否定できないが。
「君は確か風景を描くのが好きだったよね。私もそうだよ」
 あっさりと違う話を始める。私は黙って頷きながら視線をさらに落としこんでメニューを覗き込んだ。
「気持ちがわかるかもしれないなあ。構図を考えて描くのも、見たままを写し出すのも好きだった。誰にも遠慮はいらないっていうのかな」
 『秋のデザート栗フェア』の文字がうねっていた。茶色いインクで刷られた字は、どうやら栗の丸みを表現しているらしい。試しに指で触ってみると案の定がさがさしていた。
「君は絵を――」
 栗ごはん。栗きんとん。栗のタルト。栗ロール。栗のミルフィーユ。
「栗の花」
 栗の花はきれいなのか? しかし臭いは……。
「まあ手伝ってやりなよ、とは言わないけど。会って話をしてみてもいいかもね」
 私の呟きが聞こえたのかはわからなかったが、先輩はグラスに添えていた手を手繰り寄せていた。腕時計を見ているようだ。
「もうすぐ来るんですか?」
「いや、四時からだからまだまだ来ないよ」
「先輩はどうするんですか」
「私はもうすぐ帰るよ。義理は果たしたし」
 会いたくないのは先輩も同じなのだろうか。
「下を向くのが好きだね」
 その言葉に私は顎を引いたまま頭を跳ねて反応をしてしまったため、首の筋がずきりと痛んだ。
「私は色々聞きたかったから来たつもりなんだけど。正直なところ君と同じくあの子たちはあまり好かないから、会うつもりはない」
 声色に若干曇りが感じられる。そこはかとなく廓寥とした曇りが。
「ではまた会おう!」
 私の視界に黒く重量のある物が突如として出現した。かと思うとぱちりとした目が私を斜め下から窺うような姿勢をとっていた。私とテーブルの間にはわずかな隙間しかないのだが、素っ頓狂な声を上げながら強引に先輩は割り込んできたのだ。弾けるような笑みを見せ、逃げるように立ち上がる。
「お代はもっておくよ。君はくれぐれもがんばってくれ」
 歯を見せながら先輩は伝票の貼りついた板を扇子のように優雅に振った。
 
 私はそれを苦笑いとともに見つめた。お世辞の一つでも言えば据わりのよさそうな苦笑い。目だけはまじまじと。据わらせて見つめることで敬意を。下を向いてしまうのは避けなければならならない。
「あの子たちは好きではないが、苦手といえば君の方かな」
 踵を返すその女性から聞こえたような気がするが、そんなことはありえないとも思った。
私の前に広がる店内の風景。それは窓から差し込む雲翳に包まれ薄暗い。のし棒で引き延ばしたようなテーブルの上に角ばったグラスが。注がれたアイスコーヒーの黒。そして、栗の花の臭い。

          
「早かったですね」
 声に遅れて扉にぶら下がる鈴の音が大きく一回。小さく二回。
相も変わらず体の各部位が不自然に長い男である。小奇麗な黒い皮靴。胸元に目線をあげると大きく切れ込みの入ったシャツの合間から不健康に浮き出た鎖骨が見える。
「一人で来たんですか?」
 大井の語気には馬鹿にした風情はなく、安心と余裕がうっすらとしみている。しかしそれは慇懃に偽装されていた。
「そうだよ。ここは結構遠かったけどね」
 言い終わる前に私はしまったと思った。皮肉を言ってしまったのではないかという意識に陥った。遅れて席に着こうとする松本と岡田の二人を振り返った大井。その横顔が一瞬止まったのを盗み見ると険しく眉を寄せていることがわかった。しかし大井は窃視に気付いたように、口角だけの笑みで向き直ってきた。私が皮肉を自覚し取り繕うとしていることを見抜いたのだろうか。
 私は再びメニューに頭を沈めた。三人が席に着く様子に対して関心を見せる素振りを隠すためである。当然のように岡田は私の隣によたよたと座り、気味の悪いほど溌剌な大井と松本の二人が私の視界の上の方に固着した。とりあえず口だけを見ておけば問題はないだろう。
「今度東京でイベントがあるんですよ」
 松本は甲高い声で嬉しそうに言った。大げさに身を乗り出しかけて大井の肩に長い髪が撫でるように当たった。
「他にも手伝ってくれる人はいるんですけど、やっぱり描ける人が少ないんですよ。その点小松さんならなあと思って。何度もお誘いしてますけど、なかなかはっきりした返事がなかったもんで……。わざわざ来てもらうことになって申し訳ありませんが。まああの先輩もですけど」
 私なら――。
 専門学校に進学した私の後輩たち三人が同人活動をしていることを、ちょうど一年ほど前に知った。それから何度となく勧誘の電話が掛ってきたが私は尽く無碍にした。態度は違うだろうが先輩も同じだろう。漫画やイラストというと何か違うものを感じる、というのが客観的な回答として用意できた。
 勧誘……。所詮は勧めて誘う。入れてやる、という言動。もちろん私は丁重にお願いして欲しいわけではない。むしろそんなことで気に入らないと言えば私の方が傲慢であると思う。それに下から謙られては余計に尻込みしてしまうことも確かだ。しかしそのような言い回しに何の疑問も抱かず、悪意も込めずに他人に対して用いることが出来る後輩たちに私は忌避に似た嫌悪感を抱く。それは彼らが自分たちの活動に疑問を抱いてはいないことに原因がある。確かに客観的に見て異常な活動、異常な集団ではないだろう。しかしどのようなものにも一定の疑念を持って試薬で正否を、他人に賛否を求める私にとって、それは底意地の悪い正常であるように見えた。
「機会があったら見せようと思ってたんですよ。これ、この前のイベントで出したやつなんですけど、良かったら読んで見て下さい」
 大井は肩から提げていた小さい鞄から、丁寧にファイルにしまわれた冊子を取り出してテーブルの上に置いた。
「いや……こういうの詳しくないし」
 誰も反応を示さない。目線を落とせば冊子があり、上げれば大井と松本。必然、私は何を題材にしたのかよく分からない紙の束を見るしかなくなった。こうなれば手を伸ばすことを強要されているに等しい。
 冊子には目次が付いており、高校の時と同じペンネームだった三人それぞれの絵が載っている部分がわかった。大井と岡田はイラスト、松本は漫画だった。絵に限って言えば、私が部で見たものとそれほど変わってはいなかった。
 大井は絵に関しての知識が豊富だった。このような技法、あのような色彩。客観的に見れば上手いといえた。しかし何を描きたいのかよく分からない男だった。それがこの冊子にも如実に表れていた。「上手な」絵を描きたい、描ける、という強い心情が絵全体を薄っぺらくしている。借り物の技術で絵を虚飾している。
 松本の場合は奇を衒い過ぎており、むしろ平凡な既製品よりも安物の海賊版を思わせる珍妙さが感じられた。
「どうですかね」
 大井はいつの間にか店員に注文を済ませ、声の調子を変えずに私の方へ問いかけてきた。私は冊子から目を離さずに隣の岡田の方へ横目をやった。
 岡田は席についてからも何の言葉も発せず、俯き気味の私と違ってどこを見ているのかもわからない風体だった。服装に頓着はないようだが、一見すると以前から変化のない雰囲気である。しかし制服という最低限の規律を失って得体の知れない怪しさを身に纏っているようにも見える。
 冊子を繰って最後の一人の頁を開く。しかし岡田の絵を見た私は愕然としてしまった。岡田は以前からよくわからない後輩であったが、そんなことはどうでもよくなるほど興味深い絵を描いていた。少女の絵である。ひたすら十歳前後の様々な少女を写実的に描き散らしていた。鉛筆、水彩、アクリル、様々な手段を用いて。私から見れば同じ題材にしか見えないそれらに、強い執着を持っている風に感じられた。 
 しかしこれはどういうことだろうか。冊子の薄いページの紙に広がる妙にデフォルメされた少女。見事なまでに記号化されている。
確かに以前の岡田の描く絵は気味の悪い絵だったのかも知れない。しかし現実に果敢に挑み、描き出すことに迫っていた。
私は彼の描く少女から彼の異常を垣間見ていた。しかしそれは押しつけがましい倫理観が生む正常などよりもよほど簡潔かつ徹底したものだったため、排斥よりも共感に近い感情を抱いてしまった。そしてそれはむしろ岡田の持つ暗い輝きに私が自身の鈍い暗さを重ねて羨んだ瞬間があったと言うべきである。
後輩たちの注文した飲み物が運ばれてくる。レモンスカッシュ、コーラ、紅茶。
 再び岡田に目をやると、私の視線に驚き慌てて紅茶のカップに手を伸ばした。
「それ、俺の」
 大井は無表情で指摘すると、岡田が本来頼んでいたのであろうコーラに触れようともせず紅茶のカップを掴み取った。岡田の震えはコーラのグラスに触れてからも続き、こつこつと音を立てて中の氷が響いた。私はその怯えに、岡田の中の自分を発見できたようで嬉しくなったが同時に非難の欲求に駆られた。
 テーブルに押し付けた指が弾力を感じる。恥かしくないのか! 自分の絵を曲げられて! 上手な絵などという題字だけの作品、と言うよりそんなものは作品とも呼べない値札だ。そんなものを描かされているのだ。岡田は捻じ曲げられてしまった。大井と松本の底意地の悪い正常が岡田を歪めたのだ。
 目の前のグラスから音がした。私のアイスコーヒーから聞こえる。濁ることもなく黒々していたはずが、氷が解けることで半端な色合いになっていた。それを見て私は先程の岡田に対する昂りが自身に向かってくる非難の変容した姿であることに気付き、急速に冷えた身体とは対照的に赤面した。
「どうですかね」
 大井は私が岡田をちらと見たことを目敏く捉え、急かすように言った。松本は上目遣いとも取れる媚びた表情で大井と私を見比べた。
 岡田に対するそれとは異なる、絶対的な否定が私の手足の血を一気に脳天まで昇らせた。なぜこいつらは平然としているのだ? 岡田の描く絵から芯を奪ってしまった。平凡である彼らにとって妨げにも飛躍にも繋がる刺々しい異質を、懊悩することなく即座に取り除いた。それが問題なのだ。自分たちの基準が正しいと思っている。正しいか正しくないのかの分別自体はどうでもよい。他者を切り崩す道具としてそれを自覚なく行使できる卑怯な善良さが私には許せない。
 私はゆっくりと顔を上げ、大井の目を見た。決意を、顕然たる決意を表したつもりだった。浮いた顎、尖った頬骨の上に薄い一重の目がゆらゆらと波打っている。私は――。

「この中だとやっぱり大井君の絵が一番まとまっているかなあ。みんな普通に上手だと思うけどね」
 私は冷笑していた。
「普通って何だよ」
 笑顔の大井から何か聞こえた。
「先輩って風景画が得意なんじゃなくて人間が描けないんですよね」
 松本が大井と顔を見合わせて何かを言い合っているようだ。
「下を向いているのは何故なんですか?」
 声がした真横にふっと顔を向けると岡田が所在なさげにテーブルを見ていた。
「じゃあ僕はこの辺で失礼してもいいかな? イベントの件は今度こそ前向きに考えとくからさ」
 私は大井が持ってきた冊子を掴み取り、丸めて伝票を包み出口に向かった。大井が何かを言っているようだったが、もう聞きたくもなかった。


 帰りの地下鉄の車両では人がほとんど見当たらなかった。夜のある時間帯を過ぎたところで乗客が激減すると聞いたことがある。
 冊子を取り出す。中に余白が目立つ一頁があった。鉛筆をジャケットの胸ポケットから取り出す。ぞんざいに扱ってもそうそう折れない。余白に押し付けてみる。
「君は絵を描くのが好きか?」
 最初に部室を訪れた日、先輩は絵の具で汚れた手で何が描いてあるのかわからない床に落ちた紙片を指した。
 印刷に使った紙の相性がいいのか、鉛筆は滑りもせず、引っ掛かりもせずにその身を文字通り粉にして走る。
 後輩たちが入ってきたとき、私には迷いはなかったはずだ。私の入った美術部は、先輩一人しかいなかったので、私は先輩と部を同一視していたのかもしれない。それが甘えにも関わらず。私はそれがただじくじくと熟成された尾籠の詰まった薄汚い桃源郷になるであろうことに気付くべきだったのだ。栗の花は精液に似た臭いをしていると言うが、私と後輩たちは――いや、もはやこれらは同列なのだろう。分ける意味などない――先輩という遍く理解されうる美しい栗の花から生臭い残り香のみを抽出し、それを保存して己の自慰の残滓と綯い交ぜにしてしまったのである。
 描けないわけではない。
 私は美術室で立っていた先輩の姿を余白に描いた。しかし、その目だけは空白だ。
「君は絵を描くのが好きか?」
 鳶色の瞳。両耳との直線上からは少し下がる目尻。短くも長くもない睫毛。鋭く削るように乗せていく。
「君は絵を描くのが好きか?」
 私の手元には先輩の顔がはっきりと描かれていた。実物との比較ではなく、私にとっての、私だけの先輩の像が淡い鉛の線と余白で浮き上がっていた。
 それでも。
 それでもやはり聞こえないのだ。
「君は絵を描くのが好きか?」
 見上げた先には誰も座っていない長椅子。地下の闇を透す窓ガラス。
そこに映る顔は、ただ同じ言葉を繰り返していた。