坂野 裕人「持たざる者達」


大学生Aその一

 今年も終わりが近づき、世間ではクリスマス、忘年会、新年会といった行事がひしめき合う時期である。
私は友人も恋人も持たぬ華の無い大学生活を送っている。私のような容姿端麗、頭脳明晰、謹厳実直、文武両道、才色兼備等々どれだけ四字熟語を並べても褒めきれぬ人物に人が寄ってこないのには甚だ疑問ではあるのだが、詰まる所私は独りであるため、クリスマスおよびイブに予定が入ったことは今まで一度も無い。
 しかし、今年は昨年とは違う。というのも、私には目的が二つある。一つは、とある男への制裁である。
 
その男は、大学では陸上部に所属しており、近くを通るだけで心が浄化されてしまいそうなほどに爽やかな雰囲気を出していることから「檸檬さん」と呼ばれている。
 しかし、そんな彼にも大きな欠点がある。表では人当たりのよい性格であるが、自分の気に入らぬ人間には裏でとんでもないことをしている。あまりにも恐ろしいことであるため詳細は伏せておくが、彼の人間性を疑わずにはいられない内容満載である。
また、彼は浮気性である。現在彼には数えきれぬほどの彼女がおり、毎日のように女性を取っ替え引っ替え遊び回しており、「酒池肉林」ならぬ「女池悪林」の生活を送っている。

そんな彼を私は許せぬ。彼と付き合っている女性は真剣に交際をしていると考えているはずである。一方、檸檬氏の心は空の遥か彼方先を浮ついている。こんなことがあってよろしいのだろうか、いや、よろしくない。神様仏様サンタ様が許そうとも私は許さない。
そして、もう一つの目的は、私達持たざる者達にとって愉快なクリスマスにすることである。私は今までクリスマスというものを楽しんだことが無い。それならば、檸檬氏の制裁ついでに楽しんでしまおうという企みである。無論、企画が私であるため、楽しさに関しては若干のエゴが混じっていることは否めない。なので、こちらに関しては失敗しても仕方ないと考えている。
 とにかく、私は今日クリスマスイブという日まで檸檬氏を制裁するため、そして、愉快なクリスマスにするための準備をしてきた。今宵私は愚男に正義の鉄槌を下すべく、また、少なくとも私にとっては愉快なクリスマスにすべく奔走するのである。

 黒いサンタというものはご存知だろうか。ドイツの伝承に存在するサンタで、ドイツ名をクネヒトループレヒトという。赤いサンタがよい子にプレゼントを配るのに対し、黒いサンタは悪い子にお仕置きをして回る。いわば、日本でいうなまはげのような存在である。おそらくは、子どもが悪さをしないように広まった話であろう。
 今回私はこの黒いサンタの衣装を着て檸檬氏に制裁を下すつもりである。赤いサンタが悪人を裁くのはなんだか子どもの夢を壊してしまうような気がしたからだ。
 私はサンタの衣装に着替え、サンタ袋を持つ。袋の中には小袋に詰められたお菓子が入っている。勿論、持たざる者達へのささやかなプレゼントである。他にも荷物はあるのだが、それは後のお楽しみである。
 準備を終え、いざ出陣と言わんばかりに狭いマンションの一室を飛び出した。

 私が向かうのは駅前の大通りに高々とそびえ立つモミの木である。全長三十メートル程の大木であり、一二月二五日午前零時にライトアップされる。その美しさは思わず「光の宝石箱や!」と声を出してしまうほどである。私は毎年そのライトアップを見に行くのだが、夜遅いのが災いしてか、数えられるほどの人しか集まらぬ。もう少し集まってもよいと思うのだが。
 さて、現在時刻は午後八時である。一二月の寒さが私の体にちくちくと刺さる。しかし、時間がそこまで遅くないからか、人通りが激しく騒がしい。
そして、先程から街行く人達の視線が若干気になる。やはり黒いサンタは珍しいのだろうか。
 そんな視線に臆さず、私は持ってきたお菓子を配り始めた。狙うは暇そうで一人でふらついている、いわゆる持たざる者オーラを惜しげも無く放出している人である。
「メリークリスマス!」
声をかけられた人は一瞬はっとした顔をするものの、配ってみると意外と受け取ってもらえるものである。余ってしまうのではないかと心配していたが、この調子だと思っていたよりも早くなくなりそうだ。

 さて、一時間ほど経過してからだろうか、檸檬氏が女性を連れて現れた。楽しそうに会話をしながらこちらへ向かってくる。檸檬氏は白いコートをばっちり着こなしていた。そして、いつも通り爽やかな笑顔を浮かべていた。しかし、今の私には越後屋のような下衆い笑みにしか見えぬ。
 私は彼等に近づき、
「メリークリスマス!」
 私は女性に一枚の写真を渡す。写真には檸檬氏と他の女性が楽しそうに笑っている姿が写っていた。
 女性は驚いた表情を見せた。
檸檬君、これどういうことよ!」
 檸檬氏もその写真を覗き見ると、女性と同様の表情を浮かべた。
「よろしければこちらもどうぞ!」
 ここで私は追い打ちをかけてやろうと、さらに複数枚の写真を女性に渡した。内容は言わずもがなである。
 女性は怒りのあまり、どこの言語とも分からぬ言葉をまくし立てていた。檸檬氏はただただ困るばかりである。
「お、おいそこのサンタ! この写真はなんだ!」
 困った末に私に怒りをぶつけてきた。
「それではよいクリスマスを!」
 私はそう言い残し、人混みに紛れて逃げる。
「待ちやがれ!」
 檸檬氏は追いかけてこようとするものの、
「ちょっと! 待ちなさいよ!」
 と、女性に止められていた。私の計画の駆け出しは順調なようである。

 今回、私が計画した作戦名は「私と彼と彼の彼女達との愉快な鬼ごっこ作戦」である。まず、街中で檸檬氏とその彼女と遭遇し、先程のように浮気写真を配る。それを見て怒った彼女が檸檬氏を問い詰める。しかし、彼の性格からして浮気を認め、謝罪することは無いだろう。事の発端である私を責めるはずである。
 では、責められる私が逃げればどうなるか。答えは単純明快、追いかけてくるはずである。彼には脚には自信がある。彼はおそらく、彼女を振り切り、私を捕まえることは容易だと考えているだろう。実際、少し前の私ならばすぐに捕まり煮るなり焼くなり好きにされてしまったであろう。
 そこで、事前準備が活きてくるのだ。実は、私の逃走経路は既に決まっている。そして、逃走経路に檸檬氏の彼女達が集まるように招待状を出しておいた。内容は以下のとおりである。

「我、汝の愛する者の秘密を知る者なり。詳細を知りたくば午後○☓時頃に△□☆まで来られたし」

 あらかじめ決めた逃走経路を走れば全員に出会えるようになっている。すれ違いざまに先程と同じような写真を渡そうという魂胆である。この手紙を一枚一枚手書きするのには少々骨が折れたが、想いのこもった手紙になったと自負している。必ずや、人が集まるであろう。
 そして、今回走り回る舞台は街中である。競技場のトラックで競争するならば、陸上部の彼に勝てる確率は皆無である。しかし、アスファルトの上ならば地の利は互いに無い。
そこで、私は彼に勝つため、この街を毎日走りこんだ。最初はぶつかるのが仕事と言わんばかりに待ちゆく人とぶつかった。睨まれる度に精神が削られたが、崇高な目的のためを思えば些細なことであった。今では水が流れるが如く人の間をすいすいと走れるようになった。
といっても、逃走経路で人混みが激しいのは始めだけなので、この能力は今回の作戦においてはあまり重要ではない。それよりも、体力をつけること、アスファルトに慣れること、土地勘をつけることの方が重要であった。そして、それらの目的は十分達成されたであろうと自負している。
 私は街中を普段通り走ればよい。しかし彼は、女性達をかわしながら走り慣れぬ道を行かねばならぬ。これだけハンデがあるならば私にも勝ち目が十分あるだろう。
 今ここに、サンタと愚男と怒れる女達の壮絶な鬼ごっこの火蓋が切られたのである!

 後ろを確認すると、檸檬氏が私に向かって走ってきている姿が確認できた。さすがは陸上部、人混みには苦戦しているようだが、私を見失わない程度の速さで向かってきている。その後ろには先程の女性が追いかけてきている。怒りの力とは恐ろしいもので、檸檬氏に優るとも劣らない速さで追いかけてきている。逃げながらもお菓子を配ることが出来るかもしれないと考えていたが、さすがにそう上手くはいかないようだ。
 その後も何度か後ろを確認したが、彼及び彼女は上手く私の後をつけて来ている。しかし、最初と比べて距離は随分と開いている。これならば予定通り、人通りの少ない路地へ逃げても問題無さそうだ。
 なぜ人が少ないところへ逃げるのか。理由はいくつかある。一つは女性達と上手く合流するためである。人混みだらけの道ではどの子が呼び出した女性か判断しにくい。しかし、路地で一人待つ女性などそうそう多くはないだろう。
次に、檸檬氏が私をある程度追いかけやすいようにするためでもある。早い段階で私を見失いでもされたら無意味である。私の目標は、全彼女に囲まれ怯え震える檸檬氏の姿を見ながらサンタ独特の笑いをかましてやることである。それくらいせねば制裁を下したとは言えないであろう。私の腹の虫も収まらぬ。
そして三つ目、待ちゆく恋人達あるいは若者の集団を見ていると、なんだか胸が締め付けられる感覚に襲われるからである。この現象について、かの天才科学者フコー博士は「私は確かに天才である。しかし、人の心だけは理解できぬ」と言い残している。いつか科学で解明されることを願うばかりである。

そうこうしているうちに、最初の女性との合流地点が見えてきた。一人の女性が辺りを気にしながら立っている。呼び出した女性だと考えてよいだろう。
「メリークリスマス!」
 私は彼女に近づいて写真を渡した。
「この写真は……」
 女性の顔が険しいものになった。
「詳しくは彼から直接聞くのがよいでしょう」
 そう言って私は走ってくる檸檬氏を指差した。彼女は私に目もくれず、彼の方へと走っていった。鬼投入完了である。前から自分のことを狙ってくる人を避けるのはそう簡単ではないだろう。実際少し口論になっているようだ。お陰で十分に時間が稼げそうだ。
 作戦がとんとん拍子に上手く行っている。大変喜ばしいことである。この調子で行けば目的達成も難しくはないだろう。出だしは好調、後は油断せずに付かず離れず逃げるだけである。
そんなことを考えながら走りだした時、そこからすぐの十字路で私は何かとぶつかった。


コンビニ店員B

 僕にはなんと運が無いのだろうか。せっかくのクリスマスイブだというのになぜバイトなどせねばならぬ。本来ならば今日は恋人ときらきらわくわくな一日を過ごすはずであった。しかし、悲しきかな、この世は弱肉強食である。店長の「君どうせ暇なのだからバイトしなさいよ」オーラには勝てなかったのだ。あれに勝てる者がいるとしたら、そいつは死を恐れないほどに肝が据わっているか、頭のネジが抜け落ちた阿呆かどちらかである。
 商品を陳列していると、出入口付近からやかましい警報が聞こえてきた。ちらりと目をやると、人が走って行くのが見えた。万引きである。なんとついてないのだろうか。どこかに逃げだしたい気分である。
 ここで僕は閃いた。万引き犯を追いかければよいのだ。万引き犯を捕まえるという大義名分のもとで、店内から逃げることが出来る。少しばかし外の空気も吸いたい。
そう考えた僕は他の店員の制止を無視し、犯人を追いかけることにした。

 店を出る。外の空気は店長の「いい加減仕事覚えなさいよ」オーラよりも冷たかった。周りを確認すると、逃げていく犯人の姿が目に留まった。
「待て、泥棒!」
「待てと言われて待つやつがいるか!」
 なんと律儀な泥棒だろうか、返事をする余裕があるようだ。それだけなめられているということである。許せん。取っ捕まえて簀巻きにしてやると意気込んで全力で追いかけた。

 泥棒との距離は一向に縮まらない。しかし、開きもしない。完全に遊ばれている。
 僕は足が遅い。体育の授業での短距離走は後ろから数える方が早かったし、体育祭の全員リレーでは顰蹙を買ったりもした。他の店員が僕を止めようとしたのも、おそらくそれが原因だろう。それに比べて、泥棒は僕をおもちゃにするくらいの能力と性格の悪さは持ち合わせているようである。なんと運が悪いのだろか。もう追いかけるのを止めて、店に戻り店長に叱られようか。
 そんなことを考えながら走っていると、
「もう鬼ごっこはお仕舞いだ、あばよ!」
 と、捨て台詞を吐いて、速度を上げてすたこらさっさと逃げていった。
 その時である。泥棒が何かにぶつかって後ろへ転がった。
 先ほどまで運が無かった僕に、ついに運が転がり込んできた。急いで泥棒のもとへ近づいてのしかかる。
「よくも弄んでくれたな、観念しろ!」
 寝そべっている泥棒の片腕を掴み、押さえつける。泥棒は無駄だと悟ったのか、無抵抗であった。性格はねじ曲がっているが往生際はよいらしい。
先程僕は足が遅いと言った。しかし、運動神経が悪いとは言ってない。これでも力には自信がある。小さい頃から続けている柔道が役に立った。
「あの、一体何があったのですか?」
 見上げてみるとそこには黒いサンタが立っていた。ぶつかった主はこのサンタであろう。
「こいつ、万引きしたのですよ。それで追いかけていたのです」
「おお、よく見てみればコンビニの制服を着てらっしゃる。こんな日にお疲れ様です」
「いえいえ。お怪我はありませんか?」
「ええ、大丈夫です。この通りぴんぴんしております」
 サンタは力こぶを作るように腕を曲げてくれたが、もこもことした衣裳のせいで確認することは出来なかった。
「そうだ! クリスマスに頑張って働いているあなたに……」
 そう言ってサンタは白い袋を漁り、
「メリークリスマス!」
 元気のよい声と共に、お菓子の入った袋を僕に差し出した。
「あ、ありがとうございます」
 一瞬戸惑ったが受け取ることにした。人の好意は無下にするものではない。
「あと、そちらの泥棒さんにもこれを」
 と、もう一つお菓子の袋を泥棒に差し出した。泥棒は少しの間の後、自由になっている方の手でそれを受け取っていた。恐らく僕と同じ心境だったのだろう。
「どうしてこいつにもプレゼントを?」
「それはだね……」
 何か言いかけた所で、サンタは後ろをちらっと見て、
「おお、いかん! 申し訳ないが私はこの辺で。よいクリスマスを!」
 と言って走り去っていった。なかなかに軽快な走りだった。僕もあれくらい走れればと思った。
「さあ、話はコンビニで聴かせてもらうぞ」
 寝転がっている泥棒を引っ張りあげ、コンビニへと戻っていった。
 二人でコンビニに戻ると、他の店員達の反応は一人も違わず驚きの表情を浮かべていた。まさかお前が、といった具合である。店長から注意はあったものの、いつもと違って柔らかな雰囲気を醸し出していた。
 僕と店長で泥棒の話を聴くことにした。彼が言うには、お金が無くてどうしようもなくなっていたらしく、それならばと一か八かの万引きに出たそうだ。
 僕は先程貰ったお菓子を食べながら、なんと迷惑な奴だと思っていた。店長は店が揺れて崩壊しそうな勢いで怒っている。泥棒は額と手を地面に付け土下座している。平身低頭の極みである。
「どうかこの通り! 許して下さい!」
 迷惑な奴ではあるが、
「店長、こいつのこと許してあげてくれませんか?」
 お菓子を食べ終えた僕は彼等にそう言った。店長と泥棒が驚いた表情を見せた。しかし、店長の方はすぐにいつもの表情に戻り、僕の肩を軽く叩いて店内に戻っていった。
「ど、どうしてだ?」
 泥棒の驚きは口調にも現れていた。店長とは打って変わって実に人間らしい反応である。
 僕はこう答えた。
「僕とお前は似たもの同士だからさ」


大学生Aそのニ

 それとなく振り返ってみると、なんと檸檬氏がこちらへ向かってくるではないか。さすがにゆっくりしすぎたか。
 私は泥棒とコンビニ店員に別れを告げ、脱兎の如く逃げ出した。鬼ごっこ再開である。
 気づいたのが早かったため、そこまで距離は詰められていない。走る速度もほぼ同じ、このままのペースならば追いつかれることはないだろう。毎日鍛えた甲斐があった。

 その後も何箇所かの待ち合わせ場所を通ったが、例外なく皆待ってくれていた。事が上手く運びすぎて恐いくらいである。むしろ少しドラマ性のようなものが欲しくなるくらいだ。
 さて、ここからは長い一本道になる。周りは一軒家が並び、塀がずっと向こうまで続いている。人影はほぼ無いため、檸檬氏からは、私の姿が街灯に照らされよく見えることであろう。
 そろそろ暑くなってきたなと思いながら走っていると、前方にズラリと並ぶ人影が見えた。さらに近づいていくと、その人影の正体が「檸檬親衛隊」であることに気がついた。
 檸檬親衛隊とは、檸檬氏を尊敬し、崇拝し、忠誠を誓った者の集まりである。季節に関わらず、果物のレモンがプリントされた半袖の白いシャツと、黄色の半ズボンをユニフォームとして着用することが義務付けられている。彼等にも裏の彼を教えてやりたいが、恐らく「捏造だ!」とか「檸檬様を侮辱するな!」などと聞く耳を持たないだろう。
 恐らく檸檬氏が連絡して待ち伏せさせていたのであろう。つくづくいやらしい男である。
 正直な所、彼等の介入は計算外であった。彼等もこの聖夜を楽しんでいるはずと思ったからである。檸檬氏に対する信仰の厚さを軽んじた私の落ち度である。
さて、私は今から前門の親衛隊、後門の檸檬氏と彼女達というなんとも言えぬサンドイッチを形成したこの通りから抜け出す方法を考えねばならぬ。
 前にも進めぬ、後ろにも退けぬ。ならば残りは上か横である。私が本物のサンタならば上へと逃げることも出来たのかもしれないが、生憎私は偽物である。横へ進むと塀がある。その塀を登り伝って行けばなんとか乗り越えられるのではないだろうか。
「いたぞ、黒いサンタだ!」
 どうやら親衛隊に見つかってしまったらしい。そして、考え得る選択肢は横に逃げるという一つのみ。
 そこから私の行動は迅速であった。前へと進んでいた脚をしっかりと止め、横へと切り返す。塀の前で地面をしっかり踏みしめ、ぐんと跳ねる。そして、空いている右手と勢いを利用し登る。見事上手く登れた。
 しかし、このまま一本道沿いの塀に立っていれば、足を掴まれ引きずり降ろされた後、市中引き回しにされるのは明白である。次に、ここからの逃走経路を考えねばならぬ。
 しかし、その心配はいらないようだ。というのも、塀が奥の方へと続いており、それを伝って行けば、隣の道へと出られるからである。
 今日の私は非常についているなと思いながら、焦らず慎重に奥へと進む。どうせなら非常時の訓練もしておけばよかった。
 ここで私は気づいた。後ろから親衛隊がつけてきているのである。塀をよじ登り、バランスをとりながらよちよちとこちらへ向かってくる。
「逃がすな! 地獄の果てまで追え!」
「必ずや、檸檬様の元へ連れてゆくぞ!」
「あのサンタを捕まえて、レモン漬けの刑に処すのだ!」
 忠誠と信仰がマリアナ海溝を打ち抜き、マントルまで達するほど深いものであるということがひしひしと伝わる野次の波が押し寄せ、私の精神をじりじりと攻め立てる。このままでは相手の流れに飲まれかねない。早く次の策を講じるべきである。
 私はサンタ袋からお菓子と写真を取り出し、出来る限りポケットに詰め込んだ。
 さて、まだサンタ袋にはお菓子が残っているため、ある程度の重量がある。どの程度の重さかと言うと、足場の悪いところに立っている人に向かって投げつければ、その人が後ろへ倒れてしまう程度には重い。
 察しのよい方ならこれから私がとる行動は読めているだろう。私は、カウボーイが投げ縄を投げる時と同じ要領で、サンタ袋をくるくると回し始め、勢いをつける。塀から落ちないようにバランスを保ち、狙いを定める。彼等もある意味檸檬氏に毒された犠牲者であるから、我々持たざる者の仲間と言っても差し支え無いだろう。
「メリークリスマス!」
 掛け声と共にサンタ袋を投げ飛ばす。袋は先頭に立ってこちらへ向かってきていた親衛隊の顔に直撃した。会心の投擲である。「ぎゃっ!」と小さな悲鳴が聞こえた。
 すると後はドミノ倒しの如し。後ろの人が倒れ、またその後ろの人が倒れ、しまいには塀から落ちていった。
こちらへ向かってきていた人達は横の民家へ、まだ後ろの方で登っていた人達は塀の向こうでサンドイッチになっているものと思われる。この状況を立て直すには時間がかかるだろう。写真はおおよそ全部ポケットに詰められたものの、お菓子は数袋しか詰めることが出来なかった。こちらの被害も甚大である。この勝負は引き分けといったところか。檸檬氏のカリスマ性は認めねばならぬようだ。愚男檸檬氏恐るべし。
 私は塀を伝って、隣の通りへと降り立った。すると、すぐ近くの街灯の傍で泣いている女性の姿があった。


 女子大生C

 ああ忌々しきクリスマスよ、なぜそなたはやってくるのでしょうか。なぜSとNの如く引き合う恋人達を横目に街中を感傷にひたひたと浸かりながら歩かねばならないのでしょうか。きっと彼等には嗜虐の傾向があるに違いありません。
「そう思いませんか!?」
「な、何が?」
 私は大学の先輩を居酒屋に誘い出しました。そして一時間ほどが経過し、私だけが酔っている状況です。華の女子大生が親父臭く酔っ払っている光景はなんとも滑稽なことでしょう。
「なぜクリスマスは毎年こうなのですか! このままどんちゃん騒いでいたら、キリストへの冒涜を口実に教徒が十字軍を派遣してきてもおかしくありませんよ!」
「まあまあ、いいじゃない。街中にこれだけ幸せが溢れるなんてこと、なかなかないでしょう?」
「いいえ、よろしくありません! 破廉恥です!」
 私はビールをぐいっと飲みました。一方、先輩はあまりお酒が進んでいないようです。
「飲まないのですか?」
「私があまりお酒飲めないの知っているでしょう?」
「そういえばそうでした。付き合わせてしまってすみません」
 私はぺこりと頭を下げました。
「いいけどね、楽しいから」
「酔っ払いを眺めて楽しむだなんて悪趣味ですよ」
「あら、じゃあ帰ってもいいかしら?」
「冗談です、好きなだけ見ていって下さい。だから帰らないで!」
「分かったからそんなに縋りつかないでよ、もう」
 先輩は少し困った表情をしていました。でも、なんだかんだ付き合ってくれるあたり、面倒見がよいというか、お人好しというか、何と言うか判りませんが、とにかくそういう所が素敵な先輩です。
「ところで、先輩は今日空いていたのですか? 私から誘っておいて、今更訊くのも何なのですが」
「ええ、大丈夫よ。彼にバイトが入っちゃったみたいで。彼曰く、どうしても断れないらしくてね」
 先輩はどこか寂しそうな雰囲気を出していました。
「何ですかその男、仕事の方が大事って言うのですか!私が天誅を下しに行くので、バイト先を教えて下さい!」
 私は袖をまくり上げ、立ち上がりました。
「まあまあ、落ち着いて。いいのよ、私は彼のそういう所が気に入っているから」
「どこがいいのですか! クリスマスに恋人を置き去りにして仕事へ行くなんてどうかしてますよ!」
 私は残りのビールを一気に口の中へと流し込み、焼酎を注文しました。
「クリスマスにどんちゃん騒ぐのはいけないんじゃなかったっけ?」
「先輩は別です!」
「都合のいい子ね」
 先輩は苦笑いしていました。
「とりあえず、今は私のことは置いておいて飲みましょう? ほら、焼酎来たわよ」
丁度、注文した焼酎が運ばれてきました。
「話を逸らさないで下さい! 由々しき問題ですよ!」
「あら、飲まないの?」
「飲みますけど……」
 私は焼酎に口を付け、ちびちびと飲みました。
「はあ、こんなのだから彼氏が出来ないのかなあ……」
「どういうこと?」
「こんな酒飲みを好きになる人なんているのですかね?」
「そりゃあ、世界は広いもの。一緒にお酒を楽しめる人がよいって人もいるでしょう」
 そう言って先輩は牛すじを口へ放り込みました。それにつられて、私も一つ頂きました。口の中いっぱいに染みこんでゆく濃さでした。
「でも私、そんな人と出逢ったこと無いですよ?」
「きっと貴女が知らないだけよ。周りの男の子のこと、どれだけ知っているの?」
「それは……」
 言われてみればあまり知らないものです。サークル仲間の人達とはある程度仲よくしていますが、どんな人と訊かれると答えられません。
「そういうことよ。もっと励みなさい」
「はい……」
 先程食べた牛すじと共に、その言葉が身にしみてゆきました。

 先輩と別れて帰路につきました。外の寒さが身に染みてかちこちに凍ってしまいそうです。いつかこの寒さを取り払ってくれるような温もり溢れる男性と恋仲になれるのでしょうか。
 住宅街に入り、人が少なくなってきたものの、何組目か分からないほどの恋人達とすれ違いました。それを見て私は嫉妬するばかりでした。
 なんて私は惨めなのでしょう。恋人がいないだけでなく、通りすがりのカップルにさえ嫉妬しているのです。こんな薄汚い心の持ち主と付き合ってくれる人なんているわけないのです。
 そんなことを考えていると思わず泣いてしまいました。きっと私は必要とされていないのです。土の中で微生物にじわじわ分解されるのがお似合いなのです。
 そんな具合に負のスパイラルに陥っていると、
「どうかなさいましたか?」
 と、声をかけられました。目を向けると、そこにはサンタさんがいました。しかも、普通のサンタさんではなく、黒いサンタさんでした。
「聞いてくれますか、聞いて下さいますか!?」
 花も恥じらう乙女が泣いている所を見られて恥じらわないわけはありません。しかし、酔った勢いもあって、身を乗り出す勢いで返答してしまいました。
「ええ、私でよければ」
 少し間がありましたが了承して下さったようです。
「どうすれば人のお役に立てるのでしょうか!?」
「これはなかなかに難しい問題ですね」
 サンタさんは頭を抱え、うんうんと唸っています。きっと真剣に考えて下さっているのでしょう。
 しばらくして、サンタさんが口を開きました。
「一つ気になるのですが、どうして君はそこまで他人の役に立ちたいのですか?」
「だって、そうでもしないと私の存在意義が無くなってしまうじゃないですか!」
「なるほど、君はなかなかに欲張りな人のようですね」
「欲張り?」
 サンタさんがうんうんと頷きます。
「君ほどの人間ならば、感謝されたこともあるでしょう?」
「ええ、まあ」
「ならば既に人の役に立っているではありませんか。君はマザー・テレサにでもなろうというのですか?」
「さすがにそこまでは……」
「ならばよいのではないですか?」
 サンタさんの言っていることはご尤もです。悩む必要なんて無いはずなのです。
「だから君は欲張りなのです。人の役には立っているものの、自分では満足しきれていない。きっとそういうことなのです」
「ならば私はどうすればよいのでしょうか?」
「阿呆になりなさい」
 私は思わずきょとんとしていまいました。一方、サンタさんの方はにやりとしているようにも見えます。
「余計なことを考えるからそんなことを考えてしまうのです。ならば、何も考えられなくなるくらい阿呆になりましょう」
「なるほど……。でもどうやって?」
 そこでサンタさんがポケットから何かを取り出しました。
「君にこのお菓子を進呈しましょう、私の自信作です」
「意味がよく解らないのですが……」
 お菓子と阿呆がどう繋がるのか、私には見当もつきませんでした。
 ふと、サンタさんが振り返りました。私も同じ方を向くと、誰かが走ってきているようでした。
「おっといけない! 私はこれで!」
 そう言い残してサンタさんは走って行きました。
「いたぞ! 捕まえろ!」
 走ってきた方達は冬とは思えぬ服装でサンタさんを追いかけているようでした。
 その後ろからいかにもモテそうな雰囲気の男性が走ってきました。
「あのサンタめ、許さん! 捕まえたらどんなどんな目に遭わせてやろうか……」
 どうやら性格はお世辞にもよいとは言えない方のようです。
 更にその後ろから女性達が走ってきました。
「待ちなさいよ! あの写真はどういうことなのよ!」
 どこか皆さん怒ってらっしゃるようでした。世間はクリスマスで浮かれている中、忙しい人もいるのだなとしみじみ思いました。

その集団を見送った後、私はサンタさんの言葉の意味を確かめるべく、お菓子の詰められた袋を開け、食べてみることにしました。
 中身はクッキーやチョコレートなど、甘いものばかりでした。また、クッキーは割れていて、チョコレートは少し溶けていました。でも、サンタさんの真心がこもっているせいか、美味しく感じられました。
 お菓子を食べ終えたところではサンタさんの真意が解りませんでした。私は騙されたのでしょうか。
まだ何か残ってないかと袋を覗いてみると、底の方に何かがありました。


大学生Aその三

女性とあれやこれやお喋りをしている間に檸檬氏達は態勢を立て直したようである。無理矢理ではあったが、女性に別れを告げ走り始めた。

しばらく続く一本道を走り、丁字路で左に曲がる。するとそこには檸檬親衛隊が待ち構えていた。どうやら檸檬氏は更なる援軍を要請していたようである。
そのまま来た道を戻っては檸檬氏とぶつかることになる。故に私の選択肢は丁字路の右を進むしか無かった。
右に曲がった以上、予定の道へと戻るには左あるいは右へ二回曲がらねばならなない。
しかし、次の十字路で私は左へも右へも曲がれなかった。例のごとく親衛隊が待ち構えていたのである。私に許されたのは真っ直ぐ進むことだけであった。
ここで一つ不思議なことに気がついた。彼等が私を確認しても追いかけて来ないのである。ド近眼の集団であるならば納得がいくが、全員が全員そういうわけではないだろう。実に奇妙なり。
その後も行く先々に親衛隊が道を塞いでいた。私が彼等に誘導されていると気がついたのは行き止まりに追い込まれてからであった。どうやら土地勘をつけるという目的は完全には果たせていなかったようである。

というわけで現在行き止まりに私、私の背後には壁、眼前には檸檬氏と親衛隊数人といった配置である。彼女達は私を追いかけて来なかった親衛隊に止められているのであろう。
後ろの壁から逃げることが出来ないかと考えたが、この状況では、壁を乗り越えようとしている間に捕まってしまうであろう。ついに私は万策尽き、万事休すといった状態である。
「やっと追い詰めたぜ」
 檸檬氏は悪代官のような笑い声を上げながら言った。この姿を見て尚、檸檬氏への信仰を失わない親衛隊に惻隠の情を催した。
「お前は一体何者だ? いや、誰だっていい。俺をこんな目に遭わせたのだ。表を歩けないようにしてやる!」
 どうやら私の冒険はここでおしまいのようである。今思えばなんと阿呆なことをしでかしただろうか。制裁するだけならば写真を直接彼女達に送りつける方が余程合理的かつ安全だったではないか。別に檸檬氏が苦しむところを見る必要など一切無かったではないか。今思えば、いつも通り過ごしていても十分幸せなクリスマスだったではないか。
「親衛隊! あいつを簀巻きにしろ!」
「了解しました!」
 檸檬氏の掛け声を合図に親衛隊が飛びかかってきた。思わず私は顔を伏せた。
 その時である。前の方からしゃんしゃんと鈴の音が聞こえた。しばらく待っても親衛隊が私を巻きにこない。
 顔を上げてみるとそこには大男の後ろ姿があった。背丈は二メートルほどで、体は関取のように太かった。黒い衣裳のせいか、背中から禍々しいオーラが漂っていた。
そんな大男の登場に檸檬氏と親衛隊は唖然としている。
「な、何をしている! 行け!」
 檸檬氏がそう言うと、親衛隊は気を撮り直してこちらへと立ち向かってきた。
 すると大男は息を腹の底深くまで吸い込み、一気に吐き出した。するとどうであろう。辺りに突風が起こり、親衛隊はバランスを崩し、地面をころころと転がってゆくではないか。檸檬氏はそれに巻き込まれ、親衛隊共々団子状態になっていた。
 大男が振り向いた。顔が髭やら眉やらで隠れていてよく見えない。ただ、表情は笑っているように見えた。
 大男が手を二回叩く。すると何かが弾け、煙の中からサンタ袋が出てきた。そして、それを私に軽く投げてきた。受け取って中を確認すると、私の作ったお菓子が入っていた。しかも、私が部屋を出た時の量に戻っているではないか。一体どういう手品なのだろうか。
 ふと、大男の方を見ると、私を指差した後、腕を振る動作をしている。これは私に腕を振れと伝えたいのだろう。
 試しに腕を軽く振ってみると、光の筋が現れた。大男の方を見ると、もっと大げさに腕を振っていた。私はそれに負けないくらいの勢いで腕を振る。
 すると、先程とは比べ物にならないほど、眩い光が私の腕から虹のように遠くへ大きく伸びていった。その光に手を当ててみると、ガラスのようにしっかりとした手応えが感じられた。光の道の完成である。
 もう一度大男の方を見ると、満面の笑みを浮かべ、街中に響くであろうあの笑い声を上げた。それにつられて私もそれに続き、大きく笑い声を上げた。
 この時私は、今なら何でも上手くいくような気がしたのである。
 私は袋からお菓子を取り出して大男に手渡した。
「メリークリスマス!」
 大男はそれを手に取るとまた大声で笑い始めた。実に愉快な人物である。

 私は光の道を歩き始めた。当初の予定とは違ったものの、檸檬氏の制裁に関しては十分達成できたであろう。彼が表を歩けなくなる日も近いと考えられた。
しかし、こんなに清々しい気持ちは生まれてこの方経験したことがない。細胞一つ一つが愉快痛快と言わんばかりに騒いでいる。
 光の道はそれほど高さはなく、せいぜい五階建てのビル程度の高さである。その程度の高さでも、街を見下ろしながら歩くというのは素晴らしい体験のように思えた。
 るんるんと光の道を歩き、サンタ袋の中のお菓子をばら撒く。そのお菓子はニュートンを知ってか知らずか、一瞬宙に浮いたかと思うと、まるで意志があるかのように何処かへ飛んでいった。
 その投げたお菓子の一つがすぐ横のビルの屋上へ飛んでいった。屋上をよく見てみると一人の男性が驚いた顔でこちらを見ていた。


 サラリーマンD

 今日はクリスマス、正確にはクリスマスイブである。そんな日にビルの屋上に来る理由は唯一つ、飛び降りるためである。
 単刀直入に言うならば、人生が嫌になったのである。よいこともあるにはあるが、それでは補えないほどの嫌なことが起こるため、私の人生はマイナス方向一直線なのだ。
 せめて来世ではよい人生を、と神に願い、飛び降りる準備を始める。靴を脱ぎ、靴の中に遺書を入れ、手すりに捕まって乗り越える。
 そう、あれは手すりを乗り越えようとした時である。目の前を光が通って行った。私は驚いて、手すりから手を離し、後ろに倒れた。
 光の筋をじっと見つめる。眩しさは感じられたが、直視出来ないほど強いわけではない。それなのに、この世で一番明るいのではないかと思わせる存在感があった。
 しばらく光を眺めていると、私の頭に何かがぶつかった。転がったそれを手に取ると、お菓子であった。
 どこから飛んできたのだろうかと辺りを見回す。するとその光を歩く黒いサンタがいるではないか。
 サンタという天使的存在と黒という悪魔的配色が互いを打ち消し合い、「私は凡人である」と訴えたいのであろうか。もしくは私は既に死んでいて、私を迎えにあの世からの使者がやってきたとでもいうのか。はたまたあるいは……
「そちらのお方、ここで何をしているのですか?」
 私が混乱していると、サンタが話し掛けてきた。
「え、えっと……自殺を少々」
 意味の分からぬ返答になったのは重々承知であるが、混乱中なのだから仕方ない。
「なんと! 勿体無い!」
 サンタは驚きの表情を浮かべた。
「なぜ死ぬというのですか?」
「貴方には関係ないでしょう」
 むう、とサンタは少しふてくされた様子を見せた。
「分かりました。どうしても死ぬと言うのならば考えがあります」
「考え?」
 そういうとサンタは私の方へ手を向けてきた。しばらくすると、私の体は徐々に浮き上がっていった。
「い、一体何を……」
 その後、サンタは向けてきた手を振り
「飛んでけ!」
 と叫んだ。私はその手に釣られたかのように体が飛ばされた。
 地面が段々と遠くなり、高さを増していった。

 勢いが落ち着いた時、私は空を自由に飛んでいた。街明かりが眩しく、人がうごうごとしているのが確認できた。
 しかし、なんとまあ絶景なのだろうか。上空から乗り物を使わずにこのような光景を目の当たりにすることなど通常不可能である。その特別な感情と街の景色が混ざりあい、この絶景を作っている。これほど気分がすっきりするのは久しぶりではなかろうか。
 しかし、そんな鳥の気持ちから一変、身も心も急転直下を迎える。浮力が無くなり、みるみる地面に落ちてゆくのだ。
 落下中、私は叫びながらも、頭の中には走馬灯が駆け巡っていた。目に映るのは不思議とどれも楽しかったものばかりで、悪いことなど一切なかった。いや、さっきまでは嫌なことだったが、今となってはどれもがよい思い出に変わっていた。私の人生は幸せで満ち溢れていたのである。
 願わくば、もう少し生きていたかった。
 地面がみるみると近づき、最早私に抗う術は無い。目を閉じ、最期を待った。
 しかし、いくら待っても最期とやらが来ない。詰まる所、地面に当たるという感触が無いのである。
 恐る恐る目を開けると、眼前は地面でいっぱいであった。僅かながら私の体は浮いているようだった。
 その直後、私は地面へと落ち、うっ、と唸り声を上げた。さっと起き上がり、手で顔を叩き、腰を叩き、太ももを叩き、心臓の鼓動を確認した。
 どうやらまだ生きているらしい。この時の私の喜びは言葉では表せぬほどである。辺りを全力で駆けまわり、すれ違う人達に
「私が分かりますか!?」
 と声をかけて回った。変な目で見られているのは理解していたが、それが私の生きている証となった。実に素晴らしい気持ちだった。
 走り疲れ、息を整えた後、私は叫ばずにはいられなかった。
「メリークリスマス!」


 大学生Aその四

 屋上の男を飛ばした後、私は引き続きるんるんとお菓子をばら撒いていた。するとどこからか「メリークリスマス!」という叫び声が聞こえてきた。変わった人がいるものだなと思いつつ、私も負けじと
「メリークリスマス!」
 と、叫び返した。

 この光の道がどこに続いているのか私には見当がついていた。私はそこで、私にとって楽しいクリスマスにするという目的を果たすのである。そのための準備がお菓子配りであった。
 お菓子袋の中身には、お菓子の他にも入れていたものがある。それは、手紙とパーティ用のクラッカーである。ヒモを引くとポンと音を立てるグッズである。
 こちらの手紙の内容は以下の通りである。

「この手紙が手元にあるということは、貴方は他人から見てあまり縁起のよい表情をしていなかったということである。もし、時間があるのならば、二五日午前零時に駅前のモミの木前に集まっていただきたい。きっと楽しい時間になるであろう」

 モミの木の前は大盛況であった。去年とは比べ物にならないほど人がひしめき合っている。やはり、今宵は間違いなく私に運が向いている。
 私はモミの木のてっぺんに立ち、群衆に向かって大声をあげる。今の私ならば、間違いなく声が通ると思われた。
「諸君、お集まりいただき感謝する! 今宵はクリスマス! 存分に騒ごうではないか! それでは、クラッカーを用意していただきたい!」
 僅かな時間の後、私はまた声を上げる。
「それでは諸君! メリークリスマス!」
 掛け声と同時に私は腕を振り、サンタ袋を投げる。同時にモミの木がライトアップされる。辺りにお菓子が散らばり、腕から伸びた光とモミの木の電飾が煌々と輝く。割れんばかりの歓声とクラッカーの音が私の体を震わせた。そして、遠くから鈴の音が響くのであった。