グレゴリー・アントニウスⅢ世「彼女の声」


 俺はラブホテルのような空間にいた。ベッドの上では彼女が全裸で横たわり、俺を誘うような視線で見つめている。俺は迷うことなく彼女を組み伏せ、行為にふけろうとした。しかし、いざことを始めようとすると、俺はいつの間にかトールボーイ型スピーカーを抱きしめていた。トールボーイ型スピーカーというのは細長いスピーカーのことである。そして、俺のペニスはスピーカーのバスレフポート内にきれいに差し込まれていた。
「オーマイガっ」
 スピーカーからは音楽が流れてくる。俺がよく聴く、彼女の涼やかな歌声がさんさんと流れているのだ。バスレフポートから出てくる重低音は気流となって俺のペニスを刺激する。ああ……。
 しかしその幸せは長くは続かない。驚くべきことに、俺がスピーカーだと思っていたものがいつの間にか、ペニスギロチンに変化していた。その刃は俺のペニスを引き裂かんという心地で、鈍い光を放っている。さっきまで裸だったはずの彼女が、カツカツカツ、とブーツの音を鳴らしながらボンテージ姿で現れる。ハロウィンのパンプキンのような、恍惚とした表情をうかべ、彼女はギロチンの持ち手をわっしと握り締める。
「うひゃあやややっややあああああああ!」
 俺は驚愕のあまり失禁してしまう。そしてまさにギロチンが振り下ろされようとする瞬間、俺は目を覚ました。
  *
 俺は目を覚まし、はじめに下腹部が湿っていることに気がついた。どうやら本当に失禁していたらしい。
(くおおおおおおおおおおおおおおお……!)
 恥ずかしさのあまり、俺はぐねぐねのた打ち回る。失禁したこと、夢に彼女が出てきたこと、二重の意味で恥ずかしい。しかし、まあ何にせよ夢でよかった。俺は布団のシーツを剥ぎ取り、パンツと一緒に黒い袋に詰め(後で駅のゴミ箱に捨てるつもりである)、いざ出陣! と、学校へ向かった。
 学校へ向かうため、原チャリに乗り、電車に乗り、そして学校の最寄り駅から徒歩で歩く。そしてそのような日々繰り返されるルーチンワークは、俺の心を現実から離し、精神世界へといざなってゆく。
(俺は彼女をスピーカーとして求めているのか、それとも女として求めているのか、どっちなんだ……)
 学校への道すがら、俺はずっとハムスターの滑車のようにぐるぐると頭を回転させていた。そもそもなぜ彼女が「スピーカー」なのか、話は3日前に遡る……
  *
 オーディオは今、俺のマイブームである。俺の部屋は、ほぼオーディオ環境で構成されている。寝るスペースがほとんどないほどだ。ここまで俺がオーディオの道へと引き込まれたのには訳がある。それは一年前、忽然と現れたネット上で活動する歌手にある。正体不明の覆面歌手に、俺は一年前からぞっこんだった。
(彼女の声をもっと聴きたい……。より大量に、より高音質で……!)
 いい音を聞くためには、直接コンサートにいくのが一番である。しかし、ネット上でしか活動しない彼女の声を生で聴くことはできない。だから俺は彼女の声をより高品質に聞くためにオーディオの整備を行ってきた。ストラディバリウスの音色を録音した音源であっても、ちんけなスピーカーで再生したら、そこから流れ出すのはちんけな音色である。
 俺は自室のオーディオ環境の改革を決行した。最高の音色を、最高な音色のまま醸し出すには、ある程度高級な設備が必要となってくる。俺は今までの生活習慣もすべて抜本的に改革し、生活予算のほとんどをオーディオ関係に費やしてきた。オーディオに投資した金額は、ゆうに30万円はくだらない。
 しかし……それだけの設備をもってしてもまだ足りない。足りないのである。そこから流れる音は、まるで高馬力のエンジンに、ちんまいマフラーをくっつけてムリヤリ馬力を落とされたスポーツカーの排気音のような、息のあがった音色である。まるで彼女の圧倒的な声が、俺のスピーカー、アンプ、プレーヤー、その他コード類すべてを拒絶しているようである。まるでこんなちんけなシステムでは満足できないとでもいうように。
 自分の持つ財力の限界を費やして完成させたシステムがこれである。今よりもワンランク上のシステムを組むとなると、ウン100万単位の金がかかってくる。そんな金はどこにもない。
 このとき俺は切羽詰まっていた。そんなときに、その正体不明の歌手本人である、彼女が同じクラスに転校してきたのである!
「それでは転校生を紹介しまーす」
「田中はじめです。よろしくお願いします」
 その声を聞いた瞬間、俺はその転校生があの覆面歌手であることを瞬時に理解した。嗚呼……。
 覆面歌手が俺のマイブームだからといって、その歌手が世間で話題になっているという訳ではない。マイナーに語られるアーティストなのである。しかし、彼女は声とは別の理由でクラス中から注目を浴びていた。そのモデルのような体型、身長は優に170センチを超えている。俺は比較的ちびであることから、もし彼女を抱きしめたとしたら俺の顔は彼女のおっぱいの谷間に納まってしまうかもしれない。
(……俺の女にしたい)
と思わせるほど魅力的である。クラス中の男子は今まさに俺と同じことを考えているに違いない。しかし、同時に俺はこのときほかの俗物どもとは一線を画す考えを持っていた。
(彼女を……俺専用のスピーカーにしたい)
  *
 そして現在に至るわけである。仮にもし田中さんを手に入れたと仮定する。そうしたらまずは部屋にあるあの役立たずの1本5万円のスピーカーは撤去する。ハードオフに売り飛ばす。そして変わりに彼女を設置する。そして俺のためだけに歌わせる。
 俺はそのような考えを頭に張り巡らせながら学校の裏道を通っていた。周囲に人は誰もいない。俺は人ごみが大嫌いだから、校舎と体育館にはさまれたこの薄暗い道が好きである。
 とふいに前方からあの彼女、田中さんがやってきた。
「あひゃ」
 俺は恥ずかしかったのでとっさに物陰に隠れた。ううう……ひ弱な俺……(涙)。
 俺が物陰でそっと息を潜めていると「かち」という音が鳴った。ライターの点火音である。誰かがタバコを吸おうとしているのだろう。この路地は不良の溜まり場となっているから、この「かち」という音は頻繁に耳にする。そこで俺は、はたと気がつく。今この路地には俺と田中さんしかいなかったはずである。物陰からそっと顔を覗かせてみると、タバコを吸っているのは彼女であった。
「あわ……あわわ……あわわわわ」
 俺はあまりのショックにしばらく硬直していた。彼女が灰を落とそうと俺の隠れている物陰のほうへやってきた。物陰はよくみると灰皿であった。俺は彼女が灰を落とそうとする瞬間にタバコをひょいと取り上げ、叫んだ。
「デストロォォォイ」
 俺は取り上げたタバコを地面に投げつけ、靴の裏でダムダムと何度もたたきつけた。そう何度もだ。
 俺はタバコが大嫌いである。タバコを吸うとパチンコに行きたくなる。パチンコに行くと金と単位がなくなる。吸っていいことなど何もないのだ。本当に何もないのである。それにタバコのケムリはオーディオ製品にとっては大敵である。ケムリをかぶり続けたスピーカーユニットは簡単に音の特性を変形させてしまう。そして最も許されないことに、このタバコはあろうことか、俺のスピーカーユニットたる彼女の喉までもをその毒牙にかけようとしているのである。許せん。俺はいつの間にか苦悶の咆哮をあげていた。
 この一連の行為を、彼女ははじめ呆然とした面持ちで見つめていたが、人間とは突然我に返るもので、彼女も突然我に返った。そしてオードリー・ヘップバーン級の美貌をくにゃりとゆがめながら叫んでくる。
「なにすんのよこのピィィィッグ!」
「あわわ……わわわわ」
 彼女は俺を、ゴミを見るような視線で見つめてくる。俺も我に返って慄いてしまうが、同時に怒った彼女の顔もまたいとおしいなと思ってしまう。俺は彼女に恋しているのだ。
 そして二人の間に横たわる緊迫した状況を打ち破るのは、さらなる緊迫した状況であった。
 通路の両側から人が大勢やってくる。そして俺たち二人はそいつらに取り囲まれる。しかし、そいつら何か様子が変である。みんな顔が異様に痩せこけており、まるで骸骨のようである。とても生きている人間のように見えない。と、田中さんがぽそりとつぶやく。
「フリークス」
 フリークス。どうやらこれがこいつらの名前であるらしい。人に似て人ならざるもの、俺はこのときそう理解した。
 フリークスの一体が田中さんに襲い掛かる。彼女はチッ、と舌を鳴らすと突然歌を歌いだした。ネット上で流れているような半端な圧縮音源ではない生の声である。この場面で歌を歌うという場違いな状況にもかかわらず、俺は彼女の歌声に魅了されてしまった。
 しかし、彼女の行為が異常ではないことに俺は気づく。襲い掛かってきたフリークスは突然ぴたりと静止し、そのまま小刻みに震えだしたのである。
 彼女の歌声が俺の脳内にドーパミンを発生させているのであろうか。頭が尋常なく冴えわたっている俺は、この異形の存在に何が起きているのかを理解してしまった。
 昔、テレビで女の人が声でガラスを割るというびっくり番組を見た記憶がある。あれはガラスの固有振動数と同じ波長の声を出してガラスを共振させた結果らしい。固有振動数は人体にも存在する。それを浴び続けるとどうなるのだろうか。今、俺はその顛末を見届けようとしている。
 彼女の声のオクターブが少しずつ上昇してゆき、それとともにフリークスは全身をうねうねと蠕動させ始める。やがてそれは血を溜め込んだダニのように膨れ上がり、ポンと音を立てて爆発した。
 相次ぎ、他のフリークスどもも次々に爆発していく。俺はその凄惨な空間にいながら、そこに美しいスペクタクルを感じていた。恐らく彼女の歌声で脳がやられたのであろう、俺はいつの間にかヒップホップのダンサーのように踊りだしていた。
 俺が逆立ちしながら「ボンバヘッ」と叫んでいると突然彼女の声が止んだ。はっと我に帰った俺が見たのは、膝をつき苦しげな顔をしている田中さんである。
 いったい何が起こった?
 そのとき足元に俺が踏み潰したタバコの吸殻が転がっていることに気がついた。そして俺はそのタバコに異様さを感じた。吸殻を手に取り、中の葉っぱをほじくり出してみる。見た感じタバコの葉っぱだが、所々変な葉っぱが混ざっている。俺はこのときタバコと大麻を混ぜて紙に巻くジョイントという大麻の摂取方法を思い出した。まだ大麻と決まったわけではないが、なぜ彼女がこれを吸う?
 その謎は瞬時に氷解する。彼女の能力を高めるためだ。俺は覚せい剤で捕まったアーティストを次々に思い出していった。
 彼女はこれを少ししか吸っていない。俺が途中で叩き落したからだ。そのせいで彼女は今、膝をついているのである。くそ……俺のせいだ……。
 いよいよフリークスは身体の自由を取り戻し、彼女に襲い掛かり始める。田中さんの服は無残に引き裂かれ、あられもない姿がさらけ出される。やばい……大ピンチである。ここで俺が取るべき方法は一つしかない。
 彼女は現在満身創痍であり、指一本動かせないていである。俺が彼女にタバコを吸わせて復活させてやらねばならない。意を決し、田中さんのもとへと駆け出して行った。
 おっかなびっくりフリークスの間をかいくぐりながら、ついに彼女の前までやってきた。彼女はすでにほとんど身ぐるみを剥がされ、ほとんどすっぽんぽんである。胸と、下腹部に少し布が残っているだけである。
 しかしこのとき俺はまったくと言っていいほど興奮しなかった。人間修羅場になると本当に性欲がなくなるものなのである。似たようなことを昔体験したことがある。それは満員電車に乗っていたときのことだ。俺の股間にちょうど若い女の尻が密着するようなかっこうで身動きが取れないでいた。
(勃起したら痴漢扱いで捕まってしまう……! )
 俺は冷や汗だくだくになりながらその電車をやり過ごした。当然勃起などしなかった。
 それはともかくとして、俺は彼女の胸ポケットをまさぐり、タバコの箱を取り出す。手に胸が当たったが、当然のごとく興奮しなかった。
 よく見ると彼女は、タバコを吸うこともできないほど衰弱している。
 俺が口移しで、彼女にケムリを吸わせる。これが俺のたどり着いた結論である。
 しかし、俺はいざタバコを吸おうと、口元まで持ってきたところで、その手はぴたりと止まってしまった。身体が、そしてなにより心がタバコを拒絶しているのだ。
 禁煙を始めてはや半年……。その間俺は、生涯タバコは一本たりとも吸ってはならないという、俺の崇拝する某禁煙セラピー本の御言葉を頑なに守ってきた。もはや宗教的ですらある俺の禁煙精神はここにきていかんなく発揮されてしまったのである。
 その本には一本吸うともう一生タバコをやめられなくなると書いてある。それはつまり一生あのタバコの苦しみを味わわねばならないということ。
 だが今、俺は人命にかかわる大問題に直面している。俺の人生と、彼女の命、どちらが大切か……。
 俺はいつの間にか彼女を、虫けらを見るような目線で見つめていることに気づき、ハっとした。
「くおぉぉぉおなにをやっているんだ俺は! 彼女と俺の人生、どっちが大切かなど決まっている! この血肉、すべて彼女にささげる覚悟だ!」
 熱くなった俺は、いつの間にか叫びだしていた。非常事態になれば人はみな倫理の枠組みから逸脱してしまい、利己的になってしまうものである。俺は俺の心の中に住み着いた悪魔を今振り払ったのである。
 そしてふと目線を彼女のほうへ向けてみた。すると彼女はこちらをちわわのようなつぶらな瞳でみつめているのである。俺はピコーンときた。
(さっきのせりふ、あれでフラグが立ったな)
 心がさらに舞い上がり、俺は意を決してタバコを吸い込んだ。だがしかし、悪魔はどっちだったのか。
 ケムリを吸い込んだ瞬間、ゲホゲホとむせ返ってしまった。タバコというのはこんなにまずいものだったのか。何でこんなものを昔吸っていたんだ? と、ここでケムリを別に肺に入れる必要のないことに気づく。口に含んで、彼女に口移しで吸わせればいいのである。
 だが、なぜ初めから口に含むだけにしなかったのか。なぜ肺にまで入れてしまったのか。このとき俺はタバコの罠にはまっていたのである。
 しかし俺はこのときまだその事実に気づいていない。いや潜在的には気づいているのだろう。しかし無視しているのである。俺は肺に入れないようにケムリを口に含む。だがまるでゼリーのように、ケムリは俺の肺へちゅるりと沈みこんでいった。まったくの無意識の行為で、俺は愕然としてしまう。
 同時に体中が幸せで胸いっぱいになる。何者も満すこともできない俺の心の深淵に横たえる深い闇の心が浄化されていくのを感じる。俺はいま世界一幸せである。
 俺はケムリをぷーぅと吐き出す。身体中に蓄積された穢れとともに。
 ここでハっと気づく。本来の目的は彼女にケムリを吸わせることだったはずだ。そのために俺は決して吸いたくなかったはずのタバコのケムリを吸い込んだはずである。それなのになぜ今俺は目の前で死にそうになっている彼女を無視し、幸せそう喫煙しているのだ。そうこう考えている間も俺はぷかぷかとタバコをふかしてしまう。
「何をやっているんだ俺は!」
 すぐさま彼女に駆け寄って人工呼吸を完遂させようと一歩踏み出したところで、自分の身体に違和感を覚えた。タバコを吸ったときに感じる興奮感とは全く違う、落ち着いた感じである。武道家の達人が黙とうしているとき、おそらく今の俺のような精神状態なのではないのだろうか。
(そうか、これがあの奇妙な葉っぱの効果なのか)
 何にせよ俺は現在マンガの主人公でいうところの「覚醒した」状態にあり、したがっ武道の達人レベルであり、無敵なのである。
 メガネについている架空のスイッチをポチリ通すと、敵フリークスの戦闘値が表示される。
「どいつもこいつも戦闘力五ばかり。ゴミどもめ。しょっぱなから界王拳二〇倍だ、一瞬で片づける」
 俺は意気揚々と敵軍に向かって突き進み、フリークスの一人に向って殴りにかかった。だが、俺のこぶしはフリークスの腹に沈み込んだきり、何も起こらない。敵は吹っ飛びもしなければ、爆発もしない。
「あ……あれ……?」
 そのとき俺は気づいた。すべて幻だったのである。俺は薬物でトチ狂って特攻してゆく自爆兵のように、敵にただ突っ込んでいっただけなのである。
「ハ……ハハハ……」
 敵のこぶしが飛んでくる。これを俺は、薬物の効果か、それとも死ぬ間際だからなのかは分からないが、スローモーションで見ていた。
 と、その時、彼女の声が聞こえた。それはか細く、スローモーション故に音の振動数が引き延ばされて聞こえる俺の耳には、象牙狩りのハンターたちに虐められている象の慟哭のような声に感じられた。
 しかし、そのわずかな声でも敵に少しは効果があったようで、俺を殴ろうとしていた敵のこぶしの速度はゆるやかなものへとなった。だがそれでも多少の威力は残っており、そのこぶしを喰らった俺は校舎の壁まで吹っ飛んでいった。
 壁に叩きつけられながらも俺は必死に彼女のほうを見やる。
 彼女は口からぶくぶくと泡をふいていた。
(俺みたいな糞を助けるためにあんなになるなんて)
 彼女を助けたい衝動に駆られるも、俺は苦悶の表情を浮かべながら、ただただ彼女が敵に取り囲まれていく様を見ていることしかできなかった。俺では彼女を助けることができないのである。
 もう駄目かと思ったそのとき、敵軍を割って走ってくる人影が見えた。
 人影はどんどん大きくなり、やがてその姿が分かるところ、俺たちの前までやってきた。
 その服装は奇妙なものだった。全身を学校の制服の上からプロテクターのようなもので覆っており、その両手には大ぶりの巨大な剣を持っていた。容姿ははというと、くるりとした無垢な丸い目と、ツンツンの黒い髪の毛をたずさえている。その表情は正義感と自信で満ちていた。
(……いや、この場にこれほど相応しい恰好はないじゃないか!)
 俺はこいつをまじまじと見つめているうちに、電撃が走ったかのようにこの恰好の真意を、神の真意を理解した。こいつは「主人公」なんだ。神の寵愛を受けた、「主人公」なんだ。こいつの格好、「少年ジャンプ」によく出てきそうな、主人公のテンプレートそのものじゃないか。
 彼はなんと、俺たちがあんなに苦戦していたフリークスを、数瞬のうちにすべてのしてしまった。
 彼は、敵をすべて切り伏せた後、彼女のほうへ急いで駆け寄っていった。横たわった身体を抱き起こし、「大丈夫かい」と何度も呼びかけている。そして彼女はうっすらと目を開き、まるで恋する少女のような目でその「主人公」を見つめている。俺はその光景をただ食い入るように見つめることしかできない。
 そして彼は、彼女をそっと横たえると、今度は俺の方にやってきた。「君も大丈夫かい」と聞くが、俺は全然大丈夫ではない。好きな女に助けられ、恋のライバルにまでも助けられ、俺のプライドはもうズタボロである。彼は、俺が彼女ほどひどい怪我を負っていないと分かったようで、俺に簡単な応急処理をして、それが済むともう一度彼女の方へ戻っていった。
 その後、彼女は生気を取り戻したらしく、二人は訳のわからないSFみたいなことを話し始めた。しかしその会話の内容から、この主人公キャラはこれからあまたの異能の力をもつ、田中さんのような女と次々に出会い、ハーレム状態になるらしいことが容易に予測できた。俺にとっての唯一絶対のヴィーナスが、このハーレム主人公の攻略キャラの一人になり下がってしまうのである。通るか……! そんな考え!
そして、どうやら二人は俺の記憶を消去することにしたらしい。記憶を消す薬を俺に注射しようと、俺のいた場所を振り返るが、この時になってようやく俺がいないことに彼らは気づく。
こういう展開では何か変なことをされて「なかったこと」にされるのが定番であるから、あらかじめゴミ箱の中に隠れていたのである。彼らはどうやら俺がこの裏道から出て行ったと思ったらしく、探しに行くことにしたらしい。
(何としても彼女とのつながりを失うわけにはいかない)
 俺を探しに出る彼と彼女、そしてそれを見送るようにいつの間にかフリークスの群れは青白い炎を上げながら燃えている。じきここに怪物がいたという痕跡は無くなるのだろう。
 不意に、彼と彼女が駆けていく前方から朝日が顔を出し、逆光で彼らはシルエットになる。その陽だまりと、青白い炎で囲まれながら、俺は思う。
(俺はただの一般人……)
(主人公ではない……)
(この街に脅威が迫っており、一般人にも犠牲者が出ていることを強調するためのただのかませ犬……)
 だが男には譲れないものがある。
(でも……)
(でも……彼女だけは)
(彼女だけは……何としても取り戻す……!)
 思えばこの世界はすべてがニセモノだった。すべてはあいまいで、実態がなく、空虚だ。そんな中で唯一の本物らしさを持っていたのが「彼女」だった。彼女はこの俺にとってイデアそのものだった。彼女こそが、彼女だけが、俺をこのニセモノの世界から引っ張り出してくれるんだ。
 その彼女を……あんな変なハーレム主人公に取られてたまるか。彼女をほかの大勢の女と同列に並べるな。彼女は馬じゃないんだぞ。
 俺もじき「そっちの世界」へ必ず行って見せる。
「くびを長くしてまっていろ……!」
 そう呟き、俺はゴミ箱の中で眠りに就いた。