Anri「屋根の上の旅人」


 華の高校三年生も、夏休みを過ぎれば一気に受験という文字が現実味を帯びてくる。学校に行っても家に帰っても、目に付くのは試験や大学に関する書籍ばかりで、色気も何も無い。遊び回りたい訳でもないけれど、こうも窮屈な毎日だとさすがに息が詰まりそうになってしまう。
「おかえり」
 そんな私の単調な毎日の中で一種の清涼剤となっているのが、この声だった。
「ただいま、波多野さん」
 私の家の隣にあるアパート、その屋根に登って私を見下ろすその人を見上げて、私は少し晴れやかな気分でお決まりの言葉を返した。波多野さんは近所にある美大の学生だ。でも学校に行ってるような姿は殆ど見たことがない。かと言って家に引き込もっている訳でもない。波多野さんは旅の人だ。いつも一週間から数ヶ月くらいの旅で世界を回っていて、アパートに戻ってくるのはその旅の合間だけ。半年居ることもあれば、数日で家を飛び出していくこともある。学校がどうなっているのかとか、費用がどこから出ているのかとかは分からない。波多野さんはいつもふらっと戻ってきては、私に土産話を聞かせてくれて、そのうちふらっと居なくなる。窮屈さに辟易した私が、渡り鳥のような波多野さんに憧れを抱くのは、たぶんとても自然なことだった。
「ねえ百合ちゃん、今から時間ある?」
「えっ」
「無理かな、受験生だし」
「あ、いえ、大丈夫です」
「それはよかった。裏に梯子を掛けてあるから、登っておいで」
「は、はいっ」
 私は足早に家に入って鞄をベッドに投げ捨てると、裏口からアパートの裏庭に回った。膝丈の雑草を掻き分け、梯子に足を掛ける。脚立を伸ばしたステンレスの梯子は、私が一段登る度に頼りなく軋んだ。登り切る直前、波多野さんが私の腕を掴んで引き上げてくれた。温かい掌の温度が、少し気恥ずかしかった。
「足元、気を付けてね」
「はい」
 私が瓦屋根に腰を下ろすと、波多野さんは私のすぐ隣に座った。波多野さんの手にはクロッキー帳と鉛筆が握られていた。こちらに戻ってきている時、波多野さんはよくこうして屋根の上で絵を描いている。二階しかないアパートの屋根から見える景色は大して眺めのいいものでもないので、何故波多野さんがいつも屋根に居るのかはよく分からない。けれど、波多野さんの性格を鑑みるに、特に深い意味は無さそうだ。
「涼しくなってきましたね」
「そうだね、ぼくがモスクワから帰ってきた頃は随分と暑くて死ぬかと思ったもんだけど」
 波多野さんがこちらへ戻ってきて、一ヶ月ほど。季節は少しずつ、確実に秋へと移り変わっていく。ほんのりと冷たさを感じられるようになった風が、波多野さんの猫っ毛を揺らしていた。柔らかそうな髪に思わず指を伸ばしてしまいそうになって、慌てて引っ込めた。
「本格的に夏が終わる前には、作業を終わらせちゃいたいな」
「作業って?」
「絵を描いてる」
「それですか?」
 私がクロッキー帳を指差すと、波多野さんは笑って首を横に振った。
「違うよ。これはただの息抜き。描いてるのは油絵。ここにはいつも絵を描きに戻ってるんだ」
「そうだったんだ」
 波多野さんが隣のアパートに引越してきて数年が経つけれど、その事実は初めて知った。いつもこの屋根の上や、私の家でしか話したことがなかったから、波多野さんが部屋で何をしているのかなんてまるで知らなかった。
「一応、美大生だから、これが本業なんだよね」
「へえ、見てみたいなあ」
 クロッキー帳にデッサンなんかを描いているのはよく見るけれど、本格的に一枚の絵を仕上げているのは見たことがなかった。興味本意で洩らした私の言葉に、波多野さんは微笑みを深くした。
「そうだね、今描いてるのが仕上がったら、見せてあげる」
「ほんとですか」
「うん、是非見てもらいたいね」
「あ、でも、その絵が仕上がったら、波多野さん……」
 絵を描きに戻っているということは、たぶん、絵が仕上がったらいなくなってしまうということだ。夏が終わる前に終わらせたいと言っていたけれど、それはもうすぐまた旅に出てしまうということなのかもしれない。
「うん、また旅行にでも行こうと思ってる。今度は二、三年くらい戻ってこれないかもしれない」
「二、三年……ですか」
 今まで波多野さんが出掛けている期間は、長くても半年以下だった。年単位の長さでいなくなってしまうと思うと、さすがに気分が暗くなった。波多野さんはふらふら旅に出るからこそ波多野さんなのだけれど、会えないのは、やっぱり寂しい。
「そんな顔されると後ろ髪引かれちゃうな」
「えっ……」
 波多野さんは私の前髪を掬い上げて、困ったように笑った。
「そ、そんな、酷い顔、してましたか」
「してました。とっても寂しいですって顔。ぼくの自惚れじゃなかったら、だけど」
「う、自惚れなんかじゃないです」
 顔に出てしまっていたのが恥ずかしくて、私は立てた両膝に頬を埋めた。私一人で空回っているような気がして、何だかいたたまれなかった。
「ごめんなさい、引き止めたい訳じゃないんです」
「引き止めてもいいのに」
「えっ、そんな」
「まあ、引き止めてもたぶん行っちゃうけどね」
「ですよね……」
 淡い期待をすっぱりと否定されて、私は顔を隠したままこっそり溜め息をついた。分かったじゃあ行かない、と言ってくれるだなんて思っていないし、そうして欲しいとも思わない。けれど所詮私では波多野さんの自由を少しでも束縛出来ないことを、改めて痛感させられた。
「私も波多野さんと一緒に行けたらいいのに」
「それは……」
「分かってます。そんなの無理だって」
 私なんかが付いて行っても、波多野さんの足を引っ張ることしか出来ない。それに、私は私で、やらなければならないこともある。やりたいこと、なりたいもの。その為に今の窮屈な毎日があることも、本当は分かっていた。それでも、鬱屈した日々の中にふらりと訪れては消える存在に、私はどうしても、決して届かない輝きを見てしまう。そこに手を伸ばしたくなってしまう。それが愚かなことだと知っていても。
「私、波多野さんが居なくなると、もう二度と会えなくなるんじゃないかって思っちゃうんです」
 波多野さんはいつも何も言わずに居なくなって、何の前触れもなく戻ってくる。何処へ行くのか、何をするのかも教えてくれない。それは波多野さんが碌に予定も立てず行動するかららしいけれど、いつか私の知らない世界で私の知らない何かを見つけて、そのまま戻って来なくなるんじゃないかと、不安になる。それを止める権利なんて私には無いから、余計に。
「百合ちゃん……」
「ごめんなさい、馬鹿なことを言って。でも私、波多野さんに会えなくなるのが怖いの、寂しいの」
 私は波多野さんの手を強く握った。こうしないと今に風のように消えてしまうんじゃないかと思った。自由なこの人が好きなのに、束縛しておきたい気持ちが抑えられない。矛盾が胸の中で渦巻いて、泣いてしまいそうだった。
「だったら、百合ちゃん。ぼくの帰る場所になってくれる?」
 私の手を握り返して、波多野さんはまるで何でもないことみたいにそう言った。
「帰る、場所?」
「そう。ぼくには今まで、帰る場所なんて無かったから」
 波多野さんは顔を上げると、私に初めて過去を教えてくれた。波多野さんの生まれはとても裕福な家庭で、高校までは厳しい教育を受けて、今の私よりもずっと窮屈な生活を送っていた。でも歳の離れた弟が生まれてからは両親の期待がどんどん弟に向いて、いつの間にか波多野さんは用済みになっていたらしい。両親と仲が悪い訳ではないけれど、今の家庭に居場所は無いのだと、波多野さんは抑揚に欠ける声で語った。
「まあ、そのお陰で、好きなことを好きなように出来るようになったんだけど」
 あっけらかんと笑う波多野さんを見て、私は何だか心臓が痛くなるような気がした。波多野さんはとても強い人だから、たぶん本当に傷付いてなんかいないのだろう。けれど私は、そんな話を聞いて平気な気分ではいられなかった。
「そんな顔しないでよ。別に悲しいとかそんなんじゃないから」
「でも……」
「本題はそこじゃないの。ぼくが言いたいのは、だから百合ちゃんに、ぼくの帰る場所になって欲しいなってこと」
「私に?」
「そう。百合ちゃんがぼくの帰る場所になれば、会えなくなることもない」
 波多野さんは空いた手で私の頬に触れた。少し冷たい指先が、熱を持った頬に心地よかった。
「ほんとう?」
「本当だよ。何処へ行ったって、必ず百合ちゃんのところへ帰ってくる」
「でも、私、志望校県外だし、ここには居なくなるかもしれない」
「その時は、探し出すよ」
「私が、波多野さんのこと、忘れちゃったらどうするの」
「それでも、帰るよ」
 迷い無い言葉が、私の凝った心を少しずつ溶かしていく。そう大して歳が離れている訳でもないのに、波多野さんは私よりずっと大人で、一つ一つの言葉は何より安心感を与えてくれた。
「私……私で、いいんですか」
 波多野さんは少し悪戯っぽい笑みを浮かべて、私と額をくっつけた。
「ぼくが居なくなって寂しいなんて言ってくれる変わり者は、たぶん他には居ないだろうからね」
 波多野さんの優しい声に震えた鼓膜が、じんと痺れるような気がした。私はもう何と返したらいいのか分からなかった。自分から握った手を振り払って、さっきしたように膝に顔を埋めた。
「あれ、すべっちゃったかな」
「ち、違います、そういうんじゃなくて」
「じゃ、返事は?」
 波多野さんが私の顔を覗き込んで、楽しそうに笑った。私はどうにか顔を上げて、波多野さんの顔を見た。少し色素の薄い茶色の瞳がきらきら光っていて、とても綺麗だった。
「……なります。私、あなたの帰る場所に、なりたい」
 精一杯笑ったつもりだけど、私の眼からは何故か、涙が零れ落ちた。





 一週間後、私が学校から帰って来ると、屋根の上に波多野さんの姿は無かった。別にいつもそこに居る訳でもないのだけれど、何となく違和感を感じながら、私は家の玄関を開けた。
「ただいまー」
「ああ、おかえり」
 お母さんが台所から顔を出して迎えてくれる。そのまま水音のする台所へ戻ろうとしたお母さんは、何かを思い出したかのように立ち止まって、私を見た。
「ああ、そうそう、隣の子からあんたに荷物預かってるわよ」
 隣の子、という言葉に、私は心臓が跳ね上がるのを感じた。
「隣の子って……」
「あの子よあの子。隣のアパートの。何て言ったかしらね、あのスナフキンみたいな子」
 間違いない。波多野さんだ。けれど、渡したいものがあるなら、直接渡せばいいのに。言い知れない不安のようなものを感じながら、私はなおもお母さんに訊ねた。
「そ、その人、何か言ってた?」
「え? 何かって……別に何も。ああ、でも、何だか大荷物背負ってたわね。また旅行にでも行ったのかしら。いいわねえ」
 私は愕然として、それ以上何も言えなくなってしまった。波多野さんが何も言わずに居なくなるなんていつものことだ。落ち込むようなことじゃない。けれど今回は、せめて行く時くらい知らせてくれるんじゃないかと思っていたのに。私もあんな生活してみたいわ、なんて話すお母さんを放ったまま、私は重い足取りで階段に足を掛けた。いつも通り軋んだ音を出す階段が、やけに長く思えた。
「あ、預かってる物は、あんたの部屋に置いてあるからね」
 背後からのお母さんの声に、私は漸く荷物のことを思い出した。そうだ、それだ。波多野さんが私に残したものは、一体何だったのだろう。私は足早に階段を登って、自分の部屋の扉を開けた。ベッドの上に、茶色い包装紙で包まれた板のようなものが置いてあった。私は鞄を床に置くと、やけに緊張しながら、震える指で包装を解いた。
「あっ……」
 思わず小さく声を上げた。包装の中から現れたのは、一枚の油絵だった。波多野さんは、私が絵を見たいと言っていたのを覚えてくれていた。けれど、何より驚いたのは、キャンバスに描かれていたものだった。私だった。一見してただの本を読む少女の絵だけれど、モデルは間違いなく私と分かるものだった。でも、私は波多野さんの前で本を読んだことなんて無いのに、どうしてこんな絵なのだろう。ふとそう考えたとき、隣のアパートの瓦が視界の端に見えた。まさか。自分の頭に浮かんだ答えに、私は自分で赤面してしまった。あのアパートの屋根からは、私の部屋の窓が見える。私の机は窓際にあるから、たぶん勉強をしていたり、本を読んでいる私は、あの屋根から見えるだろう。だとしたら、波多野さんはあの屋根から、私のことを、見ていた?
「さ、さすがに、都合がよすぎかな……」
 誰に対してか言い訳しながら、私は何の気なしにキャンバスを裏向けた。息が止まるかと思った。キャンバスの裏には、ピンク色の絵の具で、一言。
 愛しの百合へ捧ぐ。
 なんて、ご丁寧にハートマーク付きで書かれていた。
「な、何それ……」
 ときめくと言うよりかは、何だか馬鹿らしくて、私は思わず笑ってしまった。波多野さんらしいなと思った。何も言わずに居なくなったことなんか、もう気にならなかった。でも、その絵の具の下に、私は鉛筆で小さく書かれた文字を見つけた。ただの事務的なメモのようにも見えたけれど、じっと目を凝らして、私は一文字一文字を追った。
 行ってきます。
 そう書かれているのを知った時、私はもう笑ってなんかいられなくて、キャンバスを抱いてその場に座り込んでしまった。初めてだった。初めて波多野さんが、私に行ってきますを言ってくれた。それは私が本当に、あの人の帰る場所になることが出来たという、何よりの証だった。私は鉛筆の文字を撫でて、今も何処かを旅するその人に想いを馳せた。
「行ってらっしゃい」
 次に帰って来た時は、私がおかえりなさいを言う番だ。そんな、いつかの未来を思いながら、私はそっと、言葉を唇に乗せた。