来幸 笑「昼休み、屋上で」

  

 空にかかる『にじ』は漢字で『虹』と書く。あの美しい『にじ』に虫偏の字が当てられているのは奇妙だが、これにはちゃんと理由がある。
 『虹』とは竜の一種なのだそうだ。昔は『虫』の定義が広く、ヘビや竜といった爬虫類も『虫』であった。『虫』である竜の一種なのだから、『虹』が虫偏であるのは当然なのである。
「そういえば、竜を爬虫類といいましたが、良かったのかしら。コイが竜になるともいいますが、魚類ではないでしょう。魚は『虫』ではないですから」
 困ったように頬に手を当て、隣の少年を見るが、
「俺に聞くな」
 少年は興味を示すこともなく、箸を動かし続ける。
「まったく、相変わらずですね」
 ため息をついて、少女も自分の弁当を食べ始めた。
 この少女は金刀守(かねともり)茉莉(まつり)。旧家の一人娘だとかで、自他共に認めるお嬢さまである。肩の辺りで切りそろえた黒髪が快活な性格を表すようにゆれている。
 そして、隣の少年は茉莉の同級生で土師(はし)伊織(いおり)という。鋭い目つきや人を寄せつけない雰囲気は孤高の狼を思わせる。
 一見すると近づきがたい伊織であるが、茉莉は物怖じすることもなく話しかける。とはいっても、
「昔の人々には、虹が竜の姿に見えたのでしょうね。すばらしい感性だと思いません?」
「別に」
 このように、愛想のかけらもない。
「もう」
 つれない態度の伊織に頬を膨らませ、茉莉は背後に目をうつした。
 金網越しに見下ろせば、笑い声が聞こえてくる。きっと友人たちはにぎやかな昼休みを楽しんでいることだろう。
 ここは校舎の屋上。二人の他にも何組か生徒が弁当を囲んでいる。十月も終わろうとしているこの時期、雨が上がったばかりの屋上は少々寒い。こんな日に屋上まで来るとは、物好きなことだ。
「わたしも、人のことは言えないですけどね。ハ、クチュンッ」
 他人事のようにつぶやいていると、くしゃみが出た。
「そう思うなら来なければいいだろう。無理してまで来ることもないだろうに」
 伊織があきれたような目を向けてきた。
「べ、別に無理なんてしてません! カイロも持参しましたし、お弁当だって体の温まるものを作ってもらいました!」
「それは無理をしているというんじゃないのか?」
 慌てて反論すると、よけいに冷たい目を向けられた。
「とにかく! わたしは好きで来てるんです。それでいいじゃないですか。あ、晴れてきましたよ! 虹がかからないかしら」
 はしゃいだ声で話をそらすと、隣で伊織が肩をすくめる気配がした。


 私立知朱(しるあか)学園。知朱山の中腹に立てられたのがその名の由来なのだそうだ。戦前から続く長い歴史を持つ中高一貫の学校で、中等部からの生徒には茉莉をはじめとした旧家名家の子女も多い。その一方でそこそこ有名な進学校でもあるので、成績優秀な中学生の進学先としても人気がある。
 伊織もそんな成績優秀者の一人だ。たぶん。
「そういえば、この前の中間テスト、土師くんはどうだったんでしょうか」
 放課後の廊下。通学カバンを手に昇降口へ向かいながら、茉莉はため息をついた。
 伊織のことは何も知らない。ひょんなことから屋上で一緒に弁当を食べる習慣ができたが、話しているのはいつも茉莉の方だ。伊織は相づちすらまともに打ってくれない。
「やっぱり、話題が悪いのでしょうか」
 友人たちからは、よく変わっているといわれる。
 今日のように漢字の成り立ちについて語ったり、地元の伝説や学園の七不思議について考察したりするのは好きなだけなのだが、奇異の目で見られがちだ。
 伊織からも、変な趣味をしていると思われているのだろうか。
 いつも無愛想な反応しか示さないが、話を聞いていないかもしれない。聞くほどの価値がないと思われても仕方ないし。
「はあ」
 もう一度ため息。
 一度考え出すと、思考はどんどん悪い方へ向かっていく。
 なんとかモヤモヤした気持ちを払いたくて、窓の外を見た。
「あれは」
 視線がとらえたのは時計塔だ。中に入ることもできるが、校舎から離れているせいか、生徒はあまり入らない。普段から出入りしているのは清掃員くらいだ。
 茉莉も二、三度訪れただけで、それっきり入ったことはなかった。
 探検するほどのものではないが、気晴らしには丁度いいかもしれない。
「久しぶりに、いってみようかしら」
 軽い気持ちで、茉莉は時計塔に向かうことにした。


 時計塔に入ると、古くさい館のにおいがした。
 一階は殺風景な部屋で、床も壁もレンガ敷き。入り口から向かって左手に上階へ上がる階段がある。この階段を上がると、時計の内部を見ることができた。
 振り子や歯車をながめていれば、気も晴れるかもしれない、そう思い、手すりに手をかけた時だった。
「あっ」
 カバンについていたストラップが手すりにひっかかった。ひもにビーズを通しただけのストラップは簡単にちぎれ、あたりにビーズが散らばった。
 友達からもらった大事なものなのに。
 あわててビーズを拾うが、レンガの隙間に入ってしまったものもあり、なかなか拾うことができない。
「そうだ」
 名案が浮かんだ。
 ヘアピンを取り出すと、レンガの隙間に入れる。苦心すること十数秒。
「よし、うまくいった」
 なんとかビーズを拾うことができた。
 その後も、ヘアピンを駆使して着実にビーズを拾い集めていく。
 それから数分。
 残すは壁際の隙間のみとなった。
 手の汗をふき、ヘアピンを持ち直したその時。
「おい」
 背後から声がかけられた。
 驚いて振り向くと、なんと、伊織が立っていた。
「は、土師くん! なな何でこんなところに?」
「時計塔に入ったのが見えたのに、いつまでも出てこないから……いや、どうでもいい。そんなことより、何をしているんだ?」
 伊織は茉莉のそばまで来ると、壁に背を預けた。
「ビーズが散らばってしまったんです」
「手伝うか?」
「いえ、これが最後ですから」
 伊織の申し出はありがたく断り、ヘアピンを隙間に入れた。すると、
 カチリ
 奇妙な手ごたえがあった。まるで、何かのスイッチをおしたかのような。
「うおっ!」
「きゃあっ!」
 突然、目の前の壁が反転し、その勢いで二人は壁の向こう側に放りこまれてしまった。


 そこは真っ暗な空間だった。
 不意に、光が生まれた。
 茉莉がペンライトを点けたのだ。
「金刀守、怪我はないか?」
「いたた。ちょっと腰を打ったみたい。でも、大丈夫です」
 顔をしかめながらも、茉莉はあたりを照らしてみた。
 物置ほどの小さな部屋で、窓は一つもない。
 部屋の奥を照らすと、地下へと続く階段があった。
「こんなところに隠し階段があったなんて。どこに続いてるんでしょうか」
「探検したいなんて言うなよ」
 好奇心に目を輝かせると、伊織にくぎを刺された。
「わ、わかってます。まずは帰り道ですよね」
 慌てて壁にライトを向けた。
 押してみるがびくともしない。
 観察すると、壁際の床に何やら金具が取り付けてあるのを見つけた。
「どうやら、これで壁が回らないように固定してあるみたいですね」
 金具をいじってみると、カチッと音がした。
 壁をそっと押してみると、まるで回転扉のようにゆっくりと回った。
「きっと向こう側にも似たような仕掛けがあるんでしょう。さっきはそれに触れてしまったのですね」
「なるほど、突然反転したのは俺がもたれかかっていたせいか」
 不注意だった、と眉をひそめた伊織だが、すぐに気を取り直した様子で立ち上がった。
「まあ、とくかく、無事でよかった。さて、帰るか」
「あ、あの」
 小部屋を出ようとした伊織の服をつかんで引きとめる。
「どうした?」
「あれなんですけど」
 茉莉は部屋の奥、地下へ続く階段を指差した。
「……まさかお前」
「帰り道も確保したことですし。ほら、『虎穴に入らずんば虎児を得ず』ですよ」
「この場合は『好奇心が猫を殺す』じゃないか?」
「そんなこと言わないで。せっかくライトまで持っているのに」
「まさか、始めから探検する気でペンライトまで持って来たんじゃないだろうな」
「いいえ、偶然ですよ。きっと、神様が探検しろと言っているのです」
 伊織はまだ何か言いたげに口を動かしたが、あきらめたようにため息をついた。


 階段を下りると通路が伸びていた。ずいぶんと広く、しっかりした造りになっている。
 意気揚々と歩きだした茉莉は、困り顔になって伊織を見た。
「どっちに行ったらいいでしょうか?」
 通路はすぐ先で五本にわかれていた。
「帰ればいいんじゃないか?」
 伊織は身もふたもないことをいう。
「下手に進んで迷子になるよりはましだろ」
「う、上手く進めばいいんですよ。えっと……そうだ、いい方法があります」
 そう言って、茉莉は教科書を取り出した。
「分かれ道にきたらこれを置けばいいんです。そうすれば、帰りはどの道を戻ればいいかわかります」
 足元に教科書を置いて、胸を張る。
「これで安心して探検できますね。さあ、どの道を行きましょう」
「……帰る選択肢はないのか」
 ため息をつく伊織を尻目に、分かれ道をそれぞれ照らした茉莉は声を上げた。
「わあ! 土師くん、見てください」
 道のわきに小さな石像が置かれていたのだ。
「ずいぶんと、趣味が悪いな」
 顔を上げた伊織は眉をひそめた。
 その意見には茉莉も賛成する。
「確かに、不気味ですね。右からヘビ、カエル、クモ、カマキリ、タコです。わたしたちが来た道にはなにもありませんね。何の意味があるのでしょうか?」
 考えてみるが、何も思いつかない。
「悩んでいても仕方ないですから、タコの道に行ってみませんか? これだけが海の生き物です」
 提案すると、伊織はうなずいてタコの道へ進もうとしたが、
「あ、ちょっと待て」
 すぐに立ち止まった。
「どうしたんですか?」
「これは全部『虫』なんじゃないか?」
「はい?」
 伊織が言わんとしていることを測りかね、茉莉は首をかしげる
「『虫』だ。昼休みに話してただろう」
「え? あ、ああ。そういえばそうですね。漢字にすれば蛇、蛙、蜘蛛、螳螂、蛸です。全部虫偏だし、間違いないと思います」
 手帳に書いてみせると、伊織はなにやら黙りこんでしまった。
「あの、土師くん?」
「クモの道にするぞ」
「ちょ、ちょっと」
 歩き出した伊織をあわてて追いかける。
「ちょっと待ってください。なんでクモなんですか?」
「漢字を見ればわかる」
「蜘蛛ですか? それがどうしたんです?」
 手帳を見てみるが、さっぱりわからない。
「虫偏を取ってみろ」
「えっと、蜘蛛から虫偏を取ると」
 ――知朱。
「ああ!」
「この学園、というか、山の名前になる。偶然かもしれないが、試してみる価値はあるだろう」
 なんともないように言う伊織に、茉莉は目を丸くする。
「す、すごいです。びっくりしました」
「気づいたのはたまたまだ。驚くようなことじゃない」
「……そこだけじゃないですけどね」
 後のほうのつぶやきは、伊織にはとどかなかったようだ。
「ちゃんと聞いててくれたんだ」
 こっそりと頬をゆるめる。
 知朱に気づいたことにも驚いたが、それ以上に、昼休みの話を覚えていてくれたことに驚いた。
 隠し階段を見つけた興奮で一時は忘れていたものの、ずっと悩んでいたことが杞憂だとわかって安心した。
「そ、それにしても」
 声が裏返らないように注意して、前を歩く伊織に声をかける。
「わたしが話したこと、よく覚えてましたね」
「今日の話だ。そんなにすぐには忘れないだろう」
 伊織は肩をすくめて答えた。
 それはそうですけど、と口をとがらせる。
「いつも無愛想に相づちを打つばかりで、話を聞いていなんじゃないかと思ってました」
「口下手なんだ。それくらいかんべんしてくれ。人前でべちゃべちゃ話すのは苦手なんだよ」
「あら、意外と照れ屋なんですね」
 クスリと笑って隣に並ぶ。
「悪かったな」
 伊織は憮然と鼻を鳴らし、ぼそりと言った。
「ちゃんと聞いているんだぞ」
「そうは見えないから、言ってるんじゃないですか」
「だいたい、聞く気がないならわざわざ屋上なんかに行くか」
「え?」
 伊織が吐き捨てた言葉に、茉莉は固まった。
「は、話を聞くのが目的だったってことですか?」
「あ、いや、そうじゃなくてだな。俺が言いたいのは、別にお前の話が不愉快じゃないってだけで」
 珍しく狼狽した伊織はペンライトの明かりでも赤くなっているのがわかる。
 自分の顔も赤くなって行くのを感じて、茉莉はうつむいた。
「と、とにかく、先に進むぞ!」
「そ、そうですね!」
 ごまかすように大きな声を出して、二人は歩調をはやめた。



 その後、何度か分かれ道にでたが、伊織の推測にしたがってクモの石像がある道を選んだ。
 そして、
「あ! 扉がありますよ!」
 茉莉がはずんだ声を上げた。
 通路の先に扉が見えたのだ。
 駆け寄って開けてみると、そこは部屋だった。
 時計塔の隠し階段があった小部屋とは違って、大きな窓がある。
 部屋の中には円卓が一つと椅子が七つ、後は空の本棚がある。長い間使われていなかったらしく、少々埃っぽい。
 窓の外には紅葉した木々が生い茂っているので、知朱山の中だろうと思われる。
「でも、知朱学園以外にこんな部屋のある建物があったでしょうか。それとも、ここは学園の校舎の中?」
 答えは出てこないが、それについてはこれから調べればいいと考え直す。
「何はともあれ、今回は大収穫でしたね」
「そうなのか?」
 茉莉は声を弾ませるが、伊織はピンと来ない様子だ。
「そうですよ。隠し階段に迷路、おまけに秘密の部屋なんて、ロマンがたっぷりじゃないですか」
「そ、そうか」
 力説する茉莉に圧倒され、伊織はたじたじと頷いた。
「昔から欲しかったんですよね。秘密基地」
「秘密基地?」
「ええ、秘密基地にしましょうよ、この部屋。時計塔に入るときに注意すれば、だれにも見つかりませんよ」
「おいおい」
 笑顔の茉莉に伊織は堅い声をかける。
「何か問題でも?」
「見つかったらどうする」
「怒られるかもしれませんね」
 のん気に笑うが、伊織が言いたいのはそういうことではないらしい。
「ここを使うとしたら、俺とお前の二人だけだろう」
 諭すように言われ、茉莉は首をかしげた。
「当り前じゃないですか。そうでないと、秘密基地じゃないでしょう?」
 そう言うと、なぜか伊織は深いため息をついた。
 ため息をつかれたのは何度目だろうか。
「ここなら屋上と違って二人きりですし、土師くんも話しやすいんじゃないですか?」
「それが問題だと言っているんだが」
「何がです?」
「もういい」
 気にしてるこっちが馬鹿みたいだ、と伊織は再びため息をつく。
 何なのかよくわからないが、気にしないことにする。それより、言いたいことが残っている。
「思うにわたしたちはお互いに知らないことが多すぎるのではないでしょうか。一緒にお弁当を食べたりしてるのに、この前のテストの結果さえ知りません。ですから、たまには二人でひざを交えて話すべきだと思うんです。それには、この部屋がぴったりです」
「俺が話すことなんか、特にないが」
「土師くんはわたしの話をいつも聞いてくれてるんだから、わたしだって土師くんの話を聞かないと不公平です」
 茉莉が真剣な様子を見て、反対しても無駄だと悟ったらしい。伊織は両手を挙げた。
「言いたいことはわかった。付き合うよ。まあ、秘密基地というのも面白いだろう。静かな空間が手に入ると考えれば悪くない」
 静かにならないかもしれないが、と仏頂面で付け加えたが、それは聞き流し、にっこりとほほ笑む。
「そう言っていただけて幸いです。さて、外も暗くなってきましたし、そろそろ帰りましょうか」
 部屋を後にし、教科書を拾いながら通路を進む。
 ほどなくして、二人は時計塔に帰って来た。
 茉莉はほっと一息つくと、振り返って頭を下げた。
「土師くん、今日はお付き合いいただき、ありがとうございました」
「別に、礼を言われるほどのことはしてない」
 冗談めかして言うと、伊織は肩をすくめる。
 そして、ふと思い出したように言った。
「伊織でいい」
 あまりに何気なく言われたので、聞き流してしまいそうになった。
「い、今何て?」
「下の名前で呼べ、俺も茉莉と呼ぶ」
「ま、茉莉って、名字すらめったに呼ばないのに! いきなりどういうことです!」
 すました顔で時計塔から出て行く伊織を、茉莉は慌てて追いかけた。
[END]