村上春樹『1973年のピンボール』@たこのには


 〈僕〉と〈鼠〉の青春を描いた初期三部作のうち二作目。著者が後の作品の題材とするものがこまごまと出てくる点、著者の出発点ともいえる。
 
 この小説のメインとなるのは、「ジェイズ・バー」での〈僕〉〈鼠〉〈ジェイ〉の会話だ。〈僕〉の家に居候する〈双子〉と〈僕〉の暮らしぶりも大きな流れではある。ただし、筋書きといったものはおよそ存在しないように思われる。著者が気の赴くままに書き連ねたという印象だ。
 本作について簡単に言うなら、青春のほろ苦さをありありと描いた作品だ、ということになる。


 こと〈鼠〉に関する記述は素晴らしい。彼の虚脱感がひしひしと伝わってくる。〈鼠〉は〈僕〉の友人であり、「ジェイズ・バー」の常連である。〈鼠〉は時にさびれた港や美しい霊園に行くのだが、その時の情景描写がつらつらと書き並べられ、彼のやるせなさやもどかしさが存分に表されている。
 後半部における〈鼠〉と〈ジェイ〉の会話も逸品だ。迷える青年〈鼠〉の虚無感を、二十歳上の苦労人〈ジェイ〉が受け止める。揺れる〈鼠〉と揺れない〈ジェイ〉のコントラストが効いていて読み応えがある。著者の乾いたタッチの賜物だ。彼らはどちらも現実に否定的で会話が暗いけれど、そこかしこに二人の友情がうかがえる。


 さて、この小説では実に多くのひと、ものが消え去ってゆく。しかし、喪失の痛みがあまり感じられない。なぜか。それは、去り行く者を誰かが「送って」いるからだ。例えば、〈僕〉は同じアパートの少女の引っ越しを見送る。街を出る決心をした〈鼠〉は〈ジェイ〉と別れの挨拶を交わす。他にも「送別」や「葬送」が語られている。唐突な別れはほとんどない。著者の他作品に「突然の失踪」が多いことを考えると興味深い相違である。
 

 では「送る」ことの意味とは何か。残される側としては、少なくともきちんとした別れをしたことで諦めがつきやすい。喪失感が和らぐ。数々の別れがあるにもかかわらず全体として暗くなりきらないのは、そういうわけだろう。
 仕上がりとして、切なげでありながらどこかさっぱりしたものになっている。これぞ青春のほろ苦さよ。