村上凛『おまえをオタクにしてやるから、俺をリア充にしてくれ』@山西

あらすじ
 中学時代に女関係でトラウマを抱えた主人公・柏田直輝は、それをバネにし、脱オタク・リア充化することを誓う。しかし、そこには数々の困難が立ちはだかる。主人公はオタクを目指している奇妙な美少女・恋ヶ崎桃と仲良くなることで、これらの困難を対処していく。しかし、空回り・・・。果たして彼はリア充になることができるのか!?

感想
 この本は、一見すると、最近のライトノベル的な、ちんぷで、くだらない、物語とも呼べないようなお粗末なものに感じられます。しかし、読み進めていくうちに、その考えは改められることになるでしょう。人によっては、頭の中でコペルニクス的転回が起こるかもしれません。私がそうでした。
 まず、私たちオタクにとって、リア充と呼ばれる人種が糞であること、これは共通認識だと思います。・・・もしもそのリア充になることを人生の目標とするオタが現れたとしたら、どう思いますか? 脱オタク・リア充化を、人生の目標にするに足る、素晴らしい行いだと思う人と、馬鹿じゃないかと、鼻で笑う人の、二種類の意見に分かれると思います。私の考えは後者です。・・・いや、後者だったはずでした。
 話は変わりますが、もう六年前になるのでしょうか、私がまだ、うら若き高校生だった頃、オタク友達とエロゲに関する議論をしておりました。当時、「うたわれるもの」、「Fate」、「ダカーポ」、「つよきす」、「車輪」、「To Heart2」など、今出せば即、今年度キラーソフトになりうるだろう巨人的タイトルが、ごろごろしておりました。エロゲ業界は破竹の勢いで成長していたのです。私はある放課後に、そのオタク友達に向かって、練習に励む野球少年たちを見ながら、彼らは、この思春期の一番多感な時期に、エロゲをやっていない、かわいそうだのう、というようなことを言った記憶があります。友人もそれに同意しました。人によっては倒錯的に感じられるでしょうが、私はわりとマジで言っていたのです。そして数年後、リア充化・脱チェリー化したその友人は、私の前から去っていきました。私は相変わらず、オタクのままです。
 本書の最終章間際でしょうか、主人公がリア充グループと、カラオケに行くという場面があります。キモオタは主人公だけです。彼は、リア充グループに馬鹿にされます。読んでいて胸が詰まる思いでした。私は、主人公と自分を重ね合わせ、もうリア充と関わるな、じっくり頭を冷やしてオタクに戻れ、と思いました。しかし、彼が選択した答えというものは、もっと自分を磨いて、リア充どもに馬鹿にされないようにしようという、途方も無いものでした。私はこの場面で、衝撃を受けました。私の人生の根本命題とでも呼べるものが、にわかに揺さぶられました。彼のそのすさまじいエネルギーは、一体どこから来るのでしょうか?
 私は初め、リア充にしてくれるという都合のいいヒロインといちゃいちゃすることが、本書のテーマだと思っていました。私もそれが目的で読み始めました。しかし、そうではなく、この物語は、リア充になるという、大きな目標を抱えた成長譚だったのです。
 最近のライトノベルは、非常にオタク的だと思います。何を当たり前のことを言っているのだと思われるでしょうが、世界観がすでにオタクなのです。つまり、ピンクの髪の女の子や、青い髪の女の子など、もろもろが現実に存在しないものなのです。これは、現代の歪んだ社会構造が抱える矛盾によってあぶりだされた、病魔とも言えるものです。このような虚構の世界を根幹から揺るがそうというもの、それが本書なのです。
 哲学的手法の中に、直接真理を語るのではなく、あえて真理を語らず、読者がおのずからその知に到達するように仕向ける、というやり方があります。私が思うに、本書はちょうどこのような作法で書かれているものであると考えられます。もし仮に、初めからリア充になることの素晴らしさを説教されれば、私は直ちにこの本を読むことを中断しました。しかし、従来的なライトノベルの形式に則りながら、徐々に、なにゆえリア充か、という考えに至らしめる本書は、まさしく一流の哲学書に匹敵する真理を突いていると考えられます。私も、自分の今までの生き方を振り返らされる機会を本書から得ることが出来ました。