お題『海の家』『夢』『ライター』@助野 神楽

 
 夢を見ていた気がする。
 目を開けて、広がる世界は白い。
 真上の景色は普段見ていないために、目を覚ますたび自分の現状に混乱する。
 眠る前の自分と今の自分は本当に同一なのか、そんな幻想的な疑問に駆られる。ほんの一瞬だがそう信じ込んでしまう。
 それでも次の瞬間には、ここがどこだか分かった。
 右も左も白い。目の前に広がるカーテンも白い。これは光の色だ。
 僕の着ているガウンのような服だけ薄い青色だった。
 ここは病院の上で、自分は入院患者だと、データを読み込むように言語化して思い出していく。
 自分が何故入院しているか、まだ思い出せない。箱の中に手を突っ込んで、触覚だけで何かあるのかぼんやりと分かる感覚に似ている。
 辺りを見渡すと、ベッドの脇のサイドテーブルに眼鏡が置いてあった。自分は眼鏡を使っていたのかと思い出して、それを掛ける。視界は鮮明になる。
 左手に違和感を感じた。見ても特に異常はなかった。
 喉か渇く感覚。
 散逸。
 視界が曇る。
 自分の瞼が落ちていくのが分かった。
 頭を振って眠気を覚ます。
 同時に、自分が煙草を吸いたいのだと意識した。左手はその感覚を頭より先に思い出していたようだった。
 他に思い出すのは、絵葉書のような景色。一瞬だけスチール写真のように頭をよぎった。
 辺りを探るが、煙草もライターも見当たらない。
「――さん」不意に声が聞こえた。名前を呼ばれたのだ。
 森の中の野鳥の鳴き声のように、風のように通り過ぎる。
「おはようございます。よく眠れましたか?」ベッドを仕切るカーテンが開かれ、看護師の女性が顔を出す。
「煙草、知りませんか? 僕のライターも」この人の名前はなんだったか、と思い出しながら僕は訊いた。
「駄目ですよ、患者さんが喫煙しちゃあ」僕に体温計を渡して言った。
「ああ、そうですよね」
「お昼の診察が終わってからにして下さいね」
「ああ、いいんですか?」
 意外だった。



 昼過ぎには外出許可が下りた。
 診察で医師に何と言われたか、もう覚えていない。
 涼しい場所に移動したくて、病院内を歩き回った。大ホールから中庭に出られた。
 硝子製の両開きの扉で、遠くに海が見えた。
 扉を開いた途端に潮風が僕を包み込む。乱反射する水面が眩しい。
 ウッドデッキにオープンカフェのようなパラソルと椅子が置いてあったため、そこに座って海を眺める。
「ここにいたんですね」気付かなかったが、看護師の女性がこちらに歩いてきていた。
「お昼休みですか?」
「いいえ、こちらをお返しに」彼女はポケットから煙草の箱とライター、そして携帯灰皿を僕に差し出した。
「ああ、忘れていました」
 僕は受け取って、煙草の箱から一本取り出した。そのとき気付いたが、三本しか入っていなかった。
「今日はそれだけにして下さいね」こちらの考えを見通したように、僕に言った。
 僕は苦笑しながら、ライターで火を点け、煙を吸った。
「私も、座っても?」彼女が言う。
 僕は手で空いている椅子を示した。
 彼女は会釈して腰掛けた。
 潮風に気を付けながら、煙を吸って吐き出す。このとき風向きから彼女に煙が当たらないことを確認した。
 灰皿に灰を落とすと、看護師の彼女がこちらを見ていることに気付いた。
「宜しければ、一本吸われますか?」何となく訊いてみた。
「あら、ありがとうございます」
「え? 吸われるんですか?」
 意外だった。
 僕は彼女になけなしの煙草を一本手渡し、火をつけた。
 彼女は実に美味しそうに煙を吸う。
「どうですか? お加減は」僕に訊いてきた。
「だいぶ良くなったと思いますよ」
「そうですか」
 間が空いた。
 僕は煙草を灰皿に仕舞う。
 ニコチンを摂取して頭が冴えたのか、不意に思い出す。
「夢を見たんですよ」
「はい?」彼女はこちらを向く。
「湖だか池だか忘れましたが、ボートに乗っていたんです。そこでウトウトしている内に遭難してしまって」
「それって、海難事故ですよね」
「昼前から一人でボートなんか乗ってたものですから、目を覚ますと夕方なんです。上も下も真っ赤な景色で」
「夕暮れですか?」
「ええ、こんな状況でなくては感傷に浸っていられるような幻想的な景色です。でもそれどころじゃあないから、ボートについているオールでとにかく漕いで陸地を目指すんです」
「そこで目が覚めたんですか?」
「厳密には、違いますね。ずっとオールを漕いでいて、慣れない作業で疲れ果てたんですね。再び微睡んでしまったんです。そこで目が覚めました」
「怖い夢ですね」首を傾げて微笑んだ。
「全くです。目が覚めてほっとしました」
「本当ですか?」
「はい?」思わず訊き返す。
 彼女の表情から、一瞬だけ笑みが消えたような気がした。
「本当に今、安堵していますか?」
 気が付くと、彼女の手に煙草が無い。看護師がポイ捨てをする筈もない。
「本当は今、漠然と不安なご気分では?」
「どうして、今の僕が?」
 瞼が重くなるのが分かる。
「おやすみなさい」
 僕は、目を閉じる。



 目を開けて、広がる世界は碧い。
 風が吹いて、寒さで急速に覚醒する。
 周囲の景色も碧い。
 僕はボートの上で状態を起こす。
 そうか、思い出した。
 僕は海の家で貸しボートを借りて、海原を揺蕩っている間に眠ってしまったのだ。
 つまり、今まで夢を見ていたのだ。今までのが夢だったのだ。
 周りを見ると、自分の鞄があった。そこから手帳を取り出し、見ていた夢の内容を記憶が薄れる前に書き留める。いつもの習慣だ。
 次に煙草を取りだし、ライターで火をつける。
 一通り書き留めて、思ったことがある。今の状況の方がよっぽど夢みたいだし、さっきまで実に現実的な夢を見ていた。
 どうやら自分で作った簡単なトリックに引っかかってしまったのだと、苦笑した。
 空が白んできた、もうすぐ夜が明ける。どれほど眠っていたのだろうか。
 とりあえず、ひと眠りして体力も回復したので、再び陸地に向かって漕ぎ始めた。