「色」「歯」「荷」@翔輝

 舞台を包み込む透明な幕が上がり、闇の中の役者達が光を得てその輪郭をあらわにする。やがてそれは虹のように鮮やかに煌めき、波打つように動き始め……。
 ……何のことはない、朝が来て目が覚め、視界に水縹のカーテンが映っただけである。
 低血圧で言うことを聞かない身体を叩き起こし、今日の予定を思い出そうとするが上手くいかず、ぼさぼさの黒髪を左手で掻く。

 とりあえずいつも通り洗面台でうがいをして、インスタントのコーヒー粉末を赤いコップに突っ込む。朝日で銀に輝くポッドに水を入れ、お湯が沸くのを待ちながら思考を再開する。
 ……確か実家から荷が届くのだったか、グレーの電話機から昨日の親との会話の記憶を呼び起こす。
 答えが出たことに満足した私は、目玉焼きの黄身をトーストで挟んで潰し、そのまま口の中へと放り込む。

 再び洗面台へ移動して青い歯ブラシをくわえ、シャカシャカと動かしながら日頃の食生活を振り返る。
 食卓に緑が不足しがちな私にとって、米と野菜を送ってくれる両親は大変ありがたい存在である。
 そんなことを考えながらソファーに座り、天井を見上げ焦茶の木目を眺めていると、ピンポーン、と玄関から呼び出し音が響く。

「たくはいびん? でーす」

 玄関を開けるとそこにいたのは、ピンクのシャツを着た小さな女の子である。
 記憶が正しければ隣の家に住んでいるはずの少女は、薄橙の段ボールを一生懸命腕に抱え、頭にはずり落ちそうなブカブカな帽子をかぶっている。
 その後ろにいる配達員であろう金髪の青年が、ばつが悪そうに頭を下げているのを見るに、どうやら業者の帽子と荷物を少女に取られたらしい。

「はいこれ、おとどけものです!」

 少女は大きな箱を差し出すと、ニコリと笑い白い歯を見せた。

「リンゴ」「ポケットティッシュ」「香水」@間雁透

 僕は呪われている。

「ほら、見て? 途中で切れないように練習したのよ」

 僕一人だけの台所で、僕はピーラーでリンゴを剥く。皮はバラバラになって、シンクに落ちていく。包丁を使わなければ、桂剥きなんて無理だ。僕には一生できそうにない。

「切ったリンゴを薄い塩水に浸けておくとね、茶色くならないのよ」

 皮を剥いたリンゴを、切り分けもせずに、そのまま丸かじりする。一人で食べるのだからこれでいい。ちょっとだけ塩辛い。
 朝食はこれで十分。

 僕は呪われている。
 もう聞こえるはずのない声が聞こえる。


 僕は呪われている。

 身だしなみを整えたら、着替えを手早く済ませる。社会人生活も、もう二年目だ。誰に直されなくとも、ネクタイくらいは自分で締められる。
さて、必要な書類は全て鞄に入れた。もう忘れ物はないはず。
 革靴を履こうとしたところで、靴箱の上、花のない花瓶の隣に目が留まる。
 もちろん何もない。
 あぁ、けれど。
 僕は部屋に戻ると、うっかり忘れかけていたポケットティッシュと新しいハンカチを鞄に入れる。

 僕は呪われている。
 誰も準備をしてくれなくなった今もなお、ありもしないものが見えている。


 僕は呪われている。

 朝の駅、ホームは混んでいる。電車が来るたびに、たくさんの人が降りてきて、たくさんの人が乗り込んで、僕は周囲に抗わないように、流されていく。
 すれ違いざまに、愛しい香り。
 足を止めて、つい振り返る。いるはずのない背中を探してしまう。もちろん周囲は僕を押し流す。僕の足を止めた香りもかき消していく。
 あの香水が何の香りだったのか、結局僕は知らないままだ。けれど、彼女だけのものじゃないことだけは確かだ。なのに、僕は。

 僕は呪われている。
 ふとしたことから、いつかを思い出してしまう。


 僕は呪われている。
 ほら、今だって。
 彼女の言葉の残響が、僕の中を満たしている。
 彼女の想いの残滓が、僕の日々を支えている。
 彼女の存在の残光が、僕の心を惑わせている。
 僕は呪われている。
 呪われたまま、生きていく。

お題「病院」「アイスクリーム」「実験」@助野神楽

 どちらが北だっただろうか。一瞬、そんなことを思いついた。
 きっかけは分からない。脈絡も秩序もないのが思考である。
 さらに考えを進めてみた。
 ここの病院のエントランスは北西を向いている。つまり歩く方向は南東。
 右手にあるエレベーター乗って、五階で降りる。いや、階数はどうでもいい。
 受付を済ませてまっすく進む。右に曲がる。さらに右に曲がる。違う。この時は緩やかな曲がり角。ここは傾き四十五度と近似して考えよう。
 病室の前に着く。左側のドアを開ける。つまり北は――
「ねえってば、どうしたの? さっきからぼーっとして」
 北の方を向くと、彼女と目が合った。
「ああ、ごめんよ。ちょっと考え事」僕は慌てて取り繕う。
「ふうん、そう。でも今は頭より手を動かしてほしいな。ほら」
 彼女は口を開ける。親鳥に餌をねだる雛鳥のようだ。
 何のことかと一瞬分からなかったが、ほんの一瞬だけだった。僕は手にもっていたアイスクリームをスプーンですくい取り、ベットに寝て上半身を起こしている彼女の口に入れる。
 彼女がアイスクリームを味わって飲み込み、再び口を開ける。僕は再び彼女に食べさせる。さっきからその繰り返しだ。
 しかも時間的に等間隔だから退屈して、つい別のことを考えてしまう僕なのだった。


「ねえねえ、鶏が先か卵が先か、って言うでしょう?」
「言わないね」
 アイスクリームを食べ終えた所で不意に訊かれたため、即座に答えた。
「あれ、言わないの? ……あれ、何か間違えた、わたし?」
「ああいや、そういう言い回しは存在する。でも僕個人は使わないって意味」
「まぎらわしいことを……。で、鶏が先か卵が先か、って言う、じゃない、言い回し、あるでしょう?」
「あるね」
「あれってさ、絶対に料理中の奥さんが初めに言ったんだと思うんだ。だって卵に触れる機会が多い人なんて、養鶏所の人を除けば奥さんしかいないし」
「料理中だったら、コックさんはどうなのかな」僕は彼女の相変わらず奇妙な持論に付き合うことにした。
「駄目だよ。コックさんは厨房で大忙しなんだから、いちいちそんな余計なこと考えてる暇なんかないって」
 よく分からない反論をされた。
「あと、養鶏所の人もやっぱり考えないと思う」
「どうして?」
「だって、ずうっと鶏が卵を産むところを見て、しかもそれで生計を建てているんだよ。自分の仕事が、下手したら根底から揺らいでしまうような疑問は思いつかないって」
「ははあ」生返事である。


「あれ、もうこんな時間だ」彼女は時計を見て言う。
「本当だね。そろそろ行く?」
 僕は頷いた彼女を車椅子に乗せ、押して歩く。そのまま病院を出て、車に乗る。
 シートを外してある助手席の位置に車椅子を固定してシートベルト締め、発進した。
 程なくして、市民ホールの駐車場に車を停め、中に入る。大ホールで行われるイベントに参加するためだった。
 会場には既に多くの人がパイプ椅子に座っていて、殆ど満員だ。百人くらいだろうか。
 僕は端の方の椅子に座る。彼女はその隣に車椅子をつけた。
 そして、五分ほどで、奥の壇上に人が出てきた。刹那、あちこちで途切れなかった話し声が全て治まった。
「皆さん。本日はご足労ありがとうございます。今日は一つ、実験をしながらお話をさせて頂きます」
 白衣を着た、背の高い初老の男性だった。マイクを使っている訳でもないのに、声がよく通る。
 男性が話し始めたところで、上手袖から若い男性がテーブルを押して歩いてきた。キャスターのついたテーブルで、ビーカーや薬瓶、スポイトなんかも置いてあった。若い男性はそれを舞台の中央まで運ぶと、下手の袖に歩いて行った。
「まずこちらの瓶をご覧下さい。ラベルになんて書いてあるか見えますか? まあ皆さんの位置からは見えないでしょう。これは酢酸です。ええ、つまりお酢ですね。誰もが知っている調味料のお酢です。まあこれはとっても濃いお酢なので、ていうか酢酸なので、舐めちゃだめですよ。これをこのシャーレに少し注ぎます」
 彼はスポイトでお酢をシャーレに注いだ。
 それにしても、さっきからあの男性、つまらないというかジョークにもなっていないようなことを織り交ぜて喋っているのに、観客が結構笑っているのが驚きだ。横を見ると、彼女は笑っていないので少し安心する。
「次にこちら、これはアンモニアです。はい、臭いのきついあれです。これもちょっとだけとって、さきほどのシャーレに注いでみましょう」
 さっきとは別のスポイトを使っている。薬品を変えるごとに洗うかスポイトそのものを変えるのが普通なので少し安心する。
「はい、注ぎました。今このシャーレでは酢酸とアンモニアがまぜられているんですね。もう察しのついていらっしゃる方もいるのでは? そうこれは中和反応の実験です。酸性の酢酸とアルカリ性アンモニアを混ぜることで中性に、つまり中庸となるんですね。おや、このシャーレ、ほんのりあったかいですね。でもこれでいいんです。これは中和熱といって、わずかに熱が発生しているようですね。私も実験に白熱してきました」
 またも会場が笑い声に包まれる。
「さて、実験はここからが本番です。次に使うのはこの二つ。硫酸と水酸化ナトリウムです」
 彼は先ほどと同じように硫酸をシャーレに入れて、次に水酸化ナトリウムを加えようとしたところで手を止めた。
「よく見ていて下さいね。三、二、一、はい!」
 掛け声とともに大きな音が響いた。周囲が驚きの声に包まれる。彼女も短く悲鳴を上げた。
「びっくりしましたか? 硫酸と水酸化ナトリウムは酸性とアルカリ性がとても強い薬品です。それらが混ざって一気に中和されると、今のようにとても激しい反応が起こります。熱もすごいですよ。ほら、分かります?」
 彼はシャーレを指差す。よく見ると湯気が見えた。
「さて、この実験から分かるのは、酸性とアルカリ性のような二極化される指標、そう例えば左翼と右翼のような、そういったものの両極に近いものが出会ったとしたら、その二つが中和、あるいは和解のような状態になるために、周囲に大きなエネルギーが発生すること。そしてそのエネルギーが周囲に危険を及ぼすかもしれないということなのです」
 このあと話はガラリと変わって、世界各地で起きている内乱や紛争の構図を簡単に説明された。そんな話が一時間以上続き、イベントは終了した。
「……あのさ」
「何かな?」
戦争と平和、ってどっちが先なのかな?」
 僕が彼女を病室に送り届ける道中、車の中で、彼女は僕にいった。
「どういうこと?」
「鶏と卵みたいな感じで、概念って言うの? ほら、戦争の対義語って平和でしょ。この両極の言葉って、どっちが先に生まれたのかな、って思ったんだ」
 僕は考えている、あるいは難しい問題だ、といった意味合いを含む生返事をして、運転する。
 確かに明確なようで考えると深みにはまるような問題だ。だがヒントあるいは足掛かりのようなものはある。
 鶏が先か卵が先かという言い回しを僕は使わない。何故なら答えは明確だからだ。
 どちらでもない、が正解なのだ。

お題「曇天」「アンコール」「医者」@すきーむ

  ただ そんなふうに
  破れた景色も 曇り空も
  ただじっとそこにあるだけ


 最後に震わせた弦をミュートする。和音の余韻が消えるか消えないかのところで、一礼する。十畳くらいの会場は拍手に塗り替えられる。
 アンコールは、一曲。なんとなくそう決めている。さらにもう一曲を求められたならばそれに従うのだけれど、いつのまにか、求められることも無くなってしまった。

 舞台袖ではいつも、ゆるやかな笑顔をしたスタッフの女性がいて、お客の拍手に紛れるように、僕に拍手を送ってくれる。ありがとうございますと言いギターを片付けていると、奥からマスターが現れる。その手にはいつも、ぬるい水の入ったグラスが握られている。

「今日のアンコールは、久しぶりですね」
「ええ、久々に、歌いたくなって」
「ここで歌い始めたころは、よく歌ってたと思うんですけど」

 暗い通路の立ち話。いつもと変わらない時間。二十分でも、三十分でも、彼とは話が弾む。まるで数十年来の友達と街で出くわしたかのように。
 そうして、帰りがけ、鞄から紙袋を取り出す。

「そういえば、これをご子息に。つまらないものですが」
「ああ、ありがとうございます。これは……」
「うちにあった、レコードです。このまえ飲んでいたとき、お薦めの曲を訊かれまして」
「いやあ、失礼しました。息子がそんなことを」
「いえいえ。僕だっていつも、やりたいようにさせてもらってますし」

 マスターの息子は、いずれ医者になるものだとばかり思っていた。勉強熱心で、医学部へ行ったとも聞いた。それが数年前、全てをやめて家業を継ぐことにしたのだ。
 実際のところ、(息子が店に立つようになってから聞いたのだけれど、)成績が優秀だっただけに教師から目をかけられて、お前は医学部へ行けと言われたに過ぎないらしい。成績の良くなかった僕には、想像の及ばない話だった。

「ありがとうございます、渡しておきます」
「ええ。お願いします」

 明日もまた、会場へと向かう道の途中、どっちつかずの薄暗い空の下で、何を歌おうか考えているのだと思う。
 やりたいことだけ。なるべくなら、そうやって生きていたい。人生のアンコールは一度だって無いのだから。

お題「花火」「シャワー」「延滞金」@古川砅

 これは時間旅行が今ほど規制されていなかったころの話なのだけれど、夏が暮れると、僕は決まって2012年の8月に飛んでいたんだ。

 向こうに着くと僕はまず、都心近くで日雇い労働を転々とする。4,5万円ほど稼いだら、朝一番に駅に向かって、なるべく遠くに行ける、できるだけ安い切符を買うんだ。客もまばらな電車に揺られて、街並みだとか山だとかそういうものをぼんやり眺めてさ。途中で休憩なんかも挟みながら、適当な町をひとつ、一日かけて見繕って、それからそこに一週間だけ泊まることにしていたんだ。丸一日ホテルのベッドで寝過ごしたり、外に出て、雲とか犬とかを見ながら煙草をくゆらせたり、そうして一週間を過ごしたら、さっさと宿を引き払って、そのまま元の時間にまっすぐ帰る。お世辞にも意義や生産性のある趣味とは言えなかったけれど、そのころの僕にとってはそれが最高のバカンス、あるいはひとつの逃避だったんだよ。

 どうして21世紀の初めなんて半端な時間を選んだかって? たしかにあそこは文化の進みも遅れもバラバラだから、あまり観光には向いていないね。当時もあの時代をわざわざ旅先に選ぶ人はほとんどいなかったように思う。けれど、なんと言ったものかな、僕はそういう、一般的にはあまり見向きされない物事に、ひどく愛着を抱きがちなんだ。打ち捨てられた標識だとかピンボケしたスナップ写真だとか、まあいいや。とにかく、あの時代の雰囲気は、そういう、僕のごく個人的な趣味に上手く合致していた。

 あれは5回目の旅行だったかな。そのとき僕が選んだのは都会とも田舎ともつかない山あいの町で、2階建ての小さなホテルに泊まっていたんだけど、3日目の夜に突然お湯が出なくなってさ。シャワーで頭を洗っていたところに突然冷や水を被せられたものだから、ひどく驚いたよ。それもシャンプーすら泡立てていない前洗いの途中だったから――そうそう、言い忘れていたけれど、僕には自分の髪を丹念に洗う癖があるんだ。別に長髪というわけでもないけれど、そうしないと落ち着かないんだよ。それで、最悪な気分でフロントに電話をかけたら、応対に出た人は給湯器が壊れたって言うんだ。僕は「それなら部屋を替えてほしい」と頼んでみたんだけど、生憎その日は満室でさ。どうやら、ホテルからそう遠くない川辺で花火大会があるらしかったんだよ。

「シャワーが直るまでどれだけかかりますか?」
「うーん、2時間くらいかしら。いや、お兄さん、ほんとにごめんなさいね」
「いいですよ。じゃあ俺、しばらく出てますから」

 ホテルの外は、ひどく暑かった。それと、花火の音が夜空に響くのは聞こえたんだけど、音が聞こえてくるだけで肝心の花火そのものは見えなかったんだ。けれどまあ僕は、特別、花火を見たいわけでもなかった。駐車場のわきに喫煙スペースがあったから、そこのベンチに座って、マッチで煙草に火を点けて、焚き火にも似た花火の音を聞きながら、煙草のけむりがゆらゆら漂うのを眺めてたんだよ。そしたらホテルの入り口から、一人の女が飛び出してきてさ。僕と同年代に見えたから、二十歳すぎくらいかな。遠目にもだいぶ出来上がっているのがわかったよ。なぜか白いコンビニ袋を提げて、チューハイの缶を両手に一本ずつ握っていたそいつは、きょろきょろ辺りを見回して、その途中で僕と一瞬目が合ったんだけど、男にしろ、女にしろ、酔っ払いなんかに絡まれたらろくなことにならないだろう? 僕はそのまま無視を決め込んだんだけど、向こうはずんずんこっちに向かってきてさ。「さあ! 飲もう!」なんて、僕に缶を突き付けてきたんだ。僕も機嫌が悪かったからぞんざいになってついつい返事をしてしまった。

「さあ! 飲もう!」
「あー、人違いじゃないか?」
「はあ〜〜〜!? 一人者なんかじゃないし〜〜〜! あんな奴なんかもうほんとにどうでもいいしもうくたばれって思ってるしあんな奴なんかもうほんとにどうでもいいけど、私はあんな奴よりもっといい男見つけるからつよい! さあ! 飲め!」
「なんだ、彼氏に振られたのか」
「ちょっ。違うし、そういうのやめてよ。酔い冷めるじゃん」
「望むところだろ。じゃあな。俺用事あるから」
「嘘。ぜーったい嘘。さっきまでそこの窓から見てたけど、あんた全然暇そうだったじゃん。どうせあんたもあれでしょ? 花火見に行く一週間くらい前に彼女と別れて、無駄に広い二人部屋に独りさみしく泊まってるんでしょ? で、いたたまれなくなって外に煙草吸いに来たんだ。うわ、せせこまし〜〜〜、かわいそう〜〜〜」
「分かったから八つ当たりを止めろ。じゃあ俺は行くから。やけ酒も大概にしろよ」
「あんた、ほんとに冷めるわ……。はあぁぁーあ。タイムマシンでもあればなあ」
「なんだ。やっぱり未練があるんじゃないか」
「そうじゃなくて、延滞金」
「延滞金?」
「そ。先月アメリってDVDを借りたんだけど、あいつ、『俺も見たいからちょっと貸して。あとで俺が返しとく』とか言ってたのにそのまま忘れてたらしくて。一昨日の朝、『ごめん』って郵送で送ってきやがったわ。計算したら2万くらいになってた。ふざけんな」
「散々だな」
「あいつはもうムリだからどうでもいいけど、やっぱり延滞金はどうにかしたいじゃん? だからタイムマシン」
「水を差して悪いが、過去を多少いじったところで今はまったく変わらないぞ」
「は? ぷふっ、何それ。物知り博士?」
「川の流れを変えても、行った水は戻らないだろ? 時間というものも大体それと似たようなものなんだ。ゆく河の流れは絶えずして、ってやつさ」
「ふーん。あー、もしかしてあんた慰めてくれてる?」
「どうしてそうなるんだよ」
「はいはい、ありがとね。お礼にこれ飲んで。つーか飲め。買い過ぎで余ってるから」

 その後、僕たちは、缶チューハイを10本ほど空けたあと、どういうわけか夜道を練り歩いて、人気のないだだっぴろい空き地を見つけると、何を思ったのか、手持ち花火を買えるだけ買い込んで、それで散々遊び明かしたらしい。翌朝空き地で目覚めると、花火の残骸がバケツの中にまとめられていた。ひどい二日酔いで、ろくに昨晩の記憶もなかったんだけど、彼女が火花を散らしてはしゃぐ姿が、夜の暑さを泳いでいるみたいで、それだけはやけに覚えていたんだ。遠い時間で起きたことだし、僕にとってももう何年も前のことだから、だからどうということもないんだけれどね。まあ、それだけの話だよ。

お題「脳」「夏」「名」@御定言兵衛

 カランコロン。カランコロン。
 俺の部屋にやって来た夏が、グラスの氷を溶かしながら音を立てる。
 ミーン。ミーン。
 少し気の早過ぎた蝉が一人部屋の外で淋しさを訴えている。まだ世間は花見だなんだと浮かれているのに俺だけが夏と共にいるようだ。部屋には散乱する清涼飲料の空き缶、カップ麺の器、スナック菓子の袋。ギリギリ足の踏み場はあるといったところか。謎の異臭を放ち始めてるものまである。
「俺の気持ちを解ってくれるのは、お前くらいだろうなぁ」
 部屋の熱気に脳を溶かされてしまった俺は窓の外の蝉に話しかける。
ミーン。ミーン。
「そうだね。今、僕も夏にひとりぼっちさ」
喋った。いや、声が聞こえた。ついに頭がバグったか?蝉、半翅目セミ科の昆虫の総称。翅は膜質で透明。辞書的な意味が頭をめぐる。まあ、こんなうだるような暑さの中なら蝉の声の一つやふたつ、聞こえるだろう。きっとそうに違いない。適当に自分を納得させる。
「一週間くらいだけど、仲良くやっていこうや。ひとりぼっちどうしさ」
 ミーン。ミーン。
 返事をするように蝉が鳴く。蝉に語りかけている。端から見たら完全に異常者だ。
「ところで、蝉よ。お前は名前は何ていうんだ?」
 ミーン。ミーン。
「僕たちには名前はないよ。」
「へぇ、なくても困らないのか?」
 ミーン。ミーン。
「僕たちは一生の間で一人としか出会わないから」
「なんだそれ、ロマンチックじゃん。でも、名前がないのは不便だから。何て呼べばいい?」
 ミーン。ミーン。
「じゃあ、319って呼んで」
「わかった」

俺と蝉の声だけか響く奇妙な空間。
それからちょうど七日間俺と319はいろんなことを語り合った。

そして七日目。
 ミーン。ミーン。
「じゃあね」
「どこかいくのか?」
 ミーン。ミーン。
「うん、どこかにね」
「そっか、元気でな、」
そして319は飛び去っていった。
部屋には涼しげな風が吹き抜けていった。こうして、俺の部屋にやって来た季節外れの夏は蝉と共に去っていった。

お題「市場」「巣」「灰色」@すきーむ

 カラフルな果実たちは、いびつな形をその日陰で休めていた。
 通りを往く人はまばらで、となり近所のオーナーたちもそれぞれのシエスタを過ごしている。読書に耽る者もいれば、ちょうど片袖を編み終わった者もいる。
 客足は凪いでしまった。昼過ぎまでに見知りの客はひととおり来てしまったのだ。眼の前には、とりとめのない世間話のカケラめいたものが宙に舞っている。それは午後の光を浴びてうごめく塵のようだった。


 そんなとき、決意に満ちた客は私の前へ訪れた。ちらと周りの店に目をやる。奴ら、こんな時間に客とは珍しいと、眼の奥に冷たいものを抱えた視線を送ってはいないだろうか。
 問題は無さそうだ。いたって冷静に、私は客を見据える。
 灰色のシャツとジーンズ。そこに文字やイラストは書かれていない。どこか精悍さを蓄えたその青年の眼は、まっすぐ私を捉えている。


「なにかお探しですか」


 青年は呟くようにぽつりと答える。
「見た目は灰色、中身は甘い、そんなフルーツがあると聞きました」


 売り言葉に買い言葉、ではないのだけれど。私も同じ調子で返答する。
「それならここにはありません。ご案内します」


 歩いているあいだ、会話を交わすことはなかった。まるで静物画のように二人は存在して、偶然とも必然ともつかない様子で歩調を揃わせていた。石畳は静かに光を浴びつづけ、むっとした空気は世界をすき間なく埋め尽くしているように思えた。だけれど、今から行く場所にそれらは無い。私たちが巣と呼んでいるそこには、鮮やかな果実のように厭味ったらしい姿を見せるものなど存在しないのだ。


 やがて、路地の入り口で足を止める。日陰に入れば、すこしは涼しくなるだろう。私は背中に、灰色のシャツへ汗が染みるのを感じていた。