草一郎『アックリ』

 電車の速度が落ちていく。アナウンスが停車駅を告げた。私は左右にほのかに揺れる車両の中で、下車の用意を急いだ。
 ホームに差し掛かったところで、線路と車輪のこすれる音がした。と思うと、ぐっと体に加速度がかかり、電車は停車した。車扉が開き、乗客が各自降りて行く。私は人の波にまじって改札口へと向かった。
 人々は定期券を改札に通すと、蜘蛛の子を散らすようにそれぞれ自宅に近い出口へ、見る間に消えていった。私も同じように駅から出た。
 不意に立ちくらみがした。一瞬だけ意識が飛んだかのように目の前が暗くなった。私は地に足をしっかりとつけ、頭をぶるぶると左右に振った。目がしらに手をやった。疲れからだろうか。周囲がぼやけて見える。
 私はひとつ深呼吸をすると、駅の出口に足を向けた。
 おかしい。そこで私は自分の中に突如として生まれた違和感に気づいた。
 帰り道が分からない。
 昼間のようにまぶしい蛍光灯の下で、私はひとり呆然と立ち尽くした。私のすぐ横を人々が通り抜けていく。私は人の波の中で佇んだまま動けなくなった。
 とにかく駅を出よう。そう思っていざ出口から外へ出てみたが、やはりどういけば自宅へ帰れるのか見当がつかなかった。それ以前に駅の周囲の景色にさえ見覚えがない。
 駅の名前。駅舎に立つ看板は定期券に印字されたものと同じだが、あたりの建物のなかで見知ったものはない。ヒュルルと風の音が鳴り、駅の方からアナウンスが聞こえてきた。どこかで聞き覚えがある音のようにも聞こえるし、初めて聞いたもののようにも思える。
 私は東西の区別も付けられず、雨を含んだ夜空の下で瞼を開閉ながら、気持ちの悪い感覚に囚われた。いったいこれはどういうことなのだろうか。なぜ私は自宅の場所が分からないのだろうか。
 私はどうやら迷子になってしまったようだった。仕方なく鞄の中から携帯を取り出して、私は自宅へ電話を掛けてみることにした。折りたたまれた携帯電話を開き、待ち受け画面を覗く。
 これは誰のものだ。私は手の中に収まった携帯電話を訝しがった。果たして私はこのようなものを持っていただろうか。
 鞄を取り違えたのかもしれないと中身を探ってみた。金属性の名刺入れを見つけ、中を確認してみる。そこには男の名前があった。見知らぬ名であった。もちろん私の名ではない。
 ほっと胸を撫で下ろし、私はそれを鞄に仕舞った。そのとき、私は不意に眉を潜めた。
 私の名前は、何だっただろうか。まったく思い出せない。雑多な言葉は次々と頭をめぐるが、自分のこととなると無言。家に妻子があったか、仕事は何であったか、生まれや経歴は。とんと思いだせなかった。
 私は突如として、前触れもなく何かとんでもなく大切なものを失ってしまったようだった。冷たいものが背筋を襲った。
「おい、そこのあんた。大丈夫か?」
 ふと声がして私は周囲を見渡した。私のすぐ側に駐車してあるタクシーの窓から、運転手の男が顔を出していた。下ふくれの白顔が目立つ中年の男である。
「そんなところで居たら風邪を引いちまうよ」
 男は私の挙動に訝しがってか、あるいは私を乗せようとしてなのか、声を掛けてくれた。彼の真意は分からないが、私は彼のことが窮地のところを救ってくれた恩人のように思えてならなかった。
 安心したその瞬間、私の口から無意識に言葉が出た。
「二丁目まで」
 私は自分の言動に驚いてくちを塞いだが、体は意志とは無関係に続いてタクシーに近寄っていた。手なれた動作をなぞるようにタクシーの扉を開き、車へと乗り込んだ。
 体が勝手に動いた。私は思いもよらぬ自分の行動に唖然となった。頭がひどく混乱した。しかし、その直後に私は何事もなかったかのように窓から外の景色を眺めた。
 男は私が車に乗ったのを確認すると、アクセルを踏み、車を発進させた。暫くぼんやりとした私だったが、すぐになぜ自分はタクシーなぞに乗っているのかと、自分の説明のつかない行動に頭を悩ませた。まるで他の誰かが私の中に潜んでいるようだった。
 今まで何も思い出せなかったのに、なぜ二丁目という場所に向かっているのか。妙な感じが全身を取り巻き、自身に恐怖を覚えた。
 数十分ほどタクシーは路上を走っていたが、そのうちぼんやりと見覚えのある門構えの前で止まった。私は自然と財布から車賃を払うと、有難うと言葉に力を入れて礼を述べた。タクシーはそのまま何事もなかったかのように走り去っていった。
 なぜ自分はここにいるのだ。私はその門構えの前で佇んだまま自問した。しかし、体は自然に玄関の扉に私は手を掛けていた。ぎょっとしたが、もはや私の体は私の意志に従わなかった。
 無造作に戸を開くと、私はそのまま家の中に足を踏み入れた。一旦躊躇して踏みとどまってみたものの、その悪足掻きは這入る瞬間だけ足を重くしただけで、そのあとは何かに突き動かされるように私は家の中へと入っていった。 私は自身の不可解な行動に心揺り動かされ、胸のうちでは不安の波が騒いだ。
「おい」と、いつの間にやら家の中に向かって声を掛けた私の体は、不定の意志に支配されているようである。私は何者かに体を占拠され、奪われてしまったようだ。いかがなものか。「ただいま」
 奥で人の影が動いて、廊下の先にある戸から灯りが漏れた。中で人の出てくる気配がすると、そのあと同時に声がして、晴れやかな表情の女の顔が現れた。察するにどうやら私の妻であるらしい。「ずいぶんと遅かったじゃない。どうしたの?」
「僕もこんなに遅くなるつもりではなかったのだけれど、どうも仕事が立て込んでしまってなア」
「まア、とにかくお疲れ様でした」
 その女はそう言って私の鞄と背広を預かった。それから茶の間と云ったような狭い座敷へと私を誘導した。
私は辛うじて視覚だけを自分の支配下に置けているようだ。しかし、それ以外はもはや私ならざるものが乗っ取っている。
 私は案内された茶の間を見回した。自分でも意外なほどにその家の間取りを知っていた。が、それは安心するに耐えうる材料にはならなかった。私はどんよりとした暗い不安に苛まれ、自分が自分でなくなる恐怖に体を蝕まれた。それは今まで読み聞きで知っている死に似ていた。
「夕食はどうしましょうか? 食べますか?」と女は言った。
「いいや、大丈夫」と私のような私が答える。
「そう。それじゃア、お茶でも入れますネ」
 女はそう言うと、奥の台所へと向かった。お茶の用意をする音が聞こえてきた。私の体はその場で胡坐をかいた。私は何とか今の状況を把握しようと、きょろきょろとその部屋を見渡した。
 ここは自分の家、なのであろうか。
「お仕事大変だったでしょう」と遠くから女の声がした。
「そうだネ。今は社内でも忙しい時分だから、立て込んでいて休む暇もないくらいダよ」私のような私は言う。
 自分ではない他の人物が、顔の下の方の口から思いもよらぬ言葉を発しているこの状況。なんと気味の悪いことであろうか。私は言葉を失ってしまった。となると、今こうして頭の中でつぶやいているのは、はたして言葉であるのか。
 まるで別の人物をどこからか見ているようで気味が悪かった。それは創作物の登場人物を見ているようなものだ。
「お風呂が沸いているので、好きなときに入ってくださいネ」
「やや、ありがとう」
 表情に自然と笑みを浮かべた、ような私は、余りに当り前のように眼前の女と言葉を交わしている。私はその奇怪な光景に背筋が凍る思いがした。君は誰だ、と女に問い、私は誰だ、と自らに問いかけようと口を開いたその瞬間だった。
「そうダ、明後日新潟に出張なんダ」
 頭にあった疑問はその言葉で消し去られ、私は出所不明の言葉を口走っていた。
「あら、そんな急に?」
「いた仕方ないヨ。課長の辞令だから」
 いた仕方ない、ではない。いた仕方ないのは、思い通りにならない自分である。どうにもならない自分に思わず嘆息が出た。どうやら嘆息は許されるようだ。
「まったく急で困るネ」私のような私も嘆息した。
「本当にそうネ。ご苦労さま」
「さて、風呂にでも入ろうかナア」
 私のような私はそう言って立ち上がると、風呂場へと歩いて言った。もはや私は体ひとつ動かせず、意志とは無関係に脱衣所で衣服を脱いだ。風呂の戸を開け、湯船に浸かった。
 壁の灯りを相手に、窮屈な風呂場で一人ぼんやりとしている私は、文字通り間抜けになったのだろうか。不意に「私はどうして私なのだろうか」と独りごちたが、その言葉ははたして自分自身のものなのかも皆目見当もつかない。私は果たして存在しているのだろうか。
 寝巻に着替えた私のような私は、欠伸を噛みしめて、さて寝るか、と寝床に寝転がった。外から猫のなで声が聞こえてきて、もう秋か、とのんきに思ったそのあと、私はとろとろと意識を失っていった。
 はずであったがふと気がつくと、私は暗闇の中で一人ただ広い空間に立っていたのである。一寸先は闇で何も見えない。夜でもここまで暗くはない。ここは地獄か、あるいは天国か。この世ではないようである。
 私は手探りで前進した。と、そのとき、どこかに人の気配を感じた。私は思わず声を出した。
「誰かいるのか?」
 しかし地に響く波のような音だけがあたりを満たしているだけで、誰からの返答もなかった。闇の中で一人ぽつりといると、しだいに寂しさだけが心のうちを占めていった。
 どうにもならない自分に対する悲哀が極度に己を苦しめたとき、背中をとんと叩かれた感じがして、ふと後ろを振り返った。見ると、自分と同じ姿をした男が立っているではないか。
「お前は誰だ?」私は自身に問うた。
 男は顔に薄い笑いを浮かべただけで、何も答えなかった。私は恐ろしくなって二三歩後ろに退いた。
男の手がにゅっと出てきたかと思うと、それは私の胸をすっと押した。私は心臓が止まるような感じを覚えた。ひどく冷たく、そして取り残されたような絶望の臭いがした。
 するする何かが体から抜けていく感覚だった。まるで私が消えていくようである。
 瞬間、口がアックリと開き、最後に一息芯のようなものが出ていった。眼前が暗闇よりも暗い何かに沈んでいき、意識が途絶えた。
 もはや私はいない。あるのは私だけである。