序二段「さらば独立愚連隊」

さらば独立愚連隊
  序二段
(一)
「東大以外は大学じゃないんだよ」
児玉は甘酢のかかった蒸し鶏を箸で突きつつ、そう言い放った。その表情には奢りや嘲笑などは見えず、純然たる自負のもとでの発言なのは明らかである。
「まあ、言いたいことはわかるけどさあ」
苦笑いで受け流しながら石井はおぼろ豆腐を掬う。口元を崩しながらも緩まない顔立ちは、異性から見れば魅力的に映るだろう。
「今は大学全入時代。もはや国公立や旧帝大などの括りすら意味を持たない。大学生の能力は個々の大学によってのみ判断される。最高学府たる東京大学を目指さないで何を目指すって言うんだ」
「オレは遠慮するよ。東大ってなんか堅苦しそうだし。京大の方がオレには合ってると思うんだ。京都で大学生生活っていいと思ってたんだよなあ」
 石井はやんわりと自分の理想を語る。
「それは妥協だ」
 児玉は蒸し鶏を持ちあげると全員に見せつけるように揺らした。
「これを作ってる人間の時給と、これの値段は一緒なんだ。蒸し鶏が高いのは事実だが、ここの店員がこの鶏と同じ位の価値しかないってことは誇張じゃないはずだ。今妥協したらここで働くような人間になることは、あり得ないとは言い切れない」
 むしろ誇張であって欲しい。本気で思っているところが性質が悪い。
「でも、ここの蒸し鶏って結構おいしいよね、値段の割にさ」
「なーにさっきから呑気なこと言ってんのよあんた達は!」
 僕の見当違いのフォローにとうとう苛立ちを隠せなくなったのか、雪村は声を荒げた。
「今日何の日か知ってる? センター試験前日なんだよ、前日! よく楽しくお食事なんてできるもんだわ」
 雪村はさきほどからほとんど料理にも手をつけず、ひたすら小冊子を捲っていた。小声でブツブツとつぶやきながら。まとめられていた長い黒髪は、既にくしゃくしゃになっていた。
「まあ、だいたいやれることはやったし。前日はゆっくりして気持ちを落ち着けるもんだよ」
「今更焦ってやっても何の足しにもならん」
二人は珍しく声をそろえた。
「人事を尽くして天命を待つ、ってやつだね」
 便乗してまとめようとした僕の頭を丸めた小冊子が襲った。
「なんで僕だけ……」
「あんた達は全員模試の判定も良かった優等生だけど、私はヤバいの! だけどここまできたら、なんとしも京大に行きたいし」
 石井は意味ありげな笑みを浮かべながら天津飯を頬張っている。雪村の恥ずかしそうにしている様子は、僕を複雑な気分にさせた。
「そうだ、来年も同じ日にみんなで集まろう! 現状を報告しあうんだよ。大学は名前だけじゃなくて、実際に行ってみないとわからないことも多いだろうし」
 皆の手が止まる。センター試験の前日に言うことではないだろう。僕だって自分の言っていることが可能性の一つを排除しているのには気づいていた。「浪人してるかもしれないけど」
 雪村がいきなり核心を突く。
「現役受験生のくせに今こんなことやってるんだから、いいんじゃないの」
 少し頬を緩めながら僕の方を見た。
「さんせーい」
石井はその頬を指でつつきながら軽いノリで声をあげた。雪村は声にならない悲鳴をあげて石井の方へと向き直ってしまった。
「俺も構わない」
 二人のやりとりを遮るように声をあげた。憮然とした児玉の表情には自信だけでない何かが見え隠れしているように見えた。
「じゃあ、来年の同じ日、というかセンター試験前日にここにまた集まろう。四人で。それぞれの志望校に合格していても、していなくても、健在であることを報告しよう」
 石井は頷きながら何かを思いついたように手を叩いた。
「我ら四人、姓は違えども兄弟の契りを結びしからは、ってやつ?」
 店のメニューにあるマークを指差して笑っている。
「三人だろ、という指摘は脇に置いたとして、桃園の誓いはそもそも演義の創作であって――」
 児玉は淡々と指摘を始める。
「雪村、ばあちゃんの具合は大丈夫なの?」
 児玉が石井に向けて有難い講義を展開しているのを傍らに、僕は小声で雪村に聞いた。
「まあ、今のところはなんとか」
 苦笑いでごまかすところが、良い状態でないことを示している。雪村の祖母には、小さいころによく面倒を見てもらった。
「お見舞い行くよ」
「合格したら、ね」
 意地悪な笑みを浮かべた雪村からの言葉に、僕はそれ以上の切り返しを思いつかなかった。 
「じゃあそういうことで、今日のところは解散しよっ! もう夕方だよ。早く帰って総チェックしないと」
 雪村は僕達を急かすように両手を叩くと、席を立った。

石井、雪村の二人と別れて、僕は児玉と帰ることになった。外は雪こそ降っていないものの、風は強く、目を開くとヒリヒリと冷たさが伝わってくる有様だった。
「明日の天気大丈夫かな……」
 児玉は僕に一瞥もくれず口を開いた。
「お前はいいのか、雪村のこと」
 僕は意外すぎる一言に、どう反応したらいいのかわからなくなった。いつまでも赤のままの目の前の信号機が、網膜を焼けつかせているようだ。
「悪い」
 そう呟いた児玉は、車の信号が赤に変わるや否や横断歩道を歩きだす。僕は慌てて足を踏み出した。
「雪村は幼馴染みだから、僕は自分の気持ちに区切りをつけられるつもりだよ。石井に告白したいけど、どうすればいいって半泣きのアイツに頼まれたときはさすがに困ったけど」
 児玉は少し歩くスペースを抑えると、僕の方へ視線を向けた。
「僕を臆病者だと思う?」
児玉はフッと笑った。めったに見せない表情だ。
「俺はそこまでお節介じゃない」

 気付くと辺りはもう薄暗くなっていた。
「雪村と石井、受かるといいな……」
心の声が表に出てしまう。
「お前は自分が落ちないと思っているのか」
「雪村が落ちたら僕と石井が悲しむ。僕が落ちても悲しむのは僕自身だけだよ」
 実のところ、僕は四人の中で雪村に次いで成績が良くない。人の事を心配できるほど余裕はないのだ。
「馬鹿だな」
 児玉は息を吐いた。
「全員受かるさ、きっと」
僕は出来るだけ大きな声で、精一杯言った。そしてポケットから出した携帯電話の電源ボタンを、ゆっくりと押した。もし大学に落ちたら、これは来年まで封印だ。浪人生には無用のものなのだから。

(二)
春が来て夏が来る。浪人生にとっての季節の去来は忙しいものだ。屋外はすでに不快感の坩堝と化していた。初夏の暑さが原因ではない。梅雨の湿度によるものだ。
予備校の空調は快適だった。勉強に励む者も、そうでない者も、等しく享受できるささやかな恩恵。
「悪い、悪い。ちょっと腹の具合が悪くてさ」
 橋本は下手糞な嘘とともに自販機の前に現れた。予備校の中では唯一の自販機なので他にも多くの学生がいる。
「ノートは早く返してくれよ。来週の金曜がテストなんだから、少なくとも明後日までに」
 僕が念を押したのを聞いてか聞かずか、橋本はノートを雑に鞄へと放り込む。様々な文言が喉までこみ上げてきたが、ゲームセンターで遊戯に没頭していたであろう男を糾弾するには聴衆が多すぎた。
 
 浪人生活を始めて三ヶ月、不思議なことに不安はなかった。センター試験は無事に合格圏内の点数を取れたが、二次試験で力及ばず不合格。早稲田大の商学部と中央大の法学部には既に合格していたものの、浪人することを決めた。
 意外なことに四人の中で志望校に合格したのは雪村だけだった。もちろん直接聞いたわけではない。同じ高校である以上、嫌でも耳に入ってくる。彼女は二次試験の後期まで諦めずに粘り、京都大の看護学部に合格したらしい。

「もう六月も終わりだぜ、全く。毎日毎日予備校で嫌になるよ、ほんと」
 橋本は出口近くのエレベーターのボタンを力を込めて押す。今日開講していた最後の授業も終わり、ほかの生徒もぞろぞろと帰る気配を見せ始めている。
 
雪村の健闘は実らなかった。石井が滑り止めのはずの私大に進学してしまったからだ。理由はわからない。前期試験までは受けたのだろう。しかし、三月の上旬には、すでに進学先が決まった者として名前が挙がっていた。とにかく二人は別々の大学に進学することとなったのだ。

「国語の佐々木の話つまらないよなー。論理的にとか言っておきながら、結局直感も大事とかマジで意味わからん。荒木もそう思うだろ?」
 授業にほとんど出ていない人間にそんなことを言われても困る。
「あながち間違ったこと言ってないよ、あの人。あのやり方でセンターの過去問解いたら九割とれたし」
 僕はわざと皮肉めいた言い方をした。横目で見ると橋本はボタンをトントンとリズムよく叩いていた。
「じゃあ次の模試競争しようぜ! 全教科の合計点で勝った方がメシを奢るってのでいいよな!」
 機嫌を悪くするどころか、僕の言葉の裏も読めずに、無邪気にも提案を持ち出してきた。反対する理由もないので頷いておく。エレベーターは、先に乗った生徒たちを下ろしているのか、まだ来ない。

 僕ら四人の内の最後の一人、児玉の進路は全くの不明だった。それほど人付き合いを好む性分ではなかったのが原因だろう。ただ東大を受験しなかった、そんな噂だけが漏れ伝わってきた。
 石井も児玉も、まさか自分が受験に失敗して、雪村が成功するとは思っていなかっただろう。僕も児玉の言うとおりの状況になったのだから、人の事をどうこう言える立場ではないのだが。
 
 トントントン。

僕は今、落ち着いている。己の心の平静を偽りのものと疑うことは簡単だ。しかし今の僕にはそれすら海原に投じられた小石と断言できる。大きな波にあっという間に掻き消されてしまう惨めな波紋だ。

 トントントントントントントン。

 自分を過信しているのではない。浪人生の大半が成績を落とす。僕はその事実を四月の時点で反芻し、飲み込んだ。
なぜより多くの勉強時間を確保できるはずの浪人生が、現役の頃よりも成績を落とすのか? その原因は過剰な自信と過剰な不安の二つに大別できる。自信は精神を鼓舞するが、ときに堕落を招く。不安は慢心を抑えるが、ときに停滞を招く。主観と客観の混同が両者に共通する落とし穴だ。それを認識することが、受験勉強で最初に学ぶべきことなのだ。

トントントントントントントントントン。

「なあ荒木。これからゲーセン寄っていこうぜ。日々努力の受験生には息抜きが必要だろ?」
 橋本は執拗にボタンを連打しながら言った。薄ら笑いを浮かべた顔と、せせこましく動く右手の律動が、不気味な模様を描き出していた。いや、不気味というのも憚られる、単純で不快な光景だ。

「お、やっと来たよこのポンコツ!」
 エレベーターが来ただけで、素っ頓狂な声をあげる。しかし右手は依然、ボタンを叩き続ける。それは脳の制御下にあるもの動きには見えない。

 トントントントントントントントントントントン。

「行こうぜ」
誰もいないエレベーターに騒がしく乗り込んでいく。空っぽだった箱が大きく揺れる。橋本の頭についたフケが舞い上がる。だらしない襟に不時着する。

僕にはもう一つ断言できることがあった。
橋本は苦手だ。


(三)         
 蝉の鳴き声が耳を苛み続けることにも慣れてしまった。予備校の自習室なら思考の埒外に追いやられる昆虫ごときが、虚勢を張れる舞台が我が家なのだろう。
 自室であろうと勉強の能率が落ちることはない。質問は予備校ですればいいというだけで、家でも暗記や確認、復習など様々なことができる。
「掃除機かけたいんだけど、今大丈夫? 今日って予備校休みだったよね」
 母が申し訳なさそうに声をかけてきた。
「大丈夫だよ」
 それほどうるさくもない。今の僕には掃除機の重低音はバックコーラスほどにしか感じない。
プルルルルルルル。
 掃除機の音に先んじて、聞き慣れた高音が居間の方から聞こえてくる。
「電話―」
 母の間の抜けた声が機械音を打ち消した。

「久しぶりだな、荒木」
声の主は石井だった。四ヶ月ぶりに聞いたその声は、相変わらず張りのある良く通る声だ。
「報告会は来年じゃなかったの?」
「別にいいだろー。まあ冷たいこと言うなよ」
 来年まで話してはいけないという訳ではないのだから、躊躇う理由はない。来年まで胸の奥の質問をしまっておくほど、僕も禁欲的ではないのだ。
「そういえば――」
「今日は荒木にちょっと頼みたいことがあるんだよ」
石井は唐突に会話の舵をきる。その言葉の襞からは、妙な違和感が漏れてくる。声の調子は以前と変わらないはずなのに。
「頼みごとって言うのも語弊があるな。忘れてくれ。単にお前に伝えておきたいことがあるんだ」
 きった舵を慌てて持ち直した。何かを取り繕うように。
「児玉が行方不明になったらしい」


 自宅から児玉の家までは、自転車で行けるほどの距離だった。家にいて母にいらぬ気遣いをさせるくらいなら、友達の安否を気遣うほうが健全と言うものだ。ただ、外は太陽と照り返しの挟撃で耐えられる暑さではなかったため、電車で行くことに決めた。
 各駅停車の普通電車に吸い寄せられるように足を踏み入れる。その瞬間、酸素濃度が変わったのかと思うほど、身体が、頭が、肺が軽くなる。席が埋まっていたのでそのまま扉にもたれかかれ、辺りを見渡す。平日の朝の、いわゆる通勤ラッシュの時間は過ぎたとはいえ乗客は多い。その多くは老人だった。みな一様に、この夏の暑さに生気を削られていた。太陽は残酷だ。自分の若さがここで老人たちに座る席を与えるためにあると思うと、車両の冷房の効きがいくらか良くなった気がした。
 駅から児玉の家までは五分ほどの距離だったので、歩いて行くこともそれほどの苦労ではなかった。
 児玉とは家が近かったが、高校からの付き合いであり、家を訪れたこともない。そもそも僕は児玉がどういう人間か、はっきりとはわかっていなかった。優秀、冷静沈着、自信家、率直な物言い、高いプライド、飾り気がない。言葉がぶつ切りになって頭の中に浮かんでいくが、それが繋がることはない。同級生、同じ受験生として、児玉の外面は捉えることはできた。しかし内面はどうなのだろうか。
 住所の通り歩いて行くと、うら寂しい空間が広がっていく。閑静な住宅街という定型句があるが、そんな小洒落たものではない。ただ年季の入った一軒家が並んでいるだけというのが、最大限偏見を取り除いた表現だ。児玉の家らしきものもその中にあった。近づいていくと、小さくはないが、決して立派な一軒家と言えない代物が像を結んでいく。壁面にはひびが入り、家の前に並べられた植木鉢から水分が逃げだしていた。
「はあ」
 呼び鈴もないので仕方なく扉を叩くと、家の中から気の抜けた声が聞こえてきた。その声より少し遅れて、ゆっくりと扉が開いた。
「すいません、僕は児玉君の友達の、荒木と言う者なんですけど」
 埃がうっすらと漂う玄関には、一人の中年の女性が立っていた。僕の母親より少し年齢が上だろうか、あまり若くは見えない。容姿がどうこうといったことではなく、服装と雰囲気が外見年齢を引き上げていた。ただ薄暗いため、表情はよくわからない。
「どうぞ、上がってください」
 消え入りそうなほど小さな声でも、はっきりとした大きな声でもない。ぼうっと霞むような声だ。耳で聞いているはずなのに、視界に靄がかかるような。
 家の中はきれいとは言えなかった。装飾面ではない、清潔でないという意味である。廊下は暗く、奥に向かうにつれて光を失っていく。襖が開け放たれた脇の部屋から光が漏れてくるのが感じられるが、それも部屋の照明ではない。窓を透いた太陽光の残滓だ。
 中年女性は何も言わずに廊下を進んでいき、一番奥の戸を引いた。目の前がいっぺんに明るくなる。さしずめ僕を呼び込む誘蛾灯だ。
 児玉の部屋は、この家で僕が見た中では最も明るい空間だった。それと同時に、僕がこの家に感じている違和感を最も凝縮した場所だった。
太陽光が差し込む部屋は、隅々まで明瞭に映し出されていた。ただ薄汚かった。ひたすらに不愉快な空間だった。床には本や雑誌が散乱し、机の上には消しカスや筆記具の類が無造作に並んでいた。参考書は本棚に収まらず、机の下にうず高く積まれていた。児玉の不在にも要因はあるだろう。だがそれだけで納得できる醜悪さではなかった。
ふと床に目をやると、所々切り取られた本があった。その異様さは思考の外から僕の腕を引っ張った。
 開かれたまま放置されていたその本からは、水着姿の一人の女がこちらに微笑みかけていた。頁をめくっても同じ女の写真が延々と続く。公園でワンピースを着て風にあたる女。不自然なほど窮屈なシャツを着てボールを投げる女。ベッドの上で年齢に不相応な体操服を着て寝転がる女。どれも日常の情景を切り取ったとは言い難い、扇情的で、下賤な創造の産物だった。邪な欲望の捌け口だった。女はこの本を手中に収めた者の私設便所なのだ。
 しかしこの本を異様たらしめていたのはやはり切り取られていた部分であった。一様に存在しないのだ、女の目の部分が。汚れているわけでも、折れ曲がっているのでもない。カッターか何かを使ったのだろう。放置されていた割に良好な状態である本の、全頁、全ての女に目がなかった。
 誰よりも努力して、誰よりも自信に溢れていた児玉。辛辣な物言いは、人に厳しく、それ以上に自分に厳しい性格の現われだと思っていた。そんな男が、貧相なおまるに己の排泄物を垂れ流しているさまを想像すると、怒りが、憤りが、羞恥が、悲しみが一斉に僕を取り囲んでしまった。
 僕は部屋を見渡した。このままでは僕の中の児玉が、矮小な何かに押し込まれてしまう。そんな気がしたからだ。床の本は先の一冊以外、平凡なものだった。とりとめのない、どうでもいい、それだけで児玉の価値を少しずつ落としていくような。僕は机の上のものを手にとっては値踏みして下に放り投げた。なぜ児玉はいなくなったのか。理由が知りたかった。分かりたくもないものを押し付けられたがそれを捨てるわけにもいかない。捨てられないのだ、新しい何かを見つけるまでは。
咎められるはずの行為も、いつのまにか一人になっていた部屋では躊躇する必要もなかった。

 みんなへ。

 くすんだ机の上に、白い紙が浮きあがった。紙に慎ましくのった黒鉛の文字が僕の目を捕まえた。「みんな」は家族かもしれない、別の誰かかもしれない。けれどもそれが、僕たちに宛てたものだと信じたかった。僕たちが見ていた児玉が本当の児玉ではなかったとしても。いや、僕たちが本当の児玉を見られなかったのだとしても、児玉が僕たちに一瞥でもくれていたことを信じたかった。
 僕は恐る恐る紙を開いた。取り留めもない愚痴。受験勉強の辛さの吐露。家庭の悩み。僕たちへの罵詈雑言。どんなことが書かれていても受け入れられる。この家で、この部屋で、さまよう児玉の残像に釘を打ちつけることができるのだから。
「えっ?」
なかった。何もなかった。何も書かれていなかった。白紙だった。消した後も、切り取った跡もなかった。几帳面な性格を思わせる、丁寧な折り目で四角く畳まれていた。だがそれだけだった。「みんなへ」それだけしか書かれていなかった。
 驚きもしなかった。悲しくもなかった。僕はただの端書きの紙切れを目一杯両手で広げて、ゆっくりと膝をついた。視界を一段下ろした先には、涼しげな顔の、目のない女がいた。ぽっかりと風穴を開けているにも関わらず、血は巡り、肉は色づき、仄かに薫っていた。それと同時に、僕の目から何かがサラサラとこぼれていくことを感じた。涙腺からではない。もっともっと奥、頭の中から何かが漏れていく。こぼれ落ちたそれは紙切れに積り、さらにこぼれて女に覆いかぶさった。女の目が埋まっていく。つくづく強欲な女だ。僕は何かが漏れ続ける、老人の膀胱のように緩くなった頭で思った。

 廊下に出ると、何か唸るような音が聞こえてきた。襖は全て開け放たれている。音の主は向かいの部屋にいた。
「……みょうほう」
 この家の唯一の住人である中年女性が、何かをぶつぶつと呟いていた。手を合わせ仏壇らしきものを前に、背筋を伸ばして正座していた。先程までのゆらゆらとした様子ではない、しっかりと前を向いて声をあげていた。
「なむみょうほうれんげきょう」
 近づくにつれて、声が聞きとれるようになっていく。仏壇に遺影は見当たらない。亡き先祖や親族に祈っているのでないことは、今の僕でもわかった。
 声が止んだかと思うと、中年女性がこちらを向いていた。開け放した児玉の部屋から射す光が僕を追い越し、目の前の顔を照らした。先程は霞みがかっていたのがすっかり晴れ渡り、焦点の対象を取れるようになっていた。若返ったと言ってもいいくらいだ。
「あの子は帰ってくる」
 しっかりと結ばれた言葉とは裏腹に、その口からは粘性の糸がぬらりと垣間見えていた。よく見ると、髪は焦げたように傷んでいる。だがひと際目を引くのが、目の奥の暗さだった。黒いおたまじゃくしと目玉を挿げ替えたように、黒さと気色の悪い蠢きを両立していた。僕は納得した。こんな目ならない方がいい。
「そうですか」
 気の抜けた声で返しながら、僕は玄関へ向かった。
一歩足を進めるたびに、サラサラという音が聞こえる。僕は咄嗟に右目を抑えた。先程と同じ音だ。何かが漏れ続けている。僕から漏れた何かを見てしまいそうで、後ろを振り向くことはできなかった。ただ廊下の先の一点を見つめた。
 外に出ると太陽が地面を鳴らし、蝉が悲鳴を響かせていた。その喧噪の中で、もうあの音は聞こえなくなっていた。けれども僕は、本当に何も漏れていないのかを確認する術は持っていなかった。


(四)
 児玉の家を訪れてから一週間がたった。僕は概ね平穏を取り戻していたが、あの家で見たものが思考の陰から姿を消すことはなかった。目のない女、燻んだ机、白紙の紙切れ、おたまじゃくしに寄生された中年女。それらを目の奥に押し込め、栓をして、僕は黙々と予備校に通った。
 今日は午前の授業も終わり、自習室も満員だったので、素直に帰宅することにした。寄り道に値する魅力はどこにも見出せなかった上、三十六度の外気が尚更それを許さなかった。
「うちの子ったらね――」
 玄関から上がると、居間の方から声が聞こえてきた。母が電話で世間話をしているであろうことはすぐに分かった。自分の部屋に入ろうと扉に手をかけたとき、居間にいる母と目が合ってしまった。其の瞬間、母の顔には気まずさが浮かんだ。僕の話をしていたからだろうか。それとも予備校から帰ってきた息子に、電話で世間話に耽る姿を見られたからだろうか。それとも単に電話を邪魔されたからだろうか。
 自分の部屋を見回すこのときだけは、どうしてもあの日の事を思い出してしまう。参考書が整頓されているきれいな机と、使用法を間違えたのかと思うほど滅茶苦茶に汚れ、くすんだ机。灰色のカーペットが敷き詰められた床と、雑誌や本で散乱した木張りの床。状態は違えど、情景が重なることを避けられない。ただあの音だけは、もう聞こえない。
「おかえり」
開け放したままだった扉の傍に、母が立っていた。
「電話使う?」
 手には電話の子機が握られている。苦笑いする母の目が、不意に動いたような気がした。左右に、ぎょろりと。それはまるで――。
「ありがとう」
僕は母の手から子機をむしり取った。母が何か言ったようだが、その言葉は僕を透過し、霧消した。背を向けた母を見ながら、自分がすべきことを思い出したのだ。
 手帳にあった石井の携帯電話の番号を見ながら、慎重にボタンを押した。児玉が何を思って失踪したのかは分からない。だが児玉の家で見たもの、聞いたものは紛れもなくあいつの最後の足跡だった。それが醜く悶え地面を這いずり回った痕なのか、虚ろな日常の残滓なのかはわからない。ただ石井の知らせを聞いた時には、まだ僕の中で児玉は存在していた。見えない場所で、時間で戦っていると思っていた。石井が、雪村が、僕がそうであるように。児玉は逃げだしたのだ。今の僕はその事実を知らされて、我が身の不安を、仄かな羨望を、滲み出た嫉妬を、申し訳程度の憤りで粉飾する小心者であった。
「おう、荒木か。どうした」
 呼び出し音が鳴ったかどうかというところで、石井は応答した。特に明るい口調でもなく、どことなく僕からの電話に察するものがあったのかもしれない。
「児玉の家に行ってきたよ。本当だった。本当に児玉はいなくなってた。どこに行ったのかもわからない」
 僕は事実を話した。抽象的な事実だ。具体的な真実ではない。そんなものは得られなかったのだから。僕は具体的な事実を隠し、抽象的な真実からは目を背けた。僕が石井に伝えられることは僅かしかなかった。
「そうか、大変だっただろうな。オレも行けば良かったな」
 石井は多くを聞かなかった。言葉を選び、繋ぎ合わせながら声を発していた。
「でも親御さんもいるだろうし、ンク。あまり心配しすぎないほうがいいかもな、ンク」
 何だろう、言葉の端々に違和感を感じる。ノイズが入ったような。
「事件とかじゃないんならいいんだけどな、ンク。まああいつはしっかりしてるから、ンク。今ごろ何か、ンク、やるべきことをやってるんじゃないか」
 機械音ではない。電子音でもない。雑踏の音でもない。僕の声ではない。
「そのうちさ、ンクク。ひょっこりもどってくるんじゃないのか、ンク。来年の報告会とかさ、ンクク」
 サラサラという音が聞こえないのは、もう漏れていないからだと思っていた。それは誤解だった。僕の頭の中は、もうすでに空っぽだったのだ。こぼれ落ちるものがないから、音もしなかった。もれなく漏れていた。老人の膀胱ではなく、決壊したダムだった。後にはただただ空気が広がっていた。音がよくこだまするくらいたくさんの。
「東大なんて目指すから、ンクク」

ンククククククククククククククククククククク。

 ふと、明後日が模試であることを思い出した。夏休み最後の総決算だ。


(五)
 テレビの画面には、緊迫の場面で静止する投手と打者が映し出されていた。同時に、けたたましく鳴り響く応援歌と、早口で捲し立てる実況の声が聞こえていた。動と静、画と音が、奇妙な調和を作り上げていた。
「今年の巨人は駄目だな」
 父はビールの瓶を片手に、大げさに息をついて腰を下ろした。仕事から帰った後は、野球中継を見るのが父の日課だった。もっとも、近頃の野球人気の低迷で、巨人戦といえど中継されることはめっきり減ってしまった。もちろんケーブルテレビなどの媒体に頼れば、毎試合余すこともなく見ることができる。
「やっぱり監督が駄目なんだよ。采配がへぼなんだから」
負け試合になると、父はいつも文句ばかり言っていた。やれこの野手は不調だの、腰がなっていないだの、抽象的な批判ばかり行っていた。底の浅い、価値のない言葉。批判ではなくただの中傷だった。選手の事をろくに知らずに、試合の途中であろうと定時に打ち切られる地上波放送を見る父。野球の戦術はおろか、ルールさえよく知らずに、週に何回か不定期に放送される中継を見る父。
「まあ、ほどほどにしときなさいよ」
 テレビに視線を移すこともなく、空いた皿を片づけていく母。野球に無関心なのではない。父に無関心なのだ。
 僕が一家で食卓を囲むことが嫌いになったのは、浪人してからだった。それまでは、特に気にならなったことが、歪な毎日の中で拡大されていった。
 両親が一人息子である僕に、過剰な期待やプレッシャーを押し付けたのではない。それならばむしろよかった。勉強しているのかを疑うことや、ちゃんと予備校に通っているのかを確認することは、悪い事とは言い切れない。
「模試の結果、返ってきたんだけど」
結果は芳しくなかった。春に受けた時にB判定だったものが、C判定になっていた。原因はわかっていた。ただ単純に点を落としたという笑ってしまうようなことだ。
 父は僕が渡した模試の結果が書かれた用紙を手に取ると、真剣な表情で顔を近づけた。
「おい、こっち来て見てみろ」
 皿を洗っていた母を片手をあげて呼び寄せる。母は一瞬浮かべた怪訝そうな表情を、ありきたりな不安という形で覆い隠した。
「あんまり良くねえな……」
 父の声色が低く、暗くなる。
「ちゃんと勉強してるのか? センター試験ってのは対策練らないと駄目なんだろ。こんな成績でいいのか?」
 今回の模試は記述試験の模試であってセンター試験のそれではない。そんなことは表やグラフを見なくても、一番上に書いてある。
「まあまだ八月なんだし、そんなに焦ることはないでしょ」
 母は気付いているのだろうか。僕には早く洗いものを片づけたがっているようにしか見えない。
「夏は受験の天王山っていうだろ。ここでしっかりしておかないと――」
 父は言葉の途中で口を閉じた。居間にはテレビの音だけが満ちていた。
「なにやってんだ、こいつは! 肝心なところで」
 大声をあげたかと思うと、父は勢いよく立ちあがった。僕に向けた言葉ではない。画面の中でフライを落球した野手に向かっての罵声だ。
 母はいつの間にか台所に引っ込んでいた。父の手から落ちた模試の結果の紙を拾い上げながら、僕はテレビに向かって呟いた。
なにやってんだよ。


(六)
「確かにオレは京大を諦めたよ。それは否定しようのない事実だ。だけどな、今はそれでよかったと思ってるよ。センター試験の結果が出てすぐに決断して動いたから、早稲田にも入れたし。もちろん大学は名前だけが重要じゃないのはわかってる。むしろ早稲田に入ったオレ自身がそう思ってるんだから。浪人でがんばってるお前に自慢するわけじゃないけどさ、今すげえ充実してるんだぜ。私立なんていけ好かない金持ちばっかりだと思ってたけど、やっぱり入ってみなきゃわかんねえよ。むしろ国公立より良い面がいくらでも見つかるんだよ。国公立ってだけででかい顔する奴がいるだろ? 旧帝大の威光に縋ってる地方の公立大学なんて惨めなもんだぜ、ほんとに。交友関係が広がって、そういう所の生徒とも大学越しの付き合いをするようになってきてわかったんだよ。あいつらは結局テスト勉強しかしてこなかった。センター試験で全教科を平らに八割取ることしか考えてこなかった人種なんだよ。大学に入るために勉強するんじゃなくてさ、大学で何をするかが重要なんだよ。結局あいつらは勉強することでしか自分のアイデンテティを確立できてない。大学を就職予備校かなにかと勘違いしてる。もしくは、本当の自分とかいう、大の大人なら冗談ともとれないようなものを口に出して探してやがる。単なるモラトリアムじゃなくて、選択肢を積極的に増やしていく時期なのによ。東大や京大に行ってる連中にもそんなことすら分からない奴が混じってるんだよなあ、これが。雪村のことを言ってるんじゃないぜ。ただああいう所で慣れ合ってる連中は、自分たちを一段上に置いてるんだよ。達観なんてご立派なもんじゃないね。ただの見栄と勘違いさ。お前はどう思うよ、荒木」

(七)
 秋を過ぎると、予備校には二種類の空気が流れ始める。弛緩した空気と、緊張した空気だ。前者は幅広く蔓延するが、後者は局所的にしか感じられない。
「ぎゃははは、そんなことないって〜」
 自習室で勉強していると、入り口の扉付近を溜まり場にして、下らない話に興じる愚か者が現われることが増えてきた。煩い事に違いはないのだが、扉は閉め切ってあるので騒音被害というには足りなかった。反対側の職員室から教師が注意しに来ないということは、つまりそういうことなのだろう。
「うるせーな、オレは大丈夫だって」
 その愚か者の中に、橋本の声が混じっていた。相変わらず清潔感を感じられない声だ。
 僕は橋本と距離を置くようになっていた。そもそも予備校に通う浪人が、友達を作って仲良くお話する必要などないのだ。同じ場所、同じ時間を戦う仲間などいない。もし本当にそうなら、自分と同じ大学を競う敵である。小さな木片に掴まる、自分が生きるためには蹴落とさなければならない人間なのだ。
「本当だって! オレB判定だったんだぜ、東大」
 耳を疑った。つまらない嘘。愚か者たちの他愛もない見栄の張り合い。僕は手元の日本史の年表をしっかりと読み込もうとしたが、上手くいかない。年表の数字が、偏差値の高低を、僕と橋本についた評価の違いを示しているようで。
「勉強は息抜きが大切なんだよ。勉強勉強って言って机に向かってるだけで、なんにも頭に入ってなきゃ意味がないんだから」
 得意げに語る橋本の顔が目に浮かぶ。ゲームセンターで遊びながら、僕にノートを借りていた分際で。
「オレはオン、オフの切り替えが得意なんだよ。別に頭が良いわけじゃない」
 橋本の模試の判定がたとえ本当に良かったのだとしても、それは僕とは関係のない事だ。センター試験まであと、五ヶ月もある。不安になる短さであり、慢心する長さでもある。この時期の模試の判定は、いや、模擬試験というもの自体が、当てにしすぎてはいけない代物なのだ。
センター試験は当然満点狙うぜ。無理とか無理じゃないとか、そういうことじゃないんだよ。東大狙うためには九割五分取らなきゃいけない。満点狙うくらいでちょうどいいんだよ」
 記述試験の模試の結果の話をしていたのに、いつのまにかセンター試験について語っていた。大雑把な基準の物差ししかもっていないのはわかりきっていた。
 辺りを見回しても、皆一様に自分の机に向かっている。雑音に苛まれているのを我慢しているのだろうか。それとも端から意識のもとに置かれていないのか。橋本の下らない話が、下品な声が、低俗な鼻息が、自習室の外から僕の耳めがけてゆらゆらと進んできている。僕の耳だけに。
 僕は敗北した。耐えられなかったのだ。この程度の揺れで思考に霧が立ち込めてしまう。
「おっ、荒木じゃん。どうしたんだ、今日はもう帰るのか?」
 筆記用具や参考書をまとめて鞄に放り込み、逃げるように自習室の扉を開けた僕を、下品な笑みを浮かべた男が出迎えた。間抜けに開かれた口からは粘性の糸がぬらりと垂れていた。
うるさい、お前のせいだ。
 心の中に浮かんだ言葉を両手で無理やり沈めながら、エレベーターへ向かった。

 トントントントントン。

 一分一秒でも無駄にしたくない状況でも、このエレベーターは平然と僕を待たせる。出来そこないのポンコツ。将来のために戦う僕らを程度の低いことでしか妨害できない愚図。

 トントントントントントントントントントントン。

 僕はひたすらボタンを連打した。一回押すごとにエレベーターの到着が一秒早まるのでもない。僕の偏差値が一つ上がるわけもない。ただの無意味な発散。やつあたり。
 エレベーターの扉が突然開く。ボタンに意識が集中し、暗く狭まっていた視界が一気に拡大した。あのままだと僕の視界は点になっていただろう。
「おい、荒木。あんまりボタン押したら壊れちまうぞ。先生に弁償させられるぞ、な」
エレベーターに乗った僕の背後から、下衆の声が聞こえてきた。上から目線で、意味不明で、自分を棚に上げて、根拠もなく。
「寄り道せずに帰れよ、その顔からすると、模試の判定良くなかったんだろう? まあまだ時間あるんだから気にするなよ」
 僕は猛烈な勢いで、エレベーターの中のボタンを連打した。先程の比ではない速さで。顔は橋本に向けたまま。いつもと同じような苦笑いを。指だけに意識を集中して叩きつける。何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
ドンッ!
エレベーターは勢いよく閉まった。
 わかるじゃないか、僕の気持ちが。あの頓馬よりよほど賢い。


(八)
 冬の足音が聞こえるようになると、受験生の多くは裸足で逃げ出したくなる欲求に駆られる。しかしそんなことは無理だとすぐに気がついてしまう。裸足で逃げた所で凍りついた地面は皮膚にはりつき、容赦なく引き剥がす。その一撃でもんどりうって転がれば、手を、顔を逃さず捉えられ、あっという間に動けなくなる。後ろを振り向かずに必死に走っていたはずの者は、前に、横に現われる哀れな亡骸を尻目に前に向かうことを余儀なくされる。

「だからさ、オレはあんな奴と付き合いきれなくなったんだよ」
 石井はあの日から、僕の頭の中の何かがすっかり漏れだしてしまったあの日から、頻繁に電話をかけてくるようになった。その内容はただ保身的で、ひたすら独善的だった。石井はかつて僕が恥じたものよりも高級で、ずっと長持ちする装飾を自らに施していた。
「最初は上手くいってたんだよ。大学に上がったばかりの頃はな。オレが京大に行けなかったことに、失望も、落胆も見せなかったよ、あいつは。でもそれは違ったんだ。見せかけだったんだよ。あいつは内心オレの事を見下していた。あいつが努力した結果は認めるよ。オレも複雑な気持ちだったけど、祝福してやったさ。二人とも夢破れるよりは、どちらかだけでも合格した方がいいのは当然だからな」
 京都大学に落ちた瞬間から、石井の運命は決まってしまったのかもしれない。社会的に見れば石井は敗北者ではないのは明らかだ。言い訳じみた持論も、強ち的外れとは言い難い。しかし、石井は劣等感からは逃れられないだろう。
「あいつは結局自分のことしか考えてなかったんだ。せっかく違う大学に進んだんだからさ、お互いの交友関係を共有して、広げていこうって思ったんだよ。一つのところに凝り固まってたら、進歩がないだろ?」
 石井の言葉と、実際に取った行動がどのような一致と相違を見せるのかは、推測の余地を越えられない。
「オレに対して関心を、だんだんと持たなくなってたんだよ。心ここにあらずって感じで、何を考えてるのかもわからなくなっていって」
 石井は劣ってはいなかった。そして優れてもいなかった。ただ一つ惜しむべきは、物差しを一つしか筆箱に入れていなかったことだ。去年のセンター試験前日、一緒に食事をしたあの時、僕は注意しておけばよかった。鉛筆や消しゴムは皆が意識して確認するが、物差しはそういう訳にはいかない。
「オレは、雪村に――」
 僕は偶然物差しをもう一つ持っていた。児玉の家で拾ったのだ。立派な見た目で、丈夫であることがすぐ分かるものだった。
「石井、僕もう予備校行かなきゃ」
 僕は有無を言わせず、通話終了のボタンを押した。今からまた授業がある。最後の模試、プレテストも近いのだ。
 僕の持っていた二本の物差しの内、一本はポッキリと半分に折れていた。児玉からもらったそれは、見かけに反して脆弱で、使い物にはならなかったのだ。それでも僕は、とうとう手放すことはできなかった。臆病者の僕には、決断することを決断できなかった。


 いつもより遅い時間帯の電車は、乗客の種類が違っていた。平日の夕方といえば通勤ラッシュの時間帯だが、予備校のある市の中心部に向かう上り電車にはそのような現象は当然見られない。
 混んでいると言うほどではないが、座席は埋まり、立っている人もまばらに見られる。僕もその一員だ。
 僕と同じような学生風の男が座っている前に、一人の老人が立っていた。ただ吊革につかまって立っていると言うわけではなく、男の隣に座っている妻らしき老婆に話しかけているようだった。
「この季節になると腰が痛くてかなわん、立っているだけで、しくしくと痛むんだよ」
老婆が何か返答したのはわかったがよく聞こえなかった。老人の声ははっきりと聞こえ、くたびれたがように見える学生風の男よりよほど若々しく感じた。
「最近は若いくせに運動もせんと、すぐに休んでばかりの軟弱者が増えとるんだわ。会社を辞める前は自分の仕事を引き継ぐ若造にさんざん教育する羽目になった」
 自分に席を譲るように、言葉の圧力をかけているのは明白だった。もちろん対象は目の前にいる男だ。
 老人の言葉は聞いているこちらが情けなくなるようなものだった。ただ年齢が上という理由だけで、自分が偉大であるかのように振舞うのは、勘違いも甚だしい行いだ。なぜ長く生きただけで人間としての価値が上がるのか? 物を貪り、二酸化炭素を吐き、数多の化石燃料を使用するという人間の一生が、どれだけ非効率的であるのかを全く理解出来ていないからこそ、このような文言が口からこぼれ落ちるのだろう。むしろ老人は、今まで生きてきた自分がどれだけのことをしてきたかを振り返らなければならない。時を経るほど成せることは減り、撒き散らす害はただただ増えていくのだから。そこで虚勢を張る者に限って、粗末な張りぼてで誇張と見栄を覆い隠し、貧相な石ころをささやかな宝物だと嘯くのである。
 僕はじっと老人を見つめた。よくよく見ると、背丈はそれほど高くない。背骨が曲がっているのだろう。頭の上にはちりぢりになった毛髪が塗されていた。若かりし頃の豊かさと、これから辿る行く末を容易に想像できる。
「なんだ、お前は」
 老人は僕の視線に気がつくと、まるでそれが罪であるかのように決めつけて声を荒げた。その目はひどいやぶにらみで、威勢の良い声とは裏腹に滑稽なものだった。すこし昔に流行した妙にリアルな動物のぬいぐるみが、思い切りぶん殴られて目玉がイカレてしまった状態によく似ていた。
 声で威嚇しても僕が目を離さないことにたじろいだのか、老人は何も言葉を発さなくなった。立ち枯れ寸前の木の耐久力は張りぼてにも劣る。
 ちょうど予備校の最寄り駅についたので、僕は車両から降りた。降りる間際まで目を離さなかったので、老人は僕の姿を目で追うように顔をぐるりと回した。それを見ていた老婆の黒い目玉がぎょろりと動く。老人の口からは粘性の糸がぬらりと垂れていた。
「ンクッ」
僕は笑いを堪えられなかった。同時に吐き気にも襲われた。逆流した胃液が鼻の粘膜をひどく刺激しても、僕は笑いを堪えることを優先した。


(九)
 十一月末のセンター試験プレテストを控え、予備校にはかなりの人数の生徒が集まっていた。自習室は当然のごとく満員だったが、予備校側の配慮で空き教室を自習用に開放してくれていた。
 この期におよんで雑談に耽る愚か者は皆無だった。そんな者がいれば叩き出されて然るべき、という無言の圧力が感じられた。
「おい、荒木、ちょっとこっち来いよ」
 そんな中でも普段と変わらない者もいた。教室の入り口でしつこく手招きするこの男には、露骨な不快感すら通用しない。
「お前オレのこと嫌いだろ」
 素直について行った僕は、突然振り下ろされた言葉の鈍器を避けることができなかった。確かにその通りだが、本人から直接問われると、答えようがない卑怯な質問だった。いや、卑怯に感じるのは僕が小心者だからだろうか。

「よんにいさんにいよんいち」

橋本の口元がもごもごと動く。その動きは何か別の生き物が寄生したようなものだった。しかし僕にはその生き物の名前を言い当てることはできない。ただ

「ヨン、ニ、サン、ニ、ヨン、イチ」

 僕の顔色を見ながら、橋本は声色を変えた。何を言っているのかが漸く理解できた。数字だった。それは六つの数字だった。
「今度のプレテストの英語、最後の読解問題の答え」
センター試験の問題は形式に限ってみればある程度定型化されており、英語の最後の大問は六つの読解問題であることは、暗黙の了解となっていた。その問題が曲者であり、テストの出来を左右することも。
 片言のように呟きながら口をゆっくりと開いて橋本は笑う。独特の品のない笑い方だ。その口からは粘性の糸がぬらりと――。
僕は踵を返して教室に置いていた荷物をとると、外のエレベーターを目指して一目散にかけた。何人かに身体をぶつけて文句を言われたが、それも上手く聞き取れない。僕の耳には、ただ後ろから尾いてくる橋本の放つ呪詛の言葉だけが、延々と入り込み続けた。

よん、にい、さん、にい、よん、いち。
ヨン、ニ、サン、ニ、ヨン、イチ。
四、二、三、二、四、一。

「今度のプレテスト一緒に良い判定取ろうぜ」
 エレベーターに向き合った僕の後ろから、祝福の言葉が聞こえてきた。きっと邪悪な笑みを湛えているのだろう。
 エレベーターはまだ来ない。


(十)
プレテストも無事に終わり、家に帰った僕を待ち受けていたのは、電話をする母の姿だった。以前のそれとは違って、楽しげな雰囲気は感じられない。何か聞きたくないことを聞いているような。それでいて母の表情は悲しみにくれているという風でもなかった。嫌悪感に耳を持て余している様でもなかった。
そっと子機のボタンを押して、こちらに向かってくる母を見て、僕はようやく理解できた。
「雪村さんちの娘さん、覚えてる?」
 母の頬がうっすらと紅潮してゆく。目尻は不自然に上下し、皺が波のように揺れた。
「あの子、京大やめたらしいわよ。今、お母さんから聞いたの」
 僕の母と雪村の母親は昔から交流があった。むしろ僕と雪村が違う進路に進んだからこそ、親同士の情報交換が密に行われていたのだろう。
「いっつも心配される立場だったから、わたしが何か力になれたらって言ったら、泣き出しちゃって」
 母はとてもうれしそうだった。今までの母ではなく、息子や息子の友達を心配する母になってくれたのだ。
「電話、使う?」
 母の問い掛けに、僕は満面の笑みを浮かべて頷いた。
自室のベッドに大の字になって寝転がった。身体を広げ、手足を伸ばし、首を鳴らす。今までは一方的にかかってきていた相手なので、番号を間違えないように慎重に押す。一つ一つの数字を思い出しながら。

「よう、どうした? こんな時間に」
 石井は不満を戸惑いという名札をつけて投げつけてきた。自分の電話が時を選ばないことに無自覚なことの表れか、そのような傲慢が自分にだけ許された権利だと主張しているのか。腐った卵と新鮮な馬糞のどちらがきれいかわからない僕には、難しすぎる二者択一であった。
「雪村が京大を辞めたらしいよ、ンク」
 僕は自分の語尾に雑音が混じっていることに気付いたが、すぐに気にすることでもないと思った。
「辞めたのか、辞めさせられたのか、辞めざるを得なかったのか、辞めることを強いられたのか、やめ」
 僕は真剣に可能性を探っていた。ただそれだけのことだった。雪村が京都大学を辞めたという情報自体が正しいのかもわからない以上、与えられたこの与太話を玩具にするか、議論のタネにするかは僕に委ねられていた。
「黙れ」
 石井は今となっては懐かしい、よく通った声で応答した。自己顕示欲がくどいほど滲み出ていて、思わず鼻をつまみたくなるあの声だ。
 僕は空っぽの膀胱頭を前後に振って、その声を自分の頭に良く響かせてみた。
ンク、ンク、ンク、ンク、ンク、ンク、ンク。
リズムよく音が響くと、とても清々しい気分になる。僕は断続的な電子音が聞こえてくる受話器に向かって言った。
「報告会で待ってるよ」


(十一)
 センター試験プレテストの結果を、母は僕より先に手にすることになった。たまたまその日は遅くまで授業があったので、もとより自分で受け取ることは諦めていた。帰宅してすぐに、母がテスト結果の入った封筒を持っていて、なお且つそれが開封されていないことを知ったとき、模試の結果などどうでもよくなった。
「まああんまりプレッシャーをかけたくないんだけどね」
 母は皿の片付けもほどほどに、居間の椅子に腰かけた。テレビの画面には父が居る時には恒例となっている、野球中継が映しだされていた。もちろんこの季節にプロ野球の試合などやっているはずもない。録画した試合を名場面などと言って、見ているだけだ。試合の内容を覚えられないくらい頭が悪く、かつ貧乏な者にはうってつけの趣味だ。
「今回は最後の模試だからな、これで合否が決まると言っても間違いじゃねえな」
 父は凡庸な人間に相応しい、上っ面だけの真剣な表情を冗談抜きで見せつけていた。その迫真の表情に、僕は胃の中のものを全部噴き出しそうになってしまった。
「じゃあ、開けるわね」
母は気色の悪い薄ら笑いを浮かべながら封筒に手をかける。封筒が歪む様よりも汚い皺の溝が、口元、目もと、首と顔の境、ありとあらゆる箇所に一斉に現われた。もはや顔の表面積が常人の倍以上になっているだろう。
 母の手に収まっていた封筒は、子供が開けた袋菓子よりも汚くなっていく。意地汚い性根が末梢神経にまで行き届いているのだろう。
「早くしろよ」
 父は足りない語彙を隠すことなく母にぶつける。本心からの苛立ちではなく、期待による焦燥であることは明白だったが、それを口に出すことも我慢できないような人間を喜ばせる自分が、道化のように思えて、単純に惨めになる。
「A判定じゃない! よく頑張ったわね」
「ふうー。まあこれで一安心だな」
 母は笑顔で台所に向かい、父が食い散らかした後の残飯をゴミ箱に流し込んだ。
 父はどっかりと腰を椅子に打ちつけ、大きくのけぞった。妊娠したサンドバッグのような腹が、空間を圧迫して僕の周りの酸素を薄くする。
「偏差値七十一とは大したもんだな、七割もありゃ東大も余裕だな!」
 意味不明なことを自信満々に話す父を尻目に、野球中継にも見せ場が訪れていた。
「あっ!」
 父の身体の揺れがテーブルを揺らし、その上のビール瓶を揺らす。
 逆転満塁サヨナラホームランだった。打った瞬間にそれとわかったのか、打者は大きくガッツポーズしながらゆっくりと走りだした。それとは対照的に、投手はグラウンドに崩れ落ちたまま起き上がろうとしない。
「屑が」
 テレビの電源がぶつりと落ちる。スコアボードに一瞬灯った「4」という数字が、目の裏でちかちかと瞬いている。

よん。
ヨン。
四、二、三、二、四、一。
よんにいさんにいよんいち。


(十二)
寒さは例年通りにもかかわらず、都市部ではあまり見られない雪が空を彩っていた。まばらではあるが、その視覚的効果は大きく、いつにもまして肌寒く感じる。
「いらっしゃいませー」
 覇気のない定型句は、いかにも敷居の低い店という印象を抱かせる。金曜の夕方だけあって、席は埋まっていた。皆、社会的地位を中途半端に持ち合わせた者たちだ。この類の人間は、自分たちが社会の歯車ではあるが、それは多数を支えるために仕方のない事であり、是とされるべきだと思っている。そうであることを必要とされているのだからと。しかしそれは全くの誤りなのだ。夢の残滓を代用している固陋な人々にすぎない。
 店内を歩いて行くと一人の中年男とすれ違った。通路の真ん中を大股で歩いていたので、僕は端によけることを余儀なくされた。それをちらりと見つつ、男は脂の浮いた鼻をひくつかせてささやかな自己満足に浸る。この男はつまるところ、自分を他人とは違うと思っているのだ。一番上に置くほど愚直でもなく、一番下に置くほど卑屈でもない。しかし、自分はどこか他人より優れているところがあると思っている。思春期を過ぎれば、そのような根拠を調達できない自信は無意味だと分かるはずなのだが。だからこそ、大通りや職場では同じようなことはせずに、このような所で矮小な自尊心に餌をやっているのだろう。
 店の少し奥まった所に雪村の姿を見つけた。近づいて行く僕の姿に気付いたのか、大きなメニュー表を左右に振っている。
「久しぶり、誰も来ないかもしれないと思ってたんだよ」
 雪村はくたびれていた。長かった髪はばっさりと切られており、本人曰く悩みの種であって余分な体重も落ちているように見えた。僕を前にして見せる笑顔に以前の色はなく、水分が揮発して一回り小さくなっている。
「とりあえず何か食べようよ」

 先程とは違う店員が、仏頂面で料理を運んでくる。その接客態度は、蒸し鶏の値段以下の時給すら過多に思えるほどひどい。
「児玉と石井のこと、何か知ってる?」
 僕は肯定とも否定とも取れないように無言で答えた。雪村はそれを保留と判断したようだ。
「私、京大辞めたんだ」
雪村は僕が既に自分の進路について知っているという前提で話を進めた。そして精一杯の自嘲的な笑みを浮かべながら、皿の傍らのスプーンに手を伸ばす。
「私、元々婆ちゃんみたいな人の助けになればと思って看護学部に入ったんだよね。でも石井は、入りやすい所に入ったとか、妥協だとか言いだしてさ。私もだんだん石井のことがよくわからなくなってきて」
 雪村は不健康な肌を苦笑で揺らした。其の皺に侮蔑と憐憫が沈んでいるのを僕は見逃さなかった。
「婆ちゃんがね、また倒れちゃったの。今度は深刻で、病院だけに任せるわけにはいかなくなったんだ。私も最初は大学と両立できると思ってた。でも、婆ちゃんは世話してる私のこともよく分からなくなってきたみたいで……。それにね、仕方ないって思ってても、婆ちゃんがどんどん汚らしいモノに見えてきちゃったんだ。こんなこと思っちゃだめなんだけど、早く楽になりたいなって」
 幼い頃に見た雪村の祖母は気丈な人だった。その人がだらしなく口を開け、垂れ流した排泄物を孫に処理してもらっているのを想像すると、奇妙な興奮を覚えた。腐りかけの白痴にではない。慕っている祖母への想いと、前途有望な己の身の不幸に挟まれて悶える雪村の姿に対してだ。
 しかしそれも束の間のことだった。心の内を吐き出した安心感からか、雪村は皿の上の料理を吸い込むように食べていた。こけた頬を埋めるように食べていた。それはさながら排泄欲と食欲を同時に満たすような、傲慢で怠惰な行為だった。僕が雪村に抱いた背徳感は、下痢のような薄茶色で乱暴に塗りつぶされていく。それと同時に、雪村が食いちぎった蒸し鶏の皮の色は、見るに堪えないものに変化していった。
 僕の嫌悪を感じ取ったのか、雪村は箸を置き、こちらを見据えた。
「ねえ、私を褒めてよ! 私、がんばったんだよ。優等生のみんなに負けないように、一生懸命勉強して、京大にも入ったんだよ。石井と一緒の大学に行きたかったから、私もがんばれば結果を出せるって見せたかったから」
 雪村は叫んだ。しかしその小さな叫びは、喧噪の坩堝にかき消された。肉の塊が跋扈して高騰する室温は、雪村の言葉の身ぐるみを溶かし、粗末な意味を奪った。
「大変だったんだよ、辛かったんだよ。みんながもっと褒めてくれたら、私はもっとがんばれた。みんながもっと励ましてくれたら、私はもっと戦えた」
 その言葉は、僕に向けられてものではなかった。正確に言えば、僕達に向けられた言葉だった。その中には児玉や石井だけではない、雪村自身も含まれていた。
「今日みんなが来てくれたら、私、もっと喜べたんだよ。みんなが惨めな姿を晒してくれたら、ちっぽけだけどその優越感があれば、私は明日からも戦えたんだよ」
 雪村は笑っているのか。怒っているのか。嘆いているのか。
「ンク、ンク、ンク、ンク、ンク、ンク、ンク」
 雪村は僕から目線を落とし、汚物のこびりついた皿を見つめながら音を発した。それは口からでもない、喉からでもない。頭の奥から漏れだしていた。
ようやく理解した。僕は誤解していたのだ。この音は泣き声だったのだ。僕の耳をこじ開け、頭の中で度々跳ねまわっていたこの音は、心が擦り切れる時に聞こえる摩擦の音だったのだ。

「東大以外は大学じゃないんだよ」
 僕は一言だけ発して席を立った。最後の問題を自力で解けた爽快感も達成感も、蒸し鶏おぼろ豆腐のくどい味付けの後では意味を成さなかった。


(十三)
 気付くと辺りはもう薄暗くなっていた。まばらだった雪は、抑えつけていた太陽が沈んだことで傍若無人に振舞っている。
 飲食店や雑居ビルが立ち並ぶ街並みは、田舎とも都会とも言い切れない半端なものだ。しかしそこを蠢く人間の数は決して少なくはない。素知らぬ顔で歩く様々な人々は、先程のレストランもどきにいた者達と大して変わらないはずだった。だが僕にはもう彼らを見下すことはできない。
僕は周囲の人間を的確に観察していたつもりだった。しかし実際のところは、決められた範囲の中にいる人々を、社会的立場のような脆弱な物差しで測っていたに過ぎなかった。低所得者が群がることが多い低価格が売りのレストラン、というありがちな括りで。志望校に落ちた者や、快楽至上主義者が多く集まるとされる私立大学、という確度の低い情報で。
 ショーウインドウに映った自分の姿が目に入る。その口からは粘性の糸がぬらりと垂れていた。慌てて口を抑えるが、すぐに意味がない事に気付いた。僕の情けない姿が映ったそこには、自分の足で歩く人々の横顔が映っていたからだ。僕は周りの人間を見下していたが、周りの人間は僕のことを見てすらいなかった。僕は最初は嫌々ながら、途中から嬉々として背比べをしていた。それはどんな自慰行為よりもみすぼらしく、滑稽で、現実から乖離したものだった。僕は誰もいない劇場で、分不相応な難度の技に挑戦していたのだ。失敗しても誰も咎めない。しかし成功しても誰も喝采を送らない。挑戦することに意味を見出したなどとほざき、したり顔で失敗を続ける。隣の劇場で低難度の技を成功させ、喝采を浴びた者がいれば誹り、向かいの劇場で苦難の末に高難度の技を成功させた者がいれば、負け惜しみを言う。皆が目の前の客を相手に技を披露していたのと違って、僕はただただ自分のために無意味な挑戦を続けていた。そして他の者の客を、上っ面だけの魯鈍だの、腐りかけの屑肉だのと罵っていた。
 僕はポケットの中の携帯電話を取り出し、電源を点けた。一年前に電源を切って以来、ずっと机の中にしまっていた。正確に周りを見るにはこの小さな機械に頼るほかはない。それほどまでに、今の僕の目は役に立たなかった。淀むどころかすっかり枯れ果てていて、恐らくおたまじゃくしも住めないだろう。
 一斉にメールボックスがメールで埋まっていく。一年分のそれに大して興味はなかった。僕の見たいものは他にあった。
「あった」
 思わず小さく声が漏れた。去年のセンター試験前日、四人そろって食事をしたあの日だ。その日の夜、日付が変わるまでの間に三人からメールが来ていた。児玉、石井、雪村という順番なのが妙に納得できるものでおかしかった。
 メールの内容はバラバラだった。しかし要点は皆同じで、明日はがんばろうという他愛のないものだった。短いながらも芯が通っていて安心感を与える児玉の言葉。軽薄なように見えて緊張感を解そうという心遣いが感じられる石井の言葉。泣き言をふざけた調子で書いてあからさまに不安をごまかしている雪村の言葉。
 僕は返信のメールを書くことにした。ただの自己満足かもしれない。それでも今の僕にできる一番の建設的な行為だと、自信を持って断じられる。指を廻る血液は、激しくなった雪に反して滾りつつあった。

 みんなへ。

宛先に三人のアドレスを入れれば一斉送信できる。題名を入力すれば、後は本文を書くだけだ。外気の寒さで冷えた液晶画面が、僕の手の温度で曇りつつあった。
 
指が動かない。
寒さが原因ではない。疲労が原因でもない。ただ、僕の頭が働かなかった。指をどう動かせばいいのか分からなくなっていた。何を書けばいいのか分からなくなっていた。
愕然とした。白い画面に黒い横罫が走っているのをただ見つめるしかなかった。先刻浮かんだ前向きな考えを実行する力が、既に僕には残されていなかったのだ。当然の結果だった。緩みきった膀胱頭では、甘い考えの賞味期限が切れて願望になっていることはおろか、腐敗が進んで高望みになり果てていることすら想像できないのだから。

サラサラ。
聞き覚えのある音が耳に入ってくる。涙ではない。目から聞こえるのではないことはわかっている。
 僕は嬉しかった。まだ残っていたのだ。僅かながらも頭の中に。そして今、僕の頭は正真正銘空っぽになった。残尿感はない。あるのは幾許かの虚無感と、邪な清々しさだけだ。
 ただ臭かった。僕が撒き散らした小便は、不思議なことに周りを歩く人間を黄色くしていた。性欲を煽る服に弛んだ腹を無理やり押し込んだ商売女。その女を劣情で歪ませた目で舐めまわす中年の会社員。死に絶えた脳細胞で肉体を御そうとする諦めの悪い老人。親の金で己を語る穀潰しの若者。派手な髪に不釣り合いな細い腕でバイクのエンジンを吹かす頭の悪そうな高校生。

 臭いのはお前らなんだよ。