たぬき「秘密のモモさん」 

* * *
 どうも。私、春枝モモ。一八歳。ぴちぴちの女子高生やってまーす。……ぴちぴちって今時古いか? キラキラ? ナウい? あー、よくわからん。 
 こんな感じで流行には疎いし、おしゃれにも気が回らないという残念女子だ。せいぜい初めてのバイト代で買ったお気に入りの眼鏡がかわいいってぐらい。ピンク色なんだけど、花弁の装飾が入っていて綺麗なのだ。私の名前にぴったりだと思って毎日着けてる。
 と、どうでもいいよなこんなの。誰も興味ないっての。私は根っからのモブキャラ体質なのだ。影が薄いのとはちょいと違う。漫画でいうと、主人公が偶然入った喫茶店に初めからいたけど、お互い気付かずにコマの端に写り続けてる存在……かな? この前もダチと一緒にいた時、近くを芸能人が歩いていたらしいのだが、私は運悪くお手洗いに行っていたので見る事が出来なかった。 
 正確には、モブキャラというより、要は間が悪いのだ。はぁ……。
 こんな私だが、たった一つだけ胸を張れることがある。それは誰にも教えていない、私だけの秘密……。
 そう、私、実は――。
* * *

「一八歳ってさぁー、もう少女じゃないわよね? もう半分大人よね?」
 大きくうねる暗雲が広がり、空を黒く塗りつぶす夜。いつも人々を見守る星が隠れた空は、見る者に不安を呼び起こす。春先にしては生ぬるい空気がじっとりと肌にまとわりついて不快感を覚える。人々はその不穏な空気を感じ取ったのか、表に出ようとはしない。いや、そもそも今は魔が強まる丑三つ時。こんな真夜中に外に出ている人間はそういないだろう。
 ひっそりと静まり返る街を見下ろす影が一つ、照らし出される。月も星もない空に浮かぶのは、蛍のように淡く光る球体。シャボン玉のように儚く揺れるそれらは赤、青、黄の三色存在し、主の周りをふわふわと回る。かけられた眼鏡のレンズがその光を小さく反射している。
 黒く大きな三角帽子をかぶり、風にはためく黒のマントを羽織ったその人物は、その小さな体躯から女性である事がうかがえる。その姿からは誰しもあるものを連想する事であろう。
「だというのに、どうして私はまだ『魔法少女』なんてファンシーな事をやってるんでしょうね?」
 すなわち、中世ヨーロッパに実在した魔女である。大きな樫の木でできた杖に跨り、少女は高度四〇〇メートルの上空にふわりふわりと滞空しているのだ。
 光球を付き従わせる少女はそう言って足をパタパタ揺らして不満を表現する。その声からは心の底からうんざりしています、という強い意志が感じられた。独り言であればこれほど意志を込められないだろう。
 もちろん相手がいるのだ。その不満を受け止めなだめる役目を持った、魔女、もとい魔法少女にお約束な存在。マスコットたる魔法の国の妖精さんである。
「大丈夫だよ。漫画やアニメでは一八歳以上のヒロインもいるらしいから、モモもまだ少女で通用するよ。あ、でも『美』少女じゃないとダメなのかな?」
「オル、あなた前に自分で空を飛んでみたいって言ってたわよね。今から飛んでみる?」
 オルと呼ばれた黄色いシマリスのような姿の妖精は、本名をオルティアといい。齢一五のオスである。彼はモモにしっぽを掴まれて今まさに、ひもなしバンジーを強要されようとしていた。
 手足をばたつかせてどうにか逃れようとしながら、口からは弁明の言葉が紡がれる。
「ごめんなさい、ごめんなさい! モモはかわいいよ! すごくかわいいっ! …………五年ぐらい前までは」
「ユーキャン、フラーイ」
「あ」
 モモは一切のためらいもなく長年の友を宙に放り捨てた。大事な仲間のはずだが、そこにはゴミを捨てるような気軽さがあった。
 ただ今の標高、二七〇メートル。真下を流れる河は県内一の幅を持つがその割に底が浅く、梅雨時に洪水をよく起こすことで知られる大河だ。このままでは、オルは真っ赤なハスの花を咲かせてしまうだろう。
「ぎゃああああぁぁぁぁぁっ!」
 モモは見る。
 眼下で心からの悲鳴と共にどんどん小さくなるオルは、すでに意識の外へ。
 けだるげな様子はそのままに、眼鏡の奥の目だけはただ真直ぐに、真摯に、真剣に。例え真っ赤なハスが咲いても、モモは目を離さない、そう思わせるほどにただただ水面の一点を凝視する。
 そして、変化は訪れた。
 鏡のように黒い空を映していた水面が、歪む。歪みは川の中心から円状に広がり、揺れを起こして波を生んだ。
 小さかった波は岸につくころには五メートルを超え、水を失った河の真ん中に大きな穴がぽっかりと開いた。夜の闇よりも暗い大穴が口を開き、オルを飲み込もうと天へと伸びてゆく。
 いや、違う。実際、その大穴は口であった。滝のごとく流れ落ちる水をまとい、それは姿を現した。
「ビンゴ」
 その全身は怪しげに発光する鱗で覆われ、鞠のように肥大した巨体は、重圧を伴って空間を蹂躙する。
 口の横には鞭のような髭を二本。鱗の有無を除けばまるでナマズのような容姿をしている。
 明らかに川の水深よりも大きいナマズは、その体以上に大きく開いた口で、パクリ。オルを一口で呑みこんだ。
「わが友よ。安らかに眠りなさい」
 十字を切って、その後合掌。魔法少女だが宗教に拘りはないのだろうか。食されたオルを悼んだのは一瞬。モモの意識はすぐさま、空中へと跳ね上がり、その身を現したナマズへと収束してゆく。
「あらあら、ずいぶん大きく育ったようね」
 モモの言うとおり、このナマズも初めはここまで大きくはなかった。栄養を大量に摂取して、ここ数日のうちに、今の大きさまで急激に成長したのだ。この大きさならば、人すら簡単に呑みこんでしまうだろう。
「私は別にいいんだけれどね。河口付近で、食いちぎられた魚が死体の山作ってるって、ニュースになっているのよ。世の中ちょっとした騒ぎで、少々うるさいから退治させてもらうわよ」
 魔法少女のお仕事は、主に人に害成す魔物の討伐。魔物はこの世がある限り自然に湧き上がってくる、生物というよりも天災に近い存在だ。その天災を粉砕すべく、今日もモモは元気にお仕事を遂行する。
 モモは青く輝く球体の中に手を突っ込んだ。光の膜はとても薄いが、よく伸び、割れる事はない。そして光が手中に集まり形を成す。顕現したのは、闇色をした古びた革張りの本。
 それは森羅万象を収める叡智にして、破壊をもたらす禍々しき力。
 中学生の時にうっかり封印を解いてしまった魔導書が今、目覚める。
「漆黒の翼、煉獄より来たれ。我が右腕に宿りしマナを求め、憐憫の叫びを上げろっ。さすれば我は、我の意思と盟約の元、数多の増悪を喰らい尽くすっ!」
 忘れ去っていた心の傷…………厨二病と共に。
「翔狼天顕、アルべリアクロウストッ! って、やっぱ恥ずいわあぁぁぁーーっ!」
 渾身の叫びと共に本を突出し大きく開く。黄色く変色したページに記された、複雑怪奇な文字が命を吹き込まれたかのように蠢き集まっていく様は、見た者によっては怖気を感じるだろう。
 ずずずず………………。
 集まり、重なり、交わり、膨れ上がり、一つとなる。
 形状は、鋭い牙を剥く漆黒の狼。
 影より暗く、影のように虚ろなそれは、悲しげな遠吠えを産声の代わりとして生まれ落ちた。
 狼はナマズと同様にあり得ない体積と質量を伴って本の中から飛び出し、落下し始めたナマズの腹に喰らいつく。牙が根元まで深々と突き刺さり、真っ赤な噴水が勢いよく噴き出した。そのまま地面まで落下し、唸りを上げて噛み続ける狼が押さえつける。
 ガラスを傷付けるような不快な悲鳴と共に、苦しげに身を暴れさせたナマズは、その身を浅いはずの川底へと沈め始める。ずぶずぶと全身を水の中へと、正確には、川の水面を境界とした位相空間へと逃げようとしたのだ。
「アルべリア、食べていいよ。……そして食べ終わったら永遠に記憶の底に眠って、お願いだから」
 片手で顔を覆い、後悔と自己嫌悪のオーラを全身からあふれ出しつつも、目標だけは確実にしとめるように命令を出す。魔女にとって、気持ちと思考と行動を分離する行為は必須事項である。そうでなければ戦いながら、複雑な魔法式を編むことは到底できないからだ。もちろん激し過ぎる感情を持つ時だけは例外であるが。
 主の命に従い、狼は腹を噛み切り、鋭い爪で臓物を掻き出して貪っていく。
 いつの間にか空から暗雲は消え去り、明るい月が朱に染まる川を照らし出していた。
「この本、威力の高い呪文が多いのはいいんだけれど、私の精神ダメージがでかすぎるのが難点ね。………………ぅぁぁ、ぁぁぁ、あぁぁぁぁ…………マジ死にたいわ……」
 中学時代、魔法少女にもすっかり慣れて調子に乗っていた時代。モモは自意識過剰になっていて、あろうことか自分で新しい魔法を作ろうとしてしまったのだ。
 だが、これだけなら、まだいい。思春期の少年少女とは個人差があれど、多少自意識過剰になるものだし、妄想や空想を一切しない人間なんていないだろう。厨二病であったこそすら問題ではない。
 問題なのは、実際に魔力を持つモモがやってしまったために妄想で済まなくなったこと。そして本物の呪われた魔導書を手に入れて、それを元に新魔法を作ろうとしたことである。
 呪われた魔導書の記述を編纂しようとしてしまったために、当時街一つが滅びるかどうかという所までいったのだが、それはすでに解決済みなので今はいいだろう。
 今はアルべリアが食しているナマズの方が問題だ。
 と、モモは過去の記憶を早く消し去るために現実逃避ならぬ回想逃避を行った。
 とはいっても、すでにナマズの体はそのほとんどが残っておらず、真っ白で綺麗な骨が一本、川に浮かんでいるだけだ。モモは、後始末の為地上に降りて、乗っていた樫の木の杖を、地面にトン、と突き立てた。
 たったそれだけで、いまだ咀嚼音を夜の街に響かせている狼も、全長一〇メートルもある魚の骨も光の滴となってすっかり消え去ってしまった。
 残ったのはすでに流れ出てしまった血液に臓物、そして水死体同然に川に浮かんでいる、全身を血で真っ赤に染めたオルだけである。
「おーい、生きてる? 親友?」
 しばらく待てども返事がない。ただの屍となりはてたか。と、ほんの少しだけ不安になってきた頃。
「………………プッ。しょうろう、てんけん、アルベリアクラ」
「ふんっ」
 一息で川の真ん中へと跳び上がり、落下の勢いをつけた杖をオルの腹へとめり込ませる。当たった衝撃で大量の水が爆発し、空に舞い上がる。
「紐なしバンジーの次は急流すべりがお望みのようね。……わかったわ。望みどおりにしてあげる」
 そう言ってもう一度、今度は水面に杖を突き立てると、その地点の川の水量が急激に増え、巨大な塔が出来上がる。そしてモモが空へと浮かび上がった直後、水の塔は崩壊し、勢いよく全てを押し流し始めた。川底の石や泥が巻き上げられた濁流は、容赦なくオルの体を殴打する。
「モモおおおぉぉぉぉぉっ! ごめんなさいいぃぃっ! 許してべぶぼごほォ……………」
 ほんの十数秒の出来事。魔法によって生み出された水は、川底に沈むゴミも呑みこみ、魔力へと変えて自然へと還元する。
 清らかさを取り戻した川が、キラキラと輝いている。夜空を映す川がたくさんの星屑を内包していて、まるで星の海を飛んでいるような錯覚すら覚える。
 そして、感慨深げに呟いた。
「あぁ……明日の宿題、終わってない…………」


 そんな訳で、当然ながら徹夜なんてめんどうなことはせず、開き直って宿題はすっぱりこっきり諦めたわけである。さて女子高生が宿題を忘れたらどうするか。
 先生に謝る? 朝早く起きて終わらせる?
 否、それは賢い人間がすることだ。
 気にしない? やったけど忘れたと嘘をつく?
 残念、それは馬鹿がすることだ。
 モモのようにずるがしこい人間の選択肢は一つ。
 できてる奴に写させてもらえばいい。
「という訳で写させろ、トラ」
「朝一番からそれってどうなの……。昨日はいったい何してたのさ?」
「うるさい。つべこべ言わずに出せ。あれだよ、あれ。魔法少女になって悪い魔物を退治してたんだよ」
「……はいはい。お勤めご苦労様です」
「嘘じゃねぇって」
 竹中虎徹はひょろっと背の高い、モモの隣の席の男子である。成績は中の上。運動もそこそこできる。優ではないが良ではある、そんな男だ。第一印象として、体の線が細い、声も男としては細い、ニコニコといつも笑っていて目が細い。と、全体的にひょろひょろで頼りない感じがする。と他の男子が言っていたのを聞いたことがある。
 だが女子からの評価はけっこう高い。彼女らに言わせてみれば頼りないのではなく、控えめで優しい好青年なのだとか。実際、今日も呆れてはいたが、自分のノートをモモに渡している。その上、丸写ししないように、直接解説しながら一緒に問題を解いてくれるのだ。これをお人好しと呼ばずに何と呼べばいいというのか。
 そんなお人好しトラと無気力モモは三年連続同じクラスである。三年間もノート係とは、この少年も気の毒なものだ。
「ふーん……なるほど、ここはこうな。……ん、よくやった。褒めてつかわす。後で昼飯奢ってやる、感謝しろ」
 教えられている間、モモはダルそうだった表情が一変、口元はにやつき、目は生き生きとした表情。獲物を目の前にしした虎のような獰猛な笑顔で教えを受けていた。
 しかし本人はいたって真面目で自分がそんな表情を浮かべていることに一切気付いていない。なぜこのような表情を浮かべるのか、トラはいつも不思議に思うのだが、無自覚では問うこともできず、困惑するばかりだ。その困惑もなかなかにおもしろいと感じていたりもする。
「そいつはどうも。ワクドナルドがいいな」
「了解。今後とも、私の知恵袋としてがんばってくれたまえ」
 ぽん、と肩を叩いて女友達の輪に加わるべく歩き出すモモ。ひらひらと手を振るあっさりした様子からは、宿題を見せてくれる便利な子分、程度の評価しかしていないように思われた。慣れ親しんだ相手の評価というのは、美化や憶測なしのドライなものになるものだ。
 その手が、優しく包むように、しかししっかりと掴まれる。掴んだ当人はニコニコと、笑顔。嬉しそうな様子が手から伝わってくると錯覚するほどで、握られた手が熱い。
「奢ってくれるのはありがとうだけど、いつも写させてあげる身としてはもう少し、何か欲しいな」
 その笑顔を見たモモはめんどうくさげに眉を寄せて、眼鏡越しに鋭い視線をトラに突き刺した。
「……なにがほしいんだ?」
「物はいらないから、時間ちょうだい。明日の土曜日」
「…………わぁったよ。いつもの場所な」
「ありがとうございます」
 ため息交じりの同意を得ると、トラは座ったまま深々と頭を下げた。モモはそんな彼を見る事もなく、友達である佐藤明美と河合奈美の会話にふらふらと混じりに行く。
「……楽しそうだったけど、虎徹君と何話してたの?」
 綺麗な黒髪がゆるくウェーブしている佐藤が怪しげに目を光らせながら、モモを睨むように見る。佐藤明美は古風なお嬢様を具現化したような、清楚な佇まいの礼儀正しくおとなしい少女だ。
 そして、友達だからモモは知っている。佐藤はトラの事が好きなのだ。子供のころから一緒だから間違いない。
 小さい街で高校は一つだけ。夢ある奴は進学校へ入っていくが、ほとんどの奴は地元で済ませてしまう。このクラスのほとんどの人間が子供の頃からの付き合いだ。
「あー、安心しろよ。別に何もねぇよ」
「……ほんとに?」
「マジだって。ちょっと二人で出かけるだけ」
「…………ぜんぜんなんかあるじゃない」
 恨みがましそうにモモを見つめる明美のことは無視することに決める。モモに言わせれば、トラと自分の組み合わせはあり得ないのだ。だからトラがモモに何をしてきたところで、明美が気にすることなど何もない、と昔から言い続けているのでいい加減めんどうに感じていた。
「……ふぁぁ」
 昨夜の疲れが残っていたので思わずあくびが出てしまう。 
「春枝ちゃ〜ん。ねむそだけど昨夜は何してたのかな?」
「あ? あー……あれだ、あれ。いつも通りの魔法少女だよ。恐い恐い魔物から街を守ってやってんだ。感謝しろよお前ら。ってこれさっきも言ったような気が……」
 のんびりとした奈美の言葉に適当に応える。こちらはおとなしい性格だが、体がおとなしくない。身長が男子の平均よりも高いのだ。それが少しコンプレックスであるらしい。
「ははは、ぼけるにはまだ早いよ。にしても鉄板ネタだね。そんないっぱい魔物出たら街大変なことなるって」
「大変なんだよ。実際」
 トラにしたのと同じ冗談で、彼女らの追及から逃れようとする。というふりをわざとすることで、相手に無理な言い訳だと思わせることに成功する。木を隠すには森の中、秘密を隠すには事実の中に。
 人はそれが真実であろうと嘘であろうと、話が現実離れしていたり、日常の中では起こらないことをいきなり話された時、まず最初に懐疑心が膨れ上がる。それは人間の本質が変化を恐れるというものだからだ。
 それに気付いたモモは、中学に上がった頃から、魔法少女であるということについて無理に隠さなくなった。言ったところで誰も信じてはくれないし、なにより、いちいちそれっぽい言い訳を考えるのが面倒だった。
「ほんと、毎日憂鬱だぜ?」
 そうして今日も、モモは本当をさらけ出す。誰にも信じてもらえなくとも。


 魔法少女といっても、体も心も年頃の少女となんら変わりなどない。お腹が減ったら早弁するし、眠くなったら授業中に寝る。そして当然先生に怒られる。
(いったー。何も頭殴る事ないじゃない。一応女子よ、私は。訴えたら勝てるんじゃないかしら? …………手続きとか金の用意とかめんどそうだからいいや。うぅ、いたい)
 昨夜の空とは打って変わって快晴の空。
 春の陽気とは程遠い、どろどろと粘着質な心の内を持て余していたモモは、両親が旅行中で誰もいない二階建ての自宅へ帰ってきた。
 まっすぐにリビングへ向かい、冷蔵庫から冷えた牛乳を取り出して一気飲み。乾いていた喉が潤っていくのを感じながら、自室へと続く階段を上っていく。パックに直接口を付けているというのに、一滴もこぼさず器用に飲みながら自室へとたどり着き、これまた器用に足で取っ手を回して部屋に入った。
「おかえり、モモ。いつも言ってるけどお行儀悪いよ、いろいろと」
 誰もいないはずの部屋から出迎えたのは、モモの相棒である妖精さんことオルティアである。綿毛のようにふさふさのしっぽを嬉しそうに揺らす姿は非常に愛らしい。彼は女子としてはしたなすぎる少女に呆れ半分、諦め半分で進言した。
「ただいま、オル。私もいつも言ってる。家でぐらいだらしなくてもいいでしょ。どうせ今は家畜しか家にいないんだから」
「家でどころか、魔物退治の時もだらしないじゃないか。ところで家畜って僕のことっ? ねぇ、僕のことっ?」
「ほーら、今日は奮発してキャットフードよー。感謝してねー」
「やったーっ! 家畜扱い華麗にスルーされたけどもういいやっ。久しぶりのお肉だ!」
「…………あなた、言ってて悲しくならない?」
 眉をハの字にひそめ、とても親友に向けるものとは思えない、思ってはいけないような憐みの視線を鉄柵の中へと注ぐモモ。そう、現在オルは、ペット用のゲージに閉じ込められていた。
女 子力が低いモモの、シンプルで質素な部屋で唯一の装飾ともいえる異物。ベットと机の間にどんと存在感を放つそれは、かなり浮いている。モモが中学に上がってからかれこれ六年、直径一メートルの円柱がオルの生活スペースとなっている。
「昔は本当にかわいかったのに。オル君オル君って言って抱きついてきてさ。すごく子供らしかったのに、今はがさつな男言葉まで使うようになっちゃって。……どうしてこうなってしまったのかな?」
「惜しい人を亡くしたわね」
「君の事だよ! 一〇才の時の君!」
「バカなの? 人間、人付き合いで変わるのよ! 小学生の時と高校生とじゃ、天と地、月とスッポン、微分積分ぐらい違うのよ!」
「いや、最後のは結構関係があるよ? 両方分からないと解けないよ?」
「私には違いが分からないわ」
「…………そうですか」
 対等な存在としてともに寝食を共にしていたのは遠い昔、学校に行くにも遊びに行くにも一緒にいたのは小学校まで、中学に上がって女性としての意識が芽生え始めてから今の関係に落ち着くまではあっという間だった。
 お皿に盛られたお肉を、本当の猫のようにがっつきながら尋ねる。モモのことは言えないお行儀の悪さである。
「今日はどうしたの? パッと見機嫌悪そうなのに、なにかいいことでもあったの?」
 さすがは長年の友と言うべきか、への字に口を曲げ、眉をきゅっと寄せてとてもそうは見えないモモの機嫌が実はそれほど悪くないことに気付いたのだ。モモの両親でも今の彼女を見れば、お腹が減っているか頭が痛いのだろうと考えるほど、モモの表情と感情の繋がりは薄い。
「べっつにぃ。何もないですよーだ。むしろ国語の花村先生に殴られてイラついてるぐらいよ」
 しかし、表情に出ずとも、オルとの会話では、話し方にすぐ出てしまう。ほんの少しだが声が弾んでいるように聞こえるのは、オルの気のせいではないだろう。
 モモはごまかすようにパックに残っていた牛乳を一気に飲み切り、ごみ箱に捨てる。
 そうしてネクタイを外し、靴下を脱ぎ、服もスカートも脱ぎ捨てて下着姿でベットにダイブ。そのまま枕に顔をうずめて全身の力を抜き、タコのように手足をベットに広げて寝転ぶ。力が入っていた表情をだらんとゆるめ、頭の中はぼーっとからっぽ。
 やはり魔物との戦いは体力を消耗するもので、翌日以降に疲れが襲ってくるのだ。中年男性の筋肉痛のように。もちろん単純に寝不足ということもある。授業中に寝てしまったのもそのためだ。
「だーかーら、はしたないってば。せめて洗濯機に入れるか畳むかしなよ。あとゲージに服かぶせないで、何も見えなくなるから」
「……あなた、私の着替え覗いたことあるでしょ。だから信用なんてできないわ。私が明日の朝起きるまでそのままでいなさい」
「それって君が小学生の時の話でしょ! あの頃は僕の方が恥ずかしがってたのに、君が無理矢理手伝わせたんじゃないか! リボン結べないとか、どれ着ればいいか分からないとか言って。あの頃から自己管理できないよね、モモ」
「年は関係ないのよ。純粋だった私を小動物のふりをして騙したあなたを、悪徳商法みたいな汚いやり方で私を魔法使いにしたあなたを、私は一生許さない」
「論点ずれてるっ!」
「ずれてない。小学生版魔法少女の変身シーンで服が弾け飛ぶ時、あなたいつも私の肩乗ってたでしょ。今になって考えたらあれ全部見えちゃってるじゃない」
「肩に乗ってるから角度的に見えないよ! 冤罪だ!」
「うるさい。ねれない。だまれ」
 枕に顔を鎮めながら、ゲージを左右にがくがくと揺さぶる。ゲージの壁や床に叩きつけられオルは強制的に行動不能に陥らされた。あまりに理不尽すぎる所業だが、実際昔にモモの着替えを見てしまったことがある身としては、何も言えない立場だ。男が女に逆らえないという社会風潮は、妖精の国にも共通のことらしい。
 ベットに横になると、睡眠を求める体に抵抗する気力など根こそぎ奪われ、静寂に溶け込むように意識が微睡みへと落ちていく。
「……、んぁ、それと……明日、出かけるから」
「そうなの? お買いもの?」
「うぅん……しら、ない……トラと」
「トラって、あの小学校からの友達の? よく遊びに来
てた?」
「…………ノートの、代償に……時間ちょうだい……て」
「二人っきりで? おぉ、それってデートじゃん」
「……んな、わけ、ない……わ。……ただ、の、かいも、の…………で……しょ」
「それをデートっていうんだよ。ああ、やっとモモにも春が来た。ヒューヒュー、羨ましいねこの」
「……………………あなた…………あしたから……………ごはん、ヒマワリの種」
「ごめんなさい! ちょーし乗ってました! ってもう寝てる!」
 ねとりと全身にまとわりつく眠気だけが、真っ暗な世界に存在する全てとなった。


 夢を見た。遠く記憶の奥底に沈んでいる思い出の追想
 女の子は魔法を使える事が自慢で、すごいことができる自分の事を世界という絵本の主人公だと信じていました。魔法を使って女の子は人よりいろんな事を知り、たくさんできる事が増えました。
 なんでもできる魔法使い。
 だから男の子が女の子の事を好きになってしまったのも当たり前なんだ、と女の子は思ったのです。とっても強そうでかっこいい名前の男の子。だけど名前よりもぜんぜん頼りなくて弱虫で、女の子が守ってあげなくちゃすぐ泣く泣き虫で、でもとっても優しく笑う男の子。
 もも。モモ。
 名前と違い子犬みたいになついてくる男の子を、少しめんどくさいと感じたり。自分は魔法使いだからしかたないと広い心で受け入れて大人になった気分を味わったり。オル君に新しくできた友達の話をして、嬉しい気持ちを共有したり。二人に命令して、肩を揉ませたり。
 いつも一緒に遊んで、毎日楽しかったあの日々。
 とら。トラ。
 名前を呼ぶと笑顔で応える大事な弟分。そんな子分から好意を寄せられ、女の子は満更でもありません。
 月日が流れても、そんな二人の関係は変わらないように思われました。
 けれど、女の子には秘密があったのです。言いたくて言いたくて仕方がないけれど、誰にも言えない、言ってはいけない秘密が。
 今は駄目でも、いつかきっとと思いをはせて、女の子は少女へ、そして女性へと成長していき、
 そして………………。


 チュンチュン。チチチチ。
 スズメの朝の挨拶が、外で交わされている。
 心地よい風が窓から吹き込み、揺れるカーテンの隙間から差し込む太陽の光が温かい。
 爽やかなで気持ちのいい朝。絶好のお出かけ日和。
 この素晴らしい状況、モモの気分は当然、最高である、
「………………………………あたま、がんがんするー」
 はずがなかった。
 はだけたパジャマからはへそが見えていて、寝苦しかったのだろうか、掛布団は蹴り上げられてベットの下に。髪は寝癖で乱れ跳ね、寝汗で額に吸いついている。
 運の悪いことに、昨夜もまた、前日に引き続いて魔物が現れたのだ。今回の敵は強大で、ほとんど一晩中闘い続けることになった。帰ってきた時には、すでに空が明るみ始めていた。オルに言われなければ、そのまま魔法少女姿で寝てしまう所だったぐらいにモモは疲労してしまっていた。
「……………………あー、もう。……やな夢見ちゃったな」
 目元を腕で隠し、沈鬱な声で悔しそうにつぶやく。幸せだったはずの夢は、甘い毒だ。ゆっくりと、気付かない内に体の先々まで浸透して、手足も思考も痺れさせる。そして、効力が切れると、忘れ去っていた今の現実をはっきりと浮かび上がらせ、苦しみが襲うのだ。
「…………………………ていっ!」
「ぁいったぁーっ!」
 苛立ち交じりにガシャンとゲージを床に叩き落として寝ていたオルが悲鳴を上げる。
「着替えるから出てけ」
「え? なに? なにがあったの? てか今さら着替えで見られるの気にするなんて……ってあぁぁぁぁ……」
 ゲージを足でゴロゴロと転がして部屋の外へ蹴りだすと、扉を閉めて着替えを始める。
(………まぁ、いいわ。昔の事よ。忘れましょう。大事なのは今だからね)
 その瞳にいつもとは違う決意の光を灯し、モモは気を引き締める。
(もう、同じ失敗はおかさない)


 白い大理石でできた大きな直方体の連なりは、見上げてもてっぺんが見えないほどに高く、清潔で神々しい姿が見た者を圧倒する。複数の石の組み合わせには意味があり、『素直な気持ち』を表しているという。作者はこれを見た人々に厳しい現実や嘘を前にしても自分の気持ちを偽らない心を伝えたかったそうだ。
 だが、その意思をくみ取る事ができる者はそう多くはないだろう。芸術とは時に凡人には理解できないものらしい。
 街一番のデパートの正面入り口にある名のない奇妙なオブジェには、その不自然さゆえか、なぜか建設間もないにもかかわらず伝説がある。伝説と言ってもある種の噂であり、都市伝説なのだが、そのオブジェの前で好きな人に二人きりで自分の正直な気持ちを伝えると、想いが成就するというよくある話だ。
 作者も考えていなかっただろうそんな噂は、女子高生たちの間で人気であり、有名な話となっている。ゆえに、その場は待ち合わせ場所として頻繁に利用され、時間を問わず人が絶えない。もしも二人きりになりたいというのなら、閉店後にお店に侵入するぐらいしなければならないほどだ。故にこの伝説は達成不可能とされ、より一層、噂好きの女子達の間で話題になっていく。
 そんな今が旬な大理石の前に、気合の入った装いの少女が一人。
 モモである。
 腕を組み、足を小刻みに揺すって、全身から不機嫌そうなオーラを溢れさせている。
 身長の割には長い足をぴったりと覆うスキニーデニムに、薄いピンク色でふわふわとしたチェニックを着ている。デニムのきっちりとした感じと、チェニックのやわらかい雰囲気がうまくかみ合い、程よいコントラストを生み出している。
 頭には小さな赤いリボンが付いた白いブリムハットをかぶり、肩から小さめのポシェットをかけている。メガネはもちろん、いつものお気に入りである。
 普段の制服や魔法のマントに比べると、天と地の差がある華やかな服装であり、端的に言ってとても似合っていた。仏頂面でさえなければ、過ぎゆく男性たちに声をかけられていてもおかしくはなかっただろう。
 モモが伝説のオブジェの前にいるのは、せっかくのお出かけ日和なんだから、私もちょっと流行に乗ってお散歩でもしようかしら、と思ったわけではなく、トラとの待ち合わせをしているだけである。
 このデパート内ではもっとも分かりやすい場所であり、二人が出かける時はいつもここで落ち合うことになっている。
「おーい。モモー」
 それはもう嬉しそうに手を振ってやってくるのは、じゃれついてくる子犬。ではなく、霊長目ヒト科のトラである。
 トラは細い長い体に合う黒のスラックスに、白シャツ姿とシンプルな姿。トラの人柄を考えれば、派手な格好が似あわないのは分かるのだが、肩を並べると明るいモモの服装に比べて少し見劣りしてしまう。
 それがなにかおもしろくなくて、モモはさらに不機嫌になってトラを睨む。
「遅い。罰として昼飯を奢れ。感謝しろ」
「えー。ワクドナルド奢ってくれるんじゃなかったの?」
 対するトラはニコニコと慣れた様子でモモの文句を受け流し、尚且つ自分の要求も訴える。
「それじゃ、割り勘で。あと感謝を忘れるな」
「……なんか、損してる気がするけど、仕方ない。付き合ってくれるお礼としよう。でもなんで僕が感謝?」
「感謝は子分の仕事だろうが。つまりトラの仕事な」
「……いつから子分になったんだろう?」
 結局、貸し借りなしで落ち着いたようで、二人はそのままぶらぶらと歩きだす。歩幅は大きく違うのに、歩く速さが一定なのは、トラがモモに合わせているからだ。
 そして迷いなく歩いているが、モモは目的地を知らず、ただトラに付いて行っていくだけである。その証拠に、常にトラの半歩後ろを歩いている。
二人で化学の先生がまたこけただの、佐藤が最近綺麗になってるのは恋してるからだ、だのととりとめのない話をしていると、
《相変わらず、仲良いね》
(ん?)
 どこからか声が聞こえてきたように感じて、モモは背後を振り返った。視線の先にはのんびりと休日を楽しみ行き交う人々。明るい照明に照らされて光り輝く服や時計などの装飾品。一見どこにもおかしいところなどないように感じて、モモは首を傾げる。
「どうかした?」
「んー? …………なんでもないよ」
 突然立ち止まったモモにトラが尋ねるが、モモは目線も合わせずにそっけなく返事をする。
「そういえば、今日の服、似合ってるね。そういう服装、モモには珍しいよね?」
 そんな態度にもめげずにトラは、話を続けて今日のモモの服装に言及する。女の子であれば、自分の容姿を褒められて嬉しくないはずがない。
「ん、これ、動きやすそうな服選んだだけだぜ。ほんとは上もシャツにしたかったんだけど、オルが駄目って言ってズタズタに引っ掻きやがってさ。腹巻もくわえてどっかに持ってかれた」
 だが、そもそも服装に無頓着であるモモにとって、容姿を褒められたところで、特に何も感じることなどないのだろうか。淡々と答える。
 トラが可哀想に思えるが、腹巻なんて持っている女子高生に期待する方が間違っているというものだ。
「ははは、そりゃそうでしょ。さすがに腹巻はひどいよ。オル君元気なの? 最近遊びに行ってないから」
「あぁ、元気だぜ。今日もヒマワリの種かじりながら見送ってたよ」
「……だんだん餌が貧相に……。もっとちゃんとしたもの食べさせないとダメだよ。オル君、フェレットでしょ。お肉食べさせてあげないと。昔は仲良かったのにいつからこんなことに……」
 トラはオルの事をフェレットだと思い込んでいる。リスだと言っても一向に聞かないので、そういうことにしている。
「いいんだよ。あんまいいもんやると調子に乗るから。それより、どこ向かってんだよ。いい加減教えろよ」
「あ、それならもうすぐだよ」
 端から見れば、仲睦まじいカップルに見えなくもない二人。そんな二人の様子を少し後ろから観察している者が一人。
 否、一匹。


(あぶないあぶない。危うく見つかっちゃうところだったよ)
 噂をすれば影、とでも言おうか。艶のある毛並、走るたびに揺れるふわふわのしっぽ、全体的にシマリスを思わせる体形のそいつは、人影から人影へ、物陰から物陰へと移動して、尾行を続けていた。
 朝からずっと。横断歩道で車に轢かれそうになったり、電車内で駅員に捕獲されそうになったりしながらも。
(大丈夫だよ、モモ。僕が来たからにはもう安心だ。二人のデートを盛り上げて超大成功させてあげるから)
 ヒマワリの種をかじっているオルティアがそこにいた。
「大船に乗った気でいてよ。はっはっは!」
「ままー、あのリスさんしゃべってるー。あの子ほしー」
「はいはい。かわいいぬいぐるみさんね。おいくらかしら?」
 指差す子供を連れた母親は、そう言ってぬいぐるみコーナーに仁王立ちしていたオルに手を伸ばす。
 その手がオルに触れようとした時、オルの足元が光る。緑の光の線がのたうつ蛇のように動き、複雑な文様を描きだす。そして文様が点滅した次の瞬間、
「あら? どこにいったのかしら?」
「すごーい! きえた、しゅんかんいどうだ」
 オルの姿はその場から消え去った。


 透き通る海の中で光る貝やサンゴのように、たくさんのアクセサリーがガラスケースの中で光を反射して存在を主張し、森の動物の置物たちはかわいい花で装飾された舞台で楽しくパーティーだ。
 デパートの中でも人気の高いファンシーショップの中にモモとトラ、そしてなぜかもう一人。
「……びっくりだね。こんなところで会うなんて」
「ほんとだよね。まさか佐藤さんも来てるとは。いいの、手伝ってもらっちゃって? 用事あったんじゃ?」
「…………本人がいいって言ってんだから遠慮すんじゃねえよ。トラも私一人より明美がいた方がいいだろうが」
「そりゃそうだけど、どしたの? 何か機嫌悪い?」
「ん? べつに、普通だけど」
 そう、普通だ。普通のはずだ。
 たとえ向かった先の店に佐藤明美が、まるで待ち構えていたかのように店の前に立ち、何の用もないからよかったら手伝わせてと言ったところで、モモにはなんの関係もないのだ。ないはずだ。
(明美ちゃん。いくらなんでも露骨すぎでしょう。といっても、トラの方は気付いてなさそうだから、これぐらいがちょうどいいのかしら?)
 おそらく、昨日の二人の会話を聞いて、先回りしたのだろう。この辺りで待ち合わせの場所と言えばこのデパートぐらいしかないから、すぐにわかる。驚いたのはおとなしい性格の彼女が、こんな大胆な事を思いつくだけでなく実行に移したことだ。それだけ本気ということだろう。
 モモは一つずつ商品を手に取り、真剣に、親の仇でも見るような目つきで吟味している。
「助かったよ。プレゼントを買うのはいいけど女の子が欲しがるものなんてわからないからね」
「…………あぁ、言っとくけど、期待はするなよ。私も……センスなんてないんだから。だが感謝はしろ。もっとしろ」
 トラがモモに頼んだのは、女の子にプレゼントする物を選んでほしいということだった。近々知り合いの女の子が誕生日らしく、そのためのプレゼントなのだとか。
 ちなみに、モモの誕生日はずっと前に済んでいる。モモがもらうというのはありえない。モモは何が悲しくて他の女へのプレゼントを選んでいるのか、と内心で不服な気持ちを醸成して、より濃厚でどろどろとした感情を膨れ上がらせていた。
「……これとかどうかな? かわいいし、普段から持ち歩けて便利」
「いいね。やっぱり女の子に聞いて正解だったよ。僕一人じゃ、そこに思い至りもしなかったよ」
「……そんな。これぐらい、女子なら普通だよ」
 隣から聞こえてくる、不器用で遠慮がちな会話が耳の中で振動して、非常にかゆい。二人の声を聴く度に、モモの中で何かがパチパチと弾けては消え、消えては現れる。それはストレスとなり、行き場のないそれは唯一解放されている目から放たれる。
 鋭く尖った視線は今にも手にしたシマリスの置物を両断しかねない。いや、圧壊かもしれない。手の中でみしみしと音を立ててすでに危険域に到達している。
 その置物はどこかオルに似ていた。
(煩わしいわね…………どうして私がトラのために働いてるのかしら? 働くのはトラの役目でしょう?)
 苛立ちが募っていき、自分の感情をうまくコントロールできない気がした。
「わるい。ちょいと、お手洗い行ってくる」
 そう言ってモモは店から早足で出ていこうとする。
「え? う、うん、分かった。待ってるよ」
 戸惑うトラを背後に店を出て通路へ。歩きながら、黄色い球体が宙に浮かびあがり、その中に手を突っ込むと、一昨日の夜に浮かぶために乗っていた杖が現れた。
 他の客の注目が集まり、超常現象が人々の目に映った。
「ミスディレイ」
 呪文を紡いだ瞬間、そこにいたはずのモモの姿が薄れ消えていき、人々はモモの姿を見失った。そして次の瞬間には、何事もなかったかのように行動を再開した。
 人々の認識から自分の存在が外れたことを確認したモモは、不自然に『モモを避けて』行動する人の波を突っ切るように走り出した。


「なにやってるのさモモはっ。普通の人に魔法見られたらどうするんだよ!」
 突然魔法を使って走り出したモモに驚き、米粒ぐらいの小さい手をわたわたと振って慌てる姿が、デパートの天井付近でプカプカと浮いている。
 ただし、オルもモモと同様の魔法を使っているため、他の人に認識されることはない。同じ魔法を使っているオルが驚いているのは、本来この魔法は誰もいないところで行うものだからだ。隠蔽魔法といっても、目の前で使えば違和感が消えず、気付かれる事があるからだ。そして一度気付かれると魔法が解けて、その姿を見られることになる。
「まったく。何を焦ってるんだろ? デートに誘われたんだからもっと堂々とすればいいのに。友達か何か知らないけど、モモの邪魔はさせないよ。仕方ないな、僕が手を貸してあげよう」
 ぽん、と軽い調子で手と手を合わせる。
「イーチェ、ハルト、クライヴェン――――」
 朗々と紡がれるのは、妖精の世界に伝わる言語。
 歌うように、呟くように、思いをぶつけて叫ぶように、言語は文に、文は章に、章は書となり一つの魔導書となる。
紡がれ続けて一〇分。
「位相結界」
 そうして、いとも簡単に、世界がずれた。


 頬を流れる水が冷たく、荒れていた心を鎮めてくれる。
 無音が心に入り込み、ごちゃごちゃとしていた考えがはっきりと明確になって、よく見えるようになる。
(…………あー、なにしてるんでしょうね、私。同じ間違いはしないんじゃなかったの?)
 洗面台で顔を洗って紙が濡れた顔が鏡に映っている。その表情を見て、我ながら情けないと思う。いつもはどちらかというとつり上がっている眉は、今は弱々しくハの字に垂れている。目はどこを見ているのかも分からず虚ろで、瞳の奥を覗けば暗い感情が潜んでいることが見て取れた。気合の入った服を着ているせいで、その落ちぶれた様子はよりはっきりと浮き彫りになる。
とても見れたものではなかった。
(なにが、なんでもできる魔法使いよ。自分のことすら満足にできやしないじゃないの)
 小学生の頃、背中に翼を生やして空を飛んだ時、届かないと思っていた空に手が届いた気がして、その日は興奮して眠れなかった。海の中を魚と一緒に泳いで、海流に身をゆだねて綺麗なサンゴを見ていると、夢の世界にいるようでどきどきした。
 全てが自分の思い通りで、人生でままならないことなんて何もないと思っていた。
 今は、その時の気持ちを思い出すことすら、難しい。
 魔法は、万能ではない。
(……気持ちを切り替えなさい。こんなことは、前からわかっていたことじゃない)
 虚ろな表情の自分に言い聞かせる。それだけでは全く心が動かなかったので、めんどうだが、両手を思いっきり左右に開く。そして、思い切り頬に打ち付けた。弾けるような大きな音がトイレの中で響き、痺れていた脳に刺激を与えて活性化させる。
「よしっ!」
 気合を入れたモモの表情は、全開とはいかないまでも、ある程度回復して活力が出ていた。だがやはり、人に見せれるほどではない。容姿に頓着はしないが、見た人に不快な思いをさせる気もないモモは、トイレから出る前にもう一度隠蔽魔法をかける。
「ミスディレイ」
 そして店に戻って、沈黙することになる。
 トラと明美がいなかったのだ。
(あのバカ共、どこに行った? 携帯で呼ぶか? いや……)
 そんな必要もない。
「ラピータ」
 たった一言で、探している相手は見つかる。杖の先から赤い糸のような光が一本、伸びていく。赤い糸を視線でたどると、糸の先はどうやら地下へ伸びているようだった。
「駐車場?」
 モモもトラも、ここへは電車に乗って、駅からは歩いてきたのだ。駐車場に用ができるはずがない。明美もおそらく同じだろう。
(いったいそんな場所に何しに行ったのよ?)
 モモは魔法を自分にかけたまま、地下へと続く階段を下りていく。それが、暗く、静かで、化け物の腹へと続く道に感じられたのは、魔法使いとしての直感か、女としての本能か。
 モモは、これから行く先で何が起こるか、まだ、知らない。
 

 オレンジの光が淡く、様々な種類の車を照らし出す。赤いスタイリッシュな高級車、ちんまりとしたエコカー、ピカピカに磨かれたバイク、家族で乗ってきたのだろう七人乗りの乗用車。
 それらに囲まれ、トラと明美が二人、向かい合っていた。天井から照らす光がスポットライトのように二人を物語の主人公たらしめる。圧倒的存在感はまさしく、今、二人が人生という物語の分岐点にいることを示している。
「……急に連れ出して、ごめん。誰も来ないところに来たかったの。……ほんとはオブジェの前がいいけど、あそこは人が多いから。……それにここなら携帯使えないから、しばらくモモも来ないと思うし」
 最初に口を開いたのは明美だった。
「……こんなこと、するつもりじゃなかったけど、虎徹君とモモがあんまり、仲好さそうだったから。……不安になって」
「…………」
 対するトラは、無言。無視しているわけではなく、相手の話を静かに聞いていることは、長年の付き合いからわかる。ただ、その表情はちょうど死角になっていてモモからは見えない。
そう、モモはこの二人の会話を聞いていた。地下駐車場にある太い柱の一つに隠れて盗み聞きを行っていた。魔法を使っているため隠れる必要はないが、くせみたいなものだ。
(あー……やっぱり。……こうなる、か。ほんと、私って間が悪い。……………………最悪ね)
 柱を掴む手に、ぎゅっと力が入る。胸の中の泥が、渦を巻いて吐き気がした。
 モブキャラなのではなく、間が悪い。今、二人の人間の物語が佳境を迎えている。本来ならば、そこに余人が関わる隙間などないはずだ。そのために、明美はわざわざ人の少ない地下を選んだのだから。
 だが、その隙間に入り込む術を持つ者がいた。モモは、やはり、どうしようもなく、魔法少女なのだ。
 気にはなった。しかし、盗み聞きするつもりはなかった。モモがここに来たのは、二人の安否を気遣ったのだけの事だ。
 今、モモの存在はこの場に完全に浮いていて、はっきりと、邪魔だった。
(……帰ろ)
 結果は分かっている。
「フェイル」
 呪文を唱え、音もなくモモの体が空間に溶けるように透けていく。今度のこれは、認識をずらしてわけではなく。本当に別の場所に転移しているのだ。かなり高度な魔法のはずだが、呪文一つでモモは実現した。
「…………虎徹君。あの…………あたし、……あなたのことが――」
 移りゆく景色から、一生分の勇気を振り絞ったのが分かる、一生懸命な、本当に一生の命を賭けた声が、暗い駐車場に反響するのが聞こえた。
 結果は、分かる。分かってしまう。
(彼は……)
 トラは、明美の告白を…………受け入れる。
(…………分かってたことでしょう?)
 何度も何度も確認してきたことなのだから、間違うはずがなく、だから、心も一緒に転移してしまったかのように、モモの胸の中は、空っぽだ。


 モモにはいくつものトラウマがある。魔法少女である以上危険はつきものなのだが、モモの場合は少し違う。恐怖によるトラウマはほとんどないのだ。
 あるのは、たとえば中学時代、痛々し過ぎる厨二病を発症し、毎日のように呪文を作っては大声で長ったらしく小難しい呪文を唱えていたこととか、そんなのだ。ただ、これは実益があっただけまだましな方で。
 本当にきついのは、小学生の時にしていた勘違い。
 自分はなんでもできる魔法少女だ。そうずっと思って、実際何でもできた。これは勘違いでもなんでもない、当時のモモにとってそれは事実だった。普通の小学生ができることで、できないことなど何もなかった。大人にできる事もほとんどできた。
 勘違いとは、たった一つ。
 トラが、自分に惚れていると思っていたこと、ただそれのみ。
 中学生になり、客観的に物事を見れるようになって、やっと気づいた。
 あれ? トラって別に私の事好きじゃないんじゃない? と。
 もちろん、友達としては大好きだろうし、一緒に遊んで楽しかったのは事実だろう。
 ただ、モモのことを異性としては見ていなかった。というよりも、小学生のしかも低学年の男の子である、そもそも当時、異性というものを意識することすらできていなかっただろう。 
 女の子は男の子より精神成長が早いと言うが、モモは完全に早とちりしてしまったのだ。もしくは思い込んでいたと言ってもいい。
 勝手に自分の事が好きなのだと思い込み、その気になって、大きくなってからそれが勘違いだったと気付く。
 これは、とても、恥ずかしい。
 この時のことを思い出すたび、全身が火にくべられたかのように熱くなり、全身の神経という神経が雷に打たれたように痺れて身もだえすることになるのだ。
 当然、これは誰にも言っていない。両親にも、オルにも、当たり前だがトラにもだ。もしも誰かに知られたら、恥ずかしさで軽く死ねるとモモは思っている。
 それ以来、モモにとって、トラに好意を向けられること、それ自体がトラウマなのだ。
 だから、端から見ればデートのようなお誘いも、トラにしてみればただの友達に対するお誘いで、モモにとっては勘違いしないように注意しなければならない爆弾なのだ。
(あぁ…………あーーーーーーー、………………あああああああああ)
 今回も気を付けていた。トラのことだから、どうせただの手伝いかなにかだろうと。そして実際それは当たっていた。
 だが、明美が来たのは予想外の出来事だ。だから少しだけ慌てて、感情が揺らされた。
 それでも、今までの経験から、あらゆることを想定して、明美が告白するのは予想が付いた。そして、トラがそれを断らないだろうことも。
 竹中虎徹はお人好し。
 クラスメイトも周知の事実。
 トラと明美もやはり、この街では子供の頃から一緒であり、仲も悪くはない。むしろいい方だ。
 くっつかないはずがないのだ。
 今さら気づいたことだが、明美の誕生日は来週だ。思えば、トラの今日のプレゼント選びも、もしかしたら明美にあげるための物だったのかもしれない。トラが前から明美を好きだった可能性を否定する材料は、一切ないのだから。
(かんっぜんに、私、お邪魔虫だったよね……。さすがに……へこむな)
 とぼとぼ、という擬音があまりにもしっくりくる様子で、モモはデパートを出て帰路についていた。
 ぽっかりと胸に穴が開いた気がして、何もやる気が起きない。
 もう、あの場に居場所はない。二人から電話がかかってきたら、体調が悪いから先に帰ったと伝えよう。
 そう思って完全に帰宅モードになっていた時、
「っ!」
 肌で感じてしまったのだ。
「……あんっの、バカ妖精っ!」
 世界の、ズレを。


 位相結界。
 それ自体は、激しい戦闘の際、現実世界に影響が出ないようにするために魔法使いが使う結界の一種だ。
 だが、逆に言えば必要もないのに使うものではない。この街で魔法使いはモモ一人。そしてモモ本人が行ったのでなければ、明らかに怪しい小動物が一匹、頭に浮かぶ。
 トラと一緒にいた時に感じた違和感は、オルが付いてきていたのだろうと今になって思い至る。
「フェイル!」
 モモが飛んだ先は、トラがいたはずの駐車場だ。あの家畜がデートデートとうるさかったのを思い出し、奴が何かするとすればトラのところだと思ったからだ。
 しかし、トラはすでにその場から去った後だった。
「ラピータ!」
 赤い糸が上へと続く階段を指す。杖に跨り、一気に飛んでいく。一階へついて、やはり違和感を感じた。
 人が、誰もいないのだ。
 そして、世界全体が暗く、青かった。
 結界とは現実と隔離された空間。普通の人間は結界から追い出される。使用者が認めた者のみが、その閉じた世界に入る事を許されるのだ。
 今回の場合はモモと、
「トラ!」
 人気のない店内で、トラが走っているのが見えた。思わず叫んで、しまったと思う。
 誰もいない空間で不安だったのだろう、よく知るモモの声を聴いたトラが勢いよく振り返る。
「モモ!」
 それと同時に、急に止まったトラはバランスを崩し、ぬいぐるみが山積みのカーゴにぶつかり押し出してしまう。カーゴはファンシーショップのガラス扉にぶつかり、粉々に砕く。
 星のようにきらめき、舞い散るガラスがトラの全身に浴びせかかるように降ってくるのを、モモは見た。
 体は考えるより先に動いていた。全力で飛んで勢いづけ、杖から飛び降りてトラに抱きつくようにして押し倒す。
 体勢を入れ替えて自分が下になると、降ってくる星が視界いっぱいに広がり、暗い空に広がる天の川を思わせた。幻想的な光景に目を奪われてしまわないよう、モモは目を閉じて右手を突きだす。
 その先には黄色い球体が浮かんでいた。そこに手を突っ込み、そこからモモが持ちうる最速の魔法道具を取り出した。こぶし大の水晶玉だ。
「アポトース」
 魔法は瞬時に実行された。無数のガラス片は空中で不自然に軌道を変えて落下した。まるで川の中にある岩を水が避けて流れるように。
 夕立のような大きな音を響かせて、ガラス片は全て地に落ちた。そして、魔法が終わると同時に水晶玉も消滅したのだった。
「…………」
「…………」
 無言でお互い動けずにいた。現在二人は、頬と頬が引っ付くほど接近しており、急に動かした体は全身に血を巡らせるために、心臓を高速運動させて、バクバクと生きている証拠の音を響かせる。
 目と目が合う。
 瞳の奥を覗き込むと、吸い込まれそうで、一瞬意識がトラだけに向けられた。
 お互いの鼓動が聞こえてきそうな至近距離。
 そして自分が今トラに押し倒されている体勢である事に気づき、慌てて、トラを押しのける。
「ご、ごめん!」
「……いや、いい」
(……き、気付かれちゃった?)
 杖に乗って飛行、ガラス片の不自然な移動。トラがそれらを目撃している可能性は十分にあった。
「……大丈夫か?」
「……うん。モモは?」
「私は平気だ」
「そう、よかった」
「…………」
「…………」
 気まずい微妙な間が生まれて、お互い黙り込む。そして先程の急接近を思い出す。
 いまだに体が火照っており、頬が赤いのが分かった。いろいろとごまかすためにモモはトラに告げる。
「……助けてやったんだ、感謝しろよ」
「……そうだね。ほんとに、ありがとう、モモ。助けてくれて。それに一人になっちゃって寂しかったんだ。そういう意味でも助かったよ」
 トラの何気ない恥ずかしいセリフにさらに頬が火照るが、それを表に出さずにモモは平坦な声で尋ねる。
「お前だけか? 明美は?」
 おそらくオルの目的はトラにあるだろうから、明美は結界内にはいないだろうとモモは予想している。
明美さんなら、さっき帰ったところだよ。たぶんもうデパートの外かな」
「…………そうか」
 明美さん、とトラは呼んだ。
 下の名前で呼んだのだ。
 たったそれだけで、体の温度が数度下がる。
 友達が自分の弟分と付き合うことになって、なんともいえない複雑な心境になる。またもドロドロしたものが、胸にこみ上げてくる。モモはこの気持ちにいまだ名前を付けられずにいた。


「うわぁ……あぶなかった。まさかあんな事故が起こるなんて思わなかったもんな」
 事態の元凶であるオルは突然のアクシデントにかなり焦っていた。認識をずらす魔法の上から気配を消す魔法をかけて、モモたちの近くで様子を窺っていたのだ。
 事故のこともすぐそばで見ていたのだが、残念なことにオルには防御の魔法や攻撃の魔法が使えなかったために手が出せなかったのだ。
「いや、でもなんだか二人急接近したみたいだし、結果オーライだよね。よかったよかった。さぁ、あとは二人きりの今こそ攻めるんだ、モモ!」
 どうにか思い通りことが進んで、上機嫌に舞い上がっていて、周りが見えていないのだろう。普段ならばその優れた嗅覚ですぐに察知できていたあるものに、今回は気付くことができなかった。
「ん?」
 背後を振り返るとそこに、真っ黒い影が広がっていた。


「ねぇ、モモ。よくわからないんだけど。ここには僕と君だけなのかい?」
「……あー、そうだ」
 トラと二人でいる事など、昔から数えると数えきれないほどで、今さら意識することなどない。だが、二人でいる事は多くても、二人きり、しかも今のように世界に二人だけというのは今までにない状況だった。
 そう思えば思うほど、変に意識してしまい、落ち着かない気持ちになる。ドロドロとしたものも、その時ばかりは落ち着きを見せ、胸の内がすっとするのだ。
「だったら、ちょうどいいや。モモに……言いたいことがあったんだ」
「へ?」
 モモは自分でも間の抜けた声が出たと思ったが、すでに遅かった。
 トラは異常事態だというのに、落ち着いた様子でモモのことを見つめ、モモは落ち着きなく視線を揺らめかせてトラの言葉を待っていた。
(なんでもないわ。こんなの全然なんでもないわよ。いつもどおりの注意とかでしょ? 人前じゃ私が恥かくこととかそんなことなんでしょ? ほら、来なさいよ。とっとと言って楽になりなさい)
 内心でトラに対する警戒レベルを一気に引き上げて身構える。そこへ、
「ウガアアアアアアアァアァァァァァアァッ!」
 デパート全体を揺るがせる爆音が真上から降ってきた。あまりの音に二人して両耳をふさぎ、慌てて上を見上げると、二人はさらに慌てて驚愕した。
 そこには、全身を黒く硬い獣毛で覆い、壁の中に爪をめり込ませて天井に張り付いている魔物の姿があった。
 そして、その額には見覚えのある物が、いや、者が。
「でーとおぉぉぉっぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
 魔物に取り込まれ、半分魔物と一体化してしまっているオルの姿があった。
 目は焦点が合わず充血し、バカみたいに開けた大口からはよだれがだらだらと流れていて、とてもまともな状態には見えなかった。正直、見ているだけで嫌悪感が湯水のごとくあふれ出てくる顔だった。
「…………あのバカ。結界内に魔物入れただけじゃなくて、取り込まれやがったのか…………」
 頭から血がさぁっと下がっていくほどに呆れて、モモはバカな相棒を見やる。もう契約を解除したいと、本気で思った。
「えぇっと、もしかしてあれがオル君かい? なんだかたくましくなったね。ヒマワリの種でこんなに大きくなるのか」
「よく見ろ。オルは頭のとこだ」
「…………あ、ほんとだ。……すごい表情だね。…………さっきからなにがなんだかわからないけど、後で説明してくれるのかな?」
「あぁ、とりあえず今は外に出るぞ。獣型の魔物は室内じゃ動き回ってやりづらい」
 機動力のある獣型の魔物と屋内で闘う場合、壁や天井を縦横無尽に駆け回られて苦戦を強いられることが多い。
 途中で遮られたトラの言葉が、のどに刺さった魚の小骨のように気にはなったが、バカのせいで冷えた頭で、状況を冷静に判断して、ここは一時撤退を選ぶ。
 モモは移動するためにトラの手を握った。
「フェイル」
 転移する瞬間、トラの手を一層強く握る。その手は熱を帯びているように熱かった。これはトラの手が熱いのか、モモの手が熱いのか。離れないように強く握られた今は、もうわからない。


 青い世界のデパート正面、名のないオブジェの前で、モモと魔物の激しい戦いが繰り広げられていた。
「グオォォォォ!」
「でぇぇぇと!」
「フォルソン」
 大きく鋭い、大剣のような爪を持つ腕を振り上げて、魔物がコンクリートの地面を大きくえぐる。モモはギリギリで躱して、白い霧を杖の先から放出した。青い視界が白一色になるほどの濃霧。視界を奪われた魔物がモモを見失っている間に、モモは大きく後退して体勢を立て直す。その際、落ちていた石を額のオルにぶつけることも忘れない。
 モモは現在、三色の光球を浮かばせて、黒のマントに三角帽子という、完全本気モードの装いである。
 ブリムハットは現在トラに持ってもらっている。
 魔物には魔物を。
 モモは青い球体に手を突っ込み、厨二の魔導書を取り出した。
「回れ回れ回れ! 輪廻の先より出でて、最果てを彼の者に与えよ、獄焔翔鳥、ドールバル!」
 開かれた本から出てきたのは、全身を漆黒の業火で飾った巨鳥であった。落ちくぼんだ眼は何も捉えず、ただただ虚空を映すのみ。
「ドールバル、許可するわ。魔物を……いえ、オルを焼き尽くしなさい。食べてもいいわ」
 命令を受けて、怪鳥は口から地獄の炎を吐き出した。白い霧が黒く燃え上がり、現れた魔物を焼き尽くす。
「グォォォォォ」
「でぇぇぇとぉぉ…………あつっ!」
 しかし、魔物は怯みこそしたが、腕で炎を薙ぎ払うと、その身を焼け爛れさせながら、怪鳥目がけて飛びかかってくる。その長く鋭い牙を突き立てようと怪鳥を押し倒した。ドールバルも対抗するために至近距離で火炎放射。額のオルを丸焼きにする。
「ぎゃあああぁっ! あついいぃぃ!」
 そして放射が終わるころには、最初に焼かれた魔物の皮膚が元通り張り付き再生されていた。恐ろしく回復が速い。
 その隙に、デパートの入り口まで戻ったモモは、本気で残念そうに口を捻じ曲げて、
「チッ! 今のでオルの奴、完全に正気を取り戻したようね。できれば苦しませずに始末してあげたかったのに」
「いやいや、始末しちゃダメでしょ」
「ぉわっ!」
 いないと思っていた相手に声をかけられ驚くモモ。そこにはトラが扉に隠れるようにして戦いの様子を窺っていた。その表情は少し青白いながらも、トレードマークの笑顔は消えていない。
「なんでここにいるのよ……いるんだ、バカ! 危ないから下がってろって言っただろうが!」
「だからこれだけ離れてるでしょ。僕の足じゃ逃げてもそんなに遠くまで逃げられないし、まだ建物の中の方が安全だよ」
 確かに、戦闘の範囲がどれだけ広がるか分からない以上、見えない場所でうろつかれるよりは手元に置いておいた方が安全かもしれない。
(つまり、守りながら戦えってことか。かなり、厄介ね)
「それにしてもさっきの呪文みたいなの、かっこよかったね」
「うぉぉぉぉぉぉぉっ! ぎゃあああぁぁぁあぁっ!」
(んきゃあああぁぁぁぁぁ! いやぁぁぁぁぁぁぁっ!)
 いやいやと首を振って、トラの言葉を聞き流そうとする。そう、トラがここにいたということは、先程の厨二病の書を読んでいる姿を見られてということだ。あまりの恥ずかしさにモモは頬が熱くなるのを抑えられなかった。クラスメイトに自分の痛い部分をさらけ出すのは、精神的にかなりきつい。それが幼馴染ならなおさらだ。
 恥ずかしさで身もだえしているモモをおもしろそうにニコニコ眺めながら、トラは一つ、お願いをすることにした。
「ねぇ、モモ。本気は出さないのかい?」
「へ? あれ? えと、本気って、その…………なんで?」
「うん。だってこのままじゃモモ、やられちゃうでしょ? でも全然慌ててないから」
「いや、それは……」
 トラの言うとおり、黄の球から取り出した杖による魔法では魔物に傷一つ付けることはできず、青の魔導書から呼び出した魔物はその再生力を前に、苦戦を強いられている。複数体呼び出せば勝てるかもしれないが、負けてしまった場合、魔力が底をついて何もできなくなってしまう。
 リスクを考えると、残った手段を使った方が断然いいのだが、
(いや! 赤だけは嫌よ! あれ見られるくらいなら厨二の書を朗読した方がまだましなんだから! …………いや、それはそれできついけれども!)
「もしもモモが負けたら、僕は死んじゃうよね」
「っぐ……」
 そう言われてしまうと、モモに選択肢は残されなくなる。ここでモモが負けるということは、無防備なトラを魔物が蹂躙するということだからだ。
 友達の命と自分の羞恥心。そんなもの、どちらが大切かなど比べるまでもない。
「あぁ、もう! 仕方ないから助けてやるよ。貸しだからなっ。いつか返せよ。そして全身全霊で感謝すること!」
 ふわりと浮かぶ赤の球へと手を伸ばし、ほんの少し躊躇する。全身の血が高速で流れているのが分かる。嫌な汗が背中を伝って気分も悪い。それほどまでに緊張するほど、恥ずかしいと思ってしまう。
 赤球がふわりふわりとモモの手の先で揺れた。どうした、びびったのか? と挑発しているようにモモには見えた。そんなはずはないと思っても、やはり、気持ちが乗り切らなかった。隣で笑うトラを見ると、トラもモモのことを見ていて、目が合った。
「がんばって」
 優しげな瞳と優しい声。子分からの期待が、緊張で固まる体から余分な力を抜き、すっからかんだった胸にすとんと収まる。
(…………上等よ。やってあげようじゃない)
 それはまるで、閉じていた心の殻を内側から砕くかのように。
何かが、モモの中で吹っ切れた。
 一歩、もう一歩と歩きだし、モモはもう一度戦場へと近づいていく。
「ん、あれは……」
 完全に正気に戻ったオルが、全身黒こげになりながらも、元相棒であるモモの変化に気付く。
「戻っていいわよ。ご苦労様」
 牙と爪で傷つけられ、地面を黒く染めるほど羽を散らしてしまったドールバルは、炎が吹き消されるように一瞬でその姿を消失させた。
 目標を失った魔物の腕が地面にさらなる傷をつける。獲物を失った獣は、怒りの咆哮を上げ、新たな獲物、モモへと充血した眼を向ける。
 その視線を涼しげに受け流し、モモはドールバルが戻った魔導書を青の球の中へ、三角帽子とマント、ずっと持っていた杖を黄の球へと吸い込ませて収納した。
 こうしてモモは丸腰となり、服も元に戻った。魔物を相手にするためには最後の一つの力を手にするしかない。
 青の球は、中学生の時、妄想と過信により、後悔と共に生み出した力。
 黄の球は、高校生の時、効率と手軽さを求め、理論で編み出した力。
 そして、赤の球は小学生の時に、運命によって授けられた、奇跡の力。
 モモは、決意を胸に、手を赤球に勢いよく突っ込んだ。
 その瞬間。
 世界が、赤色に染め上げられた。


 爆発的な光がモモの手の先からあふれ出し、赤い太陽が生まれたという錯覚すら覚える。
 明るく眩し過ぎる光は一切の優しさを含まず、直視した者の網膜を焼き切り、失明させるだろう。
「うぅ……」
 トラは両目をつぶり、腕で塞いで被害を免れているが、それでもかすかに目蓋を透過した光が暗い視界を明るく照らすほどに、その光は暴力的な力を伴っている。
「グァァッ」
「目が、目があぁぁぁあっ!」
 目を守るのが遅れた魔物とオルは目を潰されて一時的に視力を失い、おぼつかない足つきでたたらを踏む。
(………………っ)
 その光の前で、モモだけが手にした光から目を逸らさない。その光は主を傷付けることはない。
 取り出されたものはとても小さな物だった。
 それは女の子ならば一度は憧れ、手にしたいと思ったことがあるだろう夢そのもの。
 ピンク色の柄に、星とハートを組み合わせた先端部、小さく白い天使の羽がかわいらしくちょこんと添えられたそれは、モモが小学生の時に手にした最初の魔法だった。
 そして最初に刻まれたトラウマだった。
 この光の中、まともに目が働く者はそういないだろうが、もし見る事が出来たなら、赤い光で分かりづらくとも、モモが羞恥で頬を紅く染めている事が分かるだろう。
魔法少女のステッキを手にしたモモが、恥ずかしさで声を震わせながらがんばって始まりの声を出す。
「……め、めい、く…………めいく、あ〜っぷっ!」
 手のステッキからほとばしっていた光がさらに強まり、モモの全身を包んでいく。身にまとっていた衣服が泡のように溶けていき、赤い光へと変化する。
 全身を光の塊と化したモモは、その内で生まれたままの姿をさらけ出していた。近くに同年代の男子であるトラがいるので、見られはしまいかと、さすがのモモも冷や汗が背を伝う。
 しかし、万が一トラがその姿を見ようとすれば、街全てを照らすほどの赤き太陽により、永遠にその目から光を失うとこになるので、それは杞憂というものだ。
「……ゆ、勇気と、愛、と……希望の力で……み、ミラクル、パラ、レル………………っ、以下省略!」
 叫びと同時に、まとっていた光が弾け飛び、膨大な量の魔力へと転化される。強い光を失った世界が、一瞬だけ、闇に閉ざされる。
 目蓋に感じた圧力が消えたのを感じたトラが目を開くと、闇に慣れるために視界が少しの間ぼやけた。
 そして目が暗闇、本来の光量に慣れてきた時、トラの目に鮮やかに咲く桃の花が映った。
 ふわふわしたレースがふんだんにあしらわれた淡い桃色のスカートと、胸元に赤く大きな蕾のようにリボンを飾るワンピース。頭の上には明るいピンク色の三角帽子とちょこんと乗せて、お気に入りの眼鏡には羽飾りを付けたモモが、頬を桃のように紅潮させて立っていた。
「……モモ、かわいいよ!」
「見るな! 見ないで! お願いだから!」
 それは小学生の時にモモが魔法少女として着ていた衣装で、魔法を使うときに強制的に着替えさせられる服だった。サイズこそ現在の体格に合わせられているが、それでもスカートの丈は短く、太ももが大きく露出している。小学生の時は健康的だったそれも、高校生となった今は色気を伴い、血色のいい肌は年頃の男子には目の毒であった。
 はずなのだが、なぜかトラは遠慮も逡巡もなしにモモのことを見つめている。トラならそうなるだろうと予想していたモモは、より一層恥ずかしさで身をよじり、同時に、この姿を見られても異性として見られないのかという虚しさで泣きそうになった。
 女子力のない自分には魅力もないのだろうか、と暗い自己嫌悪がモモの心に影をかける。
「モモ! 駄目だよ最後まで詠唱しなきゃ! 力が三分の一しか出ないっていつもいってるでしょ!」
 そんな目も当てられない状態のモモの耳に、そんな声が届いた。
 もう焼けた網膜が再生したのか、魔物の目がモモを捉えていた。
 そして完全に正気と視界を取り戻したオルが魔物の頭の上から、魔法少女としての流儀と誇りを失っているモモにいつものように小言を言ったのだ。
 ぶちり。
 なにかが千切れる音が、鼓膜と地面を震わせたような気がした。
 鼓膜はともかく、地面が揺れるのはおかしいと、トラとオルは同時に考え。目の前で起こっている現象に対してあり得ないと、同時に現実から目を背けた。
 ファンシーな魔法少女がステッキを持たぬ方の手でデパートの壁を貫き、腕をひねると同時に、コンクリートを『引きちぎった』のだ。
「………………………………誰のせいだ?」
 そして物理的にありえないことに、少女は手にしたコンクリートを両手で『引き伸ばし』て、一本の棒にすると、全力で魔物に向けて投げた。
 槍と化したコンクリは音速を超え、魔物が視認するまでにそのはらわたをぶちまけさせた。
「グギャァァァアアアアアアアアアアアッ!」
「いったああああああああああああああっ!」
 超音速のコンクリが通過した空間には、凝結した水蒸気により白い線ができている。モモはその線を『掴ん』で引っ張った。糸の先は当然、破裂した水道管のごとく血を流す魔物に繋がっており、地面を引きずられてその身をコンクリートでおろしのように削られる。
 ごりごりと、骨が削れる音が不快に響く。その音を聞いて、惨劇を目の当たりにしているトラは、思わず目を逸らしてしまう。
「ぅわあ……」
 痛みで半狂乱に陥った魔物は、全身の獣毛を鋼のように硬化させ、己を苦しめる存在を滅ぼすべく腕を振るう。
「だ、だめだ!」
 その行動を、半身となったオルが慌てて止めるが、すでに遅かった。千本の毛針をまとった剛腕がモモを襲い、そして人差し指で弾かれただけで、根元から吹き飛んだ。
「グァァァッ、ベブ」
「……ぁう……」
 焼けるような激痛に悲鳴を上げようとする魔物の口を、モモはコンクリを詰めて黙らせ、オルの口を直接手で塞いて、数トンもある巨体を吊り上げた。
「さっきからうっさいよ、おまえら。……ちょっと黙れ」
 赤い桃の花からは、毒々しい瘴気が溢れていた。冷めきった表情からは感情が消えたように見えて、その実、怒りが沸点を超えたために死者のように瞳孔が開いている。視線は刃と化し、見ただけで相手の体を刻む。睨んだ先で、魔物の耳が、ぼとり、と削げ落とされた。
 しかし、口を塞がれ、叫ぶことも許されない。
「なぁ、オル。……私な、恥ずかしいの、嫌いなんだわ。この年でこの格好も、愛と勇気も、恥ずかしいんだよ。わかるか? ……小学生の、頃ですら、恥ずかしかったのに……今、私が、どんな気持ちか、わかるかしら? ねぇ、オル。私が、こんな気持ちになっているのは、誰のせい?」
 ぶつりぶつりと、切れかけのカッセトテープのように声を途切れさせて、モモは杖の先端をオルのこめかみに突きつける。
視線では魔物の指を、鼻を、尻尾を次々切り落としていく。そしてぼこぼこと泡立ちながら再生してくる箇所を、何度も何度も切り落とし、削ぎ落とし続ける。
 オルは無言で涙を流し、ふるふると首を振る。昔から一緒にいる相棒は、知っているのだ。
 今のモモが過去最高クラスでブチ切れているということ。たとえ三分の一の出力であろうが、身体強化、無詠唱による魔法の使用ができるステッキを使えば、モモが鬼に金棒、桃太郎にキビ団子だということ。
 そして、ステッキの魔力源がモモの感情であるということ。
この場合の感情とは、文字通り、ありとあらゆる感情である。喜怒哀楽は当然、羞恥心、嫉妬、絶望、希望、驚き、愛情……全ての感情が魔力源となりうる。感情を持たない人間などいない。このステッキは人間が持つだけで魔力を生み出す。
 ゆえにモモは普段からあまり感情を波立たせないようにしていたのだ。もしも感情が消せたなら、二度とこの恥ずかしい姿にならずに済むから。そう思っている時点で、嫌悪感という気持ちが生まれてしまっていると自覚しながら。
 しかし今、モモは我を忘れるほど怒っており、その怒りを誘発するほどに恥ずかしい思いをしている。
「……モモ。えと、その………………がんば!」
 店内で見守っているトラが若干引いているほどに。
「……あ、あ……た……あな、たの」
 今こうしている鬼のようなミニスカ姿も、トラに見られていると自覚しているモモは、オルに対する怒りとトラに対する恥ずかしさで顔を真っ赤にして、瞳をうるうるさせて半泣き顔になってしまう。ステッキの影響で本当に頭から湯気を出して、手にしたステッキをぐりぐりとオルにめり込ませていく。
 泣きそうになっているという事実が、また恥ずかしさを増加させ、ステッキの先から赤い魔力の光が漏れ出し始める。光が帯状に伸び、魔物の体を包むと魔物の姿が瞬時に消えた。転移魔法を、無詠唱で発動させたのだ。
 トラが驚き、店を出て辺りを見渡しても、見つからない。
「やめてモモ! 死んじゃうから!」
 しかし頭上から聞こえた悲痛な叫びでその姿を探し出せた。魔物が現れたのはちょうどデパートの屋上と同じ高さの上空だった。いつ魔法を使ったのか、魔物の周りには古びた本が数冊浮かんでおり、そこから赤い肌の巨人の腕が伸びて魔物の四肢を引っ張り、空中で磔にしていた。
「あなたのぉ……」
 眩しさに目を向けると、モモのステッキからあふれる光が一点に集まり、収束していく。感情を爆発させたモモはトラの存在も忘れ、ただただ憎い敵の姿だけを見つめている。
 怒りと羞恥に憎悪が加わり、モモの魔力が嵐のように吹き荒れる。全ての感情が魔力へ、そして光に変わり、鋭く、広く集まって、長さ数千メートルにわたる剣を形どる。
 阿修羅と化したモモが、剣となったステッキを振りかぶる。
「せいでしょうがあああああぁぁぁああぁーーーーっ!」
 天へと伸びる光の剣が空を割り、雲を断ち切って大気を震わせる。地上にいるトラの肌が泡立つほどの圧倒的な力の奔流。破壊そのものである魔力の塊が、魔物の体を貫き、再生する前に蒸発させた。
 最期は、断末魔を上げる事すら許されなかった。
「…………はぁ……はぁ……おい、トラ」
 真っ二つに切り裂かれたデパートが、音を立てて崩壊していく様子を呆然と眺めていたトラは、肩で息をしているモモに睨まれ胃の縮む思いがした。
「な、なんでしょうか?」
 恐る恐る、猫を前にしたねずみのように怯えながら尋ねる。
 いまだに赤い顔のモモは、消え入るような声でつぶやいた。
「…………お願いします。今日の事は……忘れてください」
 トラは後に語る。その時のモモは今まで見たことのない弱々しい様子で、今までで一番少女らしい表情をしていたと。


「……あー、あれだ。修学旅行の時にテンション上がって、いつもはしない恋バナしたり、酒宴で酔っ払った普段真面目な奴がテンションマックスではしゃいだりするみたいなもんだ。つまりだな…………あれはほんとの私じゃない」
「うん。分かってるよモモ」
 崩壊したデパートの前で、モモは体育座りでうなだれ、トラは頭をなでて慰めようとしたところをスッテキで払われていた。奇跡的に無傷で残っていたオブジェを背に二人して座り込む。
 二人の数メートル離れた場所には、底が見えないほど深く剣でえぐられた穴が一直線に刻まれている。現実世界であれば、地盤が崩れ、市街地ごと崩壊を起こして多くの命が失われたであろう被害だが、ここは結界の中、人的被害はなく、崩壊も起きない。
 モモが赤の球、初期の魔法少女の力を嫌う理由は三つ。
 一つは、服装が高校生には恥ずかし過ぎること。
 一つは、目の前に広がる惨劇が示す通り、力が大きすぎるために加減を誤れば危険すぎるということ。そのため使用の際は結界を張らなければならないので、めんどうくさい。
 そして最後の理由は、魔法の副作用である。赤球のステッキは感情を魔力に変換する。そのためよりよい効率で魔力を引き出すために、ステッキには精神不安定作用があるのだ。興奮作用と言ってもいい。
 ステッキを手にすれば、精神が自然に高ぶり、躁鬱関係なく感情の振れ幅が振り切れやすくなる。口調に乱れが生じたのもそのためだ。
 自制心が発達し、感情と行動を分ける術を手にした今でさえ、感情の制御が訊かなくなるのに、感受性豊かな小学生がこのステッキを使えばどうなるか。精神に影響が出るのはもちろん、怒りを覚えて力を振るえば、魔法は無情な暴力へと変じてしまう。
 だから、モモは使いたくなかったのだ。とりわけトラの前で、街を破壊するような姿を見せたくはなかった。
 なぜなら、トラはそんなモモすら、受け入れてくれるから。拒絶するのが当然の恐ろしい力を、このお人好しは、拒まない。モモが魔法少女だと知ってもなお、一〇年近く共に友達として接してくれた世界一のお人好しは、絶対にモモを受け入れてくれるから。
「あの頃はよく、物壊して怒られたよね。それでいつも一緒にいた僕もなぜか怒られたんだ。公園の滑り台を捻じれさせた時なんて、ほんとのこと言っても信じてもらえないだろうし、ばれないように三人の秘密にしたんだよね。そのあとニュースになって大騒ぎ。覚えてる?」
(………………覚えてるわよ)
 あの時は犬みたいになついてくるトラにいいところを見せようと力み過ぎて、変身して力を暴走させたのだ。
その時はオルがなんとか暴走を抑えてくれたために、かすり傷だけですんだが、もしあのまま力が暴発すれば怪我ではすまなかっただろう。子供だった二人をオルはなんども助けてくれたのだ。
「オル君、吹き飛ばされたけど、大丈夫なの?」
「…………結界は継続してる。どっかで炭みたいになって生きてんだろ。ほんと、生命力だけはゴキブリ並みに高いよね、あいつ」
「子供の頃も、よく雷とか氷とか直撃させたりして遊んだよねー。僕は止めたけど」
「……トラも和やかに微笑んでただろうが」
「まぁ、大丈夫なのは知ってたし。あ、そうだ、オル君が来る前に聞こうとしたこと、今聞いていい?」
 昔話に花を咲かせて、気力を回復するため一休みしていたモモは、改めてくる質問にわずかに身を強張らせる。今日は何かと精神的に傷を負いまくっているため、自然と警戒してしまうのだ。
「……なによ?」
「中学に上がったあたりから、全然魔物退治を見せてくれなくなったのはなんでだい? 前から聞こうと思ってたんだ」
 そしてニコニコとゆるい表情で尋ねられて、眼鏡をずり落とした。予想通り、たいした内容ではなくて内心ほっとする。
「べつに……一般人巻き込むのは危ないから呼ばなくなっただけ。…………あと、この格好じゃなくても、呪文とか聞かれるのが、恥ずかしくなったから」
 変に緊張していた自分が馬鹿みたいだと、心の中で溜息がこぼれる。そして緊張したついでだと、今度はモモが気になっていたことを尋ねる事にした。さっきよりもさらに緊張して、トラの方を見ることもできない。
 唇がかさかさして、喉もひりついてきた。声が震えてしまったのもしょうがないと言えるだろう。
「……あ、明美と……付き、合うの……か?」
「えっ!」
 トラにしてみれば、あまりに突然で予想外だったのだろう。珍しく、その笑顔をひくひくと固めて驚いている。
「……ごめん。二人の会話、こっそり聞いちゃったんだ。……盗み聞きするつもりはなかったんだ。ほんと、ごめん」
「あー、そう、な