Anri「きれいなひと」   


 放課後の到来を告げる鐘を聞くが早いか、私は友人への挨拶もそこそこに駆け出していた。目指す場所は、文化部の部室の集まる部室棟。ガラス張りの扉を押し開け、部室棟を一階から四階まで駆け抜けて、更にその上にある、屋上へと繋がる扉を目指す。鍵がかけられ、決して開くことのない筈のそれは、老朽化で脆くなり、少し力を込めれば開くようになっていた。ドアノブを思い切り捻り、重い鉄扉に体重を掛ける。ぎい、と軋む音と共にゆっくりと開いた扉の向こうに、見知った人影があった。
 今日も、来ている。
「先輩」
 私が声を掛けると、彼は顔を上げてこちらに視線を向けた。
「ああ、君か」
 私に気付いた先輩が、薄く微笑む。そこで会話は終わりだった。彼は眼下のグラウンドへと視線を戻し、私は彼から少し離れた場所に腰を下ろして、フェンスにもたれかかった。
 私は彼が誰なのかは知らない。名前すらも。知っているのはほんの少し。まずは、すぐ上の先輩だということ。これは制服に付いた校章の色からそう分かっただけで、彼から直接聞いた訳ではない。
 二つ目に、いつも放課後ここでグラウンドを眺めているということ。それを知ったのは、全くの偶然だった。いつだったか、私が部室棟の四階に、先生に頼まれて資料を取りに行かされたことがあった。その時に、私は屋上へ続く階段を上る先輩を見た。屋上の扉は施錠されている筈なのに、何の用事があるのか。気になって後を付けた私は、扉が開くようになっている事実を知ることになった。思わず声を上げた私に気付いた先輩は、少し悪戯っぽく笑って、このことは先生には秘密だよと言ったのだった。
 それから私は、毎日ここに来る。走って来ているのに、先輩は何故かいつも私より先に来ていた。先輩は私に何も聞かなかった。名前も、何故ここに来るのかも。私も先輩に何も聞かなかった。私達は特に弾む会話をする訳でもなく、いつもただここに居た。先輩はいつもフェンス際に立って、グラウンドで練習する運動部を眺めている。私はそんな先輩を眺める。途中、お情け程度の会話を挟んで、下校時刻が来るまで私達はそうして佇む。
 先輩がいつも何を見ているのか、私は知っていた。いつも見つめている先輩が何を見つめているのかなんて、すぐに分かる。彼は、陸上部を見ていた。正確には、陸上部の、ある人を見ていた。先輩と同じ学年の、とても綺麗な女の子だった。学年の違う私でさえ名前を聞いたことがあるくらい、人気がある有名な人だった。先輩はじっと、彼女を見つめる。気付かれないようにひっそりと、溢れるような憧憬と情熱を秘めて。
 過去に、告白しないんですかと尋ねたことがある。先輩は、もう何度もしているのだと言った。何度も告白して、その都度丁重に断られているのだという。
「俺はあの子の恋愛対象にはなれない。例え天地が引っくり返っても無理だ。そんなことは、とっくに分かっているんだよ」
 まるで感情の読めない声色でそう言って、先輩は自嘲気味に笑った。傾いた陽が彼の髪をオレンジ色に染め上げて、伏せた睫毛が頬に薄く影を落としていた。まるで一枚の絵画のような光景だった。
 先輩は、とても綺麗だ。そんな綺麗な先輩が、私は大好きだった。
 今日も先輩は、グラウンドを走るあの人を見つめる。私は隣で先輩を見つめる。先輩はきっと私の視線に気付いている。けれど、こちらは振り向かない。優しい人だ、と思う。彼は叶わない想いに、余計な期待は持たせない。
 しかしだからといって、この想いを忘れてしまおうとは思えなかった。例え万が一にも先輩が私に目を向ける可能性は無いのだとしても、構わなかった。私は彼を好きでいたい。私が彼を好きでいられるのなら、それでいい。それこそが彼ですら触れられない、私自身の幸せなのだ。彼もそれを分かっているのか、私が傍に居続けるのを止めようとはしない。今の関係は、とても居心地がいいものだ。
 けれど。
「先輩」
 私は欲張りで、ほんの少し図太い人間だった。
「なに?」
 振り向かないまま、先輩が答える。
「私と付き合ってくれませんか」
 先輩は何も答えなかった。答えられなかったのかもしれない。私は構わず続けた。ここで踏みとどまるつもりはない。
「別に、先輩にあの人を諦めて貰いたい訳じゃあないです。愛してくれなんて言いません。表面上の関係だけで構わない」
 二人だけの屋上に、強い風が吹き抜ける。先輩の視線が、ほんの一瞬だけ私を捉えた。
「勿論、他言はしませんし、人前でべたべたしたりもしません。私をあの人だと思って貰っても結構ですし、酷くしたって文句なんか言いません。なんなら、念書を書いたっていいですよ。どうですか、悪い条件じゃあないと思いますけど」
 訪問販売員のように笑顔を貼り付けて、私は媚びた瞳で先輩を見つめた。都合のいい女に、なるつもりだった。愛も同情もいらない。ただ、彼を私の傍に置いておける口実が欲しかった。彼に絡み付くことの出来る腕が欲しかった。彼に噛み付く唇が欲しかった。それは、まごうことなき純情だった。
「そうだな、それはとても、いい話だ」
 しばらくの沈黙の後、先輩は静かにそう答えた。
「それじゃあ……」
「けれど、遠慮しておくよ」
「どうして」
「君は綺麗だから」
 呆気に取られた。まさか心はいらないから身体をくれとねだるような女を、綺麗だとか表現するような人間が存在するだなんて。いや、それ以上に、先輩が私のことをそんな風に褒めることが、まさかあるとは思っていなかった。今まで何をしても、先輩は私に対する感情を言葉にすることなど一度もなかったのだ。
「どうしたんだ、珍しくびっくりしたような顔をして」
「びっくりしています」
「へえ、そうか。……そうかもな」
 どこか感心したように呟いて、先輩はフェンスに掛けた指を強く握った。金網が、きしりと音を立てる。
「でも、君には俺よりももっと相応しい男がいる筈だ、と思うんだ。言い訳じゃなく、本当に」
「私は先輩がいいです」
「君も強情だな。俺なんかの何処がそんなにいいの?」
「先輩は、綺麗です」
 男の人に向かってこんなことを言うのは、もしかしたら失礼なのかもしれない。しかし彼には、それ以外の言葉はどうしても似合わないのだ。かっこいい、でもないし、可愛い、でもない。先輩は、ただ純粋に、綺麗なのだ。そんなことを思うのは、私だけかもしれないけれど。
 自分が言った言葉をそのまま返されるとは思っていなかったのか、少しだけ瞠目する様子を見せた後、先輩は眉尻を下げて、困ったように笑った。初めて見る、子供のような屈託のない笑顔だった。
「殺し文句だな」
「それはどうも」
「しかし俺を綺麗だなんて、君もおかしな趣味をしているね」
「自覚はあります」
「しかもしつこい」
「それは先輩も同じでしょう」
「それもそうだな」
 先輩はグラウンドから視線を外して、私を見た。愛情でも、同情でも、軽蔑でもない、言葉にするにはあまりに曖昧な感情が、伏し目がちな瞳の奥に微かに見て取れる。
「お互い、苦労しますね」
「本当にな。青春っていうのは、どうにもうまくいかないものらしい」
「青春が終わったら、きっともっとうまくいかなくなります」
「そうかな」
「そうですよ」
「君がそう言うのなら、そうなのかもな」
 先輩はまたグラウンドを見下ろして、深く息をついた。冷たい風が吹き抜けて、少し長い彼の前髪を弄ぶ。冬はもうすぐそこまでやって来ているようだ。
「寒くなってきたね」
「そうですね」
「風邪を引くと大変だし、もう帰ろうか」
 意外な提案に、私は一瞬言葉を失った。グラウンドからは未だ絶えず運動部の声が聞こえている。練習が終わるのはまだもう少し先の筈だ。どんな時でも、練習が終わるまであの人を見守り続けていた筈の先輩が、そんなことを言うとは思えなかった。何かあったのではないかと邪推する気持ちさえ湧いてくる。
「いいんですか」
「うん、今日はあの子いないみたいだから」
「え?」
 慌ててグラウンドを眺めてみれば、今日は休みなのか、確かにあの人はいなかった。ここに来てからずっと先輩を見ていたせいで気付けなかったけれど。しかし、ならどうして、先輩はすぐに帰らなかったのだろうか。
 疑念と、少しの期待が、胸をざわつかせた。
「本当はすぐ帰ってもよかったんだけど、その前に君が来たからな」
「それは」
「うん?」
「私のことを、気にかけて下さっているということですか」
 なんという愚問だろうか。自分でもそう思ったが、問わずにはいられなかった。先輩は私のことを、路傍の石程度にしか思っていないと、そんなこと、とっくに悟っていた筈なのに。
 私の問いに、先輩ははぐらかすように笑った。
「どうだろうな。ただの気まぐれか、同情かもしれないよ」
「それでもいいです。私のことを視界の端に映してくれているだけで、嬉しい」
「健気なんだな」
「ええ」
「俺の趣味じゃあないけど」
「知ってます」
「だと思った」
 先輩はおどけるように肩を竦めたあと、西陽に背を向けて階下へ繋がる扉へと歩を進めた。黒い学生服が斜陽の光を反射して、ビロードのようにてらりと光る。
「さ、行こうか」
 普段帰る時であれば、そのまま振り向かずに降りて行ってしまうのに、この日先輩は立ち止まって、私を手招きした。
「私が付いていってもいいんですか」
「来たくないならご勝手にどうぞ」
「行きます」
 慌てて立ち上がり、先輩へと駆け寄る。隣に並んで立つのは、初めてだ。間近で見る先輩は、思っていたよりも少し背が低くて、けれど離れて見るよりもずっと綺麗だった。
「先輩」
「なに?」
「先輩は、やっぱり綺麗ですね」
「それはどうも。君こそ綺麗だよ」
 泰然とそう返した先輩は、錆びた鉄の匂いがする扉をこじ開けて、細身の身体をそこに滑り込ませた。漆黒の髪が、微かな風を受けてふわりと揺れる。僅かに見える白いうなじを見つめながら、私は先輩の後に続いて、扉の向こうへと足を進めた。夕暮れの赤い光が落ちた階段に、先輩と私の足音が、かつんと響いた。