草一郎「さよならは二度と言えない」


 狭く、息苦しい病室だった。
 白色で統一された床と壁紙は、何かの実験施設を思わせた。ベッドが六つ並べられており、その上には青白い顔をしたクランケが横になっている。僕にはその室内の様子が病人を癒すために計画されたものには思えなかった。
 僕は静かな足取りで窓に近いベッドに近づいた。そこには親父が眠っていた。ベッドの脇で立ち止まり、親父に声を掛けようとした。が、どんな言葉を掛ければいいのか分からなかった。僕はそのまま死んだように眠る親父を眺めることしかできなかった。
 あれほどに活力に満ち溢れていた人間がこんな姿になるなんて、三年前の僕に想像できただろうか。親父の変わり果てた姿を目にして、僕は生きることの困難さを思い知らされたようだった。
 僕は着ていたジャケットを壁に掛けると、側に置かれてある丸イスに腰掛けた。親父が目覚めるまでここで待つことにしたのだ。
 しかし、しばらくしてから室内にこもった陰気な空気に嫌気がさして、立ち上がった。
 乱暴に窓を開けると、とたんに秋風が室内に流れ込んだ。まぶしい太陽の光が僕を照りつけ、思わず目を閉じる。病院に来て、ようやく生命的なものを感じられた瞬間だった。
 背後で人の動く気配がした。
「久しぶりだな」
 三年ぶりに聞いた声は、僕の聞き覚えているものと何も変わっていなかった。僕は感情的にならないように言い聞かせると、振り返った。
 親父が目を開けて、僕を見ていた。
 親父は久しぶりに会った息子の顔を見ても笑わなかった。皺の深く刻まれた顔でただただ僕を睨み、無言の圧力を掛けてくる。
「悪いんだって?」
 僕はたまらず口をきいた。
「そうらしい」
 親父が答えた。
「心配したよ」
「そうか」
「でも、元気そうに見える」
「ああ」
 うまく会話にならなかった。僕は窓を開けたまま、丸イスに腰を下ろした。
 丸三年ぶりに見る親父の顔は、驚くほど老け込んでいた。見覚えのある皺や染みが、他の皺や染みで分からないほどだった。
「お前は今どうしているんだ?」
 親父が窓の外を見つめたまま聞いた。
「大学生をやってるよ」
「どこの大学だ?」
「言ってもたぶん分からない。学費の安さ以外に取り柄のない二流大学さ」
「そうか」
 親父が頷いたあと、乾いた咳を漏らした。僕は気遣う言葉を掛けようとしたが、咳を黙殺することにした。心配する言葉など聞き飽きているだろう。
「手術はするの?」
 僕は代わりに適当な質問をした。
「病人がすべて手術されるわけじゃない」
 親父はぶすっとした顔つきで答えた。
「そんなこと分かってるよ。それで僕の答えは?」
「手術はしない。というより、しても無駄だ」
「そう」
 合理的な親父らしい言葉だった。無駄なことはしない、というのが親父のモットーだったのを僕は思い出した。
「金は大丈夫なのか?」
 親父が大儀そうに体を起こしながら聞いた。僕は慌てて手を伸ばしたが、それを親父は制した。ゆっくりとした動作で起き上ると、親父は枕もとにあったカーディガンを肩に羽織った。
「大丈夫だと思う?」
 僕は嫌味に聞こえるように言った。三年分の恨みを込めたつもりだった。
「いや。学生が自力で学費を捻出するのは大変だ」
「当たり」
「出してやろうか?」
「は?」
 あれほど僕を嫌っていた親父がそんな言葉を吐くとは思っても見なかったので、僕はあっけにとられた。狸にでも化かされた気分になって、自然と口が開いた。
「どうした?」親父が目を見開いた。
「いや、親父がそんなこと言うなんて世も末だなと思って」
「たしかに」
 親父は力なく笑った。僕は思わずその姿から目をそらした。親父のこんな弱々しい姿を見たくはなかった。
「それで、どうなんだ?」
「足りてない、と言ったら出してくれるの?」
「そのつもりだが、お前は俺の金を受け取るのか?」
「まさか」
 今度は僕が笑った。笑おうと思ったが、いつものような笑顔が作り出せなかった。
「バイトをしているから何とかなるよ。奨学金も借りているし」
「そうか」
 親父は頷いて黙り込んだ。

       §

 僕の住むアパートに手紙が来たのは、一週間前のことだった。差出人は義理の妹である由紀だった。
 手紙には親父が余命一カ月であること、僕と話がしたがっているということが書かれてあった。文面から親父の病状の深刻さが垣間見え、僕は親父と会うことを決断した。
 親父と犬猿の仲だった僕は、売り言葉に買い言葉で家を飛び出した。あれから三年の月日が流れたが、親父が僕のことを気にかけてくれたことに驚きを隠せなかった。というのも、親父は再婚したあたりから僕の存在を邪魔に感じているだろうと思っていたからだ。
 加えて、親父の入院している病院が、僕の住むアパートの近くだったことにも驚いた。偶然なのか。それとも意図的なものなのか。その答えを知るのは目の前の親父だけである。
「それで、話ってなに?」僕は聞いた。
「そうだったな」
 頷いた親父は、次の言葉を口にするのを躊躇っていた。秋の太陽光が親父の顔を横から照らし、どこか神々しく見えさせている。
「実は頼みがあるんだ」
 戸惑いながら言った親父の言葉に、僕は耳を疑った。この僕に頼みとは何のつもりなのだろうか。
「珍しいな。僕にそんなことを言うなんて」
「人間、死期が近づくと素直になれるらしい」
「嫌に説得力のある言葉だ」笑えない冗談だ。
 親父はベッドの下に置かれてあった鞄から、手紙を取り出した。それを黙って僕に突き出した。僕が親父を見返すと、親父は促すように顎でしゃくった。
 僕は手紙を受け取り、送り先の住所を読んだ。そこはこの近辺から電車を使えば小一時間ほどで到着できるだろう場所だった。受取人の名前には覚えがなかった。
「これをどうしろと」
 僕は相変わらず汚い字に嘲笑しながら訊ねた。
「届けてほしいんだ」
 親父がそっと呟いた。その言葉にはどこか重みがあった。
「どうして? 切手を貼ってポストに投函すればいいじゃないか」
「それでは駄目なんだ」
「なんで? まさかこの期に及んで切手代を節約しようとしているとか?」
「そんなわけないだろう」
 親父は肩をすくめた。そしてひとつ息を吐くと、続けた。
「お前に届けてほしいんだ」
「そう」
 通信技術が発達した現代で、手紙を出すことは珍しいことだ。それにも関わらず、まだそんな古めかしい手段を用いるのは何かあるに違いない。しかも、郵便サービスを用いず、親族に配達を頼むとなると、それなりの理由があるのだろう。僕はそう推測して、あえて詳しい訳を聞かなかった。
 しかし、そのことと親父の頼みを承諾するのとは別だった。できる限り親父と関わりたくない僕にとって、その依頼は何としても断りたかったことだった。
「どうして由紀じゃなくて僕なんだ?」
「あいつに頼めると思うか?」
「由紀ならやってくれるさ。時間もあるだろうし、何よりあいつは親父になついている」
「できるわけがない」
 長い会話に疲れたように、親父は深く息を吐いた。
「これ以上、あいつに迷惑をかけたくない」
「よく言うよ」
 僕は吐き捨てるように言った。僕を散々邪魔者扱いしていたくせに、死の直前に頼みごとなんて、どんな神経をしているのだろうか。いかにも利己的な親父のやりそうなことである。
 由紀や母さんに知られたくないことでもあるのだろうか。その清算役を僕に頼むということか。僕は親父のことを心底軽蔑した。
「届けてあげていいけど、手紙を開けて他の人に見せるかもしれないよ」
「どうしてそんなことをする必要があるんだ?」
「親父の顔に泥を塗れるからさ」
「なるほど」
 親父はぐったりと目を閉じた。それから、自分の罪を懺悔するかのようにつぶやいた。
「お前には悪いことをしたと思っている。お前の実の母親が家を出たのも、すべて俺のせいだ」
「今さら謝罪するつもりかい」
「そうだな」
 親父がくすりと笑った。自分に嫌気がさしているような自嘲的な笑いだった。
 この際、僕はこれまでの恨みつらみをすべてぶつけてやろうと思った。しかし、頬のこけた親父の横顔は、本気でなじるにはあまりに頼りなさげだった。そのため、僕は出かかったいくつかの言葉を喉に押し込まざるを得なかった。
 親父を殴ってやろうとも思った。が、弱った病人を痛めつける自分を想像すると、とても出来そうになかった。
 あれほど親父のことを軽蔑していたのに、どういうわけか親父の横顔を眺めていると、僕は諭されるように気持ちが穏やかになっていった。
 僕は非情に成りきれないみたいだ。
「今すぐじゃなくてもいいのか」
 僕は諦めて、ため息をついた。
「やってくれるのか?」
 自分で頼んでおきながら、親父は意外そうな声を上げた。
「どうせ断れないんだろ?」
 僕は憮然として言った。
「そうだな。ありがとう」
 親父が深々と頭を下げた。初めての事態に僕は面を食らった。
「礼を言われることじゃない。僕の気分の問題だ」
 僕は気恥ずかしくなって、顔を背けた。胸が少し熱くなっていた。
「それで、いつまでに届ければいいの?」
 手紙を届ける役目を引き受けた僕は、その期限を訊ねた。届け先はそう遠くなかったが、バイトとの兼ね合いを考えると、少なくとも半日はみておいた方が良いと思ったのだ。
「一カ月先になるかもしれないな」
 親父は何でもないように言った。が、僕はその答えに息を飲んだ。
「一カ月先っていうのは?」
「俺が死んだらあとに、この手紙を届けて欲しいんだ」
「余命一カ月って、嘘じゃなかったんだ」
「そうらしい。でも、先が分かっているだけましだ」
「まるで他人事みたいじゃないか」
 息を飲んだ僕を見て、親父が軽く笑った。その笑みはまるで自分の死の恐怖を克服しているみたいに見えた。強がって笑ってみせているだけかもしれないが、いずれにせよ、死に直面したことのない僕には、親父の気持ちなんて分からなかった。
「そんな悲しそうな顔をするな。それだけあれば、心の準備ができるだろう」
 それが強がりなのか、本気なのか、僕にはもう理解できなかった。
 僕は飲んだ息を吐き出しながら、立ち上がった。いい気分ではなかった。何か重大なことを任されたような気がした。
 僕は壁のジャケットを手に取ると、出口に足を向けた。
「帰るのか?」
 親父が寂しそうな顔をみせた。
「まだ来て十分も経っていないじゃないか」
「バイトがあるんだ」
「そうか」
 親父は残念そうにうなだれた。
「今度はいつ来るんだ?」
「もう来ない」僕はきっぱり言った。
 親父は何も言わず、苦悶の表情を一瞬だけ浮かべた。しかし、すぐにいつもの厳格な顔を取り繕った。
「元気でやれよ」
「言われなくてもやるさ」
 僕はジャケットに袖を通しながら、扉に手を掛け、病室を出た。静かに閉めながら、院内に漂う独特の香りを嗅いだ。
 今度この香りを嗅ぐことはあるだろうか。今のところ再びここへ足を運ぶ予定はないが、もしかしたらこの香りを嗅ぎたくなるときがくるかもしれない。そのついでであれば、親父に会いに来てもいいと思った。
 これまで心につかえていたものが、いつの間にか無くなっていた。

       §

 親父が死んだのは、それから三日後のことだった。予定よりもずいぶんと早い死であった。そのことを知らせてくれたのは妹の由紀だった。
講義中に突然、着信音がした。騒がしかった講義室が一瞬静かになった。僕はその発信源が自分の携帯電話であるのを確認すると、おもむろに立ち上がった。
 まるで演説でも行っているかのように説教をたれる教授を横目に、僕は講義室を出て行った。携帯の画面上に表示されている妹の名前を見たとき、嫌な予感が頭をかすめた。乾いた唾を潤すように唾を飲み込んで、僕は喉の調子を整えた。
「もしもし」
「お兄ちゃん?」
 久しぶりに聞いた彼女の声は、僕が聞き覚えているものと違っていた。どこか大人の女性を感じさせるものであった。
「パパが、死んじゃった」
 その声は涙で濡れていた。由紀はもうこれ以上生きていけないと言わんばかりに沈んでいた。
「ねえ、お兄ちゃん。私、これからどうしたらいいの?」
「母さんと話し合って葬儀の準備をすればいい」
「今すぐ来てくれないの?」
「残念だけど」
 こういうときに慰めの言葉のひとつも掛けてやることができない自分が嫌になった。だが、そんな言葉は頭のどこを探しても出てこなかった。もしかすると僕の心臓は氷で出来ているのかもしれない。
 妹は僕の冷たい対応が気に障ったのか、語調を強めた。
「ねえ、今すぐ来てよ」
「大学の授業があるんだよ」
「パパが死んだのよ? どっちが大事なの?」
「分かってる」
「だったら」
「気が向いたら行くよ」
 僕はそう言うと、一方的に電話を切った。僕の心の内を表現しているような、無機的な電子音だけが聞こえてきた。
 手紙を届けなくてはいけない。
 通話を終えるなり、僕の頭に浮かんだのは親父の最後の頼みだった。手紙はいつでも届けられるように鞄の中に入れていた。
 僕は講義の行われている教室に戻ると、自分の荷物を取り、再び退出した。教授が不機嫌そうな顔で僕を睨みつけていたが、そんなことはこの際どうでも良かった。
 大学の最寄り駅から電車に乗って、あらかじめ調べておいたルートで届け先の住所に向かった。昼の早い時間であったので、乗客は少なめだった。
 一時間ほど電車を乗り継いで、目的地の駅で電車を降りた。営業に向かうサラリーマンや中年の女性たちで構成された人混みを縫うようにして駅を出る。それからのどかな商店街を北に進み、道路にぶつかるまで坂を登り続けた。
 そんな小旅行のあと、ようやくたどり着いたのはのどかな住宅街だった。
 記載されていた住所から一軒家ではないことは分かっていた。都心からずいぶんと離れた場所だったから、受取人が棲んでいるのは小さなマンションだと思っていた。だが、それは実に高級感漂う高層マンションだった。
 僕はガラス張りの玄関へ足を踏み入れた。エントランスホールから各部屋に通じる扉には鍵が掛かっており、住民以外は入れなかった。僕はインターホンに受取人が暮らす部屋番号を入力した。長いインターバルのあと、女性の声が聞こえてきた。
「はい、どなたですか?」
 僕が名乗ると、その女性は驚いたように息を飲んだ。それからしばらくの無言のあと、部屋まで上がってくるように言われた。扉の鍵が開いたので、僕は迷わず中に踏み込んだ。
 エレベーターに乗り込んだとき、鼓動が知らぬ間に早まっていた。期待と緊張が入り混じった複雑な心境だった。
 目的の階に着くまでの間、僕はこれから会う人物を思い浮かべた。先ほど耳にした声からすると、若い女性ではないようである。初対面の僕に丁寧に対応してくれた態度からすると、感じの良さそうな人に思える。
 そのとき、不意に懐かしい感じがした。もしかすると、僕は彼女と幼いときに会ったことがあるかもしれない。温かくて、柔和なこの感じ。何かあるのは確かだが、しかし、何も思い出せない。
 そうこうしているうちに、エレベーターが目的階に到着した。僕は速まる鼓動を整えて、エレベーターから降りた。
 そこは街並みが容易に一望できるほどの高さだった。僕はその眺めを堪能しながら、廊下の突き当たりまで進んだ。
 一呼吸置いて、インターホンを押す。部屋の奥から女性の声が聞こえてきた。からかうように遠くでカラスの鳴き声が聞こえてきた。ひとつ咳払いをして、声の調子を整える。
 もしかしたら、彼女は――そう本能的な予感が頭をよぎったとき、ドアのノブに手を掛ける音がして、扉がゆっくりと開いた。
「あ」
 思わず声を上げてしまった。見覚えのある顔だった。
 母さんだった。現在の戸籍上の母親ではない。僕を生んで、そして僕の前から姿を消した母親がそこには立っていた。
 名前に覚えがなかったのは、彼女が再婚して名字が変わったからだろう。玄関には男物の革靴が置かれていた。新しい夫のものだろうか。一見していかにも高そうな品に見えた。
 彼女は僕の顔を見るなり、ひどく嬉しそうな表情を見せた。久しぶりに実の息子に合えたことに感激し、心なしか目に涙を浮かべているようだった。
「久しぶりね」
 やや詰まった声で母親が言った。
「そうだね」
 僕が答えた。
 彼女は複雑な心境を顔に表したが、それでも息子に会えたことの喜びの方が強いらしく、満面の笑顔を見せた。僕はそれに答えるように軽く笑みを返した。
「もう会えないかと思ったけれど」
「僕もだよ」
 肩の辺りまでだった母親の髪は、胸の辺りまで伸びていた。僕の記憶の中の母親は、ずっと若いままだった。けれど、十数年という月日はそれなりに流れたようである。母親の髪にはぽつぽつと白いものが目立ち、肌もそれ相当の年月を重ねていた。
 二人の間に流れた違う時間が、ゆっくりと同調し始めていた。
「今日はどうしたの?」
 母親が訊ねたので、僕は目的を思い出して、父から受け取った手紙を差し出した。
「これ。親父から」
「彼から?」
 母親は神妙そうな顔で手紙を見ると、おそるおそるそれを受け取った。それから丁寧に封を切ると、中から便箋を取り出した。
 母親は丹念に字を追ったあと、深いため息をついた。
「彼、死んだのね」
 無機的なその口調とは裏腹に、彼女の顔には微かに痛みの色が広がっていた。軽く発したその言葉には、彼女自身の深い悲しみが隠されているように思えた。僕はその気配をしっかりと感じ取ることができた。
「そうらしい。僕は電話で聞いただけだから」
「それ、いつのこと?」
「今日。ついさっきのこと」
「そう。とにかく、上がっていきなさい」
 母親はそう言うと、僕を中に引き入れた。僕は促されるままに靴を脱ぎ、部屋に上がり込んだ。
 きれいに整頓された部屋だった。床には新聞、雑誌の類は転がっておらず、それどころか花瓶に花が活けられていた。今の夫のものだろうか。ゴルフバッグが隅に追いやられていた。
 棚の上には写真立てがあった。知らない男の人と母親、そして、知らない少年の三人が仲睦まじく映っている。母親は僕の視線に気付いて、棚に歩み寄って写真立てを伏せた。
「自分の家のようにくつろいで」
 母親はそう言うなり、台所へと姿を消した。
 僕はベランダに通じる窓に近づいた。そこから、建設中の高層マンションが見えた。彼女はこの景色を、僕の知らない人間と何度も見ているのだろう。そう思うと、ひどく居たたまれなくなった。
 この部屋には、僕の知らないものばかりが溢れている。あまり長居はしたくなかった。
 母親はもう僕の知らない人間になってしまったようだ。僕の知らない人と一緒になり、僕の知らない子どもをつくり、僕の知らない場所でこうして暮らしている。
 親父はどうだろうか。親父はどうだったろうか。
 そこで、不意に膝が震え出した。続けて急に足元がおぼつかなくなって、まるで宙に浮いているような感覚に囚われた。目の前の景色が涙でゆがみ、ずっしりと脳髄が痛んだ。動悸が激しくなった。空気がまるで重さを持ったように僕に圧し掛かり、僕はその場に崩れ落ちた。
 台所でコンロにやかんをかけていた母親が、僕の異変に気が付いて歩み寄ってきた。
「大丈夫?」
 覗き込んだ母親の顔を見たとき、僕はわっと泣き出した。これまで張りつめていた糸が急に切れたみたいだった。
「ねえ、大丈夫? どこか悪いの?」
 しきりに心配する母親を脇にして、僕は号泣することしか出来なかった。
 僕はとてつもなく大切なものを失ってしまった。そして、それはもう戻ってこないのである。
 母親に抱かれながら、僕はわんわんと声をあげて泣きじゃくった。

       §

 親父の葬儀が一通り済んで、平穏な日常が戻ってきた。
 僕は親父を失った。しかし、世の中は何も変わらなかった。相変わらず争いごとは無くならないし、不況は改善されることはない。当然といえばそれまでであるが、案外この世の中は人の死に対して無関心みたいである。
 親父に頼まれた手紙の内容を、僕が知ることはなかった。母親に聞けば見せてくれたかもしれないが、それは僕に宛てられたものではない。したがって、僕が見るべきものではない。
 親父と母親が離婚したとき、僕の親権は親父が手にした。散々争ったと聞いている。それにも関わらず、親父は再婚したあと、僕のことをこれっぽっちも気に掛けず、再婚相手の女性ばかりを愛し続けた。
 それは母親にとっても同様だった。親権を得ることができなかった母親は、その何年後かに再婚し、新しい家庭を築いた。僕はどちらの親にとっても、邪魔な存在となってしまった。
 両親を失って天涯孤独の身になったとは良く聞く話であるが、両親がともに生存しているのに孤独な存在になるというのはおかしな話である。
 ここ最近になって、親父が何の意図があって手紙を託してくれたのか僕は考えている。これまでのことを申し訳なく思ってのことなのか。僕と母親を会わせようとするきっかけを作りたかったのか。
 しかし、親父の意図がどんなものであれ、僕は母親と会いたいとこれまで思ったことはなかった。仮に親父が気を利かせて母親と僕を会わせようとしたのなら、それはお節介に過ぎない。親父の最期の粋なはからいなど、僕にとっては迷惑この上ないのである。
 そう思うことでしか、僕は心の安定を取り戻すことができなかった。
 その後、親父の遺品から僕宛ての手紙が出てきた。親父の葬儀のときに由紀から渡されたのだ。僕はそれをまだ封を切らずに持っている。
 これを読めば、親父の意図が分かるかもしれない。そこには僕の求めている謝罪の言葉があるかもしれない。けれど、開けて中身を読んでしまえば、僕は親父を今後憎むことができなくなる。
 そればかりか、僕は中身を読むことによって、親父に対して生前に親孝行をしてやれなかったことを後悔し続けることになるだろう。それだけは御免こうむりたい。
 親父の手紙を受け取って以来、僕は何度も手紙を破いて棄ててやりたい衝動に駆られた。粉々にして雪のように散らしてしまえば、さぞかしそれは美しい光景だろう。この街が一望できるどこかの建物の屋上から破片をまけば、きっと気分がすっきりするに違いない。
 しかし、破いて棄ててしまう機会はこれから何度でもある。その機会を簡単に失ってしまうことは惜しいことだ。
 親父にさよならは二度と言わない。