鉾谷 曾良「ぬるぬるした蛇」

 私は思った、ぬるぬるした蛇になりたいと。

 事の発端は、私が大学の帰り道に自転車で走り回っていたときのことである。とある路地に入ると、一台のワゴン車が道の左側に止まっている。そのせいで、道幅が狭くなっていた。自転車が丁度一台通れる程度の広さである。私は「迷惑なワゴン車だなあ」と思いつつも速度を落とし、狭い部分に差し掛かった。
 すると、向かいの丁字路から自転車がこちらへと曲がってきたではないか。もし私が、このままの速度でワゴン車の横を抜けていけば、相手方の自転車を待たせてしまうことになる。
 私のせいではないとはいえ、誰かを待たせるのは気分の良いものではない。私は危険を承知でペダルをせっせと漕ぎ、ワゴンの横をすり抜け左へとハンドルを切る。
 そう、この瞬間、ハンドルを切ったこの瞬間である! しっくりくる表現がなかなか思いつかないが、あえて言うならば「ぬるっ」とした、あるいは「するっ」とした感覚に襲われたのだ。この感覚は私にとって心地の良いものであった。
 
 その後家に帰り、あの感覚の心地良さを思い出していた。あのなんとも言えない「ぬるっ」とした感覚と、ハンドルを切ったときの「するっ」とした感覚は、他人には理解してもらえないかもしれないが、とにかく素晴らしいものであった。
ここで私は閃く、「ぬるぬる」で「するする」なものになれば、あの感覚が味わい放題ではないのかと。
まず、ぬるぬるしたものを考える。私の頭の中には液体でも固体でもない「ぬるぬるしたなにか」が浮かんでいる。正式な名前は不明だが、とりあえずこいつをぬるぬる代表としよう。次に、するするしたものを考える。やはり「するする」といえば蛇だろう。彼らの前進する様はまさに「するする」である。
しかし、「ぬるぬるしたなにか」はけっして「するっ」ではない。一方、蛇は「するする」ではあるが「ぬるぬる」ではない。むしろ「ぱさぱさ」だろう。あちらを立てればこちらが立たぬ、「ぬるぬる」と「するする」のシーソーゲームである。
しかし、シーソーならば平行になるときがある。今回も同様だ。つまるところ、ぬるぬるした蛇になれば良いのだ。どちらか片一方にこだわる必要性は皆無である。このふたつを合わせれば「ぬるぬる」と「するする」が両立出来るというのはわざわざ説明するまでもないだろう。現実にぬるぬるした蛇が存在するかは定かではないが、地球四六億年の歴史にそういう蛇がいてもなんら不思議ではない。
 そこで、もし私がぬるぬるした蛇になったら生活がどうなるか考察したいと思う。
 
七月七日午前七時、ワンルームにて目覚めるは一匹の蛇である。体長は約百七十センチ、体重は一キロ程度、表面はぬるぬるした何かで覆われている。大学の授業のため起きたのだ。
 まず、蛇であるから服を着る必要がない。また、髭を剃ったり歯を磨く必要もない。なぜなら私は蛇なのである。これによって朝の準備にかける時間が減るのは素晴らしいことだ。
 私は朝食の準備をするため、台所へと向かった。
 
 ここで最初の問題に直面した。冷蔵庫が開けられないのだ。取っ手に巻きつきどれだけ力をいれようとも扉は開かない。
 そこで私は、体重の設定を一キロから三キロに増やすことにした。多少太くなってしまうのは避けられないが、二キロ増えれば扉を開けることが出来るだろう。
 
 私は無事、冷蔵庫を開け、取っ手から離れてハムをくわえる。多少面倒ではあるが、袋をがじがじと噛むことで開封に成功した。
 ハムを食べ終え、大学へと向かう準備をする。テキストやノートなど荷物を鞄へ詰める。そして持ち手を噛む。鞄の底は引きずってもいいように金属製のものにしておく。これで底が破れて中身が出てしまう心配をしなくて済む。
 私は大学へと向かうため、玄関のドアを開け放――
 
 さて、ここで第二の関門である、外へと続く扉である。何かしらの金属で出来ているため、非常に重い。蛇にとって暮らしにくい世の中である。
 扉を開けるためには体重と筋肉がいる。しかし、これ以上太くなってしまうと、せっかくのするする感が失われてしまう気がする。
 そこで、体長を二メートルにし、体重を五キロに増やす。あと、少しムキムキにする。これならば、太さを維持しつつ、扉を開け閉めすることが出来る。
 
 扉を開け、尻尾の方で閉まらないように抑え、鞄を外に出す。その後、尻尾が挟まれないように外へ出て、鍵を閉める。そして、マンションから出て、大学へと向かう。
 通学路をするするぬるぬると這う。やはりこの感覚は心地が良い。人間では感じられないこの滑らかな前進は蛇のみに許された特権だろう。それにぬるぬる感まで追加されるのだ。もはや、前進することに関しては他の追随を許さないほどの心地よさだろう。速度もなかなかのもので、遅刻はしないですみそうだ。
 大学の近くまで来ると、知っている顔を見つけた。生駒という男である。彼とは中学の同級生で、仲はある程度良かったのだが、高校は別々になってしまい、そのまま疎遠になっていた。しかし、学部は違うものの大学で再会を果たしたのだ。彼は体格から怖がられることが多々あるが、優しい心の持ち主である。また、彼の物怖じなさはかなりのもので、お化け屋敷で驚かされても「なんだあ、幽霊かあ」と、ゆったりとした口調で述べるのみで、一切驚くことがなかった。もし、物怖じない選手権があれば、優勝を狙えるだろう。
 私は彼に声をかけた。
「シャー」
 
 ここで、三つ目の問題である。蛇の声帯では人間のように複雑な発音をすることが出来ない。ゆえに、コミュニケーションをとることが出来ない。
 仕方ないので、人の声が出せるように喉や舌をいじることにする。これでコミュニケーションが取れる。
 
 私は生駒に声をかけた。
「やあ生駒、おはよう」
「おはよう。ところで君は誰なんだい? 俺に蛇の知り合いはいなかったはずだけどなあ」
 生駒はこちらを見下ろし、のんびりとそう言った。
「俺だ、宮本だ。今朝起きたらこうなっていたんだ」
「なんだ、宮本君かあ。大きくなったねえ」
 どうやら蛇になるくらいじゃ生駒を驚かせることはできないらしい。少し残念な気持ちである。
 会話らしい会話もなく、大学に着いた。
「じゃあ、俺はこっちだから、またねえ」
「ああ、またな」
 生駒と別れた私は、数学の授業が行われる棟へと向かった。すれ違う人たちにちらちらと見られた気がするが、気のせいだろう。
 目的の棟へ着き、自動ドアの前へ居直る。
 
 私への第四の関門はまたしても扉である。蛇のままでは自動ドアが反応しない。かといってドアを這って登ってセンサーの所までいくのも忍びない。
 私は散々悩んだ挙句、脚を生やす事にした。こればかりはどうしようもない。それに、脚を生やしてもするすると移動すればよいのだ。ついでに手も生やしておく。
 
 私はすらっと立ち上がり、難なく自動ドアを通って教室へと向かった。
 席へ着き、鞄からテキスト、ノートと筆記用具を出す。手があると便利だということに気付かされた。
 授業の時間になり、教師が教室に入ってきた。一瞬教師と目が合ったが、すぐに逸らされてしまった。悲しいが、私が教師の立場でも同じように目を逸らすだろう。今の私は全身ぬるぬるの手足の生えた蛇である。普通ならば何かしらの対処がされてもおかしくない。警察を呼ばれないだけでも有難く思うことにしよう。日本人の事なかれ主義万歳。
 
 授業が始まるとき、私は気付いてしまった。本来なら家を出る前に気付くべきことだったのかもしれない。
 体のぬるぬるがテキストやノートに付着したせいで、ふにゃふにゃになってしまった。これではテキストが開けないわノートも取れないわで大問題である。しかし、本来の目的であるぬるぬるを取ってしまうわけにもいかない。
 私は妥協案として、ぬるぬるを自在に出し入れ出来る設定にした。これならばなんの問題もなく授業を受けることが出来る。
 
 授業はかつかつと黒板とチョークの当たる音で支配されていた。なんとも、刺すような冷たさを感じる空間である。なんだか眠くなってきてしまった。
 
 ここで私は第六の関門にぶち当たった。冷たいのは雰囲気ではなく室温だ。蛇は変温動物である。夏場、冷房の効いた部屋でじっとしていると冬眠しかねない。
 私は変温動物の蛇から、恒温動物の蛇だということにした。恒温動物になった以上、体温を保たないといけないので、衣服を身に着けることにした。とはいえこのままでは尻尾が邪魔でズボンを履くことが出来ない。なので、尻尾もひっこめることにする。これで服を着ることが可能になった。地面を這うことはできなくなったが、体を揺らすことで、するする感が出るのでよしとした。
 
 その後は特に山場もなく授業が終わった。次の授業は体育である。この授業は生駒も一緒である。私は更衣室へと向かった。
 今日の体育はサッカーである。チームに分かれてじゃんけんでゴールキーパーを決める。他の人は特にポジションを決めずにくるくると走り回る。強いて言うならば全員ミッドフィルダーというところか。私はとりあえず、真ん中の円の辺りでうろうろすることに決めた。
 
 ここで私は第七の関門に遭遇した。ヘディングが出来ないのだ。蛇に額らしきところはないので、頭のてっぺんでボールを弾くことになるが、絶対に痛い。
 なので私は頭を人間の姿に戻すことにした。そもそも、蛇の頭である必要がないのだ。実際、するする感が失われることはなかった。
 
 心置きなくヘディングを出来るようになった私だったが、運動神経の悪さからボールに触ることすら出来なかった。というより、なんだか皆が私を避けてサッカーをしていたように思った。理不尽である。
 少し寂しさを覚えつつも、昼食をとるため、体をくねくねさせながら食堂へと向かった。
 
 ここまで来ると特に問題らしい問題も起きなかった。脚があるので列に並んでも邪魔にならない。もし脚がなければ、私だけで二メートルほどのスペースをとることになり非常に迷惑である。また、手もあるので箸も難なく使いこなせる。飯を味わう舌もある。なんなら舌鼓も打てる。ただただいつも通りの時間が過ぎていった。
 その後、私は残りの授業を受け、帰宅した。
 とりあえず私は風呂に入ることにした。私にとって入浴は至福の時である。シャワーで汗を流し、ボディーソープを塗りたくる。
 
 さて、第八関門である。私は汗をかいていない。なぜなら肌は蛇のままだからである。つまり、流す汗がないのだ。これではお風呂に入る意味がない。それに、鱗が硬くて、体を洗う手が痛い。
 なので私は皮膚を人肌に戻すことにした。これで、風呂がゆっくり楽しめる。幸せである。
 
 入浴を済ませ、食事も済ませ、明日の課題も済ませた。あとは眠るだけである。私はベッドに潜り込んだ。
 
 しかし、最後の最後で問題の壁にぶつかってしまった。ベッドの長さが足りないのだ。生憎この部屋にこれ以上大きなベッドを置くとなると窮屈で仕方がない。
 私は泣く泣く背丈を百七十センチ程度に縮めることにした。するする感が失われてしまうのは非常につらいが、三大欲求である睡眠を疎かにするわけにはいかない。
 疲労もあってか、私はベッドへ融けていくように眠った。
 
 結論、私は体からぬるぬるが自在に出せるビックリ人間となった。