石見翔子『スズナリ!』@たゆな


【あらすじ】
どこにでもいるような平凡な女子高生である高村楓の前に、楓の事が好きで好きでたまらないネコ耳の生えた鈴という少女が突然現れる。
ガールズラブ萌え四コマギャグコミックス。


【感想】
はっきりいってギャグは面白くない、でも萌える。
活発なスポーツ少女楓と、天然ネコ耳キャラの鈴とのかけあいは、日々の生活で灰色になった心の中に栄養を与えてくれる、サプリメントのような働きをした。
私も楓のような姉が欲しいし、鈴のような妹も欲しい。


結局のところ漫画というものは全て型にはまった作品ばかりである。この作品でいうと特に顕著なのは登場人物が紋切り型であるということである。
活発なスポーツ少女である姉貴分の楓、天真爛漫でネコのような性格をした妹分の鈴がそうである。他の漫画でもこのような事例は多々ある。

例えば河下水希いちご100%』の登場人物の一人、東城綾はまさに男性から見た女性の理想像である。
彼女は文芸部に所属し、可愛らしくかつ小説で才能も発揮できるという、まさに才色兼備なのであるが、このような人間は文芸部には存在しない。
私達の生きる現実世界の文芸部では、東城綾長門有希のような萌えキャラは存在しない。

漫画で何故このようなステレオタイプが多様されるかというと、読者はステレオタイプであることを望んでいるからだ。
読者はラベルというものが貼っていないと区別はできない。
酒の銘柄などもそうであるが、印が無いと実際に呑んでみないと分からない、もしかすると呑んで試してみても分からないかもしれない。
中国産の野菜と日本産の野菜が味だけでは区別できないように。
しかし、ラベルが貼ってあったら、とりあえずはそれに従えば良い。

漫画の読者が作品を深く読み込んでみたいかというと、そういうわけではない。
読者は短絡的な喜びを享受したいのであって、深く心に染み渡る悦びを享受したいのではない。
漫画は小説とは異なり、イラストが導入されているので次元が高い。
この事は読者の瞬間的な理解を助けるのに大きく役立った。
これは漫画と小説が異なった道を歩むことになった大きな要因の一つだと私は思う。
小説は深く狭く、漫画は広く浅くというように。

スズナリ!』を手にとった読者の気持ちの中身は、キャッキャッ言ってる可愛い女の子同士の絡みが見たいのであって、女として生きる苦悩や中東情勢の考察といったことを期待して手にとったわけではない。
むしろ作者がそれを提示しようと真剣にそのような要素が描写していたらひいてしまうことは間違いない。
そういえば、漫画における「鬱展開」というものが流行していたが、これは表面を良く見せるための手段に過ぎないと私は思う。
鬱展開というものもただの演出でありステレオタイプ的で浅く、中身は無い。

私はこういったステレオタイプが嫌になって純文学の世界へとやってきた。
純文学の世界は、私の世界の中で既存だったドラマ・映画・大衆文学などとは異なり、全てから遊離した一筋の光となって佇立していた。
私は純文学に救われたのだ。
私を救ってくれるのは純文学しか存在しない。
しかしこういった純文学のみが特別だといった思想自体がステレオタイプじゃないかと言われると私は否定できない。
純文学にも純文学という型があるのは事実なのである。
結局、ステレオタイプであるかないかの境界は曖昧なものである。
けれども私がその境界を越えたいのは事実である。