山本周五郎『新編傑作選4 しづやしづ』@おさひさし


 誰かを説得する時、誰かに何かを伝えようとする時、往々にしてその言葉が相手に届かない事がある。相手に話を聞く気がなかったり、話を聞いてもどうにもならなかったり、何か裏があったり。
「蛍と蛇の目は同じように光る」
 五千石の武家の子で世間知らずな小出折之助は、親友にそう忠告されたにもかかわらず、裏がある遊女のおしのに夢中になり、まんまと騙され、哀れな最後を迎える(「雪と泥」)。

 江戸時代を舞台に繰り広げられる数多の物語。堅苦しい話はなく、視点も偏ることなく、江戸に生きる様々な人にスポットライトが当てられている。ごく一般的な町民に始まり、裕福な武家の子、没落した武家の子、家出した武家の子、商家の子、孤児、犯罪者、飲み屋で働く女、娼家の女……などなど、バラエティに富んでいて、読者を飽きさせることがない。ストーリーも申し分ない面白さで、伏線も豊富である。読み終わった後再び目を通すとさらにその面白みが増すだろう。「イイハナシダナー」と思わせておいて、次のページをめくるとどん底に突き落とされる話もあるし、その逆もある。

 収録されている話は八編。いずれも面白く、考えさせられる話である。特に不器用な「人間の生き方」に焦点を当てている作品が多く、著者の「人間」に迫ろうとする生真面目なくらいの姿勢が感じられる。
 とりわけ私が気に入ったのは、「あすなろう」「しづやしづ」「つゆのぬひま」の三作品である。
「あすなろう」は、幼い頃から罪を犯すことをやめられない二人の男が、江戸を抜け出し木更津へ行って、心機一転、明日こそはまともな人間になろう! と決心する話……であるようで、そうでない話である。
 表題作となっている「しづやしづ」は「しづの苧環繰り返し」の言葉に始まり、その言葉と共に終わる、貞吉という所帯持ちの男が謙虚な女しづに浮気をして、仲が良いと言えない妻と別れ、しづと共に新しい商売を始めよう! とする話である。これもまた、表題作となるだけあって巧みに構成された話である。最後にどうなるかは読者自身に確かめてもらいたい。
「つゆのぬひま」はこの本の中で唯一ハッピーエンドとも言える作品である。こちらは「あすなろう」と対比して読むと面白い。


 この短編集は今年十一月に発行されたばかりであり、歴史的仮名遣いは現代仮名遣いに、旧漢字は新漢字に改められ、難読とされるものには振り仮名も振られている。そのためあまり読みづらさは感じず、親しみやすい。
 しかし「跛(ちんば,びっこ)」「不具」「めくら」「聾(つんぼ)」「きちがい」など現在では差別表現となる言葉も数多く登場する。これは著者に差別助長の考えがないことに加え、作品の書かれた時代背景や著者が個人である事を考慮し、著者の文学上の功績をそのまま伝えたいと言う意図のもと、編集側があえて残したという。これらからは当時の社会的状況や人々の意識、歴史的事実などを読み取ることができるだろう。

「いくら頑張って努力して、明日こそは違う自分になろうと思っても、その努力が報われることは滅多にないよ。何をやっても駄目な人は駄目なんだから。それでも、たまに報われることはあるかもね」

 この短編集を読み終えた時、私はふとそんな声が聞こえたような気がした。