お題『ペン』『傘』『水草』@師父

『ペン』『傘』『水草

 水性ペンの、紙と擦れるあの摩擦が、僕は嫌いだ。
 彼女はノートにピンクのマーカーを引いていく。胃の縮むような音を立てて。
 清潔な部屋。硬質な音。微かなカルキの臭い。ぬめりとした感触。
 プレパラートに載せた水草は、下から照らす光によって薄く透けている。ただレンズを覗くだけの作業を、妙に青ざめながらやり終えて、彼女は言うんだ。
「植物だって生きてるんだよね?」
 嫌なのかい? 医の道を志すでもないのに命を弄ぶのが?
 顕微鏡から外した水草に、カミソリを当てたまま彼女は静止する。
 葉脈の観察には、色の濃い表皮が邪魔になる。それを、薄く削ぎ落とさねばならない。
 なら、切り刻むんだね、徹底的に。
 僕は水性ペンを水槽に投げ込んだ。先端のスポンジ部から、帯の様なピンク色が流れだし、底に生える水草に降る。
「なんでそんなひどいことを言うの?」
 その言葉がショックだったのか、彼女は動けなくなった。水草を震える手で押さえながら。
 殺人ってさ、二人をさくっと殺すより、一人を猟奇的に殺す方が話題性あるよね?
 僕はピンセットで引き抜いた水草から、葉を一枚千切り取り、プレパレートに載せた。
 その葉には毒が巡り、葉脈をくっきりとピンクに浮かび上がらせていた。
 失われるものは少ないのにさ。

「雨は嫌いだな」
 透明なビニール傘に守られて、彼女は言う。ぬかるんだグラウンドの泥が嫌いなのか、湿気で髪が跳ねるのを嫌がっているのか。
 まだ落ち込んでいるのか顔色も悪い。
 雨より晴れが良い? じゃあ紫外線が好きなのかな?
「意地悪ばっかり言うね」
 涼しい水中の生物を押し付けて殺しもせず、体温で熱し続けるよりは優しいと思うけど。
「うん、人間以外には優しいのかもね」
 人間として傲慢に振舞っているよ。
「やっぱり、私には理解できないや」
 彼女は小さく震えている。それがどういうことなのか、僕には分からない。
 来週は、フナだね。
「あ」
 彼女が思わず落とした傘は、堀の中へ。誰かが捨てたごみ袋に引っ掛かって、なんとか流されずに済んでいた。
 堀の深さは約2メートル。雨で増水しているため、膝下くらいの水深はあるだろう。
 使いなよ。
 そう言って傘を投げて渡し、堀へ飛び降りる。落下時に跳ね上がった飛沫が顔まで濡らした。
「大丈夫?」
 意味の無い言葉。僕はそれを無視して、逆さになった傘に手を掛けた。
 ふと、目に映ったのは、ビニールによってクリアに見える水中。速過ぎる流れに多くの魚が負ける中、ごみ袋の陰で守られて、一匹の小魚がゆうゆうと泳いでいた。
 まぁ、この堀は明日になれば干上がって枯れてしまうのだけれど。
 ここでゆっくりと死ぬのと、流されてその先で生き残る可能性に賭けるのと、どっちがいい?
 意味の無い問いだ。僕は傘を拾い上げた。
 このまま『彼』に選ばせたら、『傘』に守られて壊死するのだろう。
 水に浸って重たくなったゴミ袋を拾い上げる。濁った水はもう見通せない。
 ずぶ濡れになって堀から上がった僕に、今更傘が掛かった。本当に、意味の無い。
「偉いね、私だったらごみなんて見なかったことにしちゃうのに」
 うん、偉いね、人間様は。
 僕は先に傘を拾い上げた自分を、恥じた。